第二十四話 -絵を描くように綴る-
奏は自分が文章を書く時はどうしているのかを話し始めた。
『わたしわ えいごをにほんごにやくすよーに ぶんしょーのたんごをひとつずつ かんがえながらかいていくんです』
例えば日本語の「それは私のお饅頭だから食べちゃ駄目」と言った文章を英語にする場合、まず頭の中で
「この文章だと、ビコウズ イット イズ マイ マンジュウ……になる筈だから……」と考え、それぞれの単語の綴りを思い出しながら
「 Because it is my manju do not eat it 」と書いていく。
また、饅頭が近くに有り「それは」よりも「これは」の方が良いと思った時は
「 Do not eat because this is my manju 」と書き直す。
それと同じように、奏は日本手話で考えた文章を一度日本語に訳し、それぞれの単語の文字を一つずつ思い出しながら、自分の想いに一番近い文章になるように訂正しながら書いているのだった。
「簡単に話してるけど、それって凄く大変な事じゃないのか?」
奏の説明に対して佑馬が話し始めた。
「だってさ、いちいちそんなややこしい過程を経ながら文章を書いてるって事は、逆に文章を読む時も絶えず日本語を日本手話に訳してる訳で、それは内容を簡単に短時間で理解したり読み取ったりするのが難しいって事になるだろ? だとしたら国語だけじゃなくて、数学も科学も社会も、学校で使う教科書は全部、英語やフランス語みたいな外国の言葉で書かれた物が使われてるのと同じ感覚なんじゃないのか? そんなの問題を解く解かない以前に、問題の内容を把握するだけで疲れるぞ」
「たしかにそうかもしれないね、例えば小学生の算数で『三個の饅頭と二個の饅頭、合わせて何個?』みたいに、日本語の文章で書かれてたら誰でも答えられる簡単な問題でも『 How many are three manju and two manju in total? 』なんて書かれてたら答えるどころか問題そのものが理解できないかもしれないし」
『それわ はなしのながれから そーぞーでりかいしてるぶぶんがあるから』
「ぷっ……くくっ……」
一輝と奏が話している途中だったが、何やら必死に笑いをこらえている様子の佑馬に心音が問いかける。
『ゆーまさん どーかしたんですか?』
「悪い悪い、ちょっと思い出し笑いをしただけだから気にしないで、それよりも藍原さんはどうやって文章を書いてるのかな? 長谷川さんの書き方って結構一般的な感じがするけど、それとは違うの?」
『わたしわ かなでちゃんとはちがって えをかいてるみたいな かんかくですね』
「絵を描く?」
次に心音が自分の文章の書き方を説明し始めた。
文字を記号として捉えている心音にとって、文章とは只の記号の羅列であり、その組み合わせのすべてが丸暗記の世界だったが、それらを覚えるのに一番役立ったのは漫画の存在かもしれない。
小さい頃から絵を見るだけで大まかなストーリーが分かる絵本が大好きだったが、成長するにつれ絵本には無い漫画ならではの絵柄やストーリー、可愛いキャラクターや格好いいキャラクターといった存在に魅力を感じ心を奪われていった。
もちろん最初から全ての文字を読めたわけではないが、台詞と言う文字に対する人の表情や感情、ナレーションと言う文字に対する風景やその場の雰囲気……漫画にはそれらを表わす『絵』があった事が、言葉と文字の組み合わせを理解するのに役立っていたのは確かである。
新しい文字の組み合わせを覚えれば覚えるほど漫画の内容を深く理解できる、心音はそれが楽しくて、気が付けば漫画の数は五千冊を超え、立派なオタク娘に成長していた。
またダジャレや擬音などは理解できなかったが、どんな場面でどんな文字が使われ、どんな効果があるのかと言った知識の殆どは漫画から得たものだった。
「それにしても五千冊って凄い数だね!」
『でも しょーせつのかずをくわえると もっとあるんですけどね』
何冊もの漫画を楽しんで読んでいるうちに、心音は文字と言う記号の組み合わせを見るだけで、それが表わす物の形や状態、人の態度や表情などを『絵を見ているのと同じような感覚』で捉える事が出来るようになっていた。
なので文字だけで書かれた小説は『読む』と言うよりは『見る』と言った感覚なので、逆に文章を書く時には文字を書くというよりは絵を描くイメージの方が強いのかもしれない。
「それって具体的にはどうやって書いてるのかな? 今の話だけだとちょっと想像できないんだけど」
一輝の質問に心音は順序立てて説明をした。
まず原稿用紙十枚程度の文章を書く場合、頭の中で日本手話を使い話の全体像を考えていく。
例えば、大きなお饅頭が一つだけあって、それを姉妹が取り合って喧嘩をするけれど、最後には仲直りをして半分に切り分けたお饅頭の大きいほうを譲り合う……と言った物語を書こうとした場合、大きな紙にストーリーに沿った四コマ漫画やイラストを描くように、一気に四千字くらいの文字を並べて書いてしまう。
その後で何度も見直しては「お饅頭はもう少し大きく描いた方がいいかな?」「姉妹の表情はこう描いた方がいいかも」そんな感覚で新しい線を描き加えたり不要な線を消したりしながらイラストを仕上げていくように、文字の組み合わせを変えてみたり、別の文字を加えたりしながら文章全体を完成させていくのである。
「その書き方だと、ネットなんかの書き込みみたいに文字数が少ない時はどうしてるのかな? 文字を省いたり文章を要約するのが難しいと思うんだけど」
『そんなことないですよ』
同じ饅頭の絵を描くとしても、大きな紙を渡されたら置いてある机や背景など細部まで詳しく描こうとするが、名刺のような小さな紙を渡されたら最初から細かい部分は描かずに簡単なイラストを描くのではないだろうか?
心音にとってはこれと同じような感覚で、最初から文章の長さ対して最適な文字の数や種類が頭の中に思い浮かぶので、何の問題もないらしい。
「それって誰にでも出来る事じゃ無いように思えるけど、藍原さんの書き方ってかなり特殊な事なんじゃないのか?」
『でしょでしょ! まえに ここねちゃんにきいたことがあるけど わたしにわぜったいにできないもん』
「それは心音さんが人一倍文字を覚える努力をしてきたって証しなんじゃないのかな、ほら、佑馬も言ってたじゃないか、何かを習得するには努力しない人よりした人の方が、努力した人よりも楽しんだ人の方が優れてるって……心音さんは漫画を通して文字を覚えて読んだり書いたりする事を楽しんできたから出来るようになったんだと思うよ」
「うんうん、学校も外国語で書かれたような教科書ばかりを使うんじゃなくて、漫画でも何でもいいから子供が楽しんで学べる教材をもっと取り入れるべきだよな」
佑馬の意見に皆が納得をしている中、奏が新たな話題を振ってきた。
『そーだ いまのはなしでおもいだしたけど ここねちゃんって すごいとくぎがあるんですよ』
「今の話って、心音さんが文章を読んだり書いたりするのが、絵を描いたり見たりするのと同じ感覚だって話?」
奏の話では心音はかなりの速さでの速読が出来るらしい。
「へぇ~、目が見えてる人の中には結構早く本を読む人が居るらしいけど、心音さんはどれくらいの速さで読むことが出来るの?」
『それがもーすごいのなんの よむってれべるじゃ ないんですよ』
絵を見ている感覚で文字の並びを捉えている心音は、電車やバスで隣に座った人が開いている手帳や書類をチラっと見ただけで、ある程度の内容が分かってしまうらしい。
「そ、それは凄いね」
『もー かなでちゃんったらよけいなことを べつにぜんぶわかるわけじゃ ないんですよ』
心音はどの程度の内容を把握出来るのかを説明した。
例えば通帳に
”ガラスのテーブルの上に白いお皿があり、そこに赤いお饅頭が二個と白いお饅頭が一個置いてあります。
テーブルの横には小学生くらいの男の子と女の子が立っていて、お饅頭を食べたそうな表情で眺めていました”
と書かれていたとする。
頭の中で音として読んで内容を把握しようとするとかなりの時間が掛かってしまうが、文章通りのイラストが描かれていたらどうだろうか?
細かいところまで全部覚えるのは無理かもしれないが、パっと見ただけでも「テーブルの上にお饅頭が三個あったかも?」「確か女の子と男の子が居たはず」「お饅頭は紅白だった」くらいの情報は読み取れると思う。
正確ではないが漠然と大まかな内容を把握する事が出来る、心音にとってはそんな感覚らしい。
「ぷっ……も、もう無理……」
「え? どうしたんだよ佑馬?」
「あはははははは……」
話の途中だったが突然こらえ切れずに佑馬が笑い出した。
三人は何が起きたのか分からず、ただその姿を眺めていた。
補足として……
聴覚障碍と言っても症状や感じ方は人それぞれです。
なので心音ちゃんが話している事は、作者である私自身が体験したことや感想を『個人的な意見』として書かせて頂いてるのですが、今回のお話は特にそれが色濃く出ているように思います。
言葉を『文章』ではなく『絵』として捉えていると言う意見は分かってもらえても、一気に文字を並べる書き方はかなり私特有な方法らしく説明するのも難しいです……
なので『聴覚障碍者はこんな方法で……』ではなく『作者はこんな方法で書いてるんだ~』とお読みいただけたら幸いです。




