第二十六話 -聾者故に気付かぬ事-
月曜日の放課後。
宿題を忘れた奏は作文を提出してから帰宅するよう教師に言い渡されていた。
『心音ちゃ~ん、今から図書室で宿題を仕上げるから付き合ってよ~』
『え~! なんで私まで残らなきゃいけないのよ、そもそも作文の宿題なんだから何も手伝える事なんて無いし、私が居たって意味無いでしょ?』
『そんなこと無いって、心音ちゃんは傍に居てくれるだけで幸せな気持ちになって作業がはかどるんだから、それに心音ちゃんオーラを浴びるとお肌にハリとツヤが戻って二十歳は若返るし、お通じも良くなってお腹がスッキリするし、金運も良くなって宝くじは一等前後賞が当たるわ異性にモテモテになるわでもう大変なんだから!』
『二十歳も若返ったら前世に戻っちゃうでしょ! ってか私は何者なのよ!』
『それにほら、図書室だったら一輝さんに虹の美しさを伝える方法もいっぱい調べられるし、それに……』
『分かったわよもう……じゃあ私は調べ物をするから奏ちゃんは早く宿題を終わらせなさいよ』
『りょ~か~い心音ちゃんだ~い好き~』
抱きついてくる奏をスルリとかわし、心音は速足で廊下を進んだ。
図書室へ着くと心音はさっそく福祉関係の本が並ぶ棚へと向かい、視覚障碍について書かれている本を数冊選び席に着いた。
『ねぇ心音ちゃん、どんな本を持ってきたのか教えてよ』
『何言ってるのよ……奏ちゃんは余計なことは考えないで宿題に集中しなきゃ駄目!』
『分かってるわよ、でもほら、何を書いたらいいか分かんないから心音ちゃんとお話しながら考えようかな~って』
心音は大きな溜め息をついた後、一冊目の本に目を通し始めた。
暫らくして驚きの表情を見せた心音に奏が問いかける。
『どうしたの心音ちゃん、何か驚くような事でも書いてあったの?』
『えっと……前に調べた事と違う事が書いてあったから……』
心音は一輝と出会った頃に視覚障碍者が持つ白杖について調べた事があったが、そこで白杖を胸の位置まで揚げて持つSOSのサインがあることを初めて知った。
以来、そう言った場面に遭遇した事はないが、もし困っている視覚障碍者が居たら声が出せない自分はどう対処すればいいのか、どうすれば見えない人の助けになるのかを考えていた。
『え? 違う内容が書いてあるって事は、あの仕草はSOSのサインじゃなくて別の意味があったって事なの?』
『ううん、意味はSOSで合ってるんだけど、これって一部の団体が決めただけの事で、実は見えない人の殆どが知らないんだって』
白杖を揚げるSOSのサインは福岡県盲人協会が40年程前に考案したものだが、全国の視覚支援学校やリハビリセンターで子供たちに教えられる事は無いし、当事者からは反対の意見も多くあり、年月を経た今でも見えない人達には浸透していないのが現実である。
むしろSOSサインの情報はネット関係に書き込まれている事が多く、視覚障碍者よりも健常者の方が知っている割合は多いかもしれない。
『健常者が考えた事の中には、一見障碍者の為になっているようだけど実際は当事者を置き去りにしているって事はありがちよね……それは視覚障碍に限らず他の障碍にも言えるけど……考えた本人はどう思ってるのかしらね』
奏は複雑な気持ちになったが、ここで新たな疑問が出てきた。
『でも、だったら見えない人は本当に困った時はどうすればいいの? 心音ちゃんと一輝さんが出会った時も、転んだ一輝さんは自分の居場所や位置関係が分からなくなってたんでしょ? 心音ちゃんみたいに手を差し伸べてくれる人が近くに居なかったらどうしようもないんじゃないの?』
『うん、私もそう思うわ……でも普及しない理由にはSOSサインを広めたくないって反対する人が多く居るからみたいだけど、そんな人の意見も書いてあるから読んでみるわね』
〇現実問題として視覚障碍者の間では殆ど知られておらず使う人が居ない事。
〇使う人が居ないままサインの意味だけが健常者の間で広まった場合『サインを出す=困ってる』と決めつけられてしまい『サインを知らない視覚障碍者=困っていない』と勘違いされてしまう事。
〇視覚障碍者が白杖を地面から離す行為は、健常者が目を瞑るのと同じような事だから抵抗感や恐怖感がある。
〇白杖を携帯しているのは全盲の人だけとは限らない、弱視の人同士の場合は待ち合わせの時に白杖を高く揚げる行為は相手に見つけてもらいやすくするのに便利なので、SOSだけと決められてしまうのは困る。
『その意見も分からなくはないけど、それでもやっぱり困ってる時のサインがあった方が安心できるわよね? だから認知されていないんだったら今からでも遅くないから広めていった方がいいんじゃないのかな? 心音ちゃんはどう思う?』
『うん、私も何か困った時の合図が決まっていないよりは、こんな仕草ですよって決めておいた方が便利だとは思うんだけど』
『反対してる人は困った時にはどうやって知らせようとしてるのかしらね?』
『ちょっと待って、それについて書かれてる意見もあるわ』
〇困った時は『助けてほしい』と声を掛ける方が確実性があり、白杖を振り揚げるよりも安全である。
二人は目から鱗が落ちるような思いで見つめあった。
『心音ちゃん……この意見は思いつかなかったわね……』
助けてほしいときは声を掛ける……
耳が聞こえ、声が出せる者ならば当たり前のように思いつくであろう単純な考えが、心音や奏の考えからは完全に抜け落ちていた。
聞こえないが故に、必ず目に見える何かを考えなければならないと言った固定観念が潜在意識の中にある事を二人は痛感した。
『疑似体験の時にも出てきた事だけど、つくづく知らない世界を想像するのは難しいって思い知らされた気がするわ……今回の事のように、そもそも頭から抜け落ちているような事は、何か切っ掛けやヒントがあるまで気づかないんだもん……』
うなだれる心音を励ますように奏が話す。
『知らないんだから思いつかないのは当たり前! 経験した事がないんだから分からないのが当たり前! 何もおかしなところは無いわよ、それよりも新しい事実が分かったら、それをどう役立てるかの方が大切でしょ? ほら、落ち込んでる暇なんか無い無い』
『うん……』
二人は他にもSOSのサインについて書かれている記事を調べ始めた。
すると日本手話と日本語対応手話の時と同じような対立が、SOSサインの賛成派と反対派の間にもある事が分かった。
そしてそれらを読み進めていくと、賛成派は必ずと言ってよいほど最後には
「嫌な人はやらなくていいけど、これをSOSのサインとして使う人もいるんだから、やはり情報は広めたほうがいい」
という文章で締め括るが、これはそんな簡単な話ではない。
と言うか、むしろここがこの問題の一番複雑な所なのではないだろうか?
何故なら、本来、白杖はそれ自体が周囲に注意喚起を促すシグナルでもあるのだが、健常者に「白杖を揚げる仕草」だけがSOSのサインだと誤解されると、そもそも白杖に込められていたはずの意味が薄れてしまうかもしれない。
SOSのサインなんて知らない当事者が多いのに、必要な支援を受けられなくなる人が出てくるばかりか、健常者との間で何か事故があった時に
「サインを出してなかったんだから自己責任だ」
などと言われてしまうケースが出てくるかもしれない……白杖を持って歩いているのに……
また視覚障碍者が周囲の助けを必要とする場面は、本人が『困った』と自覚しているときだけではない。
目が見えない、もしくは見えにくいと言った世界の場合、むしろ本人には『危険だ』という自覚がない状態のほうが多いのではないだろうか?
例えば駅のホーム……
「私は今から線路に転落しそうになるから助けてください」
と自ら白杖を高く揚げる人など居る訳がないし、そもそもそんな事は出来ない。
ところが、すでにツイッターでは
「ホームの端を歩いているので心配だったけど、白杖を揚げていないので大丈夫だろうと思って声をかけなかった」
という書き込みが見受けられる。
これはとても恐ろしい事だと心音は思った。
中途半端にSOSサインの事を聞きかじっていた為に「揚げていない人は手助け不要」という間違った判断を下す人が実際に現れてしまったのだから……
こうした錯誤に基づく深刻な事故が起きたとき、この「白杖のSOSサイン」をきちんとした説明も無く、無責任にネット上に情報拡散した人たちはどう思うのだろうか?
『心音ちゃん……』
『うん……これは私も反省しなきゃいけないわね……一部のネットに書かれていた情報を鵜呑みにして、奏ちゃん達にも話してたし……』
『ほらほら、またそんな顔する! 反省はいいけど後悔は駄目! これからは得た情報は一旦調べなおして、納得がいったら伝えるようにすればいいんだから』
奏に励まされた心音は気持ちを入れ替えることが出来た。
『うん……SOSのサインを広める広めないって議論をするよりもっと大切な事があるわよね……白杖を持っている人は普通に歩いているだけでも見える人より危険に遭遇する可能性や周りの状況が分からなくなる可能性が高いんだから、SOSのサインをしている、いないに関わらず「何か手助けできるかも」って優しさを持つようする事が大事だと思うわ』
『でも、そうなると心音ちゃんや私のように声を掛けられない、何に困っているのか聞く事が出来ないって人は、白杖を持っている人に対して何も出来ないって事になっちゃわない?』
『うん、だけど障碍のある無いに関係なく人には出来る事と出来ない事があるんだから、出来ない事をあれこれ考えてても仕方ないでしょ? それよりも出来る事をいっぱい考えた方がいいじゃない、私も一輝さんに対して出来る事を……』
話の途中で奏が心音の額にデコピンをした。
『いった~~~い! 何するのよ』
『昨日決めた事なのにもう忘れたの? 一輝さんじゃなくて「かずくん」でしょ?』
額を押さえる心音に奏が続ける。
『ほらほらRepeat after me か・ず・く・ん』
『……私も、その……かずくんに出来る事を考えるようにするから……』
『は~い、よくできました~』
恥ずかしがる心音を奏は満足そうな笑みで見つめる。
その後、二人は聴覚に障碍を持つ者が見えない人に対して出来る『優しさ』について調べ始めた。




