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電車が嫌いな理由【短編】

作者: 真野英二

 昔からそうだったのだけれど、最近とみに激しくなってきたのが電車嫌いだ。

 この頃、片野田は電車に乗るたび必ずと言っていいほど、同伴する友人に同じようなことを言われる。

 曰く、顔にけんが出る、そうだ。

 確かに心当たりはある。

 今まで電車に乗りたがらなかったのは主にうっとうしいからだった。

 混みあう電車に乗りあわせて、人々と押し合いへしあいするのはどうも「生存淘汰」という言葉を思い出してうんざりしたし、雨の日なども蒸した車内で身も心もカビてしまいそうになるよりは、バイクに乗って濡れネズミになっていたほうがまだましだと思っていたのだ。


 でも最近は少し違う。

 電車を嫌いなのは変わらないけれど、嫌いな理由が少し変わって来た。

 きっかけは彼女の失踪だ、と片野田は思う。



     ☆



 事故で身ふたつになったバイクをジャンク屋に叩き売った金、事故の保険金と悲しくなるほど少ない貯金――貯金と言えるほどかどうか――を併せて、喉から手が出るほど欲しかったモデルを手に入れたまではよかったが、出たばかりの新型ネイキッドモデルは、当然のことながら、安いわけがなかった。何かしらバイトをしなければならぬ羽目に陥るのは当然のことだったのだ。

 わかってはいても手が出てしまう、バイク乗りの悲しい性をかみしめつつ、片野田がバイト探しに精を出していたのは、もう半年も前のこと、夏休みの話になる。


 片野田としては、できればバイクショップか何かで働きたかったのだけれど、専門的な技術を持っていない人間をショップが雇う必然性もない。

 とりあえずそれは諦めて、なるべく高額が得られる肉体労働をすることにしたのだ。

 幸い、友人の親が奉職している役所が豪勢な新庁舎を立て――屋上にはヘリポートがついてるんだそうだ。誰が使うのかは誰も知らない――移転に先だって三週間ほどブルーカラーを募集するという口があって、金がいいことともぐりこみやすいこととで、そこで働くことにしたのだった。


 一日目が終わったところで早くも片野田は後悔した。

 役所の引っ越しは大変な肉体労働だった。とにかく量が多いのだ。

 片野田にだってそれなりに心づもりはあった。机、椅子に始まってロッカー、ソファー、本棚、ファックス、PC、業務に必要な種々雑多な道具、花瓶に茶碗、何に使うか知れないプラスティックボード、なぜあるのか誰もわからないベビーベッド、その他もろもろ、そういうものを運んでいくのは大して苦ではなかった。

 引っ越しともなれば何から何まで運ぶ羽目になるのは分かっていたし、そもそも、肉体労働は何も考えずに機械的に動いていればいいから、もともと嫌いな方ではないのだ。


 だが、問題はその書類の多さだった。

 庁舎の裏側の倉庫に連れて行かれ、巨大な書類の山を見て、片野田は正直言ってめまいがした。底辺が四十メートルと三十メートル、頂上まで十五メートルくらいのピラミッドを想像してくれれば話は早い。

 呆然としている片野田に向かって、案内してくれた地域産業政策助成振興課(長い名称だ)の武中課長がのんびりと曰く「いやあ、整理がなかなか出来なくてねえ」。

 片野田はその余りの他人事、といった風情にため息をついた。


 そりゃ、あんたには無理だろうね、まったく。

 自分の家の近くにある、雨になると溢れるマンホールがいつまでたっても改善されないのもこのたぐいのやからのせいなのだろう。

 火事になったら大変だよねえ、と呑気のんきに言う彼を横目で見て、片野田は彼のズボンに火をつけてやりたくなったものだ。


 夏の盛りの倉庫の中は、暑かった。室内温度は四十五度にも達していた。

 片野田と他のバイトの三人は無駄口をたたく気力もすぐに失い、ただもう黙々と書類を束ね、台車に積み上げ、新庁舎に運んで行った。

 他の職員にさきがけて、データ管理の専門職だけは既に新庁舎に移って来ていて、そこで主に書類整理をしていた。

 片野田たちは、彼らの指示に従って、その書類の山を冷房のきいたシステムルームと地下の倉庫に分別して運び込むわけだが、それにしても全面ガラスに遮られたシステムルームの中で、談笑しながらデータの打ち込みをしているホワイトカラーの姿は余り気持ちのいいものではなかった。


 ――採光を良くするために大きくとった窓、ベージュで統一された室内、汚れもなく、塗料の匂いが漂う「居住性抜群」の無表情なインテリジェントビル。

 誰もがそこでは有能で好感のもてる人物として存在していて、虚構のフラッシュで焼き付けられた影絵のような、そうだ、何より彼らには匂いがしなかった。抗菌グッズが彼らの周りを取り囲み、整髪料は無香、体臭は消臭スーツで消し、口臭さえもがない。あるのはただ人工的なミントとラベンダーの香りだけだ。

 まるでここ以外では存在していないかのような、いや、むしろここ以外では存在したくないのかもしれない。

 気に入らないヤツに対する少しの陰口と気に入ったヤツとの少しの酒、昨日と少しだけ違う仕事に少しだけの慰みを得て、脅かすものも侵略してくるものもない培養空間では、彼らは常に王様でいられるのだ。

 「万全」の構えを敷いた脆弱な王国。


 だが、安全であるはずもない。

 もとより裸の王様に過ぎないのだ。

 それでも、たとえそれがよくわかっていても、楽園を出ていこうとする人間はいない。

 ――動かない人間たち。

 片野田が彼らと相対するとき落ち着かない気分になるのは、主にそういう理由だった。

 だが所詮それは片野田の勝手な思い込みに過ぎない。

 動かない人間が悪いわけもなく、むしろ「動きたがっている」自分がおかしいのだろう。少しばかり異常なのかもしれない。多分そうなのだろう。

 だがやはり、自分の場所を動こうと試みることもない人間――自分の体が動くことを知らず、座ったまま何もかも手に入れようとする人間を片野田は好きになれそうもない。更新を続けようとしない姿には、外見のこぎれいさに反してもはや腐臭しかかぎとることはできない。

 ここを自分の場所と思い込んで事足れりとする、その想像力の貧困さに一片の同情も注ぐ気にはなれないのだ。


 片野田は頭を振って意識を現実に引き戻す。

 そんなことを考えているヒマがあったら、書類を束ねていたほうがずっとましだろう、と倉庫に戻ろうとする。台車を引いて新庁舎のエレベーターを出て、現在の庁舎の横を通り、近道の通用口を通ろうとした所で、ふと左を見ると、そこに神田さんがいた。

 片野田が神田さんを見るのはそれが初めてだった。



     ☆



 片野田が住んでいるところは、JRの川崎駅から歩いて六分程のアパート密集地帯だ。

 もちろん六分というのは不動産屋の売り文句であって、実際には十分以上かかる。パレードをしている屋根の上を歩いて直線距離を取れば六分くらいかもしれない。

 いくつかの候補地の中からここに決めたのは、安いという単純な理由と川を渡るからという少し奇妙な理由からだった。

 片野田は電車が川を渡る時が好きだった。

 ウォークマンだったり美容体操だったり、人によってそのための媒介は違っているものだが、自分の中の空洞を白昼夢の形にして覗くには、片野田の場合、電車の擦過音と轟音がなかなかに有効だったのだ。


 電車が川にさしかかる手前のひと際低く大きな音と、電車が川に出る一瞬、音が消えるように広がっていく、そして眼前の光景が突如開けて光る海が見える、その全てホワイトアウトしていくような感覚が、自分の中に沈潜ちんせんするための交霊術だった。

 やがてレールを走る音は可聴域に、露光オーバーの視野も補正がきいて安定したレベルに戻って来る。

 片野田の脊椎せきついを貫いた熱い振動はみぞおちに留まり、自分の眼がゆっくりと焦点を結ぶのがわかる。さっきまでのふるぼけた外界は、鮮やかな色彩に塗り替えられて眼に飛び込んでくる。

 やがて川を過ぎ、線路に沿った道路、歩く人々と彼らの住む家並みが見えて来る。

 そんな時、片野田の意識に昇ってくるのは、冬の朝の空気を吸い込んだような清冽さと、そしてなぜかあの遥かに見えるぼやけた河口に、それに続く人々の暮らしのリズムに感じる無性なまでの郷愁だった。

 それは片野田を支え勇気づけて止まない、何か力強く、全身で受け止めるべきものに思えた。


 ――わたしはここにいる、あなたはそこにいる、わたしは知っている――


 電車は嫌いだったが、ある程度乗らなくてはならないのならば、せめて川を渡る所に住もう、とそんなわけで、片野田は大学には少し遠いこんな場所に住むことになっていた。


 忘れもしない、初めて神田さんと一緒に帰った時だった。

 夕暮れ電車の中、どんなわけで彼女に川を渡る音を話すことになったのかはもう憶えてはいないのだけれど、彼女は片野田の話が終わると、視線を窓の外に転じてしばらく考え込んでいた。片野田が少し居心地が悪くなるくらいの時間そうして黙っていたはずだ。

 やがて窓の外の移り行く景色を眺めながら、言葉を選ぶように彼女は話し始めた。

 「例えば、こう、色んな風景があるでしょう? 電車の窓から見てて一瞬に過ぎていく風景の中に」

 「………?」

 「線路に沿っている道をね、私とはこれまでもこれからも関わり合いを持たない人々が歩いているのを見て……そうね、安心するのよ。たぶん私と同じくらい幸福で不幸なんだろうって」

 「………?」

 「でもね、安心もするんだけれど、こうも思うのよ。何で私がその道を自転車で走ってないんだろうって。何で私が買い物袋を下げて夕食のメニューを考えながら家路に向かってないんだろうって。だんだん腹が立ってくるの」

 「……腹が立ってくる?」

 「そう。安心するけど腹が立つの。その理不尽さに。でも電車を降りてさっきいいなと思ったところに戻っても何もいいことはないってわかってるから絶対に降りないの」

 「……なるほど」

 「郷愁を誘うのよ。窓から見える風景が。変なの。とても変なの」

 「まったく」


 その時の彼女の表情を、片野田はよく憶えている。

 開け放った窓から吹き込んでくる晩夏風が、彼女の前髪をスローモーションのようにゆるやかに、少し広い富士額をあらわにする。彼女は前髪を左手で押さえて少し上目使いに注意深く片野田を見る。

 まるであらゆる反応を見逃すまいとするかのような強い眼をしている。

 片野田は思わずうろたえて、そしてうろたえたのがなぜなのか自分でもよくわからなくてまた少しうろたえる。

 神田さんはそこでようやく微笑してみせる。


 それから後どんな会話をしたのかよく憶えていないが、その光景だけ、あまりに脆く危うく片野田の中に残っている。

 彼女を映しているそのフィルムは、追えば逃げ水のように遠ざかり、手を触れれば砂のようにこぼれ落ちてしまい、支えたくても支えることもできぬ、焦燥に狂わせる朧な断片だ。

 なのになぜか、彼女がいなくなってからは時を追うごとに鮮明になっていく。あの時、よりによってなぜあんな話をしてしまったのだろうという悔恨と共に、片野田の脳裏に否応無く刻み込まれていく。

 自らの空洞の中、宙空に浮かんだ誰にも答えられぬ問いというものは、この世に数少ないが確実にいくつかある。

 片野田が持つそれも、そのひとつだ。



     ☆



 神田さんは市役所の戸籍課、失踪人係だった。

 実を言えば、失踪人係なんてものがあったなんて片野田はついぞ知らなかった。

 考えてみれば、市役所なんてそうそう来るところでもないし、来たって用事を足せば長居するところでもないのだから、知らなくて当然なのだけれど、初めて片野田はそのプレート、プラスティックの白い板に「失踪人係」と明朝体で書いてある素っ気ないプレートを見て、どういうわけか疑問符のついた感情に襲われた。

 なぜ?

 ――なぜ?

 ………ちょっと待ってくれ。何がなぜ? なんだ?


 そのプレートの下に座っていた女の人が神田さんだった。

 どこか奇妙な静謐せいひつを感じさせる人だった。

 かぼそいわけでもなく、しとやかとかおっとりとかそういう形容でもない、かと言って無気力なわけでも存在感が希薄なわけでもない、言葉が足らないのを承知で言ってみれば、彼女の周囲を薄い水の層がとりまいていて、その中で彼女はかけ違えたボタンを直そうともせずに座っているように感じられた。それが神田さんだった。

 片野田が彼女にアプローチしたのは、むしろ失踪人課などという怪しげなものに対する好奇心だったろう。

 確かに彼女は細面のきれいな人だったが、片野田の方は取り立てて仲よくなろうと思う状況ではなく、平たく言えば、つい先日身勝手な女に振り回されたばかりで、しばらくそういう類いのことは結構、だったのだ。

 ただ興味があったのは、失踪人課というのはどんなことをするのかということと、毎日失踪人の処理をしているのはどんな気分がするのか、聞いてみたかったのだった。


 「そうね……神隠しにあったようなものね」

 単刀直入に聞いた片野田に、神田さんはそう答えた。

 「神隠し? 神隠しってあの神隠し?」

 神田さんは何も言わずに片野田を見つめ、それから、何かを探すように視線をゆっくりさまよわせた。

 「ここのね」

 「はい?」

 「ここの担当者にあたしがなってから、まだふた月しかたってないんだけど、前の担当者がどうなったかわかる?」

 「……?」

 「ミイラとりがミイラになった」

 「本当に?」

 「嘘」

 「何だ、できすぎだと思った。そんなわかりやすい話だったら苦労しないですよね」

 あはは、と神田さんは鼻の頭にしわを寄せて笑った。

 思いがけず、嫌みのない明るい笑いだった。

 深海の底でゆるやかに回流しているマリンスノーのような雰囲気は、あっさり消散して、かわりにこの年頃の女性特有の華やかな香気が弾けた。

 神田さんは話の継ぎ穂を取り戻すように右の耳を引っ張ってみせると、笑いながら付け加えた。

 「失踪するのって、シンプルなものなのよ。すごく」

 「借金が第一、人間関係が第二って感じ?」

 神田さんはうなずき、今度は左の耳を引っ張った。後で知ることになるがこれは唯一の彼女の癖だった。

 「病気になって苦しむ姿を見せたくないからなんてのが変わり種、かな」

 「なるほど」

 「あたしはその原因の報告を受けて、書類を打ち出す。場合によっては警察にも行って失踪者の家族と話したりするけど、基本的にはデスクワーク」

 片野田はうなずいた。

 神田さんはそんな片野田に小首を傾げるようにして言った。

 「でもね、前の担当の人がね、業務を引き継いでいる最中にあたしに言ったのよ」

 「?」

 「手の届く範囲を全部聴取してね、でも、何にも当てはまらない人がいるの。身の回りはきちんとしてて、人間関係もうまく行ってて、この先の自分にも着々と布石を打ってて、ね? いるでしょ、そういう人」

 「爪の垢でも煎じて飲みたいくらい」

 神田さんは微笑んだ。

 さっきの笑顔とは違う、捉えどころのない雰囲気が彼女に戻って来ていた。

 「それでも無理をしているわけじゃないの。愚痴も希望も友達に話してるし、まさか失踪なんて、全部振り切ってまで逃げるほど追い詰められてるはずないって」

 「………」

 「わかるでしょ? 神隠し」

 「……そんな時はどうするの?」

 彼女は首を振った。答えたわけではなく、単に首を左右に動かしただけ、というように見えた。

 「七年待つだけ」

 「七年?」

 「失踪人の死亡届が受理される」

 「……」

 「ねえ、そういう人ってどこにいくのかな。どこにも行く場所なんてないのに。最初から自分の場所なんてないんだし、『ここではないどこか』に行っても何か見つかるわけでもないんだし。ね?」

 片野田は思わず首を振った自分に気づいて驚いた。

 それは「断固拒否」の意志で満ちていたのだけれど、しかしでも神田さんの言葉に反発したわけでもなく、わざわざそんなことを口に出して否定しなければならない自分を拒否したわけでもなかった。

 そうではなかった。それは他の「何か」だった。

 「確かにそういうのも悪くないけどね。全部捨てちゃうのも」

 「……失踪するのが?」

 「だって自分が自分じゃなくなるのって楽しそうじゃない?」

 神田さんは辺りを見回して、声をひそめた。

 「落ち着いちゃった人々よりはきっといいことあるんじゃない?」

 「そうですかね?」

 「ほら、最初から組み立て直すのは大変だけど、すくなくとも二回目なわけだから、気をつけなきゃいけないところもわかってるでしょ? よく思うでしょ? ああ巻き戻したいって。失踪てのは自分を巻き戻すことができるかもしれない唯一の方法かもしれないじゃない。どう?」

 「……そうかな。それだけでもないけど?」

 「じゃ他にどんな方法がある?」

 「……」

 「でしょ? あたしはあまりそういう気にならないけど。多分これくらいしか方法がないんじゃないかな? あなたはどう? 消えたくなることある?」

 片野田は小さく首を振った。

 神田さんは首を振った片野田に、片方の眉をあげて上目使いに覗き込んだ。目が合うと薄く笑ってみせて、何とはなしに片野田は傷ついた。



     ☆



 「小さい頃、私は自分でもわかるくらい鈍い子供で、外界に対してちぐはぐな反応をよくしていた。特に憶えているのは体に関しての痛みとか触覚とか、今思うと首を傾げたくなるほど鈍かった」

 「……なるほど?」

 「そんな鈍い子供だったんだけど、ある日、唐突にこの世界が動いていることを知った。足元の地面が動いているって意味だよ。地球は自転しているんだなと身をもって知った訳で、あの時はちょっと得意だったな。みんなに聞いても動いてないって言うし、ああこれは私にだけわかるんだ、私は鈍くなんてないんだって。三日くらい有頂天だった」

 「……それで?」

 「笑顔のまま倒れた。肺炎だったと後で聞いた。母親が迎えに来て、熱を測ったら四十度を越えてたんだって」

 「鈍いって言うより、立派なんじゃないの、それって」

 「……さて? ともかく私は二週間ほどで退院したんだけど、当然、もう世界は回ってなかった。よくは憶えてないんだけど、それからしばらく私はよく泣きながら帰ってきたらしい。それまではめったに泣かない子だったんだけど」

 「熱で頭が悪くなったとか?」

 「……熱じゃないよ……思うに、私は悔しかったんだね。熱がある間は世界がとても楽しい場所だったから、戻って来たら前よりもずっとひどい世界に見えたんでしょう。悔しかったんだ、多分」

 「……」



     ☆



 ほどなくして片野田と神田さんは出歩くようになった。

 文字どおりふたりは出歩いてばかりで、映画やら演劇やらも行きはしたが、それよりもただ歩いていることのほうが多かった。そしてデジタルな話をぽつりぽつりとしながらふた月でほとんど山の手沿いを歩き尽くした。

 知らない人が見たらとてもカップルとは思えないような、カップルだとしても別れ話でもしているように見えただろう。

 彼女は時々立ちつくして、ビクターの子犬のように小首を傾げていた。

 その様子はつきあいが長くなるにつれて、次第にしっくり時々の風景になじんでいった。

 ――――このままここに住まない?



     ☆



 片野田は彼女が失踪した後、もう一度初めから、一緒に歩いた道筋をたどり始めた。いくつもの見覚えのある風景をくぐりぬけながら、苦いタバコを吸っていた。

 もう神田さんは帰って来ないということを誰よりも自分が一番よく知っているのだ。


 どこで神田さんを止めればよかったのだろう。

 今になってわかることは、最初から彼女は『ここ』にいようという意識の持ち合わせがなかったということだけだ。多分片野田が何を言っても通り過ぎてしまったろう。

 そして、自分にはその気がないと口に出すことで彼女は片野田の制止を封殺していた。

 片野田には彼女を止めるための手段も言葉もタイミングもなかった。それでも止めればよかったと思うのは甘えと言うのだろうか、それとも後悔と言うのだろうか。


 歩きながら何度も走っている電車を見た。

 少し不思議な気がしてじっと見ていた。

 あの窓から、自分たちのような人間がたくさん見ていてその内の何人かは本当にどこかで降りてしまうのかもしれない、と思うと少し涙が出て来た。

 そして腹を立てた。

 自分は降りられないし降りたくない。

 『ここではないどこか』を望む血は自分には流れていないのだ。


 片野田は三月歩き回って山手線を十二周すると、何かをひきちぎるようにそれをやめた。

 バイクにあまり乗らなかったこの半年のために、一週間かけてバイクを整備し、それ以降は都心の学校にまでそれで通うようになった。切符の買い方も忘れるくらい、電車は遠いものになった。


 そんな風にして片野田は電車が、電車から見える風景が嫌いになったのだ。




     ☆




 神田さんが失踪して二年が経った。

 いまだに彼女を「憶えている」人々の間でつつましく葬儀が行われることになった。


 片野田は電車の窓を流れる何の変わりばえもしない風景を見つめ続けていた。

 今日でさえ片野田はバイクにまたがって行こうとしたのだったが、喪服でバイクとはさすがに不調法だと周囲に止められ、やむなく――本当にやむなくではなかった。神田さんを送るには電車を使わなければならないと、そう思っていた――各駅停車に乗り込んでいたのだった。


 いつか神田さんが言っていたことを思い出す。

 「前にも言ったように、失踪した人の死亡届は七年経たないと受理されないんだけど、たいていはそれまでに葬儀を済ませるわね。年数によって周囲の人達の執着の度合いがわかるわよ」

 二年は十分に長いのかそれとも十分に短いのか。

 片野田にはよくわからなかった。

 神田さんだったら、多分、黙ってうなずくだろう。そして、よく我慢したね、と笑ってあげるのだろう。今日はでも、誰が神田さんの母親にそのセリフを言ってあげるのだろう。誰がそれを言ってあげられるのだろう。


 電車が川にさしかかる。

 轟音ときしるような音が可聴域の壁を突き破ろうとする、まるで耳鳴りのような、けれどもなぜか調和を保った音が聞こえる。

 あの海への出口、水平線のぼやけた辺り、空には雲ひとつない、赤い青い屋根、重厚なドアの並んだ住宅街を列車はくぐりぬけながら、レールの継ぎ目の振動が片野田の身体をかすかにゆらす。振動に身を任せていると座り込んでしまいそうだ。


 神田さんはもうここにはいない。

 彼女もまた『ここ』を出ることに失敗してしまった。出て行くということを取り違えたまま、交線は二度と相見える事はない。


 片野田は思うのだ。

 彼女の小首を傾げた姿に、電車の通り過ぎる風景に、決してだまされるまいと。

 それは片野田の中、宙空に浮かんだ柔らかい振り子をそよ風のように撫でて行くけれども、決して彼の哀しみには届かないのだと。届いていいはずはないのだ、と。

 片野田は目をつぶってそう言い聞かすのだ。


 それでも、それなのに、通り過ぎて行く風景は相変わらず郷愁を誘って、帰りたいという感情を動かす。

 片野田は自分が間違っていないことを何度も何度も確認するのだけれど、その感情を消すことができずにうろたえる。



 そして、神田さんと自分の埋めようもない距離に、つ、と胸をつかれるのだ。











「somewhere else」。

「ここではないどこか」の、英語ならではの表現を知ったのは、ずいぶん昔のことでしたが、その静的な響きと……「梅雨時の電車が嫌い」てな個人的な思いとをあわせて作ったものでした。


「郷愁」というテーマは、何だか私の中に根を強く張っているのだな、と我ながら思う短編です。

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― 新着の感想 ―
[良い点] 文体が綺麗でした。7年間居ないと、市役所で死亡届になる仕組みを教えてくれて有り難うございました。 [気になる点] 電車が嫌いなんでしょうか?作者さんは電車も良いですよね。バイクも、乗れれば…
[一言] しっとりと心に入る文章でした。 ありがとうございました。
[良い点] 文章が綺麗でした。流れるような文章でした。感動しました。 [気になる点] 電車は歩けたら大好きです。 [一言] 満点です。
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