第五話 -想いが通じ合う幸せ-
次の日、心音は学校でも指点字の練習をしていた。
授業中も机の上に手を置き教科書の文章を手本にしながら指を動かしていると、友人がその様子を隣の席から不思議そうに眺めていた。
昼休みなり友人が質問をしてきたので、何をしていたのか、どうして練習するようになったのかを説明する事にした。
そうすると普段から手話の弱点について考えている友人達が興味を持ち心音の周りに集まってきた。
手話は目で見る言葉である。
水中や窓ガラス越しと言った音が届かない場所でも普通に会話が出来る反面、何も見えない暗闇の中では相手に意思を伝える事が出来ない。
例えばの話だが災害で夜の時間帯に停電が起きた場合、すぐ隣に誰かが居たとしても一言も想いを伝える事が出来ないのである。
体のどこかが痛いと助けを求める事も、大丈夫かと問いかける事も、そして頑張れと励ます事も……
しかしこれを覚えれば手話が見えない状況でも意思を伝え合う事が出来る、そんな思いがあったのであろう、指点字は友人達の間でちょっとした流行を見せ広まった。
これにより心音も一人で練習をするだけでなく、間違っていないか、ちゃんと読み取れているか等の確認をしながらの練習も出来るようになった。
それでも自分の指点字は間違ってはいないだろうか、一輝に対してちゃんと伝わるだろうか、もし伝わるならば昨日よりもたくさん話したい、そんな不安と期待を抱きつつ残りの授業を済ませ、放課後の合図と共に一目散に施設へと走っていった。
施設の扉を開け中に入るが今日はまだ誰も来ていないようだった。
少しガッカリしながらも注意深く部屋の中を見渡すと、一番奥の机の影で何やら作業をしている一輝の姿が目に入った。
心音は嬉しくなり一輝の傍へ行こうと歩き出したがその途中で重大な事に気がついた。
(そうだ! 声を掛けられないのにどうやって私が来た事を知らせればいいの?)
普段友人と話す場合なら、相手の視野に入る場所まで近づき手を振るなどすれば、誰かが近付いてきたと気付いてもらえるのだが、一輝に対してはそうはいかない。
それに近付いてる事も分からない状況で肩を急に叩くのも驚かせてしまうかもしれない。
色々と考えた末に心音は勢いよく足を踏みつけながら歩いて行く事にした。
「誰? 信吾くんなの? 元気なのはいいけど歩く時はもっと静かにしないと駄目だよ、今は僕しか居ないからいいけど、もしみんなが居る時にうるさくしたら怒られちゃうよ」
一輝が音のする方向へと顔を向けヤレヤレと言った感じの笑顔で話し掛けてきた。
(うるさい? 勢いよく歩くのって他の音を掻き消すくらい凄い音が出る事なの?)
うるさいと言う言葉が"不愉快"だとか"煩わずらわしい"と言う意味なのは授業で教わった。
だが音を知らない心音はそれがどんな感覚なのか実際に感じた事が無く理解出来なかった。
心音は一輝の近くまで行くと、傍に誰かが来ましたと言う意思表示のつもりなのか目の前の机を二回ノックし、そのあと手の平に文字を書き始めた。
『こ・こ・ね・で・す』
「え? 今の足音って心音さんだったの?」
一輝はバツが悪そうな表情を見せた。
「ごめん、せっかく来てくれたのに失礼な事言って、大きな音をたてて歩いて来るからてっきりいつも来る男の子なのかと思って」
『あ・や・ま・ら・な・い・で・そ・れ・よ・り・も・つ・く・え・の・う・え・に・て・を・お・い・て・く・だ・さ・い』
何をしたいのか分からなかったが言われた通り机の上に両手を置くと、そこに心音が両手を重ねるように置いてきた。
『わたしが なにをいってるのか わかりますか?』
一輝は驚きの表情を隠せなかった。
「これは指点字? 心音さんって指点字が出来たの?」
『かずきさんといっぱい おはなししたくて れんしゅーしたんです』
「僕と話がしたくて?」
『はい きのーいえにかえってからいろいろしらべて これならおはなしできるとおもったんです』
一輝はあまりの事に言葉が続かなかったが、心音にとってはその嬉しそうな表情が見れただけで充分満足だった。
「ありがとう、何て言えばいいのか言葉が見つからないけど、凄く嬉しいよ」
『よかった でも』
「え? 何か嫌な事でもあるの?」
一輝は続きの言葉を知るのが怖かったが、それ以上に心音が何かに対して我慢している事があるのだとしたら、その方が耐えられなかった。
もし指点字が心音にとって嫌なものならば、辛いものなのだとしたら無理をして使わなくてもいいと伝えようと思った。
『きのーかられんしゅーしすぎて ゆびがつりそーです』
「………………」
不安を裏切る意外な言葉に安心したのか、一輝は思わず吹き出してしまい大声で笑い出した。
「あははははははっ」
『そんなにわらわなくても いいじゃないですか』
「ごめんごめん、でも……あはははっ」
『わたしわ まじめにはなしてるんですからね』
一応怒ってはみせたが、一輝の笑顔を見ていると何故か心音は幸せな気持ちになれた。
一輝もまた心音が点字の文法を正しく使っている事から、指点字をただ文字の代わりとして覚えたのではなく、真剣に自分と話したいと思って勉強してくれたのだと分かり、感謝とはまた別の感情が芽生え始めていた。
『それわそうと さっきわごめんなさい わたしがきたのをしらせたかったんですけど あしおとがそんなにおーきなものだとわ おもわなくて』
「そんなに謝らなくてもいいよ、うるさいって言っても、それは静かに歩きなさいって子供に言い聞かせる為の言葉で……その……」
先程のバツの悪さがよみがえり一輝は頭を掻きながら焦りの色を見せた。
『うるさいとしずかが どんなものなのかわかりませんけど おとって あるきかたでそんなにかわるものなんですか?』
この言葉に一輝は、聞こえない事とは只単に声を使っての会話が出来ないだけではなく、音に関する全ての言葉が理解出来ない事なのだと知った。
「歩き方で足音は全然違ってくるよ、その人が疲れているのか元気なのか、機嫌が悪いのか良いのか、そんな事までだいたい分かるからね」
『そんなにたくさんのじょーほーを ききわけられるなんて おとってすごいです』
重ねた指先から心音の感動と興奮が伝わってくる。
もっと色々と伝えたい、そしてもっと色々と知りたい、一輝は改めて思った。
「だけど心音さんはいつもお父さんとかお母さんとか、耳が聞こえる人を呼ぶ時はどうしてるの?」
『いつもわふえをもっていて それをふいているんです』
心音はペンダントになっている笛を取り出し軽く吹いてみせた。
「なるほどね、だったら僕を呼ぶ時もその笛を吹いてくれればいいよ、今ので音も覚えたし、これなら心音さんが呼んでるってすぐ分かるからね」
『わかりました こんどからそーしますね』
そう伝えると何を思ったのか突然、心音が席を立ち一輝から離れ始めた。
そして二歩三歩と離れた後、口にくわえた笛をそっと吹いてみた。
「どうしたの心音さん? 何をしてるの?」
心音は再び一輝の横に座り両手を重ねた。
『べつになにもしてないですよー』
「ちょっと、今のは何だったの? 教えてよ」
『えへへ ないしょです』
離れた場所からでも呼びかければ気が付いてくれる。
そしてその呼びかけに答えてくれて会話が始まる。
それは聞こえる人にとっては何も感じない極々当たり前の事なのかもしれないけれど……
普段何気なくやっている誰でも出来るような簡単な事なのかもしれないけれど……
心音にとっては、これ以上ない幸せを感じられるほど素敵な事なのだった。
補足として……
今回のお話の中で指点字の会話文に違和感を感じられた方が多いと思いますが、それは点字と言う文字の特徴を知って頂きたくて書いているからなんです。
日本語の文章を点字に訳す場合、そこにはいくつかの決まり事があります。
簡単な例で説明すると
「私は東京都へ行きました」
と言った文章の場合、平仮名に変換すれば
「わたしはとうきょうとへいきました」
となりますが、点字にした場合は
「わたしわ とーきょーとえ いきました」
のように『は→わ』『へ→え』『う→ー』が音の通りに訳されます。
また本当ならば文節ごとに点字なら空白を、指点字なら一拍間を置く『分かち書き』や、長い熟語を分けて書く『切れ続き』などがあるのですが、それをしてしまうとかなり読みにくい文章になると思いますので本作品ではワザと使わないようにしています。
その他にも指点字ならではの文法として指を押さえる回数を減らす『略字』と言う物があり、覚えてみるとなかなか便利な言葉だと言う事が分かります。
例として……
左手人差し指を①、中指を②、薬指を③
右手人差し指を④、中指を⑤、薬指を⑥とした場合
④⑤⑥をトン、①をトンの二回の動作で『ありがとう』
④⑤⑥をトン、②④をトンの二回の動作で『おはよう』って言う事が出来ます。
また④⑥+①⑥=『ですか』④⑥+①②④⑥=『ですけど』などのように、よく使われる言葉は略字にされていてその数は軽く300を超えちゃいます。
一気に覚えるのは難しいですけど……
点字は『只単に日本語を平仮名にしただけではない』と言う事を知って頂き、少しでも興味を持って頂けたら幸いです。




