第十二話 -私はあなたのことを-
ある雨の日の放課後、心音はいつものように一輝の待つ施設へと足を運んでいた。
施設に到着した心音は扉を開けると首から提げている笛を咥え、いつものように息を吹き込んだ。
その音に気が付いた一輝は扉の方へと顔を向け答える。
「こんにちは心音さん、今日は手伝って欲しい事がいっぱいあるんだけどいいかな? いま童話の本を点字に訳し終わって、これと同じ物があと五冊欲しいんだけど」
一輝にとっても心音が来てくれるのは自然な日常の一部となっていた。
『わかりました にもつをおろしたらすぐにはじめますね』
「点字のコピー機があれば楽なんだろうけど、うちみたいに少人数の施設だとどうしても価格的にね……」
『ゆびてんじのれんしゅーになりますから かまいませんよ おかげでさいきんわ ゆびもすむーずにうごくよーになりましたからね』
そう伝えると心音はすぐ本を作る作業に取り掛かった。
見本を基に点字を打ち込んでいる隣では一輝がピアノを弾き、それに合わせて子供達が楽しそうに歌っている。
いつも通りの優しい時間がゆっくりと過ぎていく。
五冊目の本を作り終え背筋を伸ばすように両手を挙げた時、部屋の片隅に大きな風船がいくつも置いてあるのが目に入った。
ちょうど子供達の歌も終わったようなので一輝の隣に座り聞いてみた。
『おへやのすみに おーきなふーせんがあるんですけど あれわ こどもたちがもってきたんですか?』
「ああ、その風船は僕が持ってきたんだよ」
どうやら大きな風船は一輝が用意した物らしい。
心音はきっと子供達と遊ぶゲームか何かで使うのだろうと考えた。
『これでどんなあそびをするんですか?』
「いや、これは子供達と遊ぶ為に持ってきたんじゃなくて」
それは心音の為に用意した物なのだと一輝は話し始めた。
耳が聞こえない人でも文字として書かれた歌詞は読むことが出来る。
知らない国の言語や抽象的な表現は別としても、それが日本語で書かれた歌詞ならば、内容を理解し感動したり笑ったりする事が出来るはずである。
ならば、まずは歌詞に+αの力を与え心を揺さぶる歌にする曲の事を、音楽の楽しさや素晴らしさの事を理解してもらうのがいいのではないか?
音楽とは何なのか……
明るく元気になれる音楽とはどんな物なのか、暗く悲しい気持ちになる音楽とはどんな物なのか、それを耳ではなく体全体で感じる事が出来れば歌を知る第一歩になるのでは、それが一輝が考えて導き出した一つの答えであった。
『それでふーせんわ なににつかうんですか?』
「まずはこの風船を体の前で持ってもらって」
一輝は風船を抱きかかえた心音を大きなスピーカー前に導くと、何かのCDをセットした。
「今から行進曲って言う明るい音楽を流すからね」
一輝がスイッチを押すと風船を通して振動を感じる事が出来た。
絶えず震える振動の合間を縫って大きな振動が一定の間隔で伝わってくる。
(この大きな振動が音楽のリズムって言う物なの? 一輝さんは行進曲って言ってたから、この振動に合わせて歩きなさいって事なんだと思うけど)
子供達を見ると楽しそうにその場で足踏みをしていて、その足を下ろす間隔と振動の間隔が同調しているように見える。
(やっぱりそうなんだ! スピーカからはみんなの歩調を合わせる為に聞く音楽が流れてるのね、でも歩調を合わせて歩くのは私も小学校の運動会で光の点滅を見ながらやったけどあれは全然楽しくなかったわね、一定の振動は楽しくて一定の点滅は楽しくない、二つの違いって何なの? 何がどう違うのかしら?)
振動が伝わらなくなると一輝はCDを入れ替えて別の音楽を流した。
「今度はドラマなんかで悲しい場面によく使われる音楽を流すね」
一輝はその後も何度かCDを入れ替え、今からどんな感じの音楽を流すのかを説明しながら再生を繰り返していった。
「どうだった? 音楽がどんな物なのか少しでも伝わったかな?」
一輝が満面の笑みで聞き返してくるので心苦しい部分もあったが、何でも正直に話し合うと約束をしたので心音は素直な意見を述べた。
確かに風船を伝わる振動から音と言う物が自分の周りに存在する事は感じられた。
一輝が楽しいと説明した音楽は風船が大きく震え、対照的に悲しいと説明した音楽は風船が小さく震え、音楽に込められた感情によって振動の大きさやリズムの速さが変わる事もわかったし、音とは空気中を伝わる振動なんだと体感する事も出来た。
しかし、風船が大きく震える事の何が楽しいのか、小さく震える事の何が悲しいのかが分からなかった。
「ん~……やっぱり今の方法じゃ駄目だったんだね」
『ごめんなさい かずきさんがいっしょーけんめいかんがえてくれたのに』
「心音さんが謝る必要なんてないよ、僕もそんな簡単に音楽の楽しさを伝える事が出来るなんて思ってないし、それよりも次の方法を考えるヒントにしたいから風船からは何も伝わらなかったのか、それとも何か一つだけでも伝える事が出来てたのか、思った事を全部教えてくれないかな」
どこまでも前向きな考えの一輝に対し、心音も正直な意見を包み隠さずに伝えた。
「言われてみればそうだよね、一人で試してた時は音を聞きながら振動を感じてたから曲のイメージが分かるような気がしてたけど、振動だけだったら確かに何も分からないよね……う~ん、よし! また新しい方法を考えるからもう少し待っててね」
『わかりましたけど あんまりむりをしないでくださいね』
「大丈夫大丈夫、全然無理なんてしてないから」
一輝は笑いながら後片付けを済ませると子供達を見送る事にした。
「一輝お兄ちゃんバイバ~イ」
「みんな気を付けて帰るんだよ」
「は~い!」
心音も帰り支度を終え挨拶をしようとしたその時、一輝から意外な言葉が掛けられた。
「心音さんはお腹すいてない? もしよかったら何か食べに行こうよ」
『いまからおしょくじですか?』
「うん、ご馳走するから遠慮しなくていいよ、毎日色々と手伝ってもらってるし、その御礼にと思って」
『ありがとーございます よろこんでいただきますね』
ちょうどお腹もすいてきた事だし、心音は素直にその好意に甘える事にした。
駅前にあるレストランに入ると二人は一番奥の席に並んで座った。
『かずきさんわ なににしますか?』
「この店には点字のメニューが無いから、どんな料理があるのか教えてもらえないかな」
『わかりました! おおすすめってかいてあるのがあって』
心音は自分の感想も交えながら一生懸命メニューの説明をした。
『えびふらいがすごくおいしそーで でも ぐらたんもすごくすごくおいしそーだし それから……』
「はははは、心音さんの説明だとどれも美味しそうで迷っちゃうよ」
二人であれこれと考えている時間も、注文をして料理が運ばれてくるまでの時間も、一輝と話をしていると長く感じる事は無くとても楽しかった。
食事が終わり食後のコーヒー待っている時、心音は何気なく二つ前のテーブルに視線が行った。
そこには三十代と思われる女性を挟むように小学生くらいの子供が二人座っていた。
当然の事だが女性はこちらを見た訳ではないし、心音や一輝の事を話している訳ではない。
だが次の瞬間、女性の唇の動きに彼女は心を打ち砕かれる思いがした。
「もうおなかいっぱ~い」
「駄目でしょ! ご飯を残すと目が潰れて見えなくなっちゃうわよ!」
心音は唇を読んだ事を後悔した。
ご飯を残すのが悪い事だと教えるのはいい、だが、どうして悪い事が視覚を失う事に繋がるのか全く理解出来ない。
自分に対して酷い言葉を投げ掛けられた時は怒りの感情よりも呆れる思いの方が大きかったが、今は悲しみや怒りの感情が大き過ぎて抑えられない。
心音は体が震えるのを止める事が出来なかった。
(私はたまたま視線が行っただけで見なかったら何を言ってるのか分からなかった、でも一輝さんは……音が聞こえる一輝さんの耳にはきっと今の言葉は届いてしまったはず)
ただならぬ雰囲気を感じたのか一輝は笑って話し掛けて来たが、逆にそんな優しさが心音の悲しみと怒りを増長させた。
(差別しようと思って言ってるんじゃないって分かってるけど、本人はただの軽い迷信のつもりで言ってるのは分かってるけど、どうして何も感じないでそんな酷い言葉が言えるの! 一輝さんの目が見えないのは悪い事をしたからだって言いたいの?! 目が見えなくなっても仕方ない悪い事って何なの?! 教えてよ!)
大声で叫びたいのに、相手を怒鳴りつけてやりたいのに、今日ほど声が出せない事を悔しいと思った事はなかった。
どうやらそんな気持ちは一輝にも伝わったようだった。
「ありがとう、心音さんは僕の代わりに怒ってくれてるんだよね」
優しく話すその姿に、彼女は自分の本当の気持ちに気がついたようだった。
(障碍を持った私は人に対して好意を持ってはいけないって……私なんかが好きになれば相手に迷惑をかけてしまうって、心のどこかで考えていたんだと思う……
世の中で一番幸せになってほしい人を不幸にしてしまう……それが怖くて無意識のうちに考えないようにしていたのかもしれない……
でも……
私は只単に点字に興味があったから勉強した訳じゃない……
一輝さんの事が知りたかったから……一輝さんともっとお話がしたかったからこそ夢中で指点字を覚えた……
一輝さんに会いたくて、少しの時間でもいいから一輝さんの傍に居て笑顔が見たかったから……だから施設に通うようになった……
そして今こんなに辛いのは一輝さんが悲しむ言葉を投げ掛けられたから……
自分に対してなら我慢できた事も胸が張り裂けそうなくらい悔しいのは一輝さんが侮辱されたから……
そう……今ならハッキリと言える
一輝さん……
私はあなたの事を愛しています……)
女性が言った言葉……
某サイトでチャットをしていた時に、ある人が何気なく言った言葉なんですけど、後で調べてみると結構有名な迷信のようですね。
ご飯を粗末にすると目が潰れる
妊娠中に火事を見ると子供に赤いアザが出来る
妊娠中にお葬式を見ると子供に黒いアザが出来る
かまどの上に包丁を置くと兎唇(唇が割れた)の子供が生まれる
火鉢の火を触ると吃音(声が詰まる)になる……等々
いけない事を戒める為に迷信を作るのは分かりますけど、どうして悪い事をした代償が障碍なんでしょうか?
障碍とはそんなに忌み嫌われるものなのでしょうか?
迷信を作った昔の人も、それを何も感じずに使う現代の人も、どちらの気持ちも分かりません。