疑心
誰もいない冬の日の研究室で、日付が変わったばかりの時計を僕はじっと見つめていた。秒針が、一つ、また一つとこだまする。博士論文の審査が迫っているのに、頭が思うようにはたらかず、時計の針が僕の意思とは関係無しに一定のリズムをきざんでいた。
入口のすぐ近くにある自分の席から立ちあがると、六年近くを過ごしてきたこの部屋を見渡した。二列に分けて並べられた机の上には、ぼろぼろになった専門書やメモ書きが散乱している。研究室にある机のうち半分はただの物置になっていて、そこに積んである本をひとなですると、この世界を去った人間の顔が思い出された。博士号への道のりは、学力以外の何かを必要とする。
少しだけ進んだ論文のバックアップをUSBにとって、僕は研究室を後にした。真っ暗な廊下の奥で、非常灯が辺りを緑色に染めている。その不気味な光のすぐ手前にある階段にむかって歩きだすと、三つとなりの部屋からかすかに明かりがもれているのに気づいた。こんな時間に一体誰がいるのだろう。僕は、ためらいながらもそっと中を覗いた。
「村嶋?」
ドアの向こうにいたのは、学部時代からの友人で、一気に緊張が解けた。村嶋は窓際の席で中腰になって、パソコンに向かっている。
「高橋か。いきなりで驚いたな。ノックぐらいしてくれ」
「こんな夜中に明かりが点いていたから、何かと思って」
そう言いながら、自分の中に渦巻く違和感の存在に気づいた。村嶋に声をかけるため、この部屋にはときおり足を運ぶが、いつもと何かが違っている。
「論文の締め切りが近いからさ。でも今ちょうど帰ろうとしていたんだよ」
村嶋は、パソコンの電源を手早く落とすと、机の上にあったA4の紙を数枚カバンに入れた。研究関連の書類にしては随分と扱いが雑なうえに、やけにあわててコートを羽織っている。その様子をじっと見ていると、違和感の正体に気づいた。今、使われていたパソコンは、村嶋のものではない。窓際のあの席は、いつもは別の学生が使っている。急いでカバンに詰め込まれたA4の紙には、一体何が書かれていたのだろう。
支度を終えてこちらに向かってくる村嶋は、何かを伺うように僕を見ている気がして、鼓動が激しくなるのを感じた。
「帰ろうぜ」
僕は、そうだな、と返事をしつつ、何気なくカバンをまさぐって、USBを探した。自嘲気味に話し始めた村嶋は、非常灯の明かりで照らされている。指先に感じた棒状のものを手繰り寄せると、僕はそれをぎゅっとつかんで離せなかった。