9日目 喧嘩を買った日
非戦時下の現在、魔術院の仕事は研究、実験、紋様の書き込みらしい。紋様は魔力を溜めたり、魔術の方向性を定義する役割を果たしている。簡単な魔術であれば魔術師に紋様は要らないけど、紋様があれば一般人に使える魔術もあるのだという。
この世界では電気の代わりに魔術が発展している。魔術師として、セレンさんもきちんと仕事はしているようだ。
その日、セレンさんとお喋りをしているとヨームさんがやってきた。急いで書いてほしい紋様があるとか。
もうお喋りも終わりの時間だったのでそこでお開きにして、セレンさんのところに溜まっていた紋様が書き込まれた書類を受け取った。紋様は直接物に書き込むこともあれば、シールみたいに貼ることもあるらしい。たいていは後者で、書類はそのためのもの。
紋様の書類は一階のヨームさんの部屋に運ぶ。あらかた掃除が終わったので、わたしは掃除係兼雑用係にランクアップしていた。
二階奥のセレンさんの部屋を出ると、少年に出くわした。げ、と思う。いつぞや閉じ込めようとしてきた少年だ。
彼は手に持っていた書類に構わず腰に手をやり、ふんぞり返る。
「お前、王女付きだったのか」
「……王女?」
魔術をかけてもらったので、言葉はわかる。母国語みたいに理解できてしまう。知らないはずの音が言葉として認識できる感覚に酔うような副作用もあったけど、もうだいぶ慣れた。
少年は王女と言ったはず。誰のことだ。
「特別顧問のことだよ。王宮から厄介払いしたいにしても、こっちに押し付けられるのは迷惑だ」
「は? 特別顧問?」
「セレンデュート第二王女のことだよ!」
頭おかしいんじゃないの、と少年の目が語ってくる。
「……セレンさん、が?」
セレンデュートって、たぶんセレンさんのことだろう。セレンさんが王女様。
誰も教えてくれなかった。セレンさんって特別待遇っぽいなとか思ってたけど。
ヨームさん、貴人の護衛をしていた、とは言っていたけど。過去だけではなくて現在もだし、貴人というか王女だし。
唖然としたわたしを見る少年の目が、残念なものを見る目に変わる。
「知らなかったのか?」
「いや、若いのにすごいな、実力者っぽいなとは思ってたけど」
「実力者なんてもんじゃない。バケモノだ」
魔術院の説明を受けたときに受けた違和感。魔術院の人たちがいくら数少ないエリートだといっても、それなりに人はいる。それなのに、セレンさんに建物ひとつ与えられているなんておかしい。空き部屋はいくつもあるくらいだ。
それは王女だからなのかもしれないけど、まるで、隔離されているかのようで。
詳しい事情は知らないけど、厄介払いなんて言い方はあんまりだ。『バケモノ』呼ばわりにも、かちんときた。
「普通の女の子だよ。ちょっと変わってるけど。ひとにいきなり八つ当たりしてくるそっちの方が、理性のないバケモノじゃない」
セレンさんはちょっと――じゃないかもしれないけど――常識がなくて、加減を知らないだけだ。吹き飛ばされたこともあったけど、それは帰ろうとするセレンさんを引きとめようとしたからだろう。
説明すれば理解してくれる。逆に言えば、今理解できないのは説明する人がいなかったからだ。
建物ひとつ与えられていても、彼女の周りにはひとがいない。最低限の世話と、仕事を寄越す人間が交代でやってくるだけ。
セレンさんはこの子みたいに出会い頭にひとを閉じ込めたりしない。ひとのことをバケモノと蔑んだりしない。
少年は眉を吊り上げた。
「馬鹿にするな!」
そして呪文を唱え始める。先にバケモノ呼ばわりしたのはそっちなのに、この子は自分が悪いかもなんてちっとも思わないで怒ってばかりだ。
廊下の先は少年が塞いでいる。脇の部屋に逃れようと扉に手をかけたけど、がたがた鳴るだけで開かない。その様子に少年がにやりと笑みを浮かべた。先に塞がれていたのか。
もう後ろしかない。振り返ってセレンさんの部屋に戻ろうとする。しかし、少年の呪文が終わる方が早かった。
何が出てくるかなんてわからなかったけど、とにかく避けなければと思った。わたしはその場で屈もうとした。
うつむいた視界に、濃紺がちらつく。濃紺の軍服――ヨームさん。
わたしの腕を引き寄せて、抱きしめるようにして自分の身体を盾にする。身体を揺らす衝撃と同時に、小さな呻き声が頭上で漏れた。
「ヨームさん!」
見上げようとしたけど、後頭部にまわった手に抱え込まれてそれは叶わない。
「耳障り」
唐突に後ろから響いたセレンさんの声と、短い呪文。次いで、少年の悲鳴と何かがぶつかるような鈍い音。
ヨームさんの手が離れる。振り返るとセレンさんが扉のところに立っていた。彼女はわずかに頬を緩める。
「また、明日」
それだけ言って、彼女は扉を閉じた。
セレンさんは魔術を使ったらしい。少年は廊下の突き当たりまで吹き飛んでいて、よろめきながら出て行った。
ヨームさんの背中は、いくつも切り傷ができていた。ナイフで切り裂かれたみたいに服は裂け、血がにじんでいる。
手当て。手当てしなければ。気が動転して、手が震える。
「救急箱あったと思います、掃除したときに! ああでも、医務室とかありますか、どこですか」
慌てるわたしとは反対に、ヨームさんは落ち着いていた。
「怪我はありませんか?」
「お陰様で無事です! わたしなんかより、ヨームさんが!」
怪我をしているのはヨームさんで、心配する側じゃなくてされる側だ。こんなに痛そうなのに。じわりと涙がにじむ。
「なぜ今泣くんですか」
「だ、だって」
自分でもわけがわからず、零れる涙を抑えられなかった。泣くべきじゃないと乱暴に目を擦るけど、止まらない。
かばって傷を負わせてしまった。背中だけでも痛そうなのに、首や頭が切られていたらもっとひどいことになっていただろう。
「たいしたことはありません」
怪我人のヨームさんに、なだめすかされてしまった。
ヨームさんの執務室で、包帯をぐるぐる巻いていく。うまく巻けない。傷の手当をするということは、ヨームさんは上半身裸なわけで。引き締まった身体がどうしても見えてしまうわけで。わたしはさっきと別種の動揺に襲われていた。
それをごまかすように、口を開く。
「昔から、傷を見るとうろたえちゃって。そんなときいつも親から言われてたんです、『くるみ』って名前は、人を包み込める人になってほしいからつけたって。いつか、痛い思いをしてるひとを勇気づけられるようになってほしいって」
くるみというと『胡桃』を連想させるけど、わたしの名前は『包む』が由来だ。
「まだまだそんな人にはなれないんですけど」
歳をとって耐性がついてきていたはずなのに、ぼろぼろ泣いてしまった。恥ずかしい。もっとしっかりした人間になりたい、と思う。
四苦八苦してなんとか包帯を留める。不恰好だけど屋敷の人がちゃんとやり直してくれるだろう。ヨームさんの前に回りこんで、頭を下げる。
「さっき、取り乱してすみません。ありがとうございました」
「いえ」
着るものが他にないので、血のにじんだ白シャツを渡す。血の部分は乾いて茶色くなっている。濃紺の上着も持って広げてみる。こちらは血の色は目立たない。
今度何かあったときのために、替えの服を用意しておいたほうがいいだろうか。替えの服が仕事場にないというのは不便な気がする。
「もう、その通りだと思います」
ボタンを留めながら、不意にヨームさんが呟いた。
「人の痛みに敏感なのは、他人を包み込む温かさを持っているからでしょう」
服を落とすかと思った。
「……柄にもないことを言いました。忘れてください」
「忘れません。うれしいです、ありがとうございます」
自然と、笑みが零れた。気を使わせてしまったのかもしれないけど、そう言ってもらえたのはうれしい。
上着を受け取るヨームさんは目を逸らして、心なしか急いで着込んだ。ヨームさんは無表情だけど、優しい。温かいのはヨームさんの方だ。