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29日目       槿花一日(上)

 セレンさんたちが仕事を終えた夜。

 一ヶ月前、召喚された場所にいる。

 初めてここに来たときのように、床には紋様が描かれている。床の半分ほどが小さな図形で埋め尽くされ、その中にさらに円形に複雑な模様がある。遠目に見ると黒い円だけど、近くで見ると細かな図形や線が描かれていることがわかる。

 その中心にわたしは立っていた。そして頭を下げる。

「今までありがとうございました」

 これから、わたしはもとの世界に帰る。


「おれは何も。こちらこそありがとう」

 吉野くんが微笑む。

「クルミ」

 名前を呼んで、セレンさんはわたしの手をぎゅっと握った。

 ヨームさんは目が合うと、会釈をしてくれた。

 何か言おうと思うけど、うまく言葉が出てこない。それぞれじっくり話したから、言い残したことはないんだけど。

 もう会えなくなる。笑っていたいけど、涙腺がゆるみそうだ。

「最初はもう、帰ることしか頭になくて。でも、つらいだけじゃなくて、みんな良くしてくれたから」

 振り返ってみるとあっという間な気がする。

「本当に、ありがとうございました」


 吉野くんとヨームさんは壁際によけて、セレンさんは紋様の端に両手をつく。

 呪文を唱え始めると、紋様全体が淡い光を発しだした。十秒、二十秒、セレンさんの小さな声が響く。黒い円の紋様が一層強い光を放つ。


 ふと視線を感じて、顔を上げた。

 壁際に立っているヨームさんと、視線がかち合う。口を引き結んで、こちらを見つめている。

 ここに召喚されたときも、そんな風に立っていたのだろうか。ずっと黙って壁際にいたから、セレンさんたちに置いていかれるまで気づかなかったけど。

 ヨームさんに初めて話しかけられたとき、実は少し怖かった。背が高くてがたいも良いし、無表情で近づいてきたから。それに事務的な感じもした。


 ヨームさんがわたしの面倒を見ていたのは成り行き上仕方なかったからで、わたしがいなくなっても以前の生活に戻るだけ。

 わたしが及ぼした影響なんて、些細なものだ。少し騒がしくしただけで、店員さんが言っていたような特別なものじゃない。

 いつか本当に特別な人ができて、彼が誰かに笑顔を向けるときがくるだろう。そのときそこにわたしはいないし、相手はわたしじゃない。


 日常に戻れば、わたしのことなんて忘れてしまう。そんな人もいたなと思い出すくらいで。

 もう二度と会えないのだから、忘れられてしまったって構わないと思った。むしろ綺麗さっぱり忘れた方がすっきりするかもしれない、とも。


 わたしにとってもその方が良いと思った。

 こちらに何を残しても、何を思っても、もう来ることはない。思い出したらきっとつらくなる。初めから何もなかったかのようにしてしまえば、心残りだってなくなるはず。ヨームさんの記憶からも消えてしまえば、と、思ったけど。

 でも、全部なかったことになんてできない。きっと何度も思い出す。わたしがいなくなったこの世界のことを考えて、変わらずに過ごす彼らのことを想像して。今の時点でもう、胸が締めつけられるような思いをしているのに、もとの世界に帰ったらもっとひどいに決まっている。


 言い残したことはないなんて嘘だ。何も置いていきたくないから、何もないのだと言い聞かせていた。

 見てみぬふりを、もう、続けられない。

 思わず一歩踏み出しそうになって、動かないようセレンさんに言い含められたことを思い出す。中心に立ったままでないと、失敗するかもしれないからと。胸元に抱えた手をぎゅっと握る。


 ――どうすれば良かったのだろう。

 今更何を考えたって、どうすることもできない。

 最後にせめて、笑おうと思った。うまく笑顔がつくれなくて、情けない顔になってしまった気がする。

 彼の反応を見る前に、閃光がわたしの視界を奪った。紋様の上を閃光が走り、目も開けられないほどの光を発する。

 セレンさんの声がやんだ。三分くらいは唱え続けていたのかもしれない。

 唐突に、ぱりんと硝子が割れるような音がした。空気が割れたみたいに、周りからいくつも音が連なっていく。

 そしてその音がふっと消えると、光もおさまっていった。


 恐る恐る目を開けて、息をのんだ。

 ――日本、ではない。変わらず同じ場所にわたしは立っている。地面の紋様はかすれ、どこも光を発していない。

 まさか。

 想像してしまった結果に、心臓の鼓動がうるさくなる。紋様が光っていない――魔術は終わっているのに、わたしは動くことができなかった。

 セレンさんは肩で息をしている。身体を支えるように床に両手をつき、わたしを見上げた。

「クルミを帰す、器がない」

 ひやり、とした。背筋を冷たいものが走る。


「ない、って」

「トシヤにはあったのに、クルミには見えなかった。はっきり生きているとわかるのは、トシヤだけ。それでも、試してみたが……」

 足の力が抜けそうになって、よろめく。意識だけがこちらにきていて、身体のある世界に帰れないということは。

「――わたし、死んでるんですか」

 あの事故で、わたしは死んでしまっていたのだろうか。直撃だったし、猛スピードだったし、なんて思い返してみても。

 帰れないのだ。もう、二度と。家に帰れない。家族にも友達にも会えない。いつも通り家を出たきりで、遊ぶ約束だってしていたのに。もうすぐ冬休みで、試験勉強だってしなければいけないと、考えていて。

 嘘みたいだ。

 だって、わたしはここにいて。帰れるのだと、ずっと、思って。


「クルミ」

 セレンさんが握りこぶしをつくっている。ヨームさんはうつむいていて、吉野くんは泣きそうな顔をしている。

 みんな心配して、気遣ってくれている。それに堪えられなかった。

「ちょっと、ひとりにしてください」

 わたしは逃げ出した。




 近くの空き部屋に入り、明かりもつけずに床に座り込んだ。

 掃除しておいて良かった、なんてそぐわないことを思う。帰れると信じて、わたしはのんきに掃除なんてしていたのだ。

 あの事故で死んでいたら、という話を一度だけ吉野くんとしたことがある。けど、そんなはずはないと思い込んでいた。帰れないかもしれないなんて考えたくなかった。

 帰れることが、わたしの支えだった。絶対に帰るのだからと、心を奮い立たせていた。それが、こんなに呆気なく。


「クルミ様」

 背中から、扉のあたりからヨームさんの声。

 ぐっと奥歯を噛みしめる。これでもぎりぎりで堪えているのだ、気遣わしげな声をかけないでほしい。

 たぶん、無表情でもその眼差しは暖かい。だから振り返らずに、わたしは明るい声を出す。

「大丈夫、大丈夫です! 人がいつ死ぬかなんてわかりませんし。交通事故だって突然遭うものですし! そもそもあのとき飛び込んだのはわたしなんですよね、自業自得です」

 笑ってみせる。笑う声が空々しい。


「全然平気です! ちょっと動転しちゃっただけで」

「クルミ様」

 声が近づく。震えないようにわたしは声を張り上げた。

「死んでる、なんて、仕方ないですよねー。なんだか気を使わせてしまって――」

「クルミ様!」

 ヨームさんが、私の前に立った。顔をしかめているのは不機嫌だからじゃなくて、わたしを案じてくれているからだとわかる。そんな顔をしないでほしい。


「ぜんぜん、へいきですよ」

 ヨームさんが膝をついた、と思ったら、胸板に顔を押し付けられていた。視界は真っ暗で、肩と頭に手が回っているのを感じた。

「泣いてください」

 びっくりして、そんなものは引っ込んだ。ヨームさんに抱えこまれている。

「以前、わたしに自分を犠牲にしていると言ったことを覚えていますか。自分を犠牲にしているのは、あなたの方です。あなたはつらいときに泣かない」

「……違います」


 わたしは犠牲になんかしていない。そんな崇高な精神じゃない。ただ、涙を流したら全部崩れ落ちてしまいそうだから。

 泣かないと決めたのはただの意地で、犠牲なんてものじゃない。もっと子ども染みた、泥臭くてくだらないもの。でも、そんなものにわたしは縋ってきた。

「そんなことを言いにきたんですか。離してください」

 泣かないんだから、胸を借りる必要もない。突っぱねるようにもがくけど、離してくれない。

 苛立ちを覚え始めたころ、彼は口を開いた。


「一緒に暮らしてください」

「……は?」

 力が抜けた。聞き間違いかと思った。

「客人としてではなくて」

「使用人として?」

「そうでもなくて」

 一度、深呼吸したのがわかった。お互いに、心臓の鼓動が早い。

「好き、なのだと思います」

 一瞬、わたしの呼吸が止まる。

「友人として?」

「……違います」

 ヨームさんがそれ以上を言う前に、思い切り彼の肩を押して距離をあける。つっかえ棒のようにしたまま、うつむいて告げる。

「ひとりにしてください。お願いします」


 どうして今、そんなことを言うのだろう。

 わたしが帰れないから? 同情で言っているみたいじゃないか。

 ――そんなことをする人じゃないと、わかってる。同情でそんな嘘はつかないと、思うけど。

 でも今は、頭が一杯で。

「今はちゃんと考えられないんです」

 ひとりにして、落ち着かせてほしい。

 しばらく、沈黙が降りた。やがて、躊躇うようにゆっくりと身体が離れる。そしてヨームさんは部屋を出て行った。廊下の扉は開けたままなのか、真っ暗にはならなかった。


 息を吐いて、自分の身体をかき抱く。心細くて自然とそうしていた。

 この身体に触れることはできているのに、変な話だと思う。意識もあって、実体もあるのに、自分の身体は別にあって死んでいる。じゃあここにいるわたしは何なのだろう。

 腕を強く握ると、じゃらりと音がした。ヨームさんにもらったブレスレット。

 向こうに持って帰れるとは思わなかったけど、わたしはずっと着けていた。お守りみたいに。

 心を強く保つために、身に着けていた。

 帰れると思いこもうとしても、不安はあった。ずっと。でも、死んでいたなんて。

 ただ帰れないことよりも、もっとひどい。


 不意に、部屋に差し込む明かりが揺らいだ。誰かが入ってきたらしい。今度はセレンさんか、吉野くんか。

「ひとりにしてください」

 返事はない。代わりに、ぼそぼそと呪文が聞こえた。

 はっとして振り返る。

 茶色のローブの、少年。

「どうして――」

 ここにいるの、と続けようとした声は、出なかった。呼吸はできる。耳も聞こえる。声が、出ない。


 今度は勝手に足が動きだした。立ち上がり、少年の前まで歩いていってしまう。

「お前が異世界人だったのか。ぼくだってこんな小間使いみたいな真似、したくないけど。邪魔者が消せるなら仕方ない」

 少年は呪文を呟きながら歩きだす。わたしの足はその後ろをついていく。

 抵抗できないようにして、どこかへ連れていくつもりなのか。何をしたいのかはわからないけど、こんなことをするなんてろくでもないことに決まっている。血の気が引いて冷たい手を、握りしめる。手は動く。

 ――どうにかしなきゃ。

 少年に手を伸ばす。しかし遠くて届かない。壁にも届かなくて掴むものもなく、建物の外に出てしまう。


 ふと、ヨームさんにもらったブレスレットが目に入る。

 躊躇する。けど、このままじゃどうなるかわからない。

 ――仕方ない。ごめんなさい。

 ブレスレットを手首から引き抜いて、硝子玉をつないでいる糸を引きちぎる。ちぎったときに一つ、硝子玉が地面に落ちた。土の上だったから、音は響かない。

 少年は時々振り返るけど、自分の魔術に綻びがないと信じているのか、わたしの前をさっさと歩いていく。

 おかげで目印として硝子玉を落としやすかった。せっかくもらったものをこんな風に使うのは、嫌だったけど。


 硝子玉の数にも限りがある。遠かったり、馬車にでも乗せられたらどうしようかと思ったけど、目的地は王宮の中らしかった。夜だからなのか人がいないところを選んでいるからなのか、あまり人にすれ違わない。通ったことのない道だけど、進んでいる方角には覚えがあった。

 訓練場。

 二階建てのその建物に、少年はまっすぐ向かっていった。夜間は開放されていないのだろう、一階に明かりはついていない。しかし少年は構わず中に入っていく。

 魔術師の彼が、どうして軍の訓練場に行くのか。疑問は声に出すことすらできない。

 わたしの足は依然として自由に動かない。音が出ないようにと願いながら、入り口と二階に続く階段のところで硝子玉を落とした。


 階段を上ると、正面に廊下が伸びていた。手前と奥に部屋が二つあり、少年は奥の部屋に向かう。

 扉を開ける前に、もうひとつ硝子玉を落とす。手の中に硝子玉はひとつだけ残っていた。

「おい、連れてきたぞ」

 声をかけながら、中に入る。

 そこは会議室のようだった。机と椅子がいくつもあるけど、今は奥に押しやられて部屋を広く感じさせる。それとも、三人しかいないから広く見えるのか。

 こちらを見返すその人物たちと顔を合わせたとき、息が止まるかと思った。

 ――どうして。

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