第十八話 -認めてもらえない者-
「僕には手話単語の並ぶ順番が違う事がどれくらい読み取る事に影響してるのか分からないけど、心音さんも日本語対応手話は読み取れないって感じてるのかな?」
『いいえ わたしわ よみとれないということわないですよ』
心音はまず自分の目には日本語対応手話がどのように映っているのかを話し始めた。
声を出して話している言葉の順番通りに手話単語を並べる日本語対応手話……それは心音の目には『少し読み取りやすくなっている口話』と言った感じに映っていた。
「たまご」や「たばこ」や「なまこ」のように同じ口の形をしていて読み取りにくかった言葉でも、同時に手話単語を示しているおかげで口の形だけを読み取っている時よりも間違いは少なくなる。
ただ文法などは日本語のままなので、心音は頭の中で『日本語通りに並べられた手話単語』を『日本手話に訳す』と言う工程を踏まないと意味を理解する事が出来なかった。
ただ、だからと言って日本語対応手話は必要ないものだとか、嫌いだと言う感情が心音の中にあるかと言えばそうではない。
日本手話は日本語とは別の文化から生まれた言語なので、どうしても耳から言葉を覚えた健常者には覚えにくいものとなっている。
それは中途失聴者や難聴者にも言える事で、最初に音声言語を覚え、頭の中に声のイメージや日本語の文法がある者には日本語対応手話の方が覚えやすいのはあきらかである。
なので日本手話はろう者が話しやすい、ろう者の為の手話……
そして日本語対応手話は日本語を覚えてから聴覚を失った者が覚えやすい、中途失聴者や難聴者の為の手話……
どちらが話しやすいとか、どちらが優れているとか、そんな問題ではなく、どちらもそれを必要としている人が居る大事な言葉……それが心音の考えだった。
ただ、ろう者の全てが心音と同じ考えかと言うとそうではない。
むしろ心音のような考えの者は少数派になってしまう。
生まれつき聞こえないろう者……そう一言でいっても育った環境の違いや日本手話を覚えた時期、親や周りの大人達の考えと言った要素が日本語対応手話を見る目に色濃く反映されている。
特に好き嫌いと言った感情や思い込みの占める割合は大きいと言えるかもしれない。
心音のように『読み取りやすい口話』ではなく『カタコトの日本語のように読み取りにくい言語』だと例える者もいるが、どちらも日本手話を話せる者がかろうじて読み取れている事には変わりない。
『読み取れない』『見ているとイライラする』『あれは手話ではない』
そんな考えを持っている者は嫌悪感や先入観のあまり最初から読み取る気が無いのではないか? 心音はそう思っていた。
「確かに嫌いだとか苦手だって意識があったらそうなるかもしれないな……英語なんかでも最初から嫌いだって思ってたら先生の話す英文なんて耳に入ってこないし、覚える気にもならないからね」
『それに たいおーしゅわがきらいだというかんじょーわ ほかにももんだいが あるんです』
心音は今現在も起こっているろう社会の問題点を話した。
それは日本語対応手話を嫌う者が『坊主憎けりゃ袈裟まで憎い』的な考えで、日本語対応手話を話す者や、日本語対応手話に賛成する者さえも敵視するようになった事だった。
日本手話を話すろう者だけを集め、ろう者独自の文化を築き、守っていく……
その為に日本語対応手話を手話とは認めない、日本手話を話せない者はろう者とは認めない、そんな人達とは交流を持たない……そんな愚かな行為に出たのである。
デフリンピックを知らない聴覚障碍者が居る事の理由はここにあるのだと思う。
また、その愚かな行為の結果、中途失聴者や難聴者は聞こえないのにろう者として認めてもらえず助けてもらえない……しかも健常者の世界でも聞こえない為に苦労をする……そんな『ろう者でも聴者でもない存在』になってしまったのだ。
「そんなの絶対におかしいって! どうしてそんな考えになったのか理解できないよ」
『わたしも おかしいとおもいます』
ろう者は聞こえない事の苦労や悲しみは誰よりも分かっている筈なのにどうしてそんな酷い事が出来るのか……
むしろ中途失聴者は聴覚と言った大事な物を失い、突如聞こえない世界へと放り出された分、悲しみや苦しみが大きいかもしれないのに、どうして助けようともしないのか……それを考えると心音は悲しい気持ちになった。
「でも、どうしてそこまで頑なに日本語対応手話を嫌う人が居るのかな? 何が原因とか分かれば解決できる事だと思うんだけど」
『てきかくに これがげんいんだということわ ないとおもうんです』
日本語対応手話を嫌う理由……それは昔のろう学校、(現在の聴覚支援学校)の教師や周りの大人達の考えや行動の中に小さな問題がいくつもあったからだと思う。
かつて、ろう学校しか知らない先輩方が小さな不満をレンガのように積み始めて、それが高くなればなるほど不満の他に憎しみと言った感情までもが芽生えてしまい、気が付けば積み上げたレンガは取り返しの付かない高さの壁になっていたのではないだろうか。
しかしこの問題は決してろう者だけの責任ではない。
ろう者が作った壁の反対側を、健常者や中途失聴者が補強したり、崩れかけた所に新たなレンガを積み上げているようにさえ思える。
「心音さんは中途失聴者や健常者の方にはどんな問題があると思うの?」
今でもネットなどで時折ろう学校と普通学校のどちらで教育を受けたほうが良いのか? どちらの手話を覚えたほうが良いのか? そんな問題が語られているが、心音はその度に言いようの無い気持ちになっていた。
心音は保育園から初等部、中等部、高等部と聴覚支援学校へ通っている。
だから聴覚支援学校はこんな所ですと言った感想や学校での楽しかった事、つらくて悲しかった事……そんな事なら何時間でも話す事は出来た。
だが、普通学校と比べてどうですか? と言った質問や、普通学校に行きたいですか? と言った類の話には答える事は出来なかった。
なぜなら、心音は普通学校がどんな所なのか知らないから……
どんな授業内容なのかは本やネットの記事で読んだ事はあっても、実際に経験した事が無いのでそこで学んだ子供がどんな気持ちになるのかは分からず、比べる事など出来ないのが当然であった。
しかし聴覚支援学校と普通学校の討論を読むと
「聴覚支援学校しか知らない子供は常識が無く、気遣いが出来ない」とか
「聴覚支援学校は学力が低い、だから普通学校の方がいい」と言った意見が多い事に心音は納得が出来なかった。
保育園と小学校は聴覚支援学校へ通い、中学校からは普通学校へ……そんな風に両方の学校へ通った者の意見もあるが、それでも全てを理解して話している訳ではないと思う。
保育園から高等学校までの全てを聴覚支援学校で学び大人になった者が、漫画や小説のように時間を撒き戻し、もう一度保育園から高等学校までの全てを普通学校で学ぶ経験をしたのなら、こんな違いがあった、だから人格形成や学力にこんな影響があったと比べる事が出来るが、そんな事は現実にはありえない。
聴覚支援学校だけで学んだ者を多く知っているとか、話しを聞いたとか、そんな事だけでどうして結論を言い切る事が出来るのだろうか?
「例えばだけど、それって『お饅頭とケーキのどっちが甘くて美味しいですか?』って聞かれた時の状況に似てるよね?」
『え?』
一輝の言葉に心音は困惑した。
「だから、両方食べた事がある人だったら、お饅頭に比べてケーキは脂肪分があるから少し重かったとか、お饅頭よりもケーキの方が色々と味の種類があるからいいとか、そんな感想を言えると思うんだ」
『はい それでも こじんのかんそーっていきわ でませんけどね』
「うん、だけどお饅頭しか食べた事のない人が、ケーキは見た事があるとか、食べた人をいっぱい知ってるとか、こんな意見を聞いたってだけで『ケーキは胸焼けがするから駄目だ! お饅頭の方が甘くて美味しい!』って断言したり批判したりするのはおかしいよね? それと同じじゃないかな」
心音は少しの間を置いて答えた。
『かずきさんのたとえばなし かわいーです』
思わぬ言葉に一輝は照れてしまった。
「えっと……変な例え話でごめん……とにかく、どうして聴覚支援学校の方が学力が低いとか、そんな酷い判断がされるんだろうね?」
『かずきさんわ きゅーさいのかべって しってますか?』
一輝の問いに対して、心音は聴覚障碍に関わる大人達の問題点を話し始めた。