屋上にて。
屋上から見下ろす景色は、まるで別世界だ。
しんと静まり返って風が通りすぎるばかりのこちらとは打って変わって、昼下がりの下界は活気に満ちている。校庭でバスケットボールを追うのに必死になっている人たち、日陰でお弁当を広げて話に夢中になっている人たち。開いた窓からはわいわいと喧噪が聞こえていた。
一方私はというと、転落防止に立てられた金網の向こう側、つまり屋上の縁に立って、じっと地面を見つめている。
そんな行為にも大分飽きてきていた私は、ゆっくり重心を前の方に掛けた。傾いた体は当たり前のように宙を舞う。一瞬の浮遊感の後、私は地面に到達する。何の音もなく。血が飛び散るわけでも、内臓が飛び出すわけでもなかった。
やれやれ、と体を起こした私は、そのままふわふわと浮かび上がって、また屋上へ上っていく。もちろん、誰も私のしていることには見向きもしない。だって私は、誰にも見えていないのだから。
再び屋上にたどり着いた私は、また飛び降りるべく体勢を整える。今度は、飛び込みみたいに後ろからいってみようか。
「ねえ、何しているの?」
誰かの声。また誰か立ち入り禁止の屋上に忍び込んできたのかと振り向いて、驚く。向こうの金網に背を預けて座っている少女が一人、じっとこちらを見つめていたからだ。
「ねえ、あなたに言ったのだけれど」
今度は私を指さして彼女は言う。もはや疑う余地もなかった。
「あんた、私が見えてるの?」
「あ、その言い方はやっぱり、他の人には見えていないのね」
くすくすと彼女は笑う。着ているセーラー服はこの学校の制服だった。一つに束ねられた黒い髪、基準よりやや短めのスカート、顔立ちは平凡でどこにでもいそうな普通の少女。だけど彼女は、普通の人とは違って私が見ているらしい。
「あなたがここから飛び降りているの、ずっと前から見ていたわ。だからどうしてそんなことやっているのか、気になって今日は来てみたの」
ねえ、どうしてそんなことしているの、と彼女は聞いてくる。私は少し戸惑った。
「別に。ただやることが他にないから、暇つぶしにやっていただけ」
「何だ、そうなの」
明らかにがっかりした様子で彼女は肩を竦める。一体どんな理由なら納得したのだろう。
「ねえ、あなたって……」
彼女がまた口を開きかけると同時に、間の抜けたチャイムの音が鳴った。昼休みが終わった合図だ。
「残念、時間切れね」
立ち上がってスカートを払った彼女は、そのまま屋上の扉に向かう。
「また来るから。よかったら話し相手になってよ」
彼女はそう言って扉の向こうに消えていこうとする。あたしはその背中に呼びかけた。
「ねえ」
「うん?」
「……私のこと、怖くないわけ」
振り向いた彼女に、本当に今更なことを聞いてみる。案の定、彼女はぷっと吹き出し、一通り笑ってから言った。
「別に。話してみたら、案外普通の人間と変わらないってわかったし」
そのまま扉が閉まった。また屋上は私一人のものになる。
「……何なんだ、あいつ」
ぼそりと一人呟く。せっせと飛び降りているのを見られていたと思うと、変に恥ずかしくなってきた。
もちろん誰かに私の姿を見られるのは初めてではない。遠巻きだが明らかに私のことを地上からじっと見つめている奴もいたし、屋上に入り込んできて私を見るなり悲鳴を上げて逃げ出す奴もいた。屋上が立ち入り禁止になったのも、実は私が原因である。
でも向こうから話しかけてくる奴がいるとは。何とも予想外なことだ。
私に話しかけてきた奴なんて、過去にいただろうか。……いたような気がする。だけどそれはおそらく遠い昔のことで、私はもう思い出すことはできなかった。
いつも通り屋上の縁に立って、高くなったお日様に手をかざしていると、後ろで扉が開く音がした。
ひょっこりとのぞかせた顔には見覚えがあった。前に言ったとおり、本当に来たみたいだった。
「ひょっとして、お邪魔だったかしら」
「別に」
彼女は私の近くまでやってきて、金網に手をつく。そしてその隙間から地上をのぞき込んだ。
「……高いわね」
「そりゃあ、屋上だし」
「ここから飛び降りるのって、なかなか怖くないかしら」
「とっくの昔にもう慣れたよ」
事実、何の感情を湧いてはいなかった。もはや繰り返す作業も同然だ。
「ふーん」
彼女は下を見るのをやめて、金網にもたれかかる。
「ねえ、あなたって一体いつからここにいるの?」
いつから? 私は記憶を辿ってみる。でもそれはいくら手繰り寄せても、一向に端にたどり着かない毛糸玉のようだった。思い出せるのはいつもここから飛び降りていることくらいだった。
「さあ。気がついたら、ここでこうやってた」
「ずっと前から?」
「たぶんね」
「そう」
それから彼女は私に質問を重ねてくる。
「あなたはどこから来たの?」
「生きている時は何をしていたの?」
「どうしてそうなってしまったの?」
私は一応頭の中に質問を反映させてみたが、結局何一つはっきりと答えることが出来なかった。
自分が生きている時はどうで、どこから来たかなんて考えたこともなかった。自分のことを語ろうにも、私の話に耳を貸す人はもう誰もいないからだ。そうやって頭の片隅に色々なことを追いやって、いつの間にか抜け落ちていってしまったのだろう。自分がどんな名前だったかさえ、もう私はわからなかった。
「ふーん」
彼女は先ほどと同じ相づちを打つ。そしてひらりとこちらを振り返った。
「あなたって、とても寂しい人なのね」
「寂しい?」
突然の言葉に私は驚く。
「ええ。自分が誰かもわからないで、誰にも気づかれないまま、ずっとここから飛び降り続けている。それって、とても孤独なことだと思う」
「孤独……」
そこでスピーカーからチャイムの音が鳴り響いた。彼女はスカートの裾を払って私に背を向けた。
「時間切れね。それじゃあ、またお喋りしましょう」
それだけ言って、彼女は屋上を出ていく。
私は一歩もその場から動かず、ただ地面を見下ろしていた。和気藹々としている話し声が遠くで聞こえている。
私はふと、一歩足を踏み出してみる。空を踏んだ足はそのまま体を道連れに落ちていき、私の視界は雑草の生えた地面で一杯になる。
近くを誰かが通り過ぎた。楽しそうに話している。決してうつ伏せに寝ころんでいる私を見ることなく、話しかけようともしてこない。
――あなたって、とても寂しい人なのね。
脳裏を先ほどの彼女の言葉が横切る。
存在しているのに誰にも気づかれないのは、寂しいことなのだろうか。
次に彼女がやってきたのは、太陽がもう沈んで行こうとしている時だった。
赤く目を焼くような光が、背の高いビルとビルの間でかすかに燃えている。同じ色に染まっていく空を仰向けで見上げていると、扉が開く音がした。目をやると、やっぱり彼女だった。
「あら。今日は金網の向こう側にいないのね」
「まあね」
私は体を起こして、彼女と向かい合った。夕焼けが、彼女の白い肌にもぼんやりと映り込んでいる。ダッフルコートを着込んでいる彼女は寒そうに白い息を吐いた。
「あのさ」
と私は口を開く。私から吐き出される息は色がなかった。
「あんた、前に言ってたよね。私が寂しいやつだとか、何とか」
「ええ。そういえば、言っていたわね」
「私、今までそんな風に感じたことなんてないと思ってたけど、もしかしたら、薄々自分でも気づいていたのかもしれない」
私にとって、屋上から見下ろす世界は別世界だった。いや、どこに居てもきっと、私が見る世界はいつも私から隔てられているように映っていたのだろう。私を無視して、ただ過ぎ去っていくだけの無数の人たち、風景、その他もろもろ。
「だからきっと、気づいてほしかったんだ。ここから飛び降り続けていれば、誰かに見つけてもらえるかもしれないって、どこかで思っていたんだろうと思う。誰かが、私の存在を認めてくれるかも、しれないって」
ぐっと拳を握りしめる。寒くもないのに、体はわずかに震えているようだった。そもそも寒さという感覚さえ、私はもう感じることさえできない。
「……ありがとう」
言葉が詰まってしまう前に、私はそれだけ言った。
うなずくこともせずじっと私を見つめていた彼女は、不意にこぼれるような笑みを見せた。屈託のない、まっすぐな笑顔だった。
「どういたしまして」
それから、その日は色々な話をした。彼女の友人の話、学校生活の退屈さ、屋上からずっと私が見下ろしてきた景色のこと。
その日、おそらく私は初めて、一度も飛び降りなかった。
校庭に植えられた桜の木が、満開に咲いていた。
それは少し離れた屋上から見ても、やっぱり鮮やかだった。優しく語りかけてくるような、そんな柔らかな桃色の花。
私は金網の内側からじっと桜を見つめていた。もうそんな時期になったのか、と思う。時間の流れからとっくに逸脱している私には、その感覚がいまいちよくわからない。
屋上の入り口が開く音がして、振り返ると彼女がちょうどこちらに向かって歩いてくるところだった。
「もう、ここには来られないわ」
私の前に立つなり、何の前置きもなく彼女はそう言った。私は彼女のセーラー服の胸元に、花のコサージュがつけられているのに気づく。
「そっか。もう、そんな時期だしね」
「ええ。私はもう、この学校の生徒ではなくなるから」
私たちは黙り込む。二人の間を縫うようにして風が通り抜けた。ほのかに、花の香りがしたように思う。桜だ、とすぐに思い当たった。
「……じゃあ」
やっとの思いで私は口を開く。
「元気でやりなよ」
「ええ。……あなたは、どうするの?」
「私はずっとここにいるよ。他に行くところもないし」
あんたみたいに、遠くに羽ばたくための翼もついてないし。
それは口には出さなかった。
「そう。……それじゃあ、元気でね」
彼女は踵を返して、屋上の扉に手をかけた。だが開くことなく、こちらを見ないまま言った。
「……ねえ、いつか、あなたに寂しい人だなんて、私言ったわよね」
「ああ、そうだね」
「きっとね、私も同じだったと思うの」
彼女の声は呟くように小さい。それでも、はっきりと聞こえた。
「人混みの中にいるとね、何だかふと自分が一人だって感じることがあるのよ。誰かと一緒にいても、あるいは話していても、私とその人の間に、決して越えることのできない壁があることを思い知るの」
だから、と彼女は言った。
「私も、あなたに認めてほしかったのかもしれないわ。だから、声をかけたのかも」
「……そっか」
彼女の背中は、何だか小さく見えた。やがて彼女はドアノブをひねって、扉を開けた。
「じゃあ、ばいばい」
「うん」
もう振り返らなかった。扉の向こう側に消えていく彼女に、私は叫んだ。
「卒業おめでとう」
抜けるような青空が、目の前に広がっている。このまま、どこへだって飛べそうな気がした。もちろん私は鳥じゃないから、飛ぶことなんて出来ない。浮くことくらいは出来るだろうけれど。屋上の端っこに腰掛けて、私はそんなことを思っていた。
下界は相変わらず楽しそうな声で満たされている。ここから見下ろす景色も、悪くないのかもしれない。そんな風に思い始めていた。
さて、今日はどうしようかな、とその場で大きく伸びをする。まあどうせ暇だし、一回くらいは飛び降りておくか。そう思って立ち上がったときだった。
「あっ、ねえ、あなた!」
後ろから声がした。振り返ると、少し活発そうな短髪の少女がいた。くりくりとした大きな目は、私を映しているとしか思えない。
「そんなところにいると、危ないよ」
なんて暢気に話しかけてくる。もしかしたら私がどういう存在か、気づいていないのかもしれない。
ならば、挨拶代わりの最初の一言は、こうだ。
「あんた、私が見えているの?」