26日目 歩き回った日
休日といっても、することはない。
屋敷の仕事をうば――わけてもらい、わたしは庭の草木に水をやっていた。桶に水を溜め、柄杓のようなもので撒いていく。
じっとしていると考えてしまう。
もうすぐ帰れること。ずっと望んでいたことで、うれしくないわけがない。けど、吉野くんを置いて行ってしまうこと、ヨームさんやセレンさんたちともう会えないことが、どこかでひっかかってしまう。
吉野くんと一緒に帰れるまで待とうか、考えた。でも、ここにいればいるほど帰りにくくなってしまう。
突然こちらに来て最初はどうなることかと思ったけど、いつの間にか親しみを覚えるようになっていた。離れ難いと思うくらいには。
しかし、どちらかしか選べない。十九年過ごしてきた世界を捨てることの方が、やはりできない。
悶々として、柄杓を水に突っ込んだ。勢いよく撒こうとして、「そんなことまでしなくて結構ですよ」手元が狂い、声のした方まで水が飛んだ。
わたしの隣には、ヨームさんが立っていた。袖口に水がかかっている。
「あああっ! ごめんなさい、大丈夫ですか」
拭くものを探すけど、何も持ってなかった。
慌てるわたしを尻目に、ヨームさんは平然としている。
「これくらい平気です」
「ごめんなさい……」
水だから、害はないけど。気が散ってしまっていた。
「好きに過ごして良いんですよ」
休日だから、水遣りなんてしなくて良いと言ってくれているのだろう。でも。
「……どう過ごせば良いのでしょうか」
日本だったら、友達と遊んだり、買い物をしたり、小説を読んだり、撮り溜めたドラマをみたりしていた。ここでは同じようには過ごせない。
ゆっくりしようにも、時間があると考えすぎてしまうし。
「もしよろしければ、街に出ましょうか」
突然、ヨームさんがそう提案した。
昼過ぎ、街中を歩いていた。
特に目的地はなかったけど、歩き回るのは好きだ。街並みが見られるし、賑わいを見ているだけで楽しいし。高さのある帽子を被っている人が多くて、あれが流行っているのかとか見ているのも面白い。
屋敷の近くは高級なお店が多く道も大きい。歩道と馬車が通る道と、線で分かれている。
見覚えのある通りに入った気がして、立ち止まってあたりを見回した。人の流れがあるので、遮らないよう脇に逃れる。いつだったか買い物に来たお店がある通りだった。少し先にそのお店がある。
「クルミ様」
立ち止まっていたのは数秒だけど、わずかに前を歩いていたヨームさんはすぐ気づいて振り返る。
「すみません、見覚えのある通りだと思って」
ヨームさんに駆け寄ろうとしたとき、強い風が吹いた。わたしの横にいた女の子の帽子が飛ぶ。
とっさに手を伸ばしたけど、届かない。でも風は一瞬で、帽子はわたしの目の前で地面に落ちていく。慌てて追いかけて、地面に着く前に捕まえた。
ほっとしたのも束の間、外れるかと思うほど勢いよく腕を後ろに引っ張られた。強い力に引かれるまま上半身がのけぞって、足がもつれる。
「え――」
言葉にならない声が出たとき、目の前を馬車が駆け抜けた。背筋が寒くなる。さっきまで立っていた場所だ。
後ろに倒れて、地面に尻餅をついた。地面についた手は、歩道と車道の境の上。帽子を追いかけて、馬車が通る道まで飛び出してしまっていたらしい。
「無事ですか」
斜め後ろに、地面に膝をついたヨームさんがいた。険しい顔の彼に、こくりと頷く。
――危なかった。
帽子を女の子に渡して、言われたお礼にひきつった笑顔を返したあと。
「ありがとうございました。すみませんでした」
人込みを避けるように壁際に寄って、頭を下げる。ヨームさんが引っ張ってくれなければ怪我をしていた。……怪我で済んでいただろうか。
「寿命が縮むかと思いました」
小言をもらったのは初めてかもしれない。ばつが悪くてうつむいた顔を上げられない。
不意に、手を掴まれた。手のひらを上に向けられる。
「擦ってはいませんか」
尻餅をついて、地面に手をついたからだろう。転んだわけじゃないから、赤くすらなっていない。
「大丈夫です」
掴まれた両手を引き抜こうとするけど、できない。
思いのほか衝撃を受けていたようで、手の震えが収まらない。気づかれないうちに手を離してもらおうと思ったのに、手に力が入らない。
強い力で掴んでいるわけではないものの、ヨームさんに手を離す気配はなかった。何も言わないけど、震えに気づかれているのかもしれない。
気恥ずかしいけど、触れていると安心する。
「腕は?」
「大丈夫です」
思い切り引っ張られたから、腕の心配もされているらしい。
話している最中も、手は繋がれたままだった。冷えた指先が温められて、徐々に震えがおさまっていく。
「あら、ヨーム様! お久しぶりです」
わたしの後ろから誰かの声が響き、ヨームさんはぱっと手を離した。
振り返ると、前に服を買ったお店の前に人が立っていた。接客してくれた店員さんが、愛想の良い笑顔をこちらに向けている。
「そちらのお嬢様も、お久しぶりです」
「こんにちは」
「あら、もう言葉が通じるんですか?」
「魔術をかけてもらったので」
「まあ、魔術でそんなこともできるんですね!」
店員さんはまじまじとわたしを見たかと思うと、おもむろに近寄ってきた。
「ちょっとこちらにいらしてください」
わたしは全身鏡の前に立たされていた。ヨームさんは少し離れたところで、座ってお茶を飲んでいる。
「帽子があると良いと思うんですよね。当店では服だけじゃなく帽子も扱っているんですよ」
そう話しかけながら、いくつか帽子を見繕ってくる店員さん。買うなんて言ってないのに、押しが強い。
「わたし、ヨーム様のお屋敷で働いていたんですよ。お金を貯めながら服飾の勉強をしていて。実際にお店で働きながら勉強していく方が良いんですけど、一流のお店だと身分がちゃんとしていないと働けないんです。でもヨーム様が紹介状を書いてくださって、なんとかここで働かせてもらえるようになって」
ヨームさんに聞こえないように、声を小さくして彼女は微笑む。
「無表情ですけど、優しい方なんです」
「それは、わたしもわかります。わたしも助けてもらいましたから」
ヨームさんがいなかったら、どうなっていただろう。ひとりでこの世界に放り出されてしまったら、早々に心が折れてしまっていたと思う。
「さっきお見かけしたとき、おふたりの雰囲気が前と違っていてうれしかったんです」
その言葉に、心臓が跳ねる。
わたしは背中を向けていたし、何も言われなかったから、手が繋がっていたことは知られていないはず。
どんな雰囲気だったというのだろう。しばらく一緒に過ごしていたのだから、雰囲気は変わるものなのかもしれないけど。
「お互いに心を開いているというか。そんな人が現れてくれればいいと、ずっと願っていましたから」
そんな人、って。
親しくはなっても、わたしはただの居候でしかない。
「……わたしはもうすぐ、帰るので」
もういなくなる人間だ。
もう二度と、会うこともない。話すことも触れることもない。記憶は薄れていくし、いつか忘れて、忘れられる。さっき触れていた手の温もりも、きっと忘れてしまう。
帰ってしまえば、こちらの世界になじんだように、少し離れていたもとの世界の日常にすぐ溶け込むだろう。ヨームさんたちだってきっとすぐ日常に戻る。わたしなんて初めからいなかったみたいに。
店員さんは手を止めた。
「他国から亡命して、ヨーム様が保護していらっしゃると聞きました。帰る場所が見つかったんですね」
どういう設定だ。ヨームさんが前回会ったときにそういう話をしたのだろうか。
気遣わしげな目で見られて、肩身が狭い。なんだろう、この罪悪感。
「ヨーム様、昔はよく笑う活発な子どもだったんですよ。でも、奥様――ヨーム様のお母様がやることなすこと不愉快だとおっしゃって、魔術師のご長男ばかりかわいがって……。ヨーム様は笑わないどころか、凍りついたような雰囲気になって」
少しだけ、聞いたことがある。もう亡くなったヨームさんの家族の話。お兄さんが魔術師だったというのは初耳だ。
「帰れるのが、一番ですものね。わたしの願望を押し付けるつもりはないんです。ただ、変わったということはお伝えしたくて」
伝えられても、どうすればよいのか。
口をつぐんでいると、店員さんは帽子を乗せてきた。帽子の山の部分が高く、つばが急斜面で短い。フェルトみたいな生地の、黒い帽子。
「この帽子が一番良いですね。お代は結構です、贈らせてください」
「え」
そもそも、引っ張られるまま入っただけで、帽子を買うつもりはなかったけど。勧められたら断るつもりだったし。
「前回お店に来ていただいたとき、おすすめするままたくさん買っていただきましたから。家に帰ってから、調子に乗ってしまったと反省したんですよ」
あっけらかんと笑う。たしかに買いすぎだとは思った。
「で、でも、わたしはもうすぐ帰るので」
「どんな服装にも合うと思いますよ。かぶっていけば荷物にもなりませんし」
異世界には持っていけない気がする。
「それに、お話を聞いていただいたお礼も兼ねて。困らせてしまいましたから」
お店を出るとき、ヨームさんは代金を払おうとした。店員さんはそれを決して受け取らず、帽子を返そうとしても首を横に振るだけだった。
「またおふたりでいらしてくださいね」
彼女はそう言って、店の外まで見送ってくれた。
視界いっぱいに広がるのは、乳白色の砂浜、深い青色の海、晴れ渡った空。
「わー!」
海。記憶にあるものと変わらない、どころかそれよりも綺麗な気がする。
特に行く宛てもなくふらついているというと、店員さんは海に行ったらどうか、と提案してくれた。
冬だから、人はほとんどいない。風もあるし寒いけど、海を見て気分が上がった。海が遠いところに住んでいて、あまり見たことがなかったから。
「ヨームさん、海ですよ海!」
「そうですね」
ヨームさんはいつもと変わらない。いや、ちょっと呆れられているような気がする。
ざくざくと砂浜を歩いていく。
土の感触とはまた違って、歩きにくい。砂浜に足を取られる感覚も面白くて、小走りでヨームさんを追い抜かす。
「危ないで――」
すよ、と続く前に、転んだ。膝と手が砂浜についたくらいで、そんなに派手には転んでいない。
「あはは」
転んだのなんていつぶりだろう。つい笑ってしまう。帽子を落とさなくて良かった。
手の砂を払っていると、ヨームさんはわたしの前に来て手を差し出した。
「大丈夫ですか」
「ありがとうございます」
手を掴んで、立ち上がる。硬い、大きな手のひらだった。さっきは手の震えを押さえることで頭が一杯で余計なことは考えられなかったけど、年上の異性なのだと実感する。なんだか気恥ずかしい。
ヨームさんはいつも落ち着いている。表情があまり変わらないし、少なくともわたしにはそう見える。
でも、人一倍気を配っているとも思う。さっきのことだけじゃなく、何回も助けてもらったし。
「……ありがとうございます」
手を離して膝の砂も払ってから、もう一度告げる。
「ヨームさんには、感謝してもしきれないです。こちらに来てからずっとお世話になりっぱなしで」
「そんなことは」
「ヨームさんがいなかったら、今こうしてのんきに笑ってなんかいられなかったと思います」
お店でも、改めてそう思った。
見上げると、ヨームさんは静かに見返してくる。
「ずっと考えていたんです、わたしに何ができるのか。でも、わからなくて」
あと数日しかない。今までもらってばかりで、何一つ返せていない気がする。どうしたら、喜んでもらえるだろう。
「あなたが来てから、とても賑やかになりました」
「……騒がしくして、ごめんなさい」
「居心地の良い空間を、もらいました。それだけで十分です」
ヨームさんは、わずかに目を細めた。笑顔まではいかないけど、いつもより和らいだ表情。そんな表情が見られるようになったのは、ただ親しくなったからかもしれないけど。
この人が、凍りついていたというのなら。すこしでも溶けて、それがわたしのせいでもあるというのなら。
どうしようもなく、うれしいと思った。
わたしはもうすぐいなくなる。いなくなってもヨームさんの日常は変わらない。でも、少しでも何かできたのなら、巻き込まれて来たことも無駄じゃないと思えた。
いつか、忘れられてしまうとしても。
「あの場にいたのがヨームさんで――ヨームさんに会えて、良かったです。たくさんご迷惑をおかけしましたけど。居心地の良い空間をもらったのはわたしの方です」
照れくさいのをごまかすように、下を向いて笑う。
ただ保護してもらっただけでも、ただ助けてもらっただけでもない。魔術院に行くことも、建国祭を覗くことも許してくれた。ちゃんとひとりの人として、わたしの意志も尊重してもらっていた。
逸らしていた視線を向けると、ヨームさんはわたしをじっと見つめていた。眉間に少し力が入った、真剣な眼差し。そして、躊躇いがちに口を開く。
「わたしは――」
そのとき、突風が吹いた。
帽子が風に巻き上げられてしまう。
風はすぐにやみ、帽子はそう遠くない砂浜の上に落ちた。慌てて駆け寄り、拾い上げる。
帽子についた砂を払っていると、砂浜にできたわたしの影にもうひとつ影が並んだ。
「もう、帰りましょうか」
日が暮れかけて砂浜は茜色に染まっている。ヨームさんの表情は、逆光でよくわからなかった。
「……さっき、何か言いかけてませんでしたか」
「何でもありません」
感情が見えない、硬い声だった。追求する前に彼は歩き出す。
一緒に街を歩いた速度よりずっと早い。振り切ろうとしているみたいだった。さっき言いかけたことも、わたしのことも。
「――置いていかないでください」
気づいたら、そう口走っていた。とっさに背中を追いかけて、袖を掴んで。
そんなに強い力で引いたわけじゃなかったけど、すぐにヨームさんは立ち止まる。
自分の行動が、自分でも理解できなかった。袖を掴んだ手を離しかけたとき、
「置いていくのはわたしではなく――」
責めるような口調。後ろの方は、呟くように小さな声で聞き取れなかった。でも、もしも続く言葉が勘違いでないのなら。
ヨームさんはいつもと変わらずに落ち着いているように見えた。わたしがいなくなってもどうということはないんだと、思ったけど。
表に出さないだけで、何か思ってくれているのなら。
胸の奥が、ぎゅっと狭くなるような感覚がする。
袖から手を離した。躊躇しながら伸ばした指は、彼の指先を掴むことしかできない。
冷えた指に触れたとき、びくりと身体が揺れたのがわかった。
はっと我に返り手を引き戻そうとした。けど、その手はすぐに掴まれる。
わたしよりずっと大きな手に、包まれるように握りこまれている。その手にぐっと力が入った。
「……帰りましょう」
そう告げたきり彼は無言で歩き出す。歩調はゆっくりと、手は繋がったままで。
彼の冷たい指先に、温度が移っていく。わたしが街で温度をわけてもらったように。
今日のことだっていつか忘れてしまう。それでも今はまだ、こうして触れられる。
きつく、手を握り返した。




