千年樹の魔女
呪いの千年樹、というものがあった。
千年樹の魔女と呼ばれる、一人の異形の女がいた。
女はある日、森の中に捨てられていた幼子を拾った。それは人間の男で、年齢は三つかそこらの可愛い盛り。それをこの森の入口にすてるのだから、余程のことがあったのだろう。
「おぉ、かわいいの、そなたはほんにかわいい」
それなりに上等な布地に包まれた、親の顔もわからぬだろう幼子。それを腕に抱いているとなんとも心が温かくなる。久しく感じないその抜くもりを腕に、魔女は一計を案じた。
魔女は、拾ったその幼子を育てることにしたのだ。
この森に捨てたのならば、それは明確な殺意があったと女は思う。ここが呪いという名の毒を撒き散らす邪悪な森で、入ればひとたまりもなく死ぬこともあるとされる場所と、よもや知らぬ訳もない。数多の『勇者』の屍を養分に千年樹が育ったことを、知らぬ人間はいない。
ならば、この子はいらぬ子なのだ。
それを育てて、何が悪い。
それはちょっとした、人ならざる魔女の戯れ。
だが、彼女はきっと疲れていた。
呪いの千年樹と共に生き、無為に存在し続けるという己の時間に。飽きて、疲れて、絶望してしまっていたのだ。すやすやと寝入る幼子を眺め、異形の見目をする魔女は笑って言う。
「あぁ、そなたはわたしを殺してくれるか? そうなるように育てれば、そなたはわたしを跡形もなく殺してくれるか? あぁ、そうなればいいのに。そうなれば、きっとよいのに」
なるわけがないと、言葉の裏で嗤いながら。
願いと祈りを込めて、かつて生贄となった娘は笑っていた。
■ □ ■
リリス、リリス、と可愛らしい声が魔女を呼ぶ。
振り返れば、大きく手を振りながらその少年がかけてくるのが見えた。千年樹に捧げられた生贄であった異形の魔女が、ある日拾った捨て子だった。すでに十歳を超えている。
「リリス、あのね、魔法が使えたんだ!」
「ほぅ? それは素晴らしい。ぜひ見せてたもれ」
魔女は適当なところに腰掛けて、その前に立った幼子を見た。いや、もう幼くはない。剣をふるうだけの四肢を持ち、ついに魔法すら会得した。これは余程の家柄の子だったのだろう。
年々、どうして、という思いを女は抱いた。
これほどの才能を持つのは、この世界の理から考えればそれ相応の家柄だ。
特に魔法は、ごまかしがきかないのだ。
だが同時に魔女には、ある程度の察しが付いている。そういう特権的な一族には、お家騒動というものがつきものなのだと。あぁ、そういえば、かつてリリスという名を持つ娘も、実兄が失脚したことにより生贄となったのだと、他人ごとのように思い出した。
他人だ。
リリスという娘は、こんな樹の枝のような足を持たぬ。
重さを感じないがたしかにある、不揃いな左右の角もない。
耳も長くないし、肌はもう少し血の気のある色味をしていたはずだった。
この身体は、千年樹の毒に犯されて異形となった。もはやヒトではないのだ。だからリリスという名で呼ばれることもないのだが、あの幼子はそうもいかぬ。魔女はリリスという名を数千年ぶりに口にした。そう呼んでほしいと、物心がつき始めた彼に伝えたのである。
そんな女の前で、少年は次から次へと魔法を見せる。
魔女は満足そうにそれを眺め、同時になんとも言えぬ寂しさを感じていた。
もう、この子は充分に強くなった。ここで教えられるすべてを教えた。魔法はここからは独学で磨いていく領域だし、剣術はよりよい師に教えを請うしかない。ここではもう無理だ。
決断の時が来た。
彼を、この森から出す日が来たのだ。
「そなたは、本当によい子だ」
「リリス?」
「そなたを育てることを自らに命じたことを、わたしは生涯の誉れとしよう」
「そんな、僕はリリスを守りたかっただけだよ?」
「……わたしを、守る?」
「リリスは、普通の人間と違うから、きっといじめられる。本にそう書いてあった。だから僕があなたを守ってみせる。誰が来たって負けないよ、僕はあなたが大好きだから」
だから、千年樹が撒き散らす呪いも払いのけてみせるよ。魔女なんて怖くない。
彼が注げる言葉に。
――何を、言えばよかったのか。
そうか、とそっけなく答えることもできず、感涙を流すこともできず。魔女は静かに、身を震わすような衝撃を抱きしめた。立ち上がり腕を伸ばし、発言者を離すまいと腕に収める。
愛し子の柔らかい栗色の髪。
くすんだ灰色の自分と違うなんとあたたかき色か。
名前を呼び、くすぐったそうに身を捩るその動きすらも、ぬくもりも、もしも緋色と共に失えば気が狂ってしまいそうなほどに愛しいが、あぁ、だからこそもう『ダメ』なのだ。
魔女は、この子にいろんなことを教えた。
同時に呪いの千年樹や、それに傅く魔女への憎悪も教えこんだ。自分がそうだと、すぐそこにある大樹がそうであると伝えないまま、それは悪で、それは害であると、教え続けた。
あぁ、これで仕上がりだ。
これで『完成』した。
そっと身体を離し、名残りを惜しむように軽く頬にくちづけを。
戸惑うように見上げる子に、すっと、伸ばした手のひらを向けた。ぎょろりと眼が睨みつける赤色にくすんだ手の、その指先で、魔女は彼の額を突くように軽くなぞった。
「我が愛し子よ、お前に呪いをくれてやろう。これが最後の贈り物だ」
「リリス、何をいっているの? 呪いって何のこと?」
「恐るることはない。そなたに語り聞かせた千年樹とはまさにあれのこと、そしてその魔女とはこの我である。そうだ、お前は『敵』に育てられていたのだ、そう、だから」
伸ばした腕を払いのけられる前に、魔女は笑い。
「わたしが丁寧に育てた、千年樹と魔女への憎悪だけを抱いて、他を忘れてしまえ。そしてその憎悪を糧に、いつかここに戻ってくる呪いをかけてやる。そうすればそなたはまさに」
まさに、勇者と誉れ高き王となるだろう。
祈りを込めた呪詛は、魔女の愛し子の中を巡って記憶を喰らった。ぐったりとする、少しばかり重いと感じる肉体を抱きしめ、枯れ果てたはずのしずくを眦からこぼす。
ぐしぐし、と腕でそれを拭い、空を見る。
魔女は一羽の鳥を呼んで、手紙を足に結わえて放った。
それはわずかながらの縁がある、きっとこの子を守り育ててくれるものへの呼出状。
眠らせた子を惜しむように抱きしめて数日、獣に運ばせて向かったのは森の入口。かつて幼子を拾ったその場所で、更に数刻の時間を流し、ようやく待ち人が魔女の前に現れた。
それは立派な身なりをした、見るからに貴族とわかる初老の男。
「そなたも無茶をする男よ、魔女に主の遺児を託すなど」
殺していればどうなったであろうの、と笑うと、まるでそれはないと言うかのように相手も薄く笑みを浮かべた。やはりこの男は好かない、魔女はふん、とそっぽを向く。
この男は、魔女が育てた幼子が王子であると数年前に知らせた老騎士だ。かつて一人の『勇者』と共に魔女に相対し、だが討伐は叶わず、命を救われた騎士は深々と頭を下げた。
その後、彼は騎士として働きに戻ったのだが、直後に国で反逆があった。当時の国王にして老騎士の主は処刑され、王妃は見せしめに慰み者にされた。当然、こちらも処刑されている。
その反逆に大義はないという。私利私欲のためのおろかしい行為。
ゆえに同盟国からは縁を切られ、現在の『王』に民の心は添っていない。もっとも、王という存在の輝かしい部分だけに魅入られた彼らに、そんなものは必要ないのだろうが。
かくしてかの国の王族は、みなが虐殺されてしまった。
だが、若き国王夫妻の間に生まれた王子だけが、その行方をくらませていたのだ。
老騎士が密かに連れ出し、この森に捨てていたのだ。ここなら追手はこない、魔女が悪い気まぐれを起こさない限り、王子は無事に育つだろう。その可能性に賭けてのことだった。
「あなたは、けっして無垢なる幼子を見殺しになさらぬお方ゆえ……」
白々しく答える老騎士に、食えぬ男よの、と魔女は顔をしかめる。
感謝などいらぬ、と魔女は苦笑し背を向けた。老騎士は深く、君主にするかのようにとても深く長く頭を垂れ続け、そして魔女が守り愛し育てた『王子』を領地へと連れ帰った。
数年後、一人の若者が王子として国の簒奪者をすべて処刑した。若く、剣術にも魔法にも長けたその王子は虐げられていた民のため、最後の大仕事をこなすことを宣言する。
それは、呪いを撒き散らす千年樹と魔女の討伐であった。
老騎士は静かにそれを支持する。
それもまた、魔女と交わした約束であった。
■ □ ■
あぁ、おぞましき呪いの大樹。されど魔女はすこしばかりの感謝をしていた。ああもまっすぐに慕われることを、魔女は知らぬままだった。幼子を抱いて過ごした日々はきっと、死地へと続く長い旅路の慰めとなるだろう。もはや、誰も知らぬことであっても、構わなかった。
魔王とも呼ばれた一人の女は、千年樹の前で静かに待った。
自分を殺しに来る、そのためだけに育てた子の到着を。
あれから十年も経った。
すっかりおとなになった姿が、目の前にあった。
わずかにあのかわいらしい面影を残し、慈しんだ青い瞳に憎悪の光を滾らせ、抜き放たれた剣からほとばしる炎が、大樹の周囲を赤く焦がすように包み込んでいく。
「よもや――」
呪いをはねのけ、森に火をつけるなど。
そうならないように整えられた、この森を焦がすなど。
あぁ、自分は素晴らしいものを育てたのだと、魔女は笑った。その笑みの数刻先に死が待っていることを承知で、慈しんだものが立派に生きていけることを喜んでいた。
そんなこと、相手には伝わらない。
すべて消してしまったから。
彼はあの老騎士に育てられたことになっている、魔法は流れの魔法使いに教わった、そういう風に作り変えてある。魔女の力は絶対だ、伊達に数千年も生きてはいない。
だから、魔女は喜びの笑みを酷薄なものへと変異させ。
魔女らしく、敵らしく、彼の前に立った。
そこからは激しく戦うだけだ。だってそれが物語なのだから。悪しき魔女は正義の前に膝をついて命乞いをし、しかし断罪されるのがシナリオ。そう決まっている、大昔から。
同じようでいて違う魔法が、ぶつかっては消え。
弾かれては、魔女の肌に赤い線を描く。
手を抜くつもりはない、ほんの少しのほころびが何かを狂わせてしまうから。
彼の強さを確かめるように魔女は、その役目に殉ずるために踊る。
うごめく無数の足が切り裂かれ、服もだいぶ破かれた。そうこうするうちに魔女の視界が空だけを映す。背中が冷たい、あぁこれは地面だ。草の上だ。女は倒れたということに気づく。
馬乗りになるように、剣を持ったその姿が視界に入る。
これでいいのだ。切っ先はそのまま胴体へと埋められていき、魔女として生きてきたこの身を切り裂くのだろう。それでいい、それでいい。ずっと、そうなることを願ってきた。
あぁ、やっとハッピーエンド。
魔女は零れそうになる嗚咽を必死に飲み込んで、そっと目を閉じる。
――さよなら、我が最愛の。
言えない言葉を心の中でつぶやいた瞬間、魔女の鼓動は貫かれた。こうして呪いを撒き散らす千年樹と、それに寄り添うヒトであることを捨てた愚かな魔女はこの世界から消えた。
魔女が終ぞ言えなかった言葉ごと、永遠に、永久に。
■ □ ■
昔々、悪い人に誘拐された一人の王子様がいました。
王子様は一人の、少しさみしがりやの魔女に拾われ育てられました。けれど魔女は、自分が育てたと知られたら王子様が殺されると知っていて、だから全部なかったことにしたのです。
何も知らない王子様は、周囲に求められるままに悪い魔女を殺しにいきました。
魔女は笑って、悪い魔女を演じました。
そうして呪いの樹と、その樹を育てた悪い魔女は死にました。世界から呪いが消えて、人々は笑顔になったのでした。誰もが王子様を讃えて、多くの人が感謝の声をかけます。
けれど、王子様は育ての親に言いました。
育ての親ということにされた、老いた騎士にいいました。
「なにか失ってはいけないものを、失ったような気がします。大事なことをこの手からなくしたまま、ここにいるような気がしてならないのです。先生、僕は何を失ったのでしょう」
老いた騎士はいいました。
言い聞かせるように、静かな声でいいました。
「いいえ、あなたは何も失っていない」
それは魔女からの最後の願い。閉じた蓋がけっして開くことのないように、暗示の言葉を唱え続けてほしいと。ここにいない一人の魔女が、最後に残した『呪い』だったのです。
けれど騎士は知っているのです。
魔女が注いだ心は、今も彼の中に残っていることを。
だから本心から笑顔を浮かべて言うのです。
「その手の中には、得てきたすべてがある。あなたは愛されているのです」
だから安心なさりませと、老いた男は静かに微笑む。
魔女が愛をこめて固く閉じた『箱』を、騎士は生涯守り続けた。
一人の女が慈しんだ愛し子が、永遠に幸せであるために。
なぜ幼子を拾ったのか、なぜ幼子を育てたのか。
そしてなぜ、幼子を手放すことにしたのか、騎士は魔女に訪ねた。
すると魔女はにっこりと微笑み。
「どうせ殺されるなら、好いた男がよいだけのこと」
その時、女はただの『娘』だった。
どこにでもいる、ごく普通の、年頃に差し掛かった娘のような顔をしていた。