21日目 屋敷にいた日
ヨームさんはお休みらしく、今日は魔術院には行かない。
わたしは部屋で頭を悩ませた。日本に戻る前に、お世話になった人たちにお礼をしておかなければと思った。ヨームさんには散々お世話になってるし、イヨさんには服を借りたし、厨房の方々にはケーキ作りを手伝ってもらった。基本的に屋敷の皆さんには日々お世話になっている。
何をすればいいのか。一文なしだし。
ううと唸った末、厨房に足を向けた。
クッキーなら簡単に作れるはずだと思った。
お菓子作りに適した薄力粉っぽいものはわかっているし。卵も、バターみたいなものもあるし。
昼食の片付けが終わってから、厨房を間借りさせてもらった。厨房には香ばしい匂いが漂っている。匂いだけならおいしそうなんだけど。
「か、硬い……」
クッキー試作一号は失敗に終わった。歯が折れそうだ。何かに浸したりしないと、そのままでは食べにくいだろう。甘みも足りない気がする。材料が違うから、レシピは覚えていても分量の調整が難しい。
「まあ、一応このままでも食べられますけど」
板前風のおじさん――厨房の主がクッキーもどきを口に放り込む。ばきばきとクッキーではなさそうな咀嚼音がする。歯は大丈夫だろうか。
吉野くんの誕生日ケーキを作ったとき、厨房の人とも仲良くなった。というか、手伝ってもらった。洋菓子系にはなじみがないようだったけど、食材を知っているからアドバイスをくれたりする。
クッキーなら置いてある食材で作れるし、お礼になる。ヨームさんだけじゃなく、他の屋敷の人にも渡せるし。と、思ったんだけど。
「よし、じゃあ分量変えて作ってみましょうか」
見習いらしき若いお兄さんが意気込む。今回もなぜかすごく協力してくれる。珍しいからだろうか。
一応彼らへのお礼も兼ねているのに、手伝ってもらっていいのだろうか。そんなことを言い出したら、厨房も食材も借りている立場なわけで、お礼になってないのかもしれないけど。
まあ、楽しんでもらえてるみたいだから良いか。
お菓子作りの何が良いかというと、ひたすら無心で作り続けられることである。生地をこねるのはストレス発散になるし、疲れたらできたお菓子を食べて休憩にすれば良い。
生地を伸ばし、型がないからナイフで切り分けていく。星にしたり、ハートにしたり。残っているのは拳大の生地だけで、他は焼き終えてしまった。手伝ってくれていた人たちにも休んでもらい、ひとりで黙々と作業をする。
「楽しそうですね」
ひょっこり、後ろから覗きこまれる。
「ヨームさん!」
焼かれるのを待つ生地を眺めるヨームさん。
ヨームさんには、作り終わってから綺麗なものを選んで持っていこうかと思っていた。しかしできたても美味しいんだよね、と考えて、焼きあがったばかりのクッキーの皿を差し出す。
「これ、食べてみてください」
甘さ控えめのクッキーたちだ。
吉野くんの誕生日ケーキを全部食べてくれたけど苦手そうだったから、ほんのり甘い程度に抑えてある。硬さも調整済み。
種類は白、茶色、黄色がある。プレーン、茶葉入り、果物入りだ。ヨームさんは黄色を取る。
「おいしいです」
「甘すぎないですか?」
「丁度良いです」
今度は白のプレーンを取る。無理をしている様子もないし、本当に丁度良い甘さにできたのだろう。作ったものを食べてもらえるのはうれしい。
「またプレゼントですか?」
「みなさんにお礼にと思って。お世話になりましたから」
ああ、とヨームさんは察して、目を伏せる。
過去形で言うのは気が早い。けど、これはけじめみたいなもので。できるうちにできることを、帰れることが前提でいたいと思った。
本当はヨームさんには別に何か用意したい。
でも、これで良かったのかもしれないとも思う。お菓子だったら、食べておしまい。わたしがいなくなったあとも残り続けることはない。
降った沈黙に手持ち無沙汰になり、クッキーの大皿をヨームさんに渡し、調理台を向いて作業に戻る。
「屋敷から出ていくつもりですか」
不意に言われて、手を止める。
「セレン様に、言われました。あなたが、自分は不利益を被らせているのではないかと気にしていると」
セレンさん、ヨームさんに言ったのか。少し意外だ。
「また、屋敷から出て行こうと考えているのですか」
もしかして。
「今のうちにお礼をしておこうと思っただけで、出て行こうと考えているわけではないですよ?」
振り返って告げると、ヨームさんが目を見開いた。
今すぐ屋敷を出るからお礼をしようとしていると思ったのだろうか。たしかに気が早いお礼だと、自分でも思ったけど。
「むしろ、逆です。わたしはずっとお屋敷にいた方が良いのかと思って。キアスさんから忠告してもらったりしましたし」
実際にイアリカ様に利用されそうにもなった。
イアリカ様に会ったことは隠している。訓練場を覗いていたのがばれてしまうし。
「キアスから何を聞きました」
「軍と魔術院の関係とか、召喚された人間の利用価値とかです。……わたし、何も知ろうとせずにわがままばかり言ってしまって」
「いえ、お知らせしなくとも問題はないと――ないようにしようと、考えていましたから。ですから、あなたは好きなように過ごしてください。屋敷にこもる必要はありません。ただ、目の届く範囲にいてくだされば」
「知らない人について行ったりしないですよ? ひとりでも大丈夫です。子どもじゃないんですから」
ナダンさんにも簡単にそそのかされるつもりはないし、他の人にだって利用されるつもりもない。ヨームさんに見守ってもらわなくとも大丈夫だ。たぶん。
「子ども扱いしているわけではありません」
そう言ったヨームさんが、一歩近づいた。もともとそんなに距離があったわけじゃないから、少し手を伸ばせば届く距離になる。
近すぎる。あとずさると、腰が調理台にぶつかった。思わず台の上に手をつく。彼は身を屈めて、その横に大皿を置いた。囲まれた、ような。
「力ずくという方法もあります」
頭上から低い声が降る。
身動きが、できない。身をすくめてうつむいた。
不意に、彼の手が頬に伸びてきた。顔を上向かされ、親指で頬をなぞられる。
一度、ぎゅっと目をつぶってしまう。頭の中が真っ白だ。
まぶたを開けて視線を上げると、一瞬だけ目が合った。
「粉が、ついていました」
顔を逸らして、彼は一歩離れる。
「……用心はしておいてください」
そう言い置いて、厨房から出て行く背中を呆然と見ていた。
ごしごしと手の甲で頬をこすると、甲がうっすら白い。ぼんやりそれを眺めていた。やがて、思考力が戻ってくる。
「え?」
誰もいない厨房にわたしの声が響く。
頭が働き出しても、さっぱりわけがわからなかった。ただ猛烈に恥ずかしいだけで。




