第十九話 -聾への歪んだ捉え方-
「うろ覚えだけど九歳の壁って言葉は知ってるよ」
一輝は心音に質問された事について答えた。
「視覚支援学校では『九歳の峠、十歳の壁』って言い方をしてたけど、元々は確か東京教育大学付属ろう学校の校長先生が仰った言葉じゃなかったかな? ろう学校に通う子供達は小学校の低学年までは健聴児と同じように教えてもいいけど、高学年になってくると教える内容が具体的なものから抽象的な内容になってくるから、学習面や言語面の発達において壁につきあたることが多い、だから先生方は壁を乗り越えさせる工夫をして教えましょうって事だよね? ただそれって聴覚障碍の子供に限った事じゃないでしょ? 多少の差はあっても子供なら誰だって直面する問題だと思うし」
例えば三年生の算数では、それまでに丸暗記した九九を応用して計算する『割り算』や『分数』、自然界ではあまり馴染みのない『小数点以下の計算』が出てきたり、国語では具体的に目で見て理解できる学習から、抽象的な思考や論理的な思考を必要とする学習へと変わったりする。
また体育の授業でも身長や体重などの個人差が大きくなり始め、子供によってさまざまな能力の差が広がり始める。
そのため、子供が最初につまずきやすいこの時期をどう乗り越えていかせるか、運動が得意、算数が得意と言った個人の特性をどの様にのばしていくか、大人達はそれらを考えた指導内容にしなければならない。
これが九歳の壁の基本的な考えだと思う。
『はい ほんとーのいみは それであってるとおもいます』
「本当の意味? 本当も何も、他に意味なんてあるの?」
しかし聴覚障碍者に関わる大人達は、九歳の壁に対して工夫をして授業をするどころか、教える事すら放棄したのではないかと思えるほど歪んだ捉え方をしていた。
それは……
ろう学校だけで教育を受けた子供や日本手話でしか会話の出来ない子供は、たとえ高等部へ進学したとしても九歳程度の知能しかない……
どんなに頑張っても九歳の壁を乗り越える事は出来ず、それ以上の知識を得る事は出来ない……
そんな、偏見に満ちた酷いものだった。
「!!!!!!!」
その時、一輝が拳を握り締めたまま急に立ち上がった。
突然視界から外れてしまった為、心音は唇を読む事が出来なかったが、周りの人の様子から一輝が大きな声で叫んだことは分かる。
『ねぇ心音ちゃん……一輝さん怒ってるわよね?』
近くで見ていた友人が心配して話しかけてきた。
『私は心音ちゃんの手元と一輝さんの口を交互に見るのが精一杯で全部読みきれてなかったけど、何か怒らせるような事でも言ったの?』
『ううん、私は九歳の壁について説明してただけなんだけど……もしかしたら気付いてないだけで酷い事言っちゃったのかもしれない……どうしよう』
心音は目に涙を浮かべながら友人に会話の内容を詳しく話した。
『なるほどね……大丈夫よ心音ちゃん、たぶん一輝さんは心音ちゃんに対して怒ってる訳じゃないから』
『本当に? どうしてそう思うの?』
『だって今の会話から考えると「よくも僕の愛する心音さんをバカにしたな! 絶対に許さん!」って気持ちになって怒ったんだと思うもの』
『そう……なのかな』
心音が友人と話していると、一輝のサッカー仲間の青年が一人近寄ってきた。
「何怒ってんだよ一輝、彼女さんと楽しく話してたんだろ? 痴話喧嘩でもしたのか?」
「違う! そんなのじゃなくて!」
一輝はまだ怒っていたが、青年に対して心音との会話の内容を説明し始めた。
「そりゃ酷い偏見だな、一輝じゃなくても怒るのが当たり前だって」
「うん……何て言ったらいいのか分からないけど、僕の大切な人を侮辱されたような……そんな感じがして」
「うんうん、わかるわかる」
一輝の口を読んでいた友人が驚いた表情で心音に話しかけてきた。
『心音ちゃん! 一輝さん今「僕の大切な人」って言ったわよね? 私の読み間違いじゃないわよね? ほらほら、やっぱり私の言った通りじゃない』
『一輝さん……』
『それにしても大人の男の人は違うわよね~、クラスの男子だったら絶対に照れ隠しで誤魔化したり、逆に悪口を言ったりするのに、お友達の前でもキッパリと言い切っちゃうんだもん、漢だね~! 惚れちゃうね~!』
心音は嬉しさのあまり涙をこらえる事が出来なかった。
「一輝の気持ちも分かるけどさ、いつまでも怒ってたら彼女さんが心配するぞ、何だったらまたハグしてもらって落ち着けばいいじゃん」
「な! 何言い出すんだよ!」
「だって前に言ってただろ? あの時は癒された~、柔らかくて気持ちよかった~、いい香りがした~、もう一度クンカクンカしてみたい~って」
「捏造するなよ! 癒されたとは言ったけど、後半部分は言ってないだろ!」
「でも、あながちデタラメとは言えないだろ?」
ふざけあう二人の会話に友人が食いついてきた。
『心音ちゃん、今の会話見た? おっぱい攻撃の威力凄いじゃない』
『ちょっと、変な呼び方やめてよ!』
『でもさ、お友達もああ言ってる事だし、一輝さんも密かに期待してると思うし、ここは思い切ってやっちゃえやっちゃえ!』
『で、でも、そんな恥ずかしい事……』
心音は少し躊躇したが、自分の為に怒ってくれてる一輝の心を癒すことが出来るのなら……そう思い一輝をそっと抱きしめた。
「こ、心音さん、ちょっと!」
「え? もしかして彼女さん本当にハグしてくれてるの? あぁ~! 羨ましいな、おい!」
「冗談言ってる場合じゃないだろ! 心音さん、もういいから!」
「彼女さ~ん、そんな事言ってるけど本当は離れてほしくないって思ってますよ~、それに一輝は一度怒ったら落ち着くのに時間が掛かるから、カウントダウンが終わるまでずっとハグしててくださいね~……ではカウント10000から始めます! 9999! 9998!」
「日付変わっちゃうだろ!」
話の内容が差別的な事柄だっただけに少し重い空気になっていたが、青年のおかげでその場の雰囲気は和らぎ、一輝は落ち着きを取り戻す事ができた。
「ごめんね心音さん、変な空気にしちゃって」
『いいえ わたしのためにおこってくれたんですよね? すごくうれしかったですよ』
「そう言ってもらえると助かるよ」
安心した様子の一輝に、心音は一つの提案をした。
それはろう学校の問題に対し、一輝の友人の意見も知りたいと言った事だった。
「うん、この問題は結構根が深そうだし、僕の考えだけじゃなく色々な意見を聞いた方がいいかもしれないね」
『それで わたしのおともだちも いっしょにおはなししても いいですか?』
「勿論、大歓迎だよ」
心音は一輝と並んで座り、その正面にお互いの友人が並ぶ形で座る事にした。
そして心音は友人が口話が苦手なのでいつもより少しだけゆっくりと話してほしい事や指点字は自分と練習しているので一通りは話せる事、あとは読み取れなかった時は自分が友人に手話で説明する事などを一輝に話した。
「それで僕達は指点字を要約して声に変換すればいいのかな?」
『はい おねがいしますね』
「じゃあ早速だけど、心音さんと僕以外は会うのが始めてだから自己紹介から始めようか?」
『わかりました わたしわ あいはらここね じゅーななさいです よろしくおねがいします』
「僕は松尾一輝、大学の三年生」
心音と一輝に続き、友人達も自己紹介を始めた。
『はじめまして わたしのゆびてんじって よめてますか?』
「ちゃ、ちゃんと分かるから大丈夫大丈夫……えっと、その……隣に女子高生が座って手を重ねるのってなんか緊張するな、あははは」
『よかった わたしわ はせがわかなで ここねちゃんとわ どーきゅーせいのおさななじみです』
「は、はじめまして長谷川さん……俺は三宅佑馬、二十一歳、俺も一輝とは子供の頃からいつもつるんでて、まぁ俗に言う腐れ縁ってやつかな? いい事も悪い事も大抵一緒にやってきたから弱点も全部知ってる訳で、その辺りは後々ゆっくりと藍原さんにも教えてあげようかと思ってるんだけど……」
「余計な事は言わなくていいから!」
『じゃあわたしも ここねちゃんのひみつを かずきさんにおしえてあげないと』
「え? 藍原さんの秘密? それは俺も聞きたい聞きたい!」
『かなでも へんなこといわないで!』
「あはははは」
こうして心音たちによる日本手話と指点字、口話と音声言語を交えた意見交換会が始まった。