第二十話 -子供の分かる言葉で-
九歳の壁に関する問題について、まず佑馬が切り出した。
「早速だけど、どうしてろう学校で学んだ子供は知能が遅れてるだとか、そんな酷い偏見があるんだろうな? 何の理由もなく言ってるんだったらそれこそ差別以外の何物でもないぞ」
まず、ろう学校は普通学校に比べて学習内容が二年以上遅れていると言う過小評価……
今でもよく言われている事だが、これに関しては子供の知能云々と言うよりも、教師の教育理念そのものが問題となっている気がする。
なぜなら、教師は聞こえない子供達が健聴者の社会で暮らす為には日本語を覚える事が最も重要だと考えている。
その為に手話を覚えたり話したりする事よりも、口話を覚える事の方を最優先にしているのだが、とにかく唇を読めるようになるまで教科書などは必要の無い物として扱われ、そのかわりに何週間でも何ヶ月でも教師の口元を見続けるだけの授業を強要されるからだ。
「なんだよそれ! そんな授業をしても全員が口話が出来るようになる訳じゃないんだろ? 教師が無駄な時間を費やしておいて、それを子供の能力のせいにされちゃたまんないよな」
佑馬の発言に続き、一輝も怒りの声をあげた。
「確かにこの国で生きていく為には絶対的多数者である健常者に合わせるのは仕方の無い事だけど、それにしたって他に教え方がなかったのか疑問だよね」
『そーなんです わたしも ここねちゃんも こーわをおぼえるときわ けんじょーしゃとはなせるっておもいよりも いやだ やめたいってきもちのほーが つよかったから』
奏の言葉に佑馬が同意する。
「大人達の中でも特に教師って名乗ってる人は、子供にツライとか嫌いだって感情を抱かせた時点で駄目だと思うぞ、そりゃ何かを覚える時に努力は必要だよ、努力をしていない人は『努力をしている人』には絶対に勝てないと思うし……だけど努力をしてる人だって『それが好きな人』には勝てないし、それが好きな人だって『それを楽しんでる人』には勝てないと思うんだ……教師は口話が子供にとって絶対に必要なものだと思うんだったら、まずどうすれば子供達が口話を楽しんで覚える事が出来るかを考えないと駄目なんじゃないか?」
『ゆーまさんのいけん かっこいー』
「え? 本当に? いやぁ~、女の子に褒められるのって気持ちいいな」
奏に褒められて喜んでいる佑馬に続き、一輝が自分の考えを話した。
「日本語を覚えるのが大切なのは理解できるし、そのためには口話を覚えなきゃいけないのも分かるよ、だけどそれが理解出来るのって大人になってからだよね? 子供にはそんな難しい理屈なんて分からないんだから、まずは子供が分かる言葉で話をして、口話がどんなに大切な言葉なのか、口話を覚えればどんな楽しい事があるのか、それを教えてあげる方がいいように思えるんだけど」
一輝の考えには心音も奏も賛成だった。
「でも、ろう学校を卒業した人が揶揄される理由って学力が遅れてるからってだけじゃないでしょ?」
『はい ほかにわ かいてるぶんしょーがへんだとか じょーしきがないとか いわれていますね』
「文章が変? でも心音さんが僕と今話している指点字は日本語の文章だよね? おかしいって感じる所なんて無いけど」
日本語の文章を書く能力は個人によって違うが、その違いはろう者も健常者も関係なくあるのではないだろうか?
現に心音は常に日本手話を日本語に訳すと言う事を考えながら話しているが、おかしな文章になる事はない。
他にも生まれつき耳が聞こえない者でも、小説を書いたりチャットで健常者と普通に雑談をしている者は多くいる。
「心音さんの言うとおり文章を書くのが得意な人も居れば苦手な人も居る、それが当たり前の事だってどうして分からないんだろうね」
「うんうん全くその通り、逆にさ、健常者は全員文豪のような美しい文章を書けるのかって聞かれたらどうするんだ? 普通学校に通っている子供の中には変な文章を書く人は一人もいませんって答えるつもりなのか?」
文章の上手い下手は障碍のある無しに関係なく存在する、また一部の人だけを捉えて、それが全体の事であるかのように言うのは間違っていると思う。
一輝たちが言う事は当然の事なのだが、ネットなどでは今でも度々ろう者が書いたと思われる文章だけが晒され揶揄されている。
確かにその文章は(~が)や(~を)などの助詞の使い方がおかしく「友達のボールで遊んだ」と「友達とボールで遊んだ」と言う文章のように助詞によって意味の変わる言葉が混同されていたり、「美しい 花」のように形容詞+名詞の言葉が「花 美しい」と逆に書かれていたりする。
そしてこのような文章を晒して文法が変だ、高校生にもなってこんな文章しか書けないのか、ろう学校に通う者は知能が低い……そう言って嘲笑う。
「このまえ一輝から、藍原さんや長谷川さんが普段話してる日本手話と、俺たちが普段話してる日本語は全く別の言語だって聞いた事があるけど、だったら日本語の文章が多少変でも矛盾は無いんじゃないのか? 逆にそれを変だって言ってる人の方がおかしいだろ?」
佑馬は続けて発言した。
「ある日、宇宙人がやって来てさ、地球人に『この食べ物はなんだ?』みたいな凄く簡単な質問をしたとするだろ? 答えは分かってるんだよ、分かってるけど宇宙人の言葉も文字も分からないから当然困るよな? 書く事も話す事もできないし、どうやって答えようとか考えてるうちに、『コンナ カンタンナコトモ コタエラレナイナンテ チキュウジンハミンナ バカ~』って言われたのと同しだろ?」
『…………』
「…………」
『ねぇ心音ちゃん……なんか壮大な例え話が出ちゃったけど、意味分かった?』
『何を言いたいのかはなんとなく分かった……ような気がするけど』
「あれ? 何で誰も話さなくなっちゃうの? 俺おかしな事言った?」
一輝は呆れてしまい、心音と奏は手話で話をする、そんな沈黙の時間に佑馬は自分の例え話が滑った事を悟る。
「一輝~! なんかフォローしてくれよ」
「え~っと……英語やドイツ語でなら立派な論文を書ける外国人の教授が、日本語の質問を理解出来ないとか、日本語の文字で論文を書けないからって揶揄されるのはおかしい、同じようにろう者に質問をする時も、日本語と言った手話とは全く違う言語を基準にするんじゃなくて、日本手話で質問をして、日本手話で考えてもらった答えを日本手話で答えてもらう、そうやって判断するのが正しいんじゃないかって事だろ?」
「そうそう! それが言いたかったんだよ」
「あと付け加えて言うなら、聞こえない人は大きな物音をたてるとか、空気が読めないから常識が無いって言う人が居るけど、僕はそれもおかしいって思ってるよ」
「そう! それは俺も思う、だってろう者と健常者は育ってきた文化や感じ方が違うんだから行動が違うのは当たり前だろ? 例えばアメリカ人が日本の家に靴を脱がないまま入って失敗したって話はよく聞くけど、それってアメリカ人の知能が低いのが原因か? 違うよな? 育ってきた文化が違うんだから知らないのが当然なんだよ、そんな時は『日本ではこうしますよ』って教えたらいいだけなんじゃないのか? 聞こえない世界も同じで文化が違って知らないだけ、経験した事がないから分からないだけ、ただそれだけの事なんだから教えてあげればいいんだよ、教えてあげればちゃんと理解してくれるんだから、なのに教えもしないで非常識ってレッテルだけ貼って侮辱するのは格好悪いと思うぞ……って、今のアメリカ人の例えはおかしくないよな?」
『はい いまのわ いみがわかりますよ』
「よかった~、また一人だけ浮くかと心配したよ」
奏の言葉に佑馬は安堵した。
結局、ろう学校だけを経験した者を軽んじる言動には明確な理由など無いのではないか?
すべては日本語と日本手話は全く違う言語なのだと理解していない事……
日本に住んでいる者は障碍の有無に関係なく全員日本語を理解していると思いこんでいる事……
言葉が通じない、想いが伝わらないと言った苦労を経験した事がなく、それがどんな世界なのか分からない事……
自分が理解している事は誰もが理解していて当然と思い込んでいる事……
それら小さな誤解や思い込みの積み重ねが、ろう者への無理解と蔑視に繋がっているように思えてならない。
少なくとも、日本語の文章が変だから知能が低いとか、経験した事も無いろう学校の事をあれこれと侮辱する者は『聞こえない世界』について何も知らないどころか、知ろうともしていないように思える。
「でも、そんな人ばかりじゃないと思うんだよ、障碍を理解しようと疑似体験が出来るところがあるみたいだし、そこにはいつもたくさんの人が集まるみたいだし」
「一輝の言いたい事は分かるよ、だけど聴覚障碍を疑似体験する人が多いのに、ろう者を揶揄する意見に対して擁護する意見が圧倒的に少ないのはどうしてなんだ? 疑似体験をしたなら聞こえない世界がどんな物なのか、どんな苦労があるのか、常識と言われている事の中にもどんな勘違いがあるのか分かる筈だろ?」
「それは、疑似体験をした人が悪いんじゃなくて、疑似体験の内容そのものが完全なものではなく、聞こえない世界の全てを伝えきれていないからだと思うんだ」
一輝は世間でよく行われている聴覚障碍や視覚障碍の疑似体験について自分の考えを話し始めた。




