29日目 槿花一日(下)
「……クルミちゃん?」
訝しげに、キアスさん。
「おいおい、間違えたのかよ」
少年に悪態をついたのはナダンさん。そしてもうひとり、奥のイアリカ様が片眉を上げた。
少年が慌てて弁明する。
「儀式の間から出てきたやつを連れてくればいいって言ったじゃないか。異世界人はこいつだろ」
わたしは間違いで、でも異世界の人間を連れてくるつもりだった? 吉野くんを連れ出す気だったのだろうか。
わけがわからない。吉野くんをどうするつもりだったのか。なぜ少年とこの三人は手を組んでいるのか。手を組んで、何をしようとしているのか。
「何でクルミちゃんがいるの? 魔術使わなかったの?」
キアスさんが尋ねてくる。答えようと口を開いてみたけど、まだ声は出なかった。
少年がぼそぼそ呟いて、「喋れ」と言う。どこまでも生意気な態度にちょっと頭にきた。しかし悪態をつけるような状況でもなく、少年は無視する。
「試してみて、帰れなかったんです。わたしは向こうで死んでるらしくて」
キアスさんが目を丸くした。わたしだって信じたくない。
「異世界人とは言ったけど、セレン様が執着してる人間って言っただろ? 男の方連れて来いよ」
少年に、ナダンさんがそう吐き捨てた。少年が反論する前にキアスさんがなだめる。
「まあクルミちゃんでも良いんじゃない? 構いませんよね、イアリカ様?」
イアリカ様はこちらを遠目に見ていた。仕方ないという風に、ため息をつく。
「そうね、セレンの友人だって言っていたし。その子でも餌にはなるでしょう」
「何をしようとしてるんですか」
餌、って、何のことだ。不穏な気配しかしない。
イアリカ様は目を細めた。うりふたつの顔を持つあの人なら浮かべないような、非情な笑み。
「セレンに死んでもらおうと思って」
息をのんだ。この人は何を言っているのか。
「セレンはあなたを帰す魔術で魔力を使い果たしたはず。魔術が失敗しても、同じだけ魔力は使うのよね?」
問いかけに、少年が頷く。
「魔力がないならただの人。あなたを使って誘き出して、セレンには剣の錆びになってもらうわ。そのあとあなたも始末する」
言葉が、出ない。自分の心臓の音がやけにうるさく聞こえた。
何も言えないわたしに、彼女は気を良くしたようだった。
「本当は男の方を使うつもりだったの。あなたをもとの世界に帰した後、セレンに縛られて帰れないことに絶望した彼は軍に助けを求める。連れ戻しに訓練場まで追いかけてきたセレンを、焦った彼はここに置いてあった真剣で刺し殺す。魔力を使い果たしたセレンは抵抗もできずに死ぬ。精神を病んだ彼は言葉を失い、憔悴しきってやがて自ら命を絶つ」
尋ねてもいない筋書きを、ぺらぺらと話してくる。
わたしがもとの世界に帰れていたなら、少年が隙を見て吉野くんをさらうつもりだったのだろう。セレンさんと吉野くんは基本的に一緒にいるけど、消耗したセレンさんなら少年でもそのくらいどうにかなるのかもしれない。
「セレンを刺すのはわたしだし、喋れないのも憔悴するのも魔術によるものだけどね。軍の保護下に入れば自殺を偽装するのも容易い。彼があなたに変わっても、計画はそう変わらないわ。あなたも帰れなくて絶望しているのでしょう?」
ふふ、と愉快そうに彼女は笑う。歪んでいる。
他人の不幸を――セレンさんの死を、心の底から歓迎している。この日をずっと待ちわびていたのだと、耳障りな笑い声が告げてくる。
「どうして、そんなこと。そんなことをするほど、セレンさんが憎いんですか」
ぴたりと笑い声がやんだ。唸るような、隠しきれない感情がこもった声が響く。
「憎いなんてものじゃないわ。わたしの人生セレンのせいで台無しよ」
ナダンさんが言っていた。
セレンさんのせいでイアリカ様は魔力を持たない、と。王家の中で唯一魔力を持たずに生まれ、居場所がないと。
建国祭の日、イアリカ様には正妃しか話しかけていなかった。セレンさんを産んで魔力を失った正妃しか。たしかに、冷遇されているのだろう。
一ヶ月前にきただけのわたしが、彼女がこれまでどんな苦労をしてきたのか、つらい目にあったのかなんてわからない。
でも、だからって。
「セレンさんの命を奪う必要があるんですか」
生まれたときから持っているはずの魔力を、彼女は持っていなかった。疎まれていたのかもしれない。家族から無視されているのかもしれない。
でも、魔力は持っていなくても、彼女は努力して今の位置にいるはずだ。そんな彼女だから人を惹きつけて、ナダンさんみたいに彼女を信奉している人が多いのだろう。
彼女がやろうとしていることは、努力して得たものも、人からの信頼も台無しにするものじゃないだろうか。たとえ計画通りにいって、表面上は羨望の眼差しを受ける人のままであっても。
「あなたに説明する必要がある?」
ないだろう、そんなの。わたしは彼女たちにとってただの『餌』なんだから。
「でも、こんなの――」
「あなたのお説教でわたしが考えを改めるとでも思うの? 無駄なんだから黙ってなさいよ」
取りつく島もない。
こんなことは納得できない。やろうとしていることも、そんなことに利用されることも許せない。
しかし、わたしがどう思うかなんて彼女には関係ない。わたしのことなんてどうでもいい。何を言おうがどうしようが、彼女は意に介さないのだろう。
喋れるようになったって無駄なのだと痛感する。わたし自身に現状を打開する力がない。ただ歯がゆい思いで唇を噛む。身の内が焦げ付くように、苛立たしかった。
「なんか不憫だよねー、巻き込まれ体質っていうか」
ナダンさんが嘲笑う。
この世界に来たのも、さらわれたのも、わたしである必要はなかった。必要はなかったのに、日本では死んでいて、ここでも用が済めば殺されるという。どこにもわたしの意志なんかない。巻きこまれただけで、割を食って、こんな思いをするだけで。苛立ちは、わたしの理性も焼き尽くそうとしていた。
巻き込まれ体質なんて、そんな一言で切り捨てられたくない。
この世界に来たことを、誰のせいだとか誰が悪いとか考えないようにしていた。でも、納得できていたわけじゃない。誰かのせいにしてつらいこと全部押しつけたい気持ちがなかったわけじゃない。
そんなことしたってどうにもならないから、全部我慢していただけだ。我慢して冷静であろうとして、でもその結果がこれで。
――ああ、なんだかもう、どうでもいい。
「本当にわたしが『餌』になると思ってますか」
イアリカ様が、眉をひそめた。
「わたしがセレンさんの友人を自称しただけなのに? たしかにセレンさんは変わりましたけど、まるきり突然変わる人間なんていませんよ。わたしがここにいるからなんだっていうんですか。助けにくると思ってるんですか? おめでたい人ですね! さすがないものねだりなだけある。あなたは結局セレンさんが羨ましいだけなんじゃないですか。セレンさんに執着しているだけ! 現実が見えてない!」
安い挑発に、彼女は表情を消す。
「随分立派なご高説だけど、そんなに早く死にたいの?」
「ええそうですね、もう巻き込まれるのはたくさんなんですよ。日本には帰れないどころか死んでるし。こんなくだらないことに巻き込まれるくらいならさっさと死ぬ方がマシです」
最後まで思うようにならないまま死んでしまうくらいなら、セレンさんの足を引っ張らない方を選ぶ。死んでしまえば人質にならない。
言い切るために、深く息を吸った。
「どうせこの世界に未練なんて――」
ない、と言いかけて。握りこんだ手の中に、硝子玉の丸い感触。
ヨームさんの顔が浮かんだ。ひとりにしてほしい、と突き放したままだ。もらったブレスレットも壊してしまった。
なによりもっと、ちゃんと話したい。
『一緒に暮らしてください』
返事をしていない。
『好き、なのだと思います』
詳しく問いただしていない。
「…………未練は、ありました」
呆然と、呟く。未練だらけじゃないか。
水をかぶったかのように、頭が冷えた。苛立ちの熱なんて消え失せた。
「あなたはさっき、自分が無用だと宣言していたわけだけど?」
イアリカ様が睨みつけてくる。やけになりすぎた。
――どうしよう。
「まあまあ。もしヨームもセレン様についてきたら、彼女はヨームの人質になります。それにセレン様が本来召喚しようとした人間の友人ですから、十分代わりにはなるかと」
キアスさんだった。
苦笑いまじりのその言葉に、イアリカ様は一応納得したようだった。
「じゃあ、人質らしくなってもらいましょうか」
彼女の指示で、キアスさんが動いた。
わたしは椅子に座らされ、背もたれの後ろで手を縛られる。ナダンさんが近寄ってこようとすると、「ヨームに負けたから、クルミちゃんに近づいたらだめでしょ?」キアスさんが笑う。ナダンさんは舌打ちをして、その場から動かなかった。
硝子玉を握りこんでいたからずっと握りこぶしだったけど、キアスさんは特に何も言わなかった。さっきは思いがけず助けてもらった、けど。何を考えているのかわからない。
キアスさんが手の拘束を終えると、少年は足にかけていた魔術を解いた。足が自由に動くようになる。といっても座っているのは床に足がつかない高さの椅子で、逃げられそうにない。
「それで、あとはあの第二王女を連れてくればいいんだな?」
「ええ。ちょっと待って」
イアリカ様が近づいてくる。剣を抜く。目が合うと、彼女は口を歪めた。
まさかと思っても動けない。思わず身じろいだけど、それは手の拘束をきつくしただけだった。
剣が、わたしの足に振り下ろされる。容赦ない風切り音に身を竦めた。
「っ、」
悲鳴が漏れかけたのは、突然身体が後ろに引かれたからだ。椅子ごと後ろに移動している。
「足なんて持っていったら死んでるみたいじゃないですかー」
背後でキアスさんの声がした。彼が椅子を動かしてくれたらしい。
視界の隅で、切り裂かれたスカートの端が揺れている。確認のために恐る恐る足を上げると、両足の膝下に赤い傷が走っていた。認識した途端、痛みを感じ始める。
皮膚の下を裂く程度で、深くない、はず。そう言い聞かせて、早鐘のような鼓動をなだめる。
「ちょっとごめんね」
血がついた、スカートからぶらさがる切れ端をちぎり、キアスさんはイアリカ様に掲げて見せた。
「彼女がここにいるって証拠はこれで良いですよね?」
――ここにいる証拠として、足を切断されるところだったのか。
座っていなかったら倒れていたかもしれない。自分が青ざめるのがわかる。
「まあ、良いわ」
不満そうにしながらも彼女は了承した。さっきの挑発が思った以上に恨みを買ったのだろうか。彼女の方を見られない。
スカートの切れ端は少年の手に渡った。
「第二王女にここの場所を教えたら、あの無表情男の足止めをすればいいんだろ。あとでそいつに魔術をかけたら、もうお前たちには一切関わらないからな」
「ええ、勝手にしなさい」
さっさと行け、と手で払われて、少年はむっとした。荒々しく扉に歩いていき、扉を開けて――血飛沫が舞う。
少年がその場にくずおれた。
その向こうにいる彼と、視線が交わる。険しい目が、その瞬間緩んだ気がした。
――ヨームさん。
「遅くなりました」
手に持つ剣の先から、血が滴っている。彼が少年を切ったのだ。
彼の視線が室内をさまよったのはわずかな間で、すぐにイアリカ様の方へ駆け出す。
「本当にね」
背後でキアスさんの声。手を掴まれて硬直したけど、予想に反して手首の拘束が解かれる。
「遅すぎだよねぇ」
とん、と背中を押された。つんのめりそうになりながら振り返ると、キアスさんは微笑んでいる。
「キアス!」
剣を構えて後ろから向かってくるナダンさんに、振り向きざま剣を抜いて受け流す。
――助けてくれた?
「裏切ったな!」
「いやあ、間抜けで助かったよ」
ナダンさんは激昂しながら、キアスさんは挑発しながら切り結んでいく。響く金属音に身を竦めた。
キアスさんたちだけじゃない。剣を打ち合う音は、もう一つ。
「ヨーム、なぜここに……!」
イアリカ様にヨームさんが切りかかっているが、受け止められている。
「目印を残していただいたので」
感情を押し殺したような低い声。
あの硝子玉を、見つけてくれたんだ。手の中の最後のひとつを、握り締める。
イアリカ様は歯噛みした。
「邪魔しないで!」
ヨームさんの方が力が強い。でも、イアリカ様は動きが早かった。ヨームさんの剣を受け流して、すぐ反撃に移る。致命傷ではないけれど、ヨームさんの方が多く傷を負っていく。
ふと、金属音の中に違う音が聞こえることに気づいた。ぼそぼそ呟く声。
――少年が、呟いている。うつぶせになりながら、震える手をヨームさんたちに伸ばして。ヨームさんは気づいていない。知らせたいけど、声をかけたら隙をつくってしまう。
どうしようか迷っている間に呪文が終わる。力尽きたように絨毯についた少年の手が、発火する。
――違う、魔術が伸びている。炎の玉が、ゆっくりとヨームさんに向かう。
気づいたら駆け出していた。
炎が小さければ踏んで消せると思った。しかしわたしが炎の前に飛び出したとき、手の平サイズだったそれが人の頭ほどの大きさまでになり、宙に浮いていた。
「――っ」
とっさに腕を突き出す。
右手の甲が光った、気がした。セレンさんに紋様を描かれたところ。
光とともに一瞬で炎が消える。それと同時に、わたしは後ろに吹き飛ばされた。まるで炎の玉が爆発したかのように。
「クルミ様!?」
後ろには、ヨームさんがいた。足元まで転がってしまったらしく、声がすぐ近くで聞こえた。打ち付けた肘が、痺れたように痛む。手の中に硝子玉の丸い感触はなく、ちくちくとした痛みが返ってくるだけだった。
「もらった!」
イアリカ様の声。ヨームさんのうめき声が続く。
すぐに起き上がろうとした。
上半身を起こしたところで首根っこを掴まれた。引きずられながら立つと、イアリカ様の腕が首にまわる。彼女は肩で息をしながらヨームさんと距離をとった。
腕をはがそうと抵抗するけど、首を絞められて力が抜けてしまう。おまけに片方の手に力を入れると痛かった。見ると、吹き飛んだときに潰してしまったのか、硝子玉が割れていた。暴れていたから破片が手の平を切って血が出ている。
こんな傷、ヨームさんに比べればないようなものだ。ヨームさんは左腕を押さえている。深く切られているようで、指から絶えず血が滴っていた。
――わたしが、足元まで転がっていったせいだ。足を引っ張ってしまった。
涙が溢れそうになるのを、唇を噛んで堪えた。泣いている場合じゃない。
「動かないで! キアス、あなたもよ!」
脅しのつもりなのか、腕に力を入れて首を絞めてくる。
視界の端で、キアスさんが剣を下ろすのが見えた。
「ナダン、キアスを――」
「――今の魔術を使ったのは、これか」
セレンさんが、いた。扉にもたれるようにしてたたずんでいる。
そして室内に入って少年を踏んづけた。というか、全体重をかけるように乗った。
顔を上げて荒く息をしていた少年が、糸の切れた人形のように床に突っ伏す。気を失ったらしい。こころなしか、絨毯を侵食する血の染みが広がった気がする。
「ヨーム、置いていくな。クルミに描いた魔術が起動したから場所がわかったものの、たどりつけないところだった」
背を丸めてだるそうに、セレンさんはこちらに歩いてくる。
「止まりなさい」
脅すように力を入れられ、喉から空気が漏れた。呼吸ができなかったのはその一瞬だけだったけど、恐怖も相まって息が荒くなる。頭では、落ち着かなければと思うのに。
わたしの様子を見て、おとなしくセレンさんは止まった。止まらないかも、と少し思ったけど。
「イアリカ、これはどういうことだ」
静かにセレンさんは問いかける。
「あなたがみんなを不幸にするからいけないのよ」
「不幸?」
「お母様の魔力も、わたしの魔力も奪った!」
「わたしに一因があるのだろうが、それはわたしの意志でしたことではない。解決する手段があるなら協力しても良いが、現状どうすることもできない」
「開き直るの!?」
ヒステリックな叫びだ。セレンさんが追い詰められているはずなのに、逆転しているかのよう。
「建設的な話をしようとしているだけだ。それで、クルミを人質に何を要求するつもり?」
「今、ここで死んでちょうだい」
セレンさんは表情を変えずに言い切る。
「無理だ。わたしはトシヤと生きていく」
「いけしゃあしゃあと……っ! あなたはいつもそうやって、自分を世界の中心だと思ってる! 何でも望むままにしようとする!」
「誰だって、自分が自分の世界の中心だ。イアリカ、あなただって自分のわがままをわたしに通そうとしているだろう。自分が正しいと思っても、それはわがままに過ぎない。客観的に見ると、よくわかるものだな」
「うるさい! あなたが死なないというのなら、この子に死んでもらうまでよ」
首にまわった腕で、わたしの顎を持ち上げる。そしてむき出しの首筋に剣を当てられた。刀身の冷たさに寒気立つ。
セレンさんが顔をしかめた。
「それは困る。剣を弾く紋様も描いておけば良かった」
緊張感があるのか、ないのか。
セレンさんはわたしの命も失いたくないと思ってくれているようだ。自分の命と秤にかけられないから、イアリカ様の望みをかなえることもわたしを見捨てることもできずにいる。
膠着状態のように見えるけど、セレンさんの動きが封じられて分が悪い。わたしはまんまと人質になっている。
「変なことは考えないことね。どうせ魔術なんて使えないだろうけど」
「そうだな、魔力がない。いつもは一秒の呪文で済むのに今は最短五秒だ。おまけに基礎の炎しか出せない。身体はだるいし帰りたい。今にも倒れそうだ」
五秒。セレンさんが唱える素振りを見せれば先にわたしに剣が振るわれるだろう。けど、このままならセレンさんが殺されてしまう。ヨームさんも。そんなの、嫌だ。
絶望的かもしれない。でも、五秒稼げたらセレンさんは魔術を使える。五秒、わたしがイアリカ様から逃れれば。
できるのだろうか。
手を握ると、破片が皮膚を裂いた。
「ナダン、セレンを切りなさい。ヨームもキアスも剣を捨てて」
迷っている時間はない。
セレンさんを見ると、目が合った。頷かれた気がした。
――やるしかない。
イアリカ様の腕を掴む。力を入れる前に身構えられてびくともしない。身じろぎすると剣を首から離した。まだ人質だから、生かしておかなければいけないから。
「邪魔を――」
手のひらの破片を、素肌が見えている彼女の手首に押し付けた。瞬間熱が走るような痛みが手の平にいくつも生まれ、手を離しそうになる。歯を食いしばって、破片を擦りつける。
「っ、」
彼女が怯んだ一瞬、力が緩む。腕をすり抜けるのと同時にセレンさんが呪文を呟き始めた。転がるように前に駆け出す。頭のすぐ後ろで、風切り音。
二秒。
ナダンさんが振り向く。セレンさんかこちらか、迷いが動きを止める。その隙に、キアスさんが切りかかる。
わたしの背後で、一歩踏み込んでくる音がする。また、剣が向かってくる気配。
四秒。
濃紺が、視界を横切る。頭上で金属音がした。
ヨームさんが、イアリカ様の剣を弾き返す。
五秒。
たたらを踏んだ彼女の身体に、炎がわく。息をのむ、断末魔のような叫び声。
ヨームさんがわたしの頭を抱えるように、自分の身体で視界を遮った。けど、燃え盛る炎の明かりも、音も、わかる。
ぞっとした。呼吸すらうまくできなくなった。
死んでしまう、と思った。
ただ嫌だと感じた。相手が誰だとか、何を企んでいたかなんて考えられずに。その状況から目も耳も離れずに、凍りついてしまったまま。
しかしわたしが固まっていたのはほんの少しの間だった。数秒で声も炎も消えた。魔術の炎は普通の炎とは違うらしい。おそらく気を失っているであろうイアリカ様を、キアスさんが捕縛に向かう。
「ヨームさん」
顔をあげて、呼びかけた。疲労のにじむ顔が見下ろしてくる。黒い瞳が、わたしを射抜く。
生きているのだ、と思った。わたしも、ヨームさんも。今、ここで。
「生きていてくれて、良かった」
同じことを、わたしも思った。どうしようもなく、胸の奥が苦しかった。




