第十一話 -文字で表わす音や声-
翌日、教室の中を見渡すと、昨日あった出来事を思い出し、恥ずかしさのあまり授業に専念出来ないでいる心音の姿がそこにはあった。
その様子を見ていた友人は何があったのか心配になり、休み時間の合図とともに話しかけてきた。
『ねぇ心音ちゃん、今日は授業中ずっと変だったけど、どうかしたの?』
『え? そ、そんな事ないわよ』
『ううん、絶対に変! ニヤニヤしてたかと思ったら急に真っ赤になって顔を押さえたり、ボーっとしてたかと思ったら急に顔の前で何かを払うような仕草をしたり、そわそわして全然落ち着いてなかったじゃない』
『それは……』
『昨日あれからいつもの施設に行ったんでしょ? そこで一輝さんと何かあったんじゃないの?』
『ななな、何もなかったわよ、いつも通り普通にお話をしただけだし』
焦って言葉を濁す心音に友人は鋭い表情で問い詰めた。
『もう! そんな誤魔化しが私に通用すると思ってるの?』
『別に誤魔化してなんか……』
『とにかく、心音ちゃんの態度から見て一輝さんと何かあったのはバレバレなんだから! それで悩んでる事があるんだったらまずは私に相談しなさいよ! とは言ってもどうせあの表情から考えられる事と言えば、手を繋いじゃった~! キャ~! とかその程度の事なんでしょうけどね』
詰め寄る友人に観念したのか、心音は少しずつ昨日あった出来事を話し始めた。
『……ちょっと待って、私の想像の斜め上を行きすぎて理解出来ないんだけど……ごめん、もう一度話してくれない?』
『だ~か~ら~……』
話を聞き終えたあと、友人は人差し指を眉間に当てしばらく考え込んでしまった。
『え~っと、昨日一輝さんとの間であった出来事をもう一度確認するけど、いい?』
『うん……』
『まず一輝さんの両手を持って心音ちゃんの顔や髪に触れさせて、そのあと全身をくまなくさ触れさせた……』
『うん……』
『で、次に一輝さんの顔に心音ちゃんの胸を押し付けるようにしてハグしたと……』
『押し付けるって言っても別に変な意味なんてないんだからね!』
『変な意味も何も、どんな状況になったらそんな事をする必要性が出てくるって言うの? まぁ好きな男の人に対してだったら有り得る事なのかもしれないけど』
『だから好きとか、そんなのじゃなくて!』
心音は顔を真っ赤に染め、焦りを隠せないまま必死に言い訳をした。
『一輝さんが珍しく弱気になってて……だから何とか元気付けてあげなきゃって思って』
『ふ~ん……』
『私の顔を見る事が出来ないって不安な気持ちになってたみたいだし……だから私って言う存在を知ってもらう為に……えっと……その』
『へぇ~……』
『聞こえる人はお母さんのお腹の中の記憶があるから心臓の音を聞くと安らぐとか、何かの本で読んだ事があるし』
『ほほう……』
『ハグするとドーパミンとかセロトニンとかよくわかんないけど難しい物が脳内にドバドバ~って出てきて落ち着くとかも読んだ事があるし』
『ふむふむ……』
『どうせなら両方やった方が効果があるかな~って思って……だから……えっと』
『……』
『……』
『……』
『うえ~ん』
『ちょっと! 泣く事ないじゃないの、別に責めてる訳じゃないんだから』
友人は心音の頭を何度か撫でてあやした。
(でもね、そもそも心音ちゃんが男の人をハグするって時点で、その人に対して凄い好意を持ってるって事だと思うんだけどな……普通に考えて嫌いな人にそんな事しないでしょ?……まぁ、今それを言ったらますます意固地になりそうだから黙っててあげるけど……)
友人は大きなため息をついた後、話を続けた。
『で? どうするつもりなの?』
『どうするって?……』
『恥ずかしいのは分かるけど、もう一輝さんの所へは行かないつもりなの? そんな事できないでしょ?』
『それはそうだけど……でも……』
心音は他にも何か悩んでいる様子だった。
『不安な気持ちを癒してあげたいって考えてたのに、逆にうるさくして不快な思いをさせちゃったかもしれないから』
『よくわかんないけど、だったら尚更の事謝りに行かないと駄目じゃない、私も一緒に対策を考えてあげるから、まずは何をしたから不快にさせたと思ってるの?』
心音の話によると、一輝を抱き締める時に恥ずかしさのあまり激しい動悸に襲われていたのだという。
その心臓の音が大きすぎて耳障りだったのではないかと心配しているらしい。
『なるほどね~、確かに漫画だと恋人同士が抱き合う場面なんかは凄く大きな文字でドキドキって書いてあるものね』
『うん、あれだけ大きな文字で書いてあるんだから、きっと周りの音や話し声なんか聞こえなくなるくらいの音が出てるんだと思うわ』
『小説なんかでも、バクバクと心臓が鳴り響いてるって表現もあるくらいだし』
『私の心臓もきっと漫画や小説にも負けないくらい大きな音で鳴ってたと思うの、特に一輝さんは普段から音に頼って生活してて聴覚が鋭いから凄くうるさかったと思うわ……』
心音達は「うるさい」と言う感覚を体験した事が無く、詳しくは分からなかった。
しかしそれは、手話を話している最中に目の前で何かをチラチラと振られるくらい会話にとっては邪魔な事で、不愉快な思いをする事なのだと授業で習った。
そう考えると一輝に長い時間不愉快な思いをさせてしまったのだと想像でき、心音はますます落ち込んでしまった。
『でも女の子が恥ずかしい事をしたら鼓動が早くなるのは当たり前なんだからさ、一輝さんもきっとそのあたりは理解してくれてるわよ、それに……』
『それに? 何?』
『どれだけ大きな音が鳴ってたとしても、それ以上に心音ちゃんの胸の感触が柔らかくて温かいから、不愉快と心地良いが相殺しあってプラスマイナスゼロってところじゃない?』
友人は笑いながら心音の胸を指でつついた。
『な! 何するのよ!』
『よしよし、それだけ元気があれば大丈夫ね、じゃあ今日は学校が終わったらすぐに施設に行って一輝さんに謝ってくるのよ』
『うん、わかった』
心音は大きく頷いた。
その後は普段通り残りの授業を終え、一目散に一輝の待つ施設へと向かったのだった。
施設に着くと心音は震える手で扉を開けた。
きちんと謝ろうと決意はしたものの、やはり昨日の事を思い出すと緊張してしまい、手を滑らせた拍子にいつもよりも強めに扉が閉まってしまった。
その音に反応して一輝が振り返り何やら話しているが、心音の場所からは遠すぎて唇を読む事は出来なかった。
(え! まだ笛を吹いてないのに一輝さんがこっちを見た……やっぱりこんなに離れてても気付くくらい大きな音が出てるんだわ)
心音は一輝の所まで歩いて行き、申し訳なさそうに腰掛けた。
『かずきさん こんにちわ』
「こ、こんにちは心音さん」
心なしか一輝も昨日の事を気にして緊張しているように思えるが、まずは謝らなければと話を切り出した。
『かずきさん きのーはごめんなさい』
「ううん、心音さんが謝る事じゃないよ、僕が情けない所を見せちゃったから……だから心音さんは無理をして慰めてくれたんだよね」
『むりなんかしてないです それより』
心音は恥ずかしさに必死に耐えながら抱き締めた理由や、決して無理をした訳ではない事を話し、次に心臓の大きな音でうるさくして不愉快にさせた事を謝った。
「心臓の音って、確かに胸に耳を当ててる間は少しだけ聞こえたけど……」
一輝は少し照れながら話した。
「でもうるさいなんて思ってないよ、何て言えばいいのか分からないけど、すごく落ち着いた気持ちになれたし、ってなんか変な事言ってるね、ごめん」
『いいえ でも あのときわたしすごくどきどきしてたし まんがだとおーきなもじで どきどきとか ばくばくってかいてあるから きっとおーきなおとがしてるとおもって』
このとき一輝は、心音の言葉に違和感を覚え、何か勘違いをしているのではと思った。
「ちょっとまって、さっきからドキドキって音がうるさいとか何とか少し話が変なんだけど、心音さんは擬音ってどんな言葉だと思ってるのかな?」
『えっと きいたままのおとを もじにしてるって がっこーでおそわりましたけど』
「それだけ? 他には?」
『え? ほかにわなにも だからきこえるひとわ こんなばめんでわ こんなおとをきいてるんだって まるあんきしてました』
一輝はその事を知り納得したようにうなずいた。
「なるほどね、だからか……」
『どーしたんです? わたしなにかまちがってますか?』
音を知らない心音にとって擬音は文字として記号の組み合わせを覚えるだけの物だった。
なので漫画や小説に書いてある擬音は全て実際に音が鳴って、健聴者は皆その音を聞いているのだと思っていたようだ。
「確かに学校のチャイムの音や機械の音、あとは動物の鳴き声なんかは実際に聞いたままの音を文字にしてるけど、擬音ってそれだけじゃないから」
『きいていないのに おとにしてるおのまとぺも あるってことですか?』
擬音はチャイムの「キンコンカンコン」や機械の「ガチャガチャ」と言った音、「ワンワン」や「ニャーニャー」などと言った動物の鳴き声のように聞いた音をそのまま文字にした擬音語が多くを占めている。
しかし他にも慌てている時の「あたふた」や眠い時の「うつらうつら」のように物事の状態を表わす擬態語、そして今回の心音が勘違いしていた「ドキドキ」や、紙を破く時の「ビリビリ」のように両方の要素を持つ言葉がある。
その事を一輝は丁寧に説明した。
『じゃあ わたしのしんぞーが どきどきなってたのわ かずきさんにわきこえてなかったんですか?』
「うん、心臓の音ってすごく小さいから耳を相手の胸にピタっとくっつけたり聴診器を使わないと聞こえないし、いくら動悸が激しくなっても手首を持って脈を計らないと他人には分からないよ」
心音は完全な思い違いの中で、一人で焦ったり恥ずかしがってたりしていのだと分かり、顔から火の出るような思いに襲われていたが、一輝に不愉快な思いをさせていなかった事にだけはホッと胸を撫で下ろしていた。
(よかった、一輝さんが嫌な思いをしていなくて本当によかった……でも、じゃあ擬音っていったい何なのかしら?)
心音は色々と質問をしてみた。
『ものごとのよーすをあらわすって じゃあ がっこーのきょーしつなんかで しずまりかえってるってばめんの しーん っていうのも』
「うん、静まり返ってるって言うのは音が全く聞こえてこない状況を表わしているから、そんな音はしていないよ」
『それじゃあ あめのおとで しとしととか ぽつぽつ ざーざーっていうのは?』
「それは両方の性質を持つ擬音だね」
『じゃあ ずっとふしぎにおもってた あたたかいぽかぽかと ひとをたたくときのぽかぽかは どーしておなじおのまとぺなんです?』
「ん~、暖かいポカポカは様子を表わす擬態語で、叩く方は実際に音はしてるけど、叩く強さによって変えるものだし、説明が難しいな」
心音の擬音に対する疑問はますます深まっていった。
『だったら こんなばめんにでてくる おのまとぺで……』
「うん、それは……」
いつしか二人は昨日の恥ずかしい出来事などなかったかのように自然に寄り添い、時間を忘れて擬音について語り合うのだった。