2日目 吹き飛ばされた日
お風呂を無事にひとりで入ったあと、部屋に案内された。今日はこのまま休んでくれ、とひとりにしてもらったけど、そう眠れるはずもなく。
たぶん、トラックにぶつかった。日本ではわたしはどうなっているのだろう。身体ごとこっちにきているのなら、無事だろうけど。
事故に遭ったとしても失踪状態であったとしても、友達にも家族にも心配をかけるだろう。戻ったら全部説明するべきか。説明しても頭がおかしいと思われるかもしれない。
そもそも、本当に帰れるのか。
ヨームさんに帰れないとは言われてない。でも、ヨームさんが帰してくれるわけじゃない。セレンさんと直接話をしなきゃならないだろう。果たして会話ができるのか。わたしという存在を認識してもらえるのだろうか。
そんなことを考えている間に、窓の向こうが徐々に明るくなっていく。ちらりとカーテンの隙間から覗いた朝焼けは、見慣れたものとよく似ていた。
ベッドに再び横になって、少しだけまどろんだ。
昨日、お風呂の介助をしようとしてきたお姉さんが、着替えと朝食を運んできてくれた。
着替えは膝下十センチの臙脂のワンピース。ウエスト周りを引き締める同色のリボンと、大きめの襟がついている。昨日のことがあったからか、彼女は着替え中は部屋から出ていき、後ろのボタンだけ手伝ってくれた。昨日つけていたヘアゴムで、鎖骨の下まで伸びた髪はポニーテールにまとめた。
食欲はなかった。
要りません、と伝えたくとも言葉が通じない。テーブルに並べられていくのを、座るよう促された椅子に座って見ていた。
箸で食べるらしい。食器は陶器と漆塗りのような茶碗。なんとなく見た目は親近感を抱いたので、観察しながら少しずつ食べてみた。
香ばしい米のような穀物に木の実みたいな小さなものが混じったもの、魚の切り身のようなものを焼いたもの、ねばねばした野菜のおひたしのようなもの。弾力のある貝のようなものが入ったスープ。ような、が多いけど、実際よくわからないから仕方ない。おいしいけど。
一通り食べて、意外と食べられるかも、と思ったもののそこまでお腹がすかない。さて残していいのだろうか、と箸を止めたところで、扉がノックされた。
「セレンが寝てる間に抜け出してきたんだ」
吉野くんはそう言って、げっそりした顔でテーブルに肘をつき、顔を覆った。食事は片付けてもらい、部屋には吉野くんとふたりきりだ。
「巻き込んでごめん、金重さん」
「吉野くんのせいじゃないよ。よくわからないけど、吉野くんが何かしたわけじゃないでしょ」
「……わかってたんだ、セレンがまた呼ぼうとしているのは」
彼は事故がきっかけで召喚されるのだと話した。
高校三年生のとき、交通事故に遭う瞬間、気づいたらこの世界にいた。帰れることになり、日本で目覚めたときは病院のベッドの上。こちらにきている間、彼は植物状態だった。意識だけこちらにきているのかもしれない、という。
「セレンもまた召喚するっていってたし。事故に遭いやすくなってきて、セレンが何かしてるんだろうなとは思ってた。事故に遭って意識を飛ばしたら召喚されると思って、なんとか回避しようとしてたけど」
事故に遭いやすい心当たりは、それだったのか。お祓いもお守りも、魔術に太刀打ちできなかったらしい。
「じゃあ、わたしも一緒に事故に遭ったからここに来てるってこと? ……わたしも入院してるかな? 死んでないよね?」
「た、たぶん」
身体がそのままだというのなら、しっかり傷も負ってしまっているはずだ。突っ込んでくるトラックを思い出し、青ざめる。
「とにかく、金重さんだけは何があっても帰すから」
力強く言ってくれるが、吉野くんがあの女の子に強く出るところがイメージできない。ありがとう、と言いつつも、やはり自分で何とかしなければと思う。
「前におれを召喚したときよりも魔力が増したから、数週間で帰せる」
「本当!?」
「はずだったけど、二人召喚して予想以上に魔力を使ったらしい。たぶん、一ヶ月はかかるって」
「……それは一人分でしょ?」
わたしを帰す話をしてくれるのはありがたいけど、吉野くんだって一緒に召喚されている。帰りたくないならここにいれば良いと思うけど、そうじゃないだろう。
「……もう、おれを帰すつもりはないんじゃないかな」
諦めたように、苦笑する。
「そもそも、なんで吉野くんは召喚されるの?」
話を聞いていると、吉野くんは何度も狙われているようだ。高校生のときに一度、最近は毎月のように。
「最初は、偶然。召喚の魔術の実験をして、おれがたまたま召喚されたらしい。それで、セレンがおれを好きになった、って」
「……好き、に?」
好きだから、帰したくないというのか。
召喚されたときのことを思い出す。
まるで、吉野くんしか見えていないかのようだった。恋は盲目だというけど、度が過ぎている。
「でも、日本に帰れたんでしょ?」
「帰りたくて、いろいろ言ったんだ。本当に好きなら相手のことを考えなきゃならないとか、突然こっちに来て向こうにやり残してきたことが一杯あるとか。帰ってもセレンはまた召喚できる、とか」
「それで、また召喚されたと」
「二年くらい待ってくれたみたいだけどね……」
遠い目をする。もしかしたらこのまま召喚されないかも、とか考えていたのかもしれない。嫌なら嫌とはっきり言わない彼も悪い気がする。でも、機嫌を損ねたら帰れないかもしれないのか。
「日本とこっちを行き来すれば?」
通い妻みたいな。吉野くんが妻になるけど。
「その度に事故に遭うの?」
ひきつった顔で言い返された。
召喚の度、そうなってしまうのか。無理だ。わたしももう事故なんて嫌だ。
どうしたものかと黙り込むと、ノックもなしに扉が開いた。
「トシヤ、迎えにきた」
元凶といってもいい、セレンさん。吉野くんの肩がびくりと跳ねた。
「どうして、ヨームのところに来た」
「ヨームさんじゃなくて、金重さんと話にきたんだよ。セレン、召喚に巻き込んだことは謝らないとだめだ」
「カネーゲ?」
また視界に入ってないらしい。はい、と手を挙げてアピールする。
「金重くるみです。くるみ、で結構です」
セレンさんが初めてわたしを見た。人形みたいな無表情。黒い瞳が、じっと検分してくる。短くはない時間、わたしは身動きひとつせずに待った。
そして、彼女は首を傾げた。腰までの髪が波打つ。
「わたし、あなたを呼んだ?」
「は?」
昨日の今日で忘れたというのか。彼女は続けて、感情のない言葉を放つ。
「あなたはトシヤとは違う」
違うから、気にする価値もないというのか。
帰してもらうにはこの人に協力してもらわなきゃならないのに。
「帰ろう」
彼女は吉野くんの手をとって立たせる。わたしはまるで空気になったかのようだ。
――わたしは、帰りたい。
吉野くんの、セレンさんが掴んだのと反対の手を掴む。
「待ってください、帰し――」
「邪魔」
その言葉の後に、何かをぼそぼそと呟いた。何を言っているのかと耳を澄ました数瞬の後、セレンさんは片手を払う。
ごう、と風が吹いた。身体が浮き、背中と頭を壁に打ち付ける。
「っ、」
一瞬、衝撃で呼吸ができなくなる。痛い。
「金重さん!」
「行こう、トシヤ」
「だめだセレン、待って――」
ふたりの声が遠く聞こえる。がんがんと痛みが頭に響いている。ふたりを引きとめようなんて、考えられなかった。
涙がにじむ。
なんなんだ。どうして、こんな目に。
床に座り込んで、頭を抱える。ヘアゴムで結ったところを打って、頭を楽にしたくて髪をほどく。背中を打ったせいで、腕を上げにくかった。
あの人に帰す気がないなら、帰れないじゃないか。話をしようとしても会話にならなくて、こんな目に遭ってしまうならどうすれば。
「クルミ様!」
はっとして、顔を上げる。
ヨームさんが扉のところにいた。痛みに呻いていたから気づかなかったけど、テーブルや椅子が散乱してひどい有様だ。間借り中なのに。
「ご、ごめんなさい、散らかして」
「いえ、セレン様がやったのでしょう? 怪我はありませんか」
散乱した椅子をわきに避けつつ、ヨームさんはこちらにやってくる。
「頭を打ったくらいです。でも、石頭なので平気です!」
痛む頭から手を離し、椅子を起こす。しゃがみこんで背を曲げたとき、まだ背中に痛みが残っているのがわかった。けど、動けないことはない。
「クルミ様、座ってください」
肩を掴まれた。痛みに身体が強張る。抵抗する気力もなく、椅子に座った。
ヨームさんの手がわたしの頭に触れる。撫でられたのかと思ったけど、もちろん違う。探るように慎重に手が頭をなぞっていく。
「出血はないですね。冷やしましょう」
ヨームさんに見透かされていたのか、あのお姉さんがやってきて背中も冷やしてくれた。処置が終わった頃にヨームさんがやってきて、一日ベッドで安静にしているようにと言い含められた。
あまり眠っていなかったからか、わたしはひたすら眠った。考えを巡らせる余裕がないくらい、疲れていた。身体的にも、精神的にも。