第二十二話 -疑似体験の目的とは-
一輝が聴覚障碍について考えていたのと同じように、心音も虹の美しさを伝える為にはまず自分が見えない世界を体験するのが良いのではないかと考えていた。
だが疑似体験に関する事を調べていくと納得できない言葉がいくつか書かれており、心音はその方法が本当に正しいのかを疑っていた。
「納得できないって、どんな事が書かれてたのかな?」
『たとえばですね……』
そこに書かれていた内容は、アイマスクを装着すれば誰でも簡単に視覚障碍を体験する事が出来る。
聴覚障碍と違い、視覚障碍や四肢障碍はアイマスクや車椅子を使えば容易に体験でき、理解する事ができる、と言ったものだった。
だが毎日の様に一輝と話をしたり、視覚支援施設の子供達を見ている心音には、説明の中で出てくる『簡単』や『容易』と言った単語がとても不自然な物に思え、納得がいかなかったのだ。
『たぶん このほーほーをかいたひとわ みえないせかいを ほんとーのいみで りかいしてないんじゃないかって おもうんです』
健常者が見えない世界を体験する為に施設のある場所まで歩いて来る、そして建物の中に入ってからアイマスクを装着する……
そのまま視界を奪われた状態で手探をしながら歩いたり、白杖を使って置いてある物を避けながら歩くと言った疑似体験をする。
一見とても不便を強いられ苦労しているように思えるが、それで本当に見えない世界の全てを理解できているのだろうか?
一輝が聴覚障碍の疑似体験で話したような誤解や思い込みがここにもあるような気がする。
『ここねちゃんのいうとーり わたしもこのほーほーでわだめだとおもうわ』
「長谷川さんや藍原さんの考えてる事は分かるよ、さっき一輝が話してる時にも同じような意見が出たけど、アイマスクをして光を遮っても、それは視覚障碍者のごく一部分を再現したにすぎないって言いたいんだろ?」
世の中に光と言う物がある事を知り、物の色や形、文字などを見た事がある健常者がその記憶を完全に捨て去り、視覚障碍者と同じ考えをするのが不可能なのは当然なのだが、だからと言って光を遮っただけの世界が視覚障碍者の感じている世界の全てだと思い込むのは余りにも安直ではないか。
視覚障碍と一言で言ってもさまざまな症状がある。
光を感じない黒い闇なのか、光を感じているだけの白い闇なのか……
光を感じている者でも輪郭は把握できるのか、歪んで見えるのか、視野が狭いのか、それだけでも感じている苦労や辛さは違ってくる。
仮にアイマスクをする方法が完全に光を感じない人の世界を体験するものだとしても、恐らくその半分も体験出来ていないように思える。
何故なら、まず建物の中に入ってからアイマスクをしても、すでに自分が居る空間の広さや形を見ているのだから体験をする者の頭の中にはそれらが記憶として残っている。
そしてその記憶を頼りに自分が空間のどこに居るのか、周りにどんな障害物があったのか、歩く地面はどんな状態だったのか、それらを思い描いて行動する事ができるからだ。
なので本当に見えない事への不安や闇の中を歩く恐怖を体験するのなら、まずはアイマスクを装着した状態のまま車などで知らない場所へと移動をする。
その時に利用する建物は球場くらいの広さがあると良いかもしれない。
そこで体験者に伝えるのは、今居る場所から右に五十歩進み、そこで左に直角に曲がり五十歩、右に直角に曲がり五十歩……合計十回ジグザグに歩けば目的地に到着できる事。
それぞれの曲がり角には目印として工事現場にある赤い三角コーンが置いてある事。
地面は平で引っ掛かるものは何も無い事。
そして補足として、コースを外れると危ないと嘘を言っておく事……それだけでいいかもしれない。
当然の事だが目が見えていれば何の問題も無くすぐにクリアできる事だと思う。
だがアイマスクをした状態ではどうだろうか?
ある研究では、人は不安を強く感じるほど左へ左へと逸れて歩くのだと言う、それは目を瞑ると謙虚に現れ10mも歩けば左に約1mは逸れてしまうらしい。
なので恐らく一つ目の目印は何とか見つけられたとしても、二つ目、三つ目となると見つけられなくなるのではないだろうか?
歩幅を間違えたと思いそのまま進んでも目印を見つける事が出来ないし、曲がる角度を間違えたと思い周りを白杖で探っても見つからない。
不安になって戻ろうとしても元の場所に戻る事も出来ないし、危険だと聞かされているので闇雲に歩き回る訳にも行かない。
また二つ目、三つ目と目印を見つけられた者が居たとしても、途中で何かあったらどうなるのか?
黙って近付いてきた人と不意に接触をして、自分が進んでいる方向を狂わされる。
途中で話しかけられ数えている歩数が分からなくなってしまう。
きっと多くの人がゴールに辿り付く事が出来ないだけでなく、その場から動けなくなってしまうのではないだろうか。
健常者ならその場で疑似体験を中止し、アイマスクを取り周りの状況を確認する事が出来るが、視覚に障碍を持った者はそれが出来ない。
それでもまだ見えない世界を『簡単』や『容易』と言った言葉で語る事ができるのだろうか?
「確かに心音さんの言う事は正しいけど、それでも僕は疑似体験をしようとする考えそのものが大切なんじゃないかって思うんだ」
『それわ わかりますよ ただわたしがいいたいのわ』
心音が続けて疑似体験についてのあり方について話した。
障碍を完全に再現する方法は無いけれど、少しでも多くの事を感じ取れる工夫をするのは大切な事だと思う。
そうして障碍者が感じている苦労や不安を感じ取れた人もそこで終わりにしないで、次にその不安感で溢れる世界の中で、何に安心感を得て、何を嬉しいと思うのか……それを感じ取ってほしい。
例えば視覚障碍の疑似体験ならば自分の位置を見失って動けなくなった時に、声を掛けてもらい目標のある所まで導いてもらい、周りの状況を詳しく教えてもらえたとしたらどう感じるだろうか?
平らな道に点字ブロックが現れ、目標までの道程を足の裏で感じる事が出来たらどう思うだろうか?
いずれの場合も嬉しさや安心感で心が満たされると思うが、それを感じ取れた人は健常者の社会で点字ブロックの上に自転車を止めたり、点字ブロックの上で立ち話をするのがどれほど酷い行為なのかが理解できると思うし、白杖を胸の位置に上げSOSを示している人に声を掛ける勇気を持つ事がどれほど大切なのかが分かると思う。
同じように車椅子の体験をした人も段差が登れなかったり、狭くて通れない経験したなら、歩道に自転車を止めて塞ぐことがどれほど障碍者を苦しめる迷惑な行為なのかが分かるのではないか?
つまり疑似体験の目的とは障碍者の苦労や辛さを知る事も重要だが、それ以上に障碍者の喜びや安心と言った感情を読み取り、健常者の世界へと戻った時に、障碍者に対して何か優しい行動がとれるようになるかどうか……それが一番大切な事なのではないかと心音は考えていた。
「そうだよね、障碍って苦しい、ツライって負の感情ばかりが取り上げられがちだけど、それだと同情や蔑んだ見方が多くなるのも当然だと思うよ」
「確かにな、一輝の言う通り負の部分ばかりを体験したって、障碍者は可哀想だとか、自分には障碍が無くて良かったとか、そんな感情しか生まれない気がするしな」
『しょーがいは つらいこともおーいけど それいじょーにしあわせなことも たくさんあるんだって わかってほしいです』
前向きな心音の発言に一輝も同意した。
「うん、障碍があるからこそこんな経験があった……障碍があるからこそこんな喜びがあった……そんな疑似体験が出来て、もっと健常者の人達に障碍を理解してもらえる日が来るといいよね」
『はい わたしもそーおもいます』
その後も四人は障碍者の未来について熱く語り合った。




