1日目 召喚された日
意識を失ってはいなかった、と思う。ぶつかると思ったら、この状態。気づくと、わたしは室内でうつぶせになっていた。教室くらいの広さの、白い空間。床には墨みたいなもので変な模様が描かれている。身体を起こそうとしたら、ぐに、といやな感触がした。
「吉野くん!」
吉野くんを下敷きにしてしまっていたらしい。慌てて飛び起きる。吉野くんはうつぶせで床に倒れていた。意識もある。
「ごめん、大丈夫?」
「だいじょ――」
「トシヤ」
鈴を転がしたような声。背を向けた方から響いた声に、振り返る。
精巧な人形かと思った。烏羽色の腰までの髪に、白い肌。赤みのある唇も、すっと通った鼻筋も、ほっそりした輪郭も、職人が手を尽くしたみたいに整っている。ただ、その漆黒の瞳は力強く吉野くんを射抜いている。たぶんわたしより少し上――二十二歳くらいの女の子。
長い深紫のローブを引きずりそうになりながら吉野くんの前にやってくると、彼女は手を差し伸べた。
「待っていた」
「……セレン」
吉野くんは、困ったように微笑んだ。
知り合い、らしい。この状況も、飲み込めているのだろうか。
「余計なものがついてきたから、消耗が激しいんだ。休もう」
彼女――セレンさんはそう言うと、吉野くんの手を掴む。引きずっていく。まるでわたしは彼女に見えていないかのように、一瞥もされない。ちょっと待て。
「え、あの、ちょっと? 吉野くん!」
「セレン待って!」
吉野くんはわたしを振り返るくせに、彼女の手を振り払わない。置いてけぼりにされるのはご免だ。
「ヨーム、それはお前が好きにしろ。わたしは関知しない」
彼女は扉に手をかけて、振り返らずに告げた。
「承知しました」
壁際にいた、気配を消していた人が返事をする。声を発するまで、存在に気づかなかった。
精悍な顔立ちの、濃紺の軍服らしきものを着た男性。細い剣のようなものを佩いている。二十代半ばくらいなんだろうけど、その表情やきっちり立てた襟、短い黒髪からストイックで落ち着いた印象を受ける。がっしりした体格と百八十センチは優に超える身長も相俟って、硬派な男前といった感じ。
ただ、無表情で近づかれると、少し威圧されるかもしれない。などと観察している間に、吉野くんたちは扉から出て行ってしまった。本当に置いてけぼりをくらった。
「こちらへ」
少し怖いかも、なんて思っても、彼のあとをついていくほかないわけで。
彼の話によると、ここは異世界らしい。しかも魔術がある。セレンさんは、国一番の魔術師だという。そして、彼は彼女の直属の部下だとか。
吉野くんとわたしは彼女の魔術で召喚された。床にあった模様は、魔術の紋様らしい。
真面目な顔で説明されて、冗談だろうと一笑に付すことはできなかった。
「申し訳ありません」
彼は別室に移動してすぐ、謝った。本当は吉野くんだけ召喚するつもりがなぜかわたしも巻き込んでしまった、と。表情は変わらなかったけれど、声は調子が暗かった。たぶん表情が変わらない人なんだろう。
異世界トリップ。しかも巻き込まれて。トリップものの小説はよく読んだな、だいたい恋愛もので、魔法もたまにあったりして――なんて、現実逃避している場合じゃない。
これは現実だ。意識もはっきりしてる、わけがわからないけど。逃避していたって、結局は自分で現実をどうにかしなきゃならない。
「わたしはいつ帰れるんですか」
わずかに、彼は目を瞠った。ポジティブさはわたしの長所だ。神経が図太いと思われてなければいいけど。
「魔力を溜めなければなりません。以前は一ヶ月で溜まったかと」
帰れることが前提の話だ。大丈夫、帰れる。
「一ヶ月は何日ですか」
「二十八日です」
「こちらと、あちらの時間は同じですか」
時間の流れが同じとは限らない。浦島太郎みたいになったら困る。一番良いのは、向こうでまったく時間が経ってないパターンだけど。
「……トシヤ様は今、おいくつですか」
「もうすぐ、二十一歳になるはずです」
吉野くんとは誕生日が近く、その話で盛り上がったことがある。あと二週間くらいで二十一歳になるはずだ。
「トシヤ様は十八歳になる半年ほど前にこちらに召喚されました。それがおよそ三年半前ですから、歳月の経過は同じくらいかと思われます」
向こうでも一ヶ月経つのか。年内には帰れるかな。いや、吉野くんと二人分、だったら二ヶ月かかる? あれ、試験っていつだ。……やめよう、今考えても仕方ない。
とにかく、帰れることに違いはない。
「わかりました。それまでどうすればいいですか」
彼は、意外そうに黒い目を瞬いた。きりりとした眉の印象が和らいで、少し幼く見える。
おかしな質問をしたつもりはないのにな。身の振り方を決めるのは重要だ。
「他に帰る方法があるなら、できることは何でもやりますけど」
「ありません」
「ですよねー」
期待していなかったのでがっかりはしない。していない。
「あなたはわたしの屋敷で保護させていただきます」
保護。絶滅危惧種にでもなったかのようだ。保護というと字面はいいけど実際はどうなのか、と勘ぐりつつも、わたしに拒否権はないのだろうとも思う。他に頼れる人もいないし。
「では、しばらくお世話になります。……ええと」
何と呼ばれていたか。首を傾げると、「ヨームホユンです。ヨームで結構です」と、教えてくれた。
「ヨームさん、ですね。わたし、金重くるみです。カネシゲでもクルミでも、お好きな方どうぞ」
「では、クルミ様。屋敷へ向かいましょう」
スムーズに事が運ぶのは助かるけど、どうも事務的すぎる気がする。面倒そうな素振りも見せずに、仕事に徹している感じがした。
正直、ヨームさんと話してもあんまり異世界の実感はなかった。
セレンさんも、ヨームさんも、黒髪黒目。青髪だったり赤目だったり、いかにもなファンタジー世界の色じゃない。顔立ちも、少し彫りが深いかなと思う程度で、日本人といっても通じるだろう。建物だって調度品だって、洋風だとは感じたけど特に違和感はなかった。
外は夜らしく、月みたいなのがひとつと星も見える。冬が深まる肌寒さは日本で感じたものと変わらない。
変だと思ったのは、馬。ヨームさんの屋敷へは馬車に乗せてもらい、そのときに『馬』を見た。馬と呼んでいたけど、口が小さく顔が長くない。『馬面』という悪口は通じないのだろうな、とぼんやりそんなことを思った。
馬車に乗っていた時間は短かった。
屋敷は、二階建ての洋風の建物だった。白い壁と緑色の窓枠で、二階にはバルコニーがある。建物を囲む塀には奥行きがあって、門から建物まで多少距離があるのに、まだ建物の奥にも庭とかありそうだ。
執事らしきスーツのおじさんと、使用人だろうエプロンを着たお姉さんが出てくる。白髪まじりの中年のおじさんに、ヨームさんが何事か告げる。すると心得たように頷き、今度はおじさんがお姉さんに何か話している。距離があって聞き取れない。
「彼女についていってください」
何をするのだろう。とりあえず、彼女についていけば何をするかわかるだろう。
そんなのんきなことを考えて、わたしは石畳の道を通り、彼女に続いて屋敷の中へ入った。
中は明るかった。電球のようなものがぶらさがっていて、紋様みたいなものも見える。最初にいた部屋の、地面に描かれていたものと似ている。魔術があるといっていたから、魔術なのかもしれない。きょろきょろしてみるけど、他に変わったものはない。
お姉さんは無言で先導している。絨毯を踏みしめるごとに、不安がじわじわにじみ出てきた。
彼女と一言も言葉を交わしていない。警戒されているのかもしれない。まあ、いきなり主がこんな得体の知れない人間連れてきたら警戒するよね。
彼女がエプロンの下に着ているのは、若草色の質素な膝下丈ワンピース。わたしが着ているのは腰までの丈のピーコートに、ストールとショーパン、タイツ、ショートブーツ。セレンさんは全身覆うようなローブだったし、ショーパンとかだめなのかな。慎みがないとか思われるのだろうか。
このお姉さん、歳が近そうで勝手に親近感抱いてたのに。と、わたしが服装に悩み始めたころ、彼女はある部屋の前で止まった。
扉を開けると、その扉を押さえたまま彼女は手を中へ向けた。わたしが入るのを待ってくれているようだった。
「ありがとうございます」
頭を下げながら脇を通り抜けると、会釈が返ってくる。ないがしろにされているわけではないようだ。
扉周り以外には、すのこのようなものが敷き詰められていた。脱ぐのか、と躊躇していると、お姉さんがショートブーツを脱がそうとしてきた。「自分でやりますから!」制して、ショートブーツを脱ぐ。
何となく、じめっとしている。もしかして、と思い、奥のガラス戸を引くと。
「お風呂、ですか」
ここは脱衣所らしい。想像はあたったけど嬉しくない。
つるつるした石材で、浴槽のようなものがある。お湯が溜まっているらしく、むわっとした空気が顔に直撃した。お風呂なら、説明くらいしてくれてもいいじゃないか。ひとの家のお風呂って勇気が要ると思う。
とん、と肩を叩かれる。
お姉さんに向き直ると、ストールを取られた。近くの籠に畳まれる。
「あの、自分でやりますから」
ピーコートのボタンを外そうとしてくる。いや、仕事熱心なのは良いことだけど。
「まさか全部介助するつもりですか……?」
冷や水を浴びたような気分になって、ピーコートを脱がしたお姉さんから距離をとる。困った顔をされても譲れない。
「お風呂ならちゃんと入りますから! ちょっと外で待ってもらえませんか」
彼女は、動かない。
「すぐ出ますから!」
まるで聞こえないみたいに。一気に不安になる。無視されているのだろうか。
彼女は口を開いた。ああ、大丈夫だと思ったのも束の間。
「――――」
何を言っているのか、わからなかった。聞こえるけど、理解できる言語じゃない。
――当たり前だ、ここは日本じゃない。わたしの知っている世界じゃない。
唐突に理解した。足の力が抜けそうになる。傾いだ身体に、相手の手が伸びてくる。それが怖かった。得体が知れない。その手も、この場所も、なにもかも。
手から逃れて、脱衣所を出た。何か叫ばれる。もちろん何を言っているかなんてわからない。声に追い立てられるように、わたしは走り続けた。
とにかく外に出たくて、来た方角に向かう。扉や角から他の人が出てくるんじゃないかという焦りが、わたしの足を動かした。そうしてなんとか玄関を出て、近くの木の陰に隠れた。
膝を抱えて、顔を埋める。身体を小さく縮めて、このまま消えてしまえればいいのにと思った。
なぜこんな場所にいなければいけないのだろう。どこかもわからない、言葉もわからない場所にひとりで。
「かえり、たい」
声が震えた。自分でも驚くほど、弱々しい声。
情けない声だ。そんな風に弱音を吐いたって、どうにもならない。
タイツで走っていたせいで、足の裏が痛かった。冬の夜風が薄着の身体に鳥肌をたてさせた。おかげで、頭が冷えた。
「帰る、絶対」
ぱん、と頬を叩く。にじむ視界を瞬きでごまかす。
大丈夫、帰れる。弱気になったらだめだ。帰れないなんて言われてないんだから、どんなことをしてでも帰る。
今は戻って、お姉さんに謝らなければ。立ち直り、顔をあげると、
「ヨーム、さん」
ヨームさんが、そこにいた。
彼は、しゃがんで視線を合わせる。そして、頭を下げた。
「申し訳ありません。配慮に欠けていました。使用人と言葉が通じないことを、失念していました」
そういえば、ヨームさんには通じている。あと、セレンさんにも。セレンさんとは会話にならなかったけど。
「以前トシヤ様を召喚した歳、セレン様により日本語を理解できるようわたしは魔術をかけられています」
魔術。そんなに便利なものなら、わたしにもかけてほしいと思った。けど、安全面は大丈夫なのだろうか。副作用とか。
そんなことを考えている間も、ヨームさんは申し訳なさそうに目を伏せている。
「セレン様は大変気まぐれなお方ですから、わたしの使用人に術をかけていただけるかはわかりません。ご不便をおかけしますが」
「いえ、こちらこそすみません、取り乱して」
ヨームさんが謝ることじゃないのに、と思う。彼はわたしの面倒を押し付けられた立場なわけで、別に謝る必要なんかなくて。押し付けられたというか『好きにしろ』だから、面倒をみてもらえるだけありがたいんじゃないだろうか。
「わたしにできることは何でもいたします。遠慮なくお申し付けください」
無表情で、馬鹿がつきそうなほど真面目に言われる。望みは早く帰ることだけど、言っても仕方ない。何もありません、と言いかけて。
「あの、お風呂は、ひとりで入らせてください」
今の望みはそれだけだった。