28日目 最後のお喋りの日
セレンさんとのお茶会は続いていた。
しかし午後はわたしを帰すための紋様を描くので時間が取れないということで、午前中にセレンさんを訪ねた。
慣れ親しんだソファに腰を沈め、向かいのセレンさんに尋ねる。もう最後だから、聞きたいことは聞いておこうと思った。
「吉野くんを帰すつもりはないんですか」
「……初めは、帰すつもりだった」
単刀直入な質問に、苦笑しながら彼女は答えた。
「トシヤを召喚したのは、偶然だった」
セレンさんには、魔術の師匠がいたという。その人はもう何年も前に亡くなっていて、その人の遺産をセレンさんが受け継いだ。怪しい道具だとか、古い書物だとか。
戦争が一段落ついて、彼女は暇に飽かして遺産をいじっていたらしい。古い書物の中の魔術を改変して使ってみたら、たまたま吉野くんが召喚できてしまった。
「召喚の魔術のせいで魔力のほとんどを使ってしまったから、起き上がるのも億劫でわたしは数日部屋に閉じこもっていた。たまに外に出るといつもトシヤが扉の外で待っていた。一度『帰してくれるのか』と聞かれたが、わたしは何も答えなかった」
「どうしてですか?」
「偶然召喚できただけだから、帰し方なんて研究しなければわからない。実験するにも魔力が溜まるのを待たなければならない。魔術を知らなかったトシヤに説明しても理解できないだろうし、その必要もないと思った。面倒だったし」
最後のものぐさな本音が理由の大半を占めていたのではないだろうか、と邪推した。
「召喚して五日後くらいに、わたしの命を奪おうとした者がいた。魔力がないとどこからか聞いたんだろう。そのときもトシヤはわたしの部屋の前にいて、わたしをかばおうとした」
「かばおうとした、って」
「多少回復していたから、魔術は使えた。トシヤがかばう必要はなかったが、結果的にトシヤは怪我を負った。わたしの心象を良くするためにその行動に出たのだろうとしか思わなかった」
彼女には点数稼ぎのように見えたのだろう。吉野くんからすれば帰してもらえるのかわからない状態で、召喚してきたセレンさんを頼るしかないのに、無視されていたから。吉野くんも最初はわたしと同じような状況だったのだろうか。
「次の日も、その次の日もトシヤは扉の前にいた。鬱陶しくなって言ったんだ、『何をしようと無駄だ、無事でいたいなら部屋に寄るな』と。トシヤは『無駄じゃなかった』と言った。話をしたいからずっと待っていた、と。わたしが部屋にこもっていたのを、話をする暇もないほど忙しいからだと思っていたらしい。邪魔をしないように部屋の外で待っていた。何日も、怪我をしても、無視をされてもずっと」
懐かしむように、セレンさんの顔に笑みが浮かぶ。
「お前はものを知らない、と師にいつも言われていた。本ではなく人から学べ、と。トシヤは愚かで非合理的だ。わたしをかばおうとしたのも、身体が勝手に動いたからだと言った。打算なしに、力がないくせにそんな行動に出る。不可解だと思った。師が言っていた、わたしが知らないことだと思った。
トシヤは他の人間みたいにわたしから遠ざかることはなかった。職務でいたわけでもなかった。もちろん帰りたいという思いはあっただろうが、胡麻をすることもなかった。
愚直な優しさを、わたしは知らなかった。わたしに欠けていたことを、初めて知った。わたしはトシヤのようになりたいとも、なろうとも思わなかったが、失ってはならない――かけがえのないものだと思うようになった」
セレンさんの周りには人がいない。何度も感じたそれは、事実だったのだろう。
吉野くんは甘すぎるくらい人に優しい。セレンさんが吉野くんから受けた衝撃は、優しさを知らなかったぶん大きいように思えた。
「トシヤを帰す魔術ができても、踏ん切りがつかなかった。自分の半身のように、離れるなんて考えられなかった。でもまた戦争の気運が高まってきて、もしトシヤが命を落としたら、と考えた。想像するだけで堪えられなかった。命だけでなく、心も守らなければ意味がないとも思った。
トシヤはずっと帰りたがっていた。このまま留め置いていたら、身体は無事でも中身が損なわれるかもしれない。だから、一度だけ帰そうと思った」
一度帰って、心の準備をしておけということか。情勢が落ち着くまで逃す意図もあったのだろうけど。
「わたしはトシヤのようにはなれない。自分のしたいようにしてしまう。トシヤが望まなくても、召喚したように。困ったように笑うトシヤに、甘えてしまう」
吉野くんは拒まない。拒めない性格なのだろう。セレンさん自身もそこに惹かれていながら、罪悪感も感じているようにみえた。
いつだったか、キアスさんにセレンさんは玩具に対する執着をしているのではないかと聞かれたことがある。今聞かれても違うと言える。
セレンさんなりに、考えている。強く出きれない吉野くんだってわかっているのかもしれない。諦めたように笑った顔が、脳裏に過ぎる。
「二年近く、召喚せずに待っていたって聞きましたけど。その間も気持ちに変化はありませんでしたか」
「……そう、だな。待つと約束した二年、一日を何度も繰り返しているような心地だった。前よりは人と接するようにもしてみたが」
「……人と接するようにしてみたんですか?」
今の状態から考えて、どのように努力したのだろうと思ってしまった。疑うわけじゃないけど、人を遠ざけているような気がしたし。初めて会ったときは無視されたし。
「会話をするようにはした」
そもそも会話をする機会自体、どのくらいあったのか。ひきこもっていたのだろうに。
人が訪ねてきても、それは仕事の話だったろう。雑談していたわけでもあるまい。
「もっと積極的にいくべきですよ。待ってるだけじゃだめです。自分から会いにいったりしないと」
「誰に会いにいけばいい」
友達に、と言いかけた。いるのだろうか。いない気がする。
友達以外なら、家族なんだろうけど。普通の家とは違うのだろうし、建国祭で見た限りすごくよそよそしかった。
「イアリカ様とは、会うことはないんですか」
イアリカ様はセレンさんのことを嫌っているようだったけど、セレンさんに対して悪意は見せていなかった気がする。話す機会はありそうだけど。
「顔を合わせる機会は何度か会ったが、母がイアリカと話すのを嫌がった。ろくに口を利いていない。わたしを産んで、魔力を失った話は聞いた?」
「……はい」
「母はわたしを憎んでいる。昔、お前さえ生まれてこなければ、とかわざわざ言いにきたことがあった。正妃の地位に着けたのは魔力量が多かったからで、魔力を失って権威も失墜したから」
セレンさんは平然とした顔でいう。なんとも思ってないみたいに。眉が寄るのが、自分でもわかる。
「……そんな顔をするな。トシヤもこの話をしたら、似たような顔をした」
「だって」
「『寂しい話だ』、と言われたが。よくわからない」
セレンさんにとって当たり前になっていることが、悲しい。寂しいことが寂しいと思えない。冷たい言葉を投げられても、最初から温もりを知らなければ冷たいと思わない。
手を伸ばして、彼女の手を握った。
「……実を言うと、クルミも帰したくない」
「え」
「クルミと過ごした時間は楽しかった。学ぶこともあった。ここにいてほしいと思うが、それはクルミにはつらいことなのだろう。これ以上留めていたら、もっとクルミを帰したくなくなるし、クルミももっとつらくなるだろう。だから、明日帰す」
「……セレンさん」
思わず席を立っていた。きょとんとするセレンさんのそばまで行って、抱きしめる。
力を入れたら折れてしまいそうなくらい細い。強張った身体は、微動だにしない。
「セレンさんに会えたことは、うれしいことです」
彼女の身体から、強張りがとけていく。それがうれしくて、寂しくもあった。




