窓越しの彼女 前編
『窓』
あなたは、霊を、霊現象を信じますか。
俺は、霊なんて信じない。いや、信じなかった、といった方が正しい。でなければ、こんな薄暗くて古臭い、いかにも気味の悪いアパートを借りたりしない。それがいくら今年卒業した4つ上の従兄弟の良人兄の紹介であったとしても、大概なら断る。
「ちょっと古臭いけどさ、安いし近所が便利なのは大メリットだよ。僕が出た後、住むといいよ。」
良人兄は気味悪さなどどこ吹く風とばかりに、あっけらかんと俺にここを紹介した。
俺が最初にこの部屋を見た時、こりゃ安いはずだ、と実感したくらいだから相当だ。扉は鉄扉で重いし、ギィギィ音がする。入るなり昼間でも薄暗いし、窓が狭いせいか、部屋も薄暗い。狭いのに玄関からリビングまでの廊下と、リビングから左に折り返すような構造になっている洗面台兼浴室までの廊下だけは妙に暗く長い。しかも浴室の壁には気味の悪いシミが浮き出ているし、浴室出口やリビングにはまるで血痕のようなシミがやたら点々と残っている。
良人兄は、コタツ兼テーブルとベッドを置いていったが、ベッドにも血痕のようなものがいくつも発見された。良人兄はそれについては何も語らなかった。ただ一言だけ、
「敬くん、ここはね、出るよ。」
と、ニヤリと意地悪そうな笑みを浮かべて言ったことはある。俺はその言葉に対してわざわざ、何が出るのか、とは聞かなかった。だいたい想像はつくのだが、あえて聞く必要があるとは感じなかった。俺は“そういったもの”には無縁だと思っていたし、信じてもいなかった。
それ故に、安さと従兄弟の紹介と言うとりあえずの“安心料”だけに惹かれてここに住むことに決めた。良人兄が東南大学を卒業して部屋を出ると同時に、入れ替わりに俺が同じ東南大学に入学。それから俺の新生活は始まった。
程なくして俺は誕生日を迎えた。19歳になったからといって、別段何が変わるわけでもなく、新しい生活は次から次へとやってくる。あれやこれやとこなしているうちに、この薄暗いアパートの一室も、今ではすっかり独り暮らしビギナーである俺の「城」になった。
問題はなかったが、少し不満があるとすれば、良人兄に似て少々皮膚が弱い俺にとっては、シャワーがあると随分助かるのだが、残念ながらそこは我慢するしかなかった。水を溜め、ボイラー式の湯沸しで沸かして入る旧式の風呂しかないのは、惜しいところだ。
それでも、近くにコンビニも本屋もある。キャンパスからも駅からもそれほど遠くない。窓が狭い分、蒸し暑さはあったが、今のところそれ程苦にはならなかった。本格的な夏になるとどうなのかわからないが、一応それまでにはエアコンを付けても良いとの確約を母から貰っていた。俺、佐倉敬介の新生活はおおむね快適だった。
ある初夏の日を境に、そう、あの日までは。
むわり、と生ぬるい風が時折吹き込む初夏6月の夜、俺はいつものように野菜ジュースを片手に風呂上りの涼を扇風機で取りながら、6月中にはエアコンつけたいな、などと考えながら、ぼんやりとテレビを眺めていた。
網戸の窓が風で時々カタカタと揺れた。最近、小さな虫がやたらと入り込んできてうっとおしいので、俺は窓を閉めた。少々暑いが、まだ扇風機で十分しのげる暑さだった。カーテンの揺れもおさまり、部屋で動くのは時計の針と俺とテレビの画面だけになった。
大学一回生の夜なんてものは、大概友人と夜遊びをしたり、友人宅でゴロゴロしたり、麻雀にでも興じるのが妥当なセンだが、俺の部屋は薄暗くてエアコンもないので、皆あまり来たがらない。俺もあえて行こうと思う快適な別荘もないので、誰のところにもいかず、ただ下らないテレビ番組をだらだらと見ているだけだった。
少しぬるくなった野菜ジュースのストローをずずーっ、と吸い込んで、軽く握りつぶした後、ゴミ箱に投げる。ナイスイン!ポスッと音がして、ジュースのパックはゴミ箱に吸い込まれた。
しばらくすると深夜のニュース番組が始まり、うつらうつらとしかけたころ、突然、
バン!
と、何かがぶつかるような音が鳴った。ビクンと目を覚ました俺は、何が起こったのかわからなかった。何の音だ?どこから?目をすこし瞬かせながら、俺は座椅子からむくりと体を起こした。別段なにも変化はない。周りを見回して、ポリポリと頭を掻いて、のそりとベッドに向かった。ベッドに右足をかけた時、再び、
バン!
また同じような音が響いた。今度は出所がわかった。窓だ。鳥でもぶつかったか?3階にあるこの部屋に外から誰かが来るでもない。窓をじっと見つめてみるが、別に変化はなさそうだ。俺は気にしないことに決めて、もそもそとベッドにもぐりこんだ。
その時、カーテンが少しだけ揺れていることには、俺は全く気付いていなかった。
朝、いつもの目覚ましで目覚めて俺は、布団の中で今日は何コマ目を取ってたっけ、と二度寝しながら考えていた。2コマ目だから、まだいいか、と布団の隙間から部屋を少し見た時、取るに足らない小さな違和感を感じた。ゴミ箱の横に落ちている野菜ジュースのパック。少し握りつぶされた跡のある、昨日飲んだ覚えのあるそれ。
あれ、ナイスイン!じゃなかったっけ。などとぼんやり考えながら、それでも本当に取るに足らないことだ、そう寝ぼけた頭で布団をかぶりなおした。もうカーテンは揺れていなかった。
その晩も俺は、特に何をするでもなく読みかけの小説を読んでいた。テレビではニュースキャスターが明日の天気を手短に伝え、番組終了のコメントをしていた。眠くはなかったが、明日は1コマ目から講義があるので、仕方なく俺は読みかけの小説に栞を挟んで閉じ、横になることにした。目は冴えていたので、意識はしっかりしていた。あー、と背伸びをしたその時、それを遮るかのように、
バン!
窓が鳴った。さすがの俺も、背伸びを中断して固まった。何事?また鳥?それとも誰かが何かを投げてでもいるってのか?少しの間、俺は固まっていた。ふぅーと息を吐いて、窓に近寄ろうとした時、
バン!バン!
再び窓が響いた、しかも2回。これは悪質ないたずらか?と思った俺は、ゆっくりと窓に近づいてみた。特に変わった様子もないし、鳥や物がぶつかった跡もない。俺はカーテンをゆっくり、そっとつまみ、隙間を開けて外を見た。3階のベランダ越しに下に見える景色に何の変わりもなかった、はずだった。
いや、電柱の街灯の下に黒い影が見える。3階からの距離なので、細かい部分は全く分からないはずだったが、何故だか俺には、それが男だと分かった。しかも薄汚れた格好をした、無精髭の汚らしい男だ。
あいつが何かを投げたのか、と俺は思ったが、この夜中に3階から叫ぶのも非常識だと思い、そのままカーテンを閉めて放っておくことにした。振り返ってベッドに戻ろうとした俺は、ぎょっとした。
出した覚えのない野菜ジュースのパックが、テーブルに乗っている。しかもご丁寧に、閉じた小説の上に重石の様に、真ん中に丁寧に。さすがの俺も、何か奇妙な空気を感じて、野菜ジュースを冷蔵庫に戻すと、そそくさとベッドにもぐりこんで寝入ってしまうことに決めた。
しかし、その夜は窓にぶつかるあの音が、まだ数回聞こえた。何か、借金取りにでも追い立てられているような、不気味な圧迫感を感じながら、俺は3時を過ぎるまで寝付くことができなかった。
『男』
次の日の朝、俺は寝不足の頭で時間ギリギリに飛び起き、昨晩のことを忘れるようにどたばたと支度をして、1コマ目の講義に出かけた。眠たくて、講師の先生が何を言っているのかはあまり頭に入らなかったが、幸いにも緩い教授だったので、少々の居眠りは見過ごしてくれた。2コマ目も同様にうつらうつらとしながら、何とか乗り切った。
とりあえず食うモンだけでもちゃんと食うか、と学食に向かった俺の後ろから声がした。
「敬介―」
同じ科の友人、毛利大介だった。大介は、まぁ親しいといえば親しい友人の部類に入る。やや長髪気味のぼさぼさした頭で、格好も気にしないずぼらなタイプ。名前の介・介つながりで、なんとなく話し始めたのがきっかけだった。
「飯っしょ?いく?学食。金ないし。」
のんびりした声で俺を学食に誘った大介は、あぁ、だりぃだりぃ、といつもの口癖を連発しながら俺の横に並んだ。
「どったの、眠そうじゃん。」
学食の冴えないメニューを目の前に、大介が箸で俺を指差しながら聞いた。
「あー、、、昨日、寝れんかったんさ。」
答えるのも少々気だるかったが、都合上一応返事をした。
大介はチキンカツをぶすっと箸で差しながら、
「なによ、なによ、恋の悩み?言っとくけど、それオレ守備範囲外よ。」
能天気にチキンカツを口に放り込みながら、大介はニヤニヤしている。
「あほくさ、ちゃうわい。」
そう言って俺は少しの間黙々と、ややべちゃついたご飯を口に押し込んだ。パサパサのキャベツを醤油で無理やり食った後、大介に話すでもなく、なんとなく口からぽろりと言葉が漏れた。
「窓、うるせぇんだ・・・」
ぼそりと漏らした俺に、大介が顔をしかめた。
「はぁ?」
少し意味がわからないといった風に、沈黙があって、うーんと考え込んだような顔をしながら大介は聞いた。
「窓?なにそれ。」
いちいち全てを解説する気など毛頭なかったのだが、話し始めてしまった以上、なんとなくそのまま流れで話を続けた。
「いや、窓がさ、バンバン鳴るんだよ。夜中に。うるせぇったらさ・・・」
大介は、なに言ってんの?といった風に口を開けて言った。
「意味、わかんねぇ。窓がバンバンってなに。」
「いや鳴るンだって、窓が、バンバンてさ。昨日なんか2時くらいまで何回もなるんだよ。」
大介は、口をあんぐりと開けて、呆れたような顔になった。その後、ふと、あぁ!と思いついたように、
「あ、なんだ。それ、あれじゃねぇの?ホラ、怪奇現象とか。敬介んち、薄暗くて気味悪ぃじゃん。ユーレイがさぁ、こっちおいでよー、とかって窓、叩いてんだって。けへへ。」
全く冗談を言っているだけ、と顔を見てもすぐ分かるような表情で、大介がからかった。大介は調子を上げて話を膨らませる。
「そのうちさぁ、来るんじゃねぇの?長―い髪の女とかが窓からずりずり、とかって入ってきてさ、呪い殺されちゃうんだぜ。なんだっけ、映画、あるじゃん、そういうの。オレ、しーらね。お前んちには絶対行かねぇぞ。何にもなくたって気味悪ぃ部屋なんだから。」
散々好き放題しゃべったあと、学食を全て平らげて、大介は満足そうに勝手に話を打ち切って、3コマ目、心理学一緒だろ、行こうぜ、とさっさと席を立った。
自由なヤツ。なに勝手なことばっか言ってんだか。俺は、そんなものは信じない、信じてないって。
3コマ目を終わらせた俺は、少し早めの帰宅をした。別に何を気にしているわけではないが、何故かわずかに足取りは重かった。ギィと重苦しい鉄扉をあけて、玄関に立ち尽くす。暗い廊下。まだ薄明るい部屋。ほんのわずかに勇気のいる一歩を踏み出した後、部屋の中をぐるりと見渡す。何も変わってないじゃないか。当たり前だ。
『ユーレイがさぁ・・・』
大介の言葉がふと甦る。ばかばかしい。打ち消すように、大きく深呼吸をして、俺は明るいうちにさっさと風呂に入ってスッキリすることにした。
日も暮れて、いつも見るアニメ番組が終わった頃、俺はまたテレビをつけたまま、昨晩の続きの小説を読み始めた。が、何故か今ひとつ頭に入らない。数ページ読んで、感情移入できないと悟った俺は、パタンと小説を閉じて座椅子を倒しゴロンと仰向けに寝転んだ。天井の蛍光灯をじっと見つめる。頭の中を何かがよぎっているのだが、俺はその都度それを打ち消すように、明日のコマ割りとか、テレビの音声とかに気を向けるようにした。
ふぅ、と息をついて、あほくさ、つぶやこうとして
「あほく・・・」
まで言ったところで、
バン!
窓から大音量が響いた。ビクッとなって俺は半身を起こした。今度はほとんど間をおかず、
バン!バン!バン!
と立て続けに窓が鳴く。俺は跳ね起きて、窓を凝視した。何もない。何もないが、カーテンが少し振動で揺れている。何故だ?何が起こっている?絶対に何かが窓を叩いている。そうとしか思えない。
俺は、それでも恐る恐る窓に近づいた。カーテンの隙間から外をのぞく。ゆっくりと下を見る。真っ暗な道、電柱、ぽつんと小さな街灯。その下には、またあの黒い影。
俺は頭に血が上ったように、窓を一気に開けて外に顔を出した。
「オイ!アンタ!何を投げ・・・!」
そこまで叫んだ瞬間、男の影はすっと消えていた。街灯の下には誰もいない。俺はキツネに摘まれたように、言葉を詰まらせた。いきなり対象を失った俺の声は、くぐもったうめき声にしかならず、そのまま仕方なく窓をゆっくりと閉めた。そこに、
窓の向こうに男の顔があった。
「うわぁ!」
俺は思わず叫んで、後ろにひっくり返ってベッドに尻餅をついた。目を疑うように瞬き、もう一度窓を見た時には、何も、何もいなかった。心臓が早鐘のように打ちつけていた。俺はたらりと冷や汗を流しながら、それでも今見たものはただの幻覚に違いないと、頭を何度も振って、大きく息を吸って心を落ち着かせた。
そんなはずがあるわけはない。ここは3階だ。何をヘンな幻覚見てびびってんだ。自分で自分を鼓舞しながら、何度も、何度も、大きく深呼吸をした。
少し落ち着いた俺は、ゆっくりと窓に近づいてみた。何もいない、何もない。何もない。何もない。
そこで初めて、光の反射の具合か、俺は窓にうっすらと白い何かの跡の様なものがついていることに気付いた。それが何かを近寄ったり離れたり角度を変えたりして、見極めようとした。そして、俺は気付いてしまい、背筋に悪寒が走った。
手形だった。
それは、明らかに俺の手より少し大きい大人の、手形だった。
俺は、背筋が凍るような思いを押さえつけて後ずさった。ぺたりと座り込んで、角度を変えてみた瞬間、その手形が、無数にあることに気付いて俺は思わずうめき声をあげてしまった。戦慄が走った。
しばらくの間、俺はえも知れぬ恐怖と戦っていた。そのまま寝てしまおうかとも思った。しかし、あの気味の悪い手形をそのままにしておきたくはなかった。いまにもそこから手が伸びてきて、俺を襲いそうな、そんな強迫観念に駆られて俺は、腰をガクガクさせながら浴室へと向かった。
勇気を振り絞り、タオルを手に、この得体の知れない異物をふき取ることに決めた。そうしないと、絶対に俺は今日眠れない。絶対に拭き取らないと!そう決心して、俺は窓を開けた。あの薄気味悪い男の顔が、脳裏をよぎった。あの男がこれをつけたのか?バンバンという窓を叩く音は、これだったのか?考えれば考えるほど狂気に走りそうになった俺は、目を瞑って一心に外から窓を拭いた。拭いた。拭いた。
拭いて、拭いて、拭いて、目を開けた俺は、愕然とした。
消えていない。何故!消えない!拭く!消えない!
そう、その時、俺は気付いたのだ。
その手形が、窓の内側から付けられていたことに。。。
『増長』
それから俺の陰鬱な日々が始まった。窓を叩く音は、容赦なく毎晩俺を襲い、その都度、手形を残して去って行く。それも、内側から。何者かがこの部屋の中に入り込んでいることを証拠付けるようなその手形に、俺は辟易としていた。日を追うに従って、その頻度は増していき、俺はついに友人宅へ避難することを決めた。
「悪ぃんだけどさ、大介、今日泊めてくれんかな。」
大介は、先日の話など忘れたかのように、いや、実際に忘れていたのだが、あぁ、だりぃだりぃといつもの口癖を唱えながらも快諾した。
「いいけどー。珍しいじゃん、敬介から言ってくるなんてさ。」
「助かるよ。」
理由云々は特に語らず、俺は大介のアパートに転がり込んだ。とりあえず、それで安心、少しほとぼりがさめるまで様子見だ、と思った俺が甘かった。
窓叩きと手形は、俺の避難先までも追ってきたのだ。のんびり屋の大介でさえ、さすがにこれには衝撃を受けたらしく、ついに3日目には俺に言いにくそうに話しかけた。
「敬介、やっぱさ、悪ぃんだけど、、、ちょっちさすがに、カンベンしてくれや。オレ、こーいうの、ダメなんだわ。マジで。」
申し訳なさそうに目をそらす大介の気持ちもよくわかった。そこをさらに押してまで、大介の部屋に留まることはさすがに俺にはできなかった。
結局、俺は次の宿を探すことになったのだが、大介の部屋でのことを考えれば、どこに行っても同じだろうとの予想は簡単にできた。気味の悪い噂が立つのも好ましくない。俺は、そのあと誰にも声をかける勇気をなくし、しぶしぶ薄暗い自宅へと舞い戻ることになった。
アパートの鉄扉は、俺に容赦なく重く、部屋の薄暗さは俺の精神に多大な圧迫をかけるに十分な効果を持っていた。食欲はないが、食べないと気力も尽きると思い、近くのコンビニでスタミナ弁当と栄養ドリンクを奮発して買い込んだ俺は、それをかき込む事で臆病になっていきつつある自分に発破をかけた。しかし、それにしても良人兄ももしかしてこれと同じ経験をしていたのだろうか。『ここは出るよ』とニヤリと笑いながら話していた良人兄の顔を思い出すと、あまりに無責任な気がして腹が立ってきた。
「あー!もうっ!」
弁当くずを力任せにゴミ箱に投げ込んで叫んだ俺だったが、それを聞いた上で了承してここに入居したのは俺だ、という事実を思えば、その叫びに続けて出るはずの悪態は、すすすーと影をひそめて、ぺたんと座椅子に座り込んでしまった。
また、夜がやってくる。
明るいうちに風呂を済ませた俺は、極力窓の方を見ないように、できるだけ窓から離れるようにベッドに丸まって部屋を眺めていた。少しでも気が紛れるかと、テレビの音量はやや大きめにしていたが、やがて響いてくるあの音に勝てるとはとても思えなかった。
バン!
来た。また来やがった。俺はベッドに座り込んで、雪わらしのように布団を頭からかぶり、顔だけを出した状態で、音の攻撃に耐えていた。ひとしきりバン、バン、と窓が鳴いたかと思うと、やがて静寂が訪れた。その静寂は思ったより長く、やがて俺は今日はやけに早くに引き上げたもんだ、と布団を握り締めた手を緩めた。その時、
ガタン!!!
俺の目の前でゴミ箱が突然倒れた。予想外の出来事に、俺は思わず、
「ひっ!」
と小さく悲鳴をあげて、身をすくめた。ゴミ箱は倒れたままゆらゆらと揺れている。俺はそれをじっと凝視していた。もちろん身動き一つ取れなかった。ゆらゆらと揺れ続けるゴミ箱は、俺がそれに慣れるのを待つかのようにいつまでもゆっくりと揺れ、果たしてその期待通り、俺の気が少し緩んだ頃に、
ガタン!!!
と、また起き上がった。と、思ううちに今度はすぐにまた倒れ、すぐさま起き上がり、
ガタン!ガタン!ガタン!
と、それをひたすら繰り返していた。俺の頭の中はもう完全に混乱を極め、目の前で起こっているこのゴミ箱の怪現象に、何をどうしたらいいのかまったくわからないまま、震えながらじっと耐えていた。
その俺の心臓がバクッと震えたのは、今まさに起き上がったゴミ箱のその端に、
ごつごつとした大きな手だけが見えた瞬間だった。
それとほぼ同時に、俺の視界の左隅に、何か黒い影が映りこんだ。ゴミ箱を握っていた大きな手が、すぅと薄らぐように消えたのを、震える心で見届けた後、俺は恐る恐る、ほんの、ほんの数センチだけ、視線を左にずらした。
俺の左上に、黒い影法師のような人影が、まるでベッドの俺を覗き込むように覆いかぶさっていた。
真っ黒な影法師なのに、その顔が笑っているのがわかった。それは、いつか見た街灯の下の無精髭の男だと、俺は薄れていく意識の中でうっすらと、そう感じていた。
その夜の俺の記憶は、ここまでしかない。気がつくと朝になっていた。俺は布団の中の蒸し暑い息苦しさに耐えかねて目を覚ました。
「うわーっ!」
思い切り布団を放り投げて、めくらめっぽうに腕を振り回して叫び続けた後、俺は再びぺたりとベッドに座り込み、はぁはぁと荒い息を繰り返していた。朝の陽の光が、手形の付いた窓を煌々と照らしていた。
『浮遊』
それからの俺の悲惨な日々は、まるで昔観たゴーストもののハリウッド映画の如し、だった。夜になると、異変は毎日起こった。窓が鳴る。ゴミ箱が動く。突然コンロの火が点く。カンカンと正体不明の響音。影法師が覗き込む、前を横切る。何かが部屋の中を歩く音がする、男の低い笑い声がする。
俺はただ、目を血走らせながら、もしくは硬く硬く瞑ったまま、ひたすら夜が開けるのを待つしかなかった。精神が朦朧としているのが、自分でもよくわかった。そう、今にも狂ってしまいそうな夜が、何度も過ぎるのを待つだけだった。
俺の心は、完全に降伏していた。お手上げだ。もう何日も一睡もしていないし、食事もろくにとっていない。まるで断食修行中の僧侶のごとく、ベッドに丸まったまま動く力もなかった。体は衰弱していたし、声も出なかったが、精神だけはやたらと大声で叫んでいた。
もうやめてくれ!もういやだ!ここから逃げ出したい!誰か助けて!
座り込んでいるのも苦しくなった俺は、布団に包まったままごろりと倒れこむように横になった。今が昼か夜かも分からなかったが、明るさは感じない。多分、夜だ。またあの影法師の男がやってくる。そう、心では分かっているが、もう体も精神も「耐えよう」という力そのものを失っていた。
死体のように体を横たえた俺は、周囲で何が起こっているかまったくわからなくなったかのように、まどろみ始めた。頭がくらくらする。周囲がぐるりぐるりと回り始める。体は動いていないのに、くるくる回っているような気がする。軽い吐き気と、頭痛がやんわりと襲ってくる。乗り物酔いのような気分。指も動かせないような状態のはずなのに、やたらと手をぐりぐりと動かしている気がする。もわんとした気分の中で、宙をさまよっているような気になってくる。もしかしてこれが臨死体験というやつかもしれない、などと僅かに残った俺の心が感じる。
すぅ、と体が上のほうに浮かんでいくような気がした。
俺、死ぬのかなぁ
うすぼんやりと考えながら、浮き続ける体をゆらゆらと揺らす。くるんくるんと回転したような気がした俺の、その死にかけた視界の焦点がふわっと合ったような気がした時、俺は死体のような俺を見た。
俺の死体?
俺は、少し離れた上から、死体のように横たわった俺を見ていた。吐き気のような感覚はおさまっていたが、まるで酔っ払ってでもいるかのように頭はふわりふわりとしていた。ふわりとしていたのは、頭だけではなかった。俺の体全てが、ふわりと宙に浮いていた。手が動く。手を見つめる。その見つめた手の向こう側に、死体のような俺。状況は全く理解できなかったが、間違いなく俺は俺から離れて俺を見ている。
死ぬ?
「ちっ、浮きやがった。つまんねぇ。死ねよ。」
ぐるぐる回る頭の横で、低い男の声がした。ふと横を見ると、影法師の男が俺の真横に立っていた。顔を歪めて、さも面白くなさそうな醜い表情をしたかと思ったら、影法師はすぅと窓に向かって移動し、その姿を消した。
何故か俺には、それが今までの脅威の終焉のような気がしていた。幽霊は俺を襲うのを止めたのだと、なぜかそう感じた。体は浮いたままだった。
俺はしばらくその状態のままでいた。死体の俺はいざしらず、浮いている俺は、だんだんと正常な思考ができるようになっていた。何故かこの状態が心地よくも感じた。それが天国に召される前の至福なのか、それともただの妄想・幻覚の類なのか、今はまだ区別がつかなかった。
よく見ると、浮いている俺の体は、まだ部分部分がしっかりとした形を取っていないようだった。手はある。が、足はぼやけている。手で胸や頭を触ることはできる。そうやってぺたぺたとさわれる部分をなでているうちに、俺の後ろ頭にヒモのようなものがあるのがわかった。それは引っぱってもとれない。まるで後ろ頭から生えているような感覚。強く引っぱるのは怖かったのでやめたが、痛みなどはない。そのヒモは辿っていくと消えたり現れたりするが、手にはずっと感触があった。ヒモの行き着いた場所は、死体の俺の頭のてっぺんだった。
ふわふわと心地よく浮きながら、俺はだんだんとハッキリしてきた頭で考えた。俺は生きている。死んではいない。ただ浮いたまま、動くことはできない。まだ足はぼやけたままだったし、手をどんなに動かしてみても、浮いた体は移動しない。ただじっと死体のような俺を眺めるだけの俺。幽霊だの何だのに全く興味のない俺だったが、実際に影法師の幽霊に出会った、そしてその襲撃による恐怖を体験した今では、信じないなどとは言ってはいられなかった。ということは、これはもしかして俺も幽霊になったのだろうか?疎い俺でも確か聞いたことくらいはある、幽体離脱、とかいう?
なんとなく状況がつかめたとたんに、急に恐怖が襲ってきた。このまま戻れなかったら俺は死ぬのか?いやだ、死にたくない。突然心臓がバクバクと破裂しそうに動き出し、俺は恐ろしくなってもがいた。死にたくない。今この時点で体から離れてしまっている以上、兎にも角にも、今はこの死体のような俺に戻ることが先決だ。
俺は焦って手で水かきのように空をジタバタと泳いでみるが、何の効果もない。死にたくないよ、とつぶやきながら何度も手を泳がせるが、死体の俺には届かない。何とかならないものかと、次に後ろ頭のヒモを手繰り寄せてみるが、掃除機のコードのように次から次へと伸びるばかりで、まったく体に近寄る様子もない。余計に焦りは募って、俺は死に対する恐怖に直面した。もがきにもがいてみるが、なにも変わらない。
途方にくれて俺は冷や汗(?)をかきながら下を見る。死体のような俺は、もう本当に見るからに死体で、このまま放っておくと本当に「死体」になってしまいそうな気がして、焦りは募るばかりだった。俺はまた何度もじたばたと体を動かし、ひねり、もだえ、力み、念じ、祈った。
ふとその時、背中をトンと押されたような感覚があったかと思うと、俺の体は急降下し死体の俺にどすんと(音はしなかったが)ぶつかった。再び吐き気のような感覚や、頭痛が襲ってきた。歯を食いしばり、目を開けると、
そこはベッドの中だった。
『離脱』
セミの抜け殻のようにカサカサになった俺の体は、かろうじて「死体」ではなくなった。水分、足りてない。栄養、足りてない。睡眠、足りてない。安らぎ、足りてない。ないない尽くし状態ではあったが、俺は渾身の力を振り絞ってベッドから起き上がった。気がつくと朝日が差していた。
俺は、崩れ落ちるようにベッドから転げ落ち、かろうじてテーブルの上に手を伸ばした。最後に買った栄養ドリンクを、震える老婆のような手でつかみ、ガクガクと込め切れない力で栓を開けた。俺はそれを一気に飲み下した。思わずすぐにそれを吐いてしまいそうだったが、口を押さえてぐっとこらえた。そしてそのままベッドを背もたれに座り込んだ。
朝日が、強く高い陽射しに変わろうとする頃、俺は少しだけ動く気力が湧いて来た。水分と栄養を取らないと。それから風呂に入って、睡眠もとらないと。頭が正常に働き始めた。そのうちに、ふと去って行った影法師を思い出し、俺は根拠などないままに何か妙に解放されたような気分になって、勇気が湧いて来た。
食おう。
俺はよろよろとした足取りのまま、近くのコンビニに向かった。店員はあまりにも不健康そうで薄汚れた、体臭の臭い虚ろな男が入ってきたので、少し顔をしかめて同僚の店員とコソコソと何かを話していたようだったが、そんなことは今はどうでもよかった。
俺は消化の良さそうな食品と、ビタミン系のゼリー食品、栄養ドリンク数種、野菜ジュース、アイソトニック飲料、ビタミンサプリなどを買い込んで、部屋に戻った。買い物をどさりとテーブルに置くなり、アイソトニック飲料を開け、喉を鳴らして飲んだ。生き返ったような気がした。軽くゼリー食品をすすり、パンを少しかじった。ビタミンサプリを野菜ジュースで流し込んだ頃には、風呂に入る元気が出てきた。
久しぶりに風呂が気持ちいいと感じた。壁の気味悪いシミも、なぜか怖くなかった。何の確証もないが、どういうわけか今晩はあの影法師の幽霊は来ないような、そんな自信のようなものがあった。何故だろう?
果たして、その晩は何一つ起こらなかった。窓も鳴らないし、ゴミ箱も動かない。何の気配も感じない。本当に、本当に久しぶりに俺はスッキリした体に栄養素を少しずつ染みこませながら、回復することが出来るような気がした。んー、と大きく背伸びをして、はぁーと息を吐いた。俺は、カフェインの入っていない栄養ドリンクを1本飲んで、早い時間にベッドに横になった。ベッドではぁと息を吐いたかと思うと、俺は泥のように眠り込んでいた。
深夜、時計の針の小さな音が不思議と響きすぎるような気がした俺は薄目を開けた。そして、壁掛け時計があまりにも間近にあることに驚いて目を覚ました。はっとなって俺は周りを見渡した。視点が高い。ぎょっとなって下を見ると、俺が眠っている。死体みたいではないけれど、明らかに昨日と同じ状態だった。慌てて後ろ頭をまさぐる。また同じようにヒモの感触を手に感じて、俺は大きくため息をついた。焦ってはいたが、昨晩よりずっと冷静だった。また俺は浮いている。
自分の手足を確認する。昨晩のように足はぼやけていない。妙にはっきりくっきりと体は寝ている僕と全く同じ格好をしている。改めて恐怖が襲ってはきたが、昨晩の経験が俺を少しだけ落ち着かせた。初めてじゃない。昨日は戻れた。落ち着け、何とかなるはずだ。
昨日は何かに押されるような感覚で下に下りた。同じような感覚を思い出してみよう。押される感覚。いや、自分が重くなる感覚?よくわからないが、冷静に気持ちを下降へ下降へと向けてみる。思い切り深呼吸をして、はぁーと息を吐くたびに沈んでいくような気持ちを取り入れてみた。わずかに下に下がった気がした。
気持ちだ、気持ち。下がる気持ち。心地よく下がっていく気持ち。沈んでいく。体が徐々に沈んでいく。このまますーっと沈む感じ。静かに、ゆっくり。
ゆっくり。
ゆっくり。
けたたましい目覚まし時計の音で、はっと俺は目を覚ました。がばっと起き上がって、自分の手を見る。ちゃんと戻ってる。夢かもしれないけど、大丈夫。
それから俺は毎晩、夢とも現実ともしれないその“幽体離脱”を体験した。その度に、体に戻るコツも掴んできた。夢にしてはよくできているが、夢に違いないと思いつつ、毎晩のことなのでまるでトレーニングでもしているように、俺はこの夢を自在に操れるようになってきた。
次第に俺は、上下だけでなく前後左右にも移動ができるようになっていた。動けるようになると奇妙に楽しいもので、俺は夢の中で部屋の中を飛び回った。もちろん、夢なので何もさわれないが、ふわりふわりと浮いたり沈んだりしながら空中遊泳する気分は、なんとも気持ちのいいものだった。本当に毎晩見るので、奇妙な夢だと思うようになってはいたが、不快ではないだけに、深くは考えなかった。
部屋の中を飛び回るのに飽きてきた俺は、欲が出てきた。もしかして、外には出れないもんだろうか?物にさわれないということは、すり抜けると言うこと。もしかして窓もすり抜けるんじゃないだろうか?いや、それで戻れなくなったらどうする、死ぬかもしれない。散々葛藤した挙句、俺はゆっくりと右手だけを窓の外に出してみることにした。
窓に手を近づける。窓に当たった。感触はない。少し押してみる。中指が消えた。外のなまぬるい空気を中指が感じている。思い切って、ぐっと押してみる。手首までが外に出た!俺は慌てて手を引っ込めた。まじまじと右手をみるが、なにも変わったところはない。いけるんじゃないかと言う気持ちが僕の中にふつふつと湧き上がってきた。問題は完全に体が出てしまってから、戻れるかどうかだ。これは賭けだ。
敬介、賭けてみるか?
なんだか冒険者のような気分で俺は俺に問いかけた。
よし、行こう。
俺は、右手からゆっくりと窓に近づき、ぐっと外に向かって突き出してみた。右手はすぅと窓に吸い込まれるように消え、代わりに外の空気を掴むように動かすことができた。そのまま肩口まで滑り込み、右足を差し出す。それもすぅと吸い込まれる。いける。俺はそのまま体を窓に押し当てるようにぐっと進めて下半身から外に向かって身を乗り出した。そして最後にゆっくりと顔を窓に近づけ、そのまま外に向かって押し出した。眼球の前を窓ガラスの断面が過ぎていく。すっと全ての部分が外に出た瞬間、俺は逃げるように部屋に向かって戻った。また窓ガラスをすり抜けて、俺は無事部屋に戻ってきた。
出れるじゃないか!
これは大発見だ。俺は浮いたまま外に出ることができる。しかも窓ガラスをすり抜けて。息が荒かった。妙に疲れた俺は、今日はここまで、と独り言を言って自分の体に戻った。
やけに楽しい夢じゃないか!俺は数日前まで悲惨な状態にあったことすら忘れたかのように、この夢に没頭した。しかも、ちゃんと毎晩見れる。もしかして現実なのかもしれないとさえ思ったが、そこはさすがに信じられなかった。
俺は毎晩、楽しく空中遊泳した。外にも何度か出た。あまり遠くまでは行かないが、アパートの周りをうろつく位はできるようになった。俺は有頂天だった。ふわり、ふわりと空中遊泳をするのが楽しくて仕方なかった。そうやって彷徨っているうちに、俺はとんでもないものと出会うのである。
『夢』
俺は相変わらず楽しく空中遊泳をしていた。遊泳距離は日に日に伸びて行き、キャンパス程度までも行ける様になった。電柱も電線もすり抜けるから、なにも気にしなくて良い。夜のこの世界が、まるで自分のものにでもなったような気分で、俺は飛びまわった。それほどスピードが出るわけではないが、水泳の平泳ぎ程度の速さは出る。気持ち良いなんってもんじゃなかった。
浮かれて飛び回る俺は、その背後にいるものに気がつかなかったのだ。
「浮きやがって、死にゃあよかったものをよ!」
俺はあまりに突然のことにビクリを体を硬直させた。そのせいで思わずバランスを崩し、落下しそうになった。慌てて体勢を立て直した視線の先には、
あの黒い影法師の男がいた。
一瞬にして、あの時の恐怖が甦った。全身に冷や汗が吹き出るような感覚に襲われ、口がきけなかった。
驚いて、あうあう言っている俺に、影法師は猛然と突っ込んできた。そして俺の眼前で急停止して、俺の顔から数センチのところに無精髭の強面を近づけて目をかっと見開いた。
「ふらふらしてんじゃねぇぞぉ、コラァ。邪魔なんだよぉ、新入りぃ!」
俺は、あうあうと呻くことしかできなかった。
「脅かして、衰弱死もおもしれぇと思ってたのによぉ、死ねやぁクソが。」
何故か俺は、スミマセン、、、と小声で謝っていた。
「ゲヘヘヘヘ!キモのちいせぇ野郎だ。ゲヘヘヘヘ!ゲヘヘヘヘヘッ!」
影法師は下品な笑い声を大声で上げながら、そのまま猛スピードで俺の前から去って行った。俺の心臓は早鐘のように鳴っていた。ふらふらとどこを飛んだのやらわからないような状態で自分の部屋にたどり着き、体に戻ると意識を失った。
あれは、夢ではなかったのか。俺を襲った幽霊にまた出くわしてしまうとは。これが夢なら、間違いなく俺のトラウマのなせる業だ。
夢でないとしたら?俺は本当に体から離れて空中遊泳をし、そして俺を脅かしていた影法師も実際に存在する。幽霊と言っていいのか?昨晩の影法師の言葉が甦る。
「新入り」「衰弱死」「死ね」・・・
夢にしてはリアルすぎる。自分の脳みそが作った虚構の世界とはとても思えない。特に引っ掛かったのが「新入り」という言葉だ。「新入り」つまり、そう言うモノの集団が存在するということ。影法師は、俺より長い間そういうモノでありつづけているということ。俺は、そういうモノになりたての「新入り」だということ。そう考えると辻褄が合う。つまりは、幽体離脱者の集団、もしくは同じ境遇の存在の証明。
そう考えて、俺ははっとした。すぅと恐怖が消えていくのが分かった。なんだ、俺を恐怖に陥れていたものは、霊なんかじゃない、幽体離脱したあの男が勝手に俺の部屋に入って散々悪さをしていっただけなのだと。逆に、俺も誰かの部屋に入って悪さをすれば同じ恐怖を与えることができるということになる。ちょっと大介で試してみるか、なんていう意地悪な感情さえ浮かんできた。いや、ちょっと待て。俺は今、何一つさわることができないが、影法師はゴミ箱を倒したり、コンロに火を点けたりした。姿も見せることができたし、笑い声も聞こえた。俺ができないだけなのか、それともやっぱり本当の幽霊なのか。そう、どれにしたって全てのことが“夢じゃないならば”の話だ。
俺は、この現象が夢なのか、そうでないのか、確かめることにした。そこは大介を利用させてもらう。すまん、大介。
その晩、俺は早めに就寝し、いつも通りに空中遊泳の夢(?)に入った。ふらりふらりと大介のアパートに向かった。途中でまたあの影法師に出会う可能性もあったが、少しずつ正体が分かってきた現時点では、昨日までの恐怖はなかった。
俺は、大介の部屋の前まできた。大介が夜中に何をしているのかを見て、明日、本人に確認したことが一致すれば、これは現実と言うことになる。夢ではそうはいかない。大介のプライベートに介入する申し訳なさはあるものの、そこはまぁカンベンしてもらおう、と都合よく自分を納得させた。
俺は、すぃと大介の部屋の窓から顔だけを覗き入れた。大介はいつもの小汚い格好で寝そべり、ポリポリと太ももを掻きながら携帯で電話をしていた。
「だからぁ、文哉も雅司も呼ぶからさぁ。イケメンでいいっしょ?あとはオレと茂ちゃんと、、、敬介?敬介は最近なんかヘンだからさ、やめとこ。」
何だコイツ、何かの打ち合わせか?
「で、そっちはどうよ?景子ちゃん、来んの?OK!OK!いーっすねぇ!あとはヨッシーにお任せすっからさ。イイトコ、見繕ってきてよ。な?じゃ、今度の金曜日で!うおっし、うっけーい、ではでは♪」
げ、合コンの打ち合わせか・・・。節操ないね、大介も。しかも俺はハミってコト?まぁ、別にどうでもいいけどね、興味ないから。まぁいいや、これで情報は得られた。明日、大介に確認してみればOKだ。俺ははやる心を抑えつつ、自宅に戻り明日を待つことにした。
「よ、大介。ひさしー。」
俺はキャンパスで大介を呼び止めた。のろりと振り返った大介は、なんだ、といった感じの顔で左手を上げた。
「敬介じゃん」
先日の幽霊騒ぎで泊めてもらった時のことが尾を引いているのか、大介の顔にはあまり絡みたくないといった色が僅かに滲んでいた。それはそれで仕方ない。俺も十分恐怖を味わった。気持ちはよくわかる。あまり長話をしそうな気配でもないので、俺は単刀直入に切り出した。
「あ、そうそう、今度の金曜日の合コンさー」何の話?ときたら夢。慌てたら現実。
さあ、どう出る?大介。
大介は、ギョッとした顔になって僕の方を見た。
「合コン?き、金曜日の?」
とっさに取り繕う言葉を見つけることができずに、大介は言葉を詰まらせた。
「俺、行けそうにないんでさ、大介たち、楽しんできてよ。」
大介の目が泳いでいた。
「え、あ、うん、ああ、そうするよ。ざ、残念だな・・・はは、ははは」
確定だ。あれは夢じゃない。
『遊泳』
それからというもの、俺はこの現実の空中遊泳を楽しむことにした。俺を脅かしてきたあの影法師も、幽体離脱の一人だ。そう思えば、それ程怖くはない。ただ、今の俺にはできないことができると言う点だけは恐怖を感じるが、とりあえず得体の知れないものではないというだけで、全然状況は違った。
とにかく今は、現状を楽しみたい。そして、できるならできるだけ早く飛んだり、物に触ったりできるようになりたい。まぁ、そのへんは置いておいて、楽しもうじゃないか。誰にも見えない、どこでもなんでもすり抜ける、さわれないけど。
さて、となると飛んでるだけじゃ飽きてくる。どこかに入りたくなってくる。どこにって?そんなもん、健全な青少年男子が考えることといったら、みんな一緒だ。
女子寮?銭湯?更衣室?うっひっひ。
俺は下卑た笑いを浮かべながら、そこいら中を彷徨った。銭湯はオバちゃん臭そうだな。ここはやっぱり女子寮でしょうか?ですねー。女子寮のお風呂、これしかない!と俺はみっともない平泳ぎのような格好で、よいしょよいしょとキャンパス近くの東南大学女子寮へと向かった。
街はまだ9時前、どの家にも明かりが灯り、夕食から憩いの時間をすごす家庭の温かい光で満ち溢れている。俺は鼻歌まじりでそれらの灯りを追い越して、目的の場所へと向かった。
キャンパスを越えて、大き目の交差点を越え、さらに線路を跨いだ先にお目当ての女子寮はあった。現場に着いた俺は、周囲をぐるりと回り、風呂場の窓を探した。一階のひときわ目立たない裏手の窓から、水音が聞こえてきた。女の子らしき声も聞こえる。
こ・こ・だー
俺は獲物を見つけた野獣のごとく、ふんふんと鼻を鳴らした。
しっつれい、いたしまーす!
超特急で俺は浴室の窓に突進した。
そして勢いよくその窓に、激突した!
そう、俺はすり抜けられなかったのだ。浴室の窓にしたたか顔面を打ち付けて、ずるずると地面に転げ落ちた。俺は何が起こったのかわからなかった。
何故?なんで?
もう一度、今度はゆっくりと窓に手を触れる。硬い。まったくすり抜けられない。じゃ、壁は?横の壁に手をずらしてチョップのように手をかざす。ガンとぶち当たって、俺は痛みで手を押さえた。
な、なんで?そんなはず、ないよね?
窓際でおろおろと考え込む俺の後ろで、突然ケラケラと甲高い女の笑い声が聞こえた。
「新入り君~、入れないトコには入れないの~ん、ザンネ~ン」
そういってまたケラケラと笑い声が聞こえた。
俺が振り返って見ると、敷地内に大きなクスノキが立っていた。その少し高い位置で木の枝に腰掛けるように座り、足を組んだ人影が見えた。
「だれだ?」
俺は、人影に向かって叫んだ。俺は誰にも見えないはずだ。同じ幽体離脱のモノ以外には。
影は大変不満そうにこう言った。
「先輩に向かって、だれだ、とは口の効き方がなってないなぁ~、新入り君~」
俺はふわりと宙に浮かんで平泳ぎのような不恰好な姿勢で、声の主の方に近づいた。その若い女性の声をした影は、暗い木の枝にかくれてあまりはっきりとは見えなかったが、近づいていくにしたがって学生服を着た少女であることが分かった。高校生くらいだろうか、肩より少し長い真っすぐな髪を、少しだけ内側にカールさせていた。足を組んで、膝の上にひじをつき、手の平に顎を乗せたままニヤニヤと笑うその少女は、少し小悪魔的な上目遣いの眼差しで俺を見ていた。
「まぁまぁ、お座りよ。新入り君。」
ちょっと小バカにするような言い方でそう言って、ぽんぽんと自分の横の木の枝を叩いて彼女はまたニヤニヤと俺を見た。そう言われても俺は何にもさわれない。木の枝に座ることもできない。すり抜けてしまうから。なのに、何故さっきは窓にぶつかったんだ?
「そっか、新入り君だから、まだ何にもさわれないんだ。じゃ、しょうがないね~。」
彼女は、本当はそれを知っていたのにわざと言った、という感じだった。俺は、いぶかしそうな顔で彼女に聞いた。
「キミ、だれ?」
彼女は、ちょっとふくれっ面のような顔をしたかと思うと、
「ほぉら、またぁ。先輩に向かって口の効き方がなってないよって、言ってるのにさぁ。ダメだよ、新入り君~。」
どう見ても高校生くらいの、しかも学生服を着た年下っぽい少女に、先輩と言われてもどうにも納得しにくい。
「先輩っつっても、高校生じゃん。自分。」
彼女は、右の眉を吊り上げて、ふふん、と鼻を上に向けて自慢げに言った。
「なぁに言ってんの。アタシは浮遊歴1年8ヶ月のベテランよ~。昨日今日、浮遊を始めたような新入り君とは格が違うんだって。ワカル?キミ、何歳よ?」
いきなりの質問におれは面食らった。
「え?えっと、俺?じゅ、19歳だけど。」
「なぁんだ、アタシなんてね~、延べで言うと20歳なんだから。どっちにしたって先輩じゃん。頭が高いよ。ひかえおろう~。」
彼女は、ケラケラと笑い、ほらみろと言わんばかりの顔で、ふふんと見返した。
「なんだそれ、よくわかんねーよ。高校生だろ?」
「違うって、格好がそうなだけで、延べ20歳なの。わっかんないなぁ、もう。」
俺は頭を抱えて、はぁ、とため息をついた。
「わかった。20歳ね。わかったから、さっきの、教えてくれよ。『入れないトコには入れない』ってどういうことよ?」
彼女は、チラリと俺の方を見て、ぷいっと横を向き、
「?え?ナニナニ?教えて・・・?えー、ナニ?」
うわー、なんだこいつ。えっらそうに!
「・・・くっそー。・・・教えて、ください!」
俺は不承不承、頭を下げた。彼女は勝った、とばかりにニヘッと笑って、言った。
「仕方ないねぇ。教えてしんぜよう~、新入り君。」
彼女は、うぉっほん、と咳払いのような仕草をした後、語り始めた。
「キミさ、どこでも何でもすり抜けれると思ってるでしょ。違うんだな~、これが。」
彼女は人差し指をピッピッと振って言った。
「すり抜けれるのは、キミがキミのモラルの中で、当然これはすり抜けてもいい、と認識しているものだけ。無意識でね。自宅とか、学校とか、友達ンちとか、公共施設とかね。んでー、逆にキミがキミのモラルの中で、ここは入っちゃダメだって思ってる場所、そこにはざーんねんながら、入れませーん。」
彼女は両手で大きくバツの印を出した。
「ま、分かりやすく言うとね、今みたいに女子寮のお風呂とか、女湯とかね、女の人のマンションの部屋とかさ、女子トイレとか、あと他にも無意識に自分でダメって思ってる場所もダメね。例えばちょっと悪いことしてた人とかだったら、ケーサツとかも入れないよね。ワカル?これは人によって違うのよ。いいかな?新入り君~。」
聞きながら、何で俺はこんな高校生みたいなのに講釈垂れられなきゃならんのだ、と思ってはみたものの、どうやら浮遊に関する知識や経験ではどうにも俺より物知りらしい。
「だからー、キミはイイのよ~。窓に激突したことを自慢しちゃって。」
彼女は横目で俺をチラリと見て、アハッと笑った。
「女湯に入っちゃダメって無意識でわかってるんでしょ?良識あるじゃん。エライ、エライ。これが良識のない悪人だと、女湯だって入れちゃうんだからさ。ま、逆に考えれば不公平なハナシよねぇ~。」
説明を聞いていた俺は、ナルホド、と納得した、と同時にかなりガッカリした。
「はぁ~、なるほどー、そういうこと。。。」
と、カクンと首をうなだれると、彼女がポンポンと俺の肩をたたいた。
「まぁ、そうガッカリしなさんな。エッチなこと以外でもなんかイイコトあるって。」
ぐっと親指を立ててOKマークを出した後、またケラケラと笑った。
その笑い声を聞いていた俺は、もう一つ聞きたいことに思い当たった。
「そうだ!じゃ、物にさわれるようにはなれるのか?」
彼女は腕を組んで、先生のように答えた。
「ほほう、そっちにくるかー。ふむふむ。」
俺は何か教えてくれるものと思って、期待して彼女を見た。
彼女は人差し指を顎にトントンと当てて、少し考えるような仕草をした後、言った。
「それはねー、、、また追い追いってコトで。そろそろ時間も長くなってきてるし、キミ、帰んないと。ホラホラ。」
「ちょ、ちょっと!それどういうことよ!時間、関係あんの?」
「そだよ。あんまし長い時間、本体と離れてると、切れちゃうよ。死んじゃうよ。ホラ、お帰り。新入り君。」
彼女は右手で、しっしっと犬を追い払うようにした。
「死んじゃう!?マジ?わ、わかった!わかったから、今度もっといろいろ詳しく教えて!えー、いや、教えて、ください!」
彼女はニッと笑って言った。
「いい心がけだぞよ、新入り君。じゃ、新入り君の名前を聞いとこか。」
俺は必死で木から飛び去りながら答えた。
「敬介、佐倉敬介!」
「ふーん、敬介くんね。オッケー。アタシ、由里子。じゃ、まったねー。」
彼女は、ぱたぱたと手を振りながら笑っていた。
『残像』
時間がたちすぎると死ぬ、と言われて、大慌てて自宅に戻ってみたものの、自分の体に戻って落ち着いてよく考えてみると、もう一度彼女と会える保証がない。どこにいるのか、いついるのか、サッパリわからないのだ。かろうじて名前だけは分かった。由里子、と彼女は言った。
とりあえず彼女から聞いて分かったことは、人によってすり抜けられるところは限られてくると言うこと。下品な欲望のためにすり抜けを使うのは難しそうだと言うこと。幽体離脱して時間が経ちすぎると、本体との関わりが切れて死んでしまう可能性があると言うこと。その時間がどれくらいかはわからない。それから、訓練か経験かはわからないが、物に触ったりできるようになることは可能であること。彼女が木に座っていたことや、影法師がいろいろさわれたことからもわかる。
だが、まだ聞きたいことは沢山あった。夜が来るのを待って、俺は浮遊の旅に出た。彼女を探すのが最大の目的だが、当てはない。ダメ元でふらふらしてみるつもりだった。とりあえず、昨晩会った女子寮に行ってみた。が、そこに彼女はいなかった。あてどなくふらついてみたが、結局会うことはできないまま、時間制限の方が気になって、アパートに戻った。
アパートで自分の体に戻る前に、意識の離れた自分がどうなっているか、よーく観察してみた。確かに、出かける時に比べて、呼吸の速度が落ちている。簡単に言えば段々と生命力が失われていく感じだ。いわば脳みそだけが離れてしまっているようなものだから、やがて生命活動そのものに支障が出ると言うのも頷けない話ではない。
とりあえず今日はここまで、と自分の体に戻った。
翌日、翌々日と、3日にわたって周辺界隈をうろついてみたが、結局彼女を見つけることはできなかった。暗がりの中でほんの少し会話しただけと言うこともあって、段々と顔も忘れかけてきて、もう会うこともないのかもな、と思いかけた4日目、忘れて楽しく遊泳していた俺は、会いたい相手どころか、逆に出会いたくない相手に出会ってしまった。
黒い影法師だ。前のように猛スピードで近づいてきたりすることもなく、ただ表情は以前のように忌々しそうに何処かへ向かって飛んでいた。俺のことをチラリとは見たが、何の興味も示さないかのようにそのまま飛んでいた。俺は勇気を振り絞って、逆に影法師に近づいていった。気付いた影法師は、ぴたりと止まって俺の方を向き直り、叫んだ。
「うぜぇんだよぉ!あっちいけぇ!」
以前ほどの恐怖を感じなくなっていた俺は、それでも構わず影法師に近づいていった。影法師は突然可笑しそうに笑いながら言った。
「ゲヘ!ゲヘヘヘ!死にてぇのか!お前なんざにゃ、もう興味ねぇんだよ!他の遊び相手を見つけたんだぁ。うせやがれ!ゲヘヘヘヘヘッ!」
俺はわざと丁寧に言った。
「以前はお世話になりました。お蔭様で今は楽しくやれています。」
影法師は、意外といった顔をして叫んだ。
「ゲヘヘッ!なぁに言ってんだぁ、ガキ!殺すぞ!ゲヘヘヘヘッ!!」
俺はその言葉を無視して、続けた。
「すみませんが、あなたをこの界隈に詳しい方とお見受けしてお伺いいたします。由里子という女の子を知りませんか。」
影法師は、さらに意外といった顔をして、不思議と真面目な顔をして答えた。
「ゲヘッ、はぁ?由里子?あぁ、あのガキか。」
「知ってるんですか?」
影法師は、あぁうっとおしい、という顔をしていたが、ぼそっと言った。
「県病院の大銀杏だろ。うぜぇ、うせろ!ゲヘヘヘヘッ!!!」
そう言って、またすごいスピードで何処かへと去って行った。
県病院の大銀杏。
街で一番大きい病院のシンボルマークのような存在。建物の東に聳え立つ大きな銀杏の木。俺は、とにかくそこに行ってみることにした。
県立和泉病院。略して県病院。この界隈では一番大きな総合病院で、救急、ICU、総合診療はもちろん、ガンセンターなども併設したかなり大きな病院だ。その一番東、ICUのある棟に隣接するように、巨大な銀杏の木が生えている。
俺がそこにたどり着くと、暗い銀杏の木の枝の隙間に、人影らしきものを発見した。まだ少し不器用な泳ぎ方で近づくと、影法師の言った通り、それは由里子だった。彼女は先日と同じように学生服を着たままだった。俺が近づいていることに気付かないようで、先日あった時のさばさばと明るい感じとは打って変わって、何か物悲しさを滲ませるようにうつむいて枝に腰掛けていた。
さらに近づいていくと、さすがに俺に気付いたようで、はっと顔をあげて少し驚いたような顔をしたかと思ったら、すぐに先日のような表情に戻っていた。
「あっれ~、なんだー、新入り君じゃ~ん!じゃなかったっけ、えーと、、、」
また彼女は人差し指を顎に当てて少し考える仕草をした後、
「あ、そうだ!敬介、敬介くんね!そそ、わっすれてたよー、ごめんねー」
と、照れくさそうに、でも先日と同じようにケラケラと笑った。
「忘れてたじゃねぇよ、色々教えてくれって言ったじゃん!」
4日も探した俺は、少し苛立った風に言った。
「あ、ほらまたぁ~、先輩だって言ってんじゃん。敬語、知んないの~?敬介くん。由里子先輩、色々教えてください、でしょってばさ。」
ガックリと肩を落として俺はあきらめ顔で言った。
「はいはい、色々教えて、ください。由里子先輩さま。」
彼女は得意顔になって言った。
「ハイ、よろしい。やればできる子だもんね~、敬介くんは。」
「へぇへぇ、でも由里子先輩っつーのは、どうも。。。由里子さん、くらいでどんなもんで?」
彼女はくいっと右眉をあげて、しょうがないナ、とでも言いたげだった。
「ふーん、ま、いいでしょ。さん付けを許可いたすー。」
彼女が腰掛けているのは大銀杏でもかなり高い位置だ。そのあたりからだと、ICUの窓が全て見え、ブラインドが開いているときは、その中がよく見える。影法師がすぐにここの場所を言ったということは、どうやらここが彼女のお気に入りの場所ということになりそうだ。病院の、しかもICUのすぐ見える場所と言うのも、あまり趣味のいい場所とはいい難い気もするが。俺はまだ枝に腰掛けることができないので、彼女の横でふわふわと浮いたまま話をした。
「で、由里子さん、まずどうやって物にさわれるようになるのさ。」
彼女は、しばらくじっとICUの中を覗き込むように眺めていた。おもむろにぽつっと言った。
「わかんない」
「は?」
俺は、ちゃんと答えが返ってくるものとばかり思っていただけに、愕然とした。彼女は、くるっと俺の方を向いて、ニッと笑ってもう一回言った。
「わかんない」
「いや!わかんない、じゃないっしょ!実際、枝に腰掛けてんじゃん!?」
彼女は、ぷうっとふくれっ面になって言い返した。
「だって、ホントだもん。これこれ、こうすればさわれるとかっての、ないんだもん。」
「ええーっ!どういうことよ、それ!?」
彼女はまた、えへん、と言う感じで先生ぶった表情をして語り始めた。
「しょうがないなぁー、もう。分かりやすく言うとだねー、カン!カン、よ!なんての?こう、何かのきっかけに不意に何かに触れた気がして、あー、こんな感じなんだー、みたいな感覚を繰り返し思い出してたら、いつの間にか「物」ってものがどんな感じのものかわかるようになる、ってスンポーよ。「物」が「ある」って思ったら、「ある」の!わっかんないかな~。」
もう、こまったちゃんだねぇ、と呟きながら彼女はため息をついた。
「わっかんないかな~、じゃなくて、わかんないよ!」
俺がごうを煮やして言うと、彼女は、はい、と左手を差し出した。
「ホラ、敬くん、アタシの手に触れる?ホレ、ホレ。」
俺の鼻っ面の先に手を差し出す彼女が、何を言いたいのかよくわからないまま、俺は彼女の手をパン、とはたいた。
「触れるよ!ほら!」
「でしょ?」
彼女はそう言って、はたいた俺の手をパッと握った。そして、そのまま銀杏の木の枝に自分の手と俺の手を当てて、言った。
「ホラ、今アタシは枝に触ってる。おんなじように敬くんも、今枝に触ってるの。ホントは触ってるんだよ。そこに枝は「ある」の。そこに「ある」って感覚、わかる?これに気がついたら、何でもさわれるよ。」
じっと、握った手と手と枝を見つめながら、彼女はクッと顔をあげてニッと笑った。
「かぁっこいぃ~、由里子先生ってば、なんかカッコいくない?えっへー。」
俺は思わず苦笑した。わけわかんないけど、なんだか憎めない。
「なんか、わかったような、わかんないような。ま、いいや。ありがとう。ちょっとトレーニングしてみるよ。」
「うむ、がんばりたまえ。」
どうにも、調子の狂う子だ。俺は、触る話は置いといて、次の話題に移った。
「ハイ、じゃ、由里子さん。もいっこ質問、いいっすか。」
「うむ、なんでも聞くが良い」
よくわからない言葉遣いで、彼女がニッと笑った。
「幽体離脱して時間が経ち過ぎると、切れちゃうとか、死んじゃうとかって言ってたでしょ。それってどれくらいの時間なの?」
先日、自分でも離脱直後と、4時間して戻った時を見比べたら、少し呼吸速度が落ちていた。顔色も少し悪かった。呼吸や血行、新陳代謝とかが落ちているのは明白だった。しかし、どこが限界か分からなければ困る。
「わかんない、はナシ!」
「わ!今言おうと思ったのに!ひどい、敬くん!」
彼女が拗ねたように眉根を寄せた。と思ったら、ニヘッと笑って言った。
「うそうそ、大体わかるよ~。そだね~、だいたい7時間から8時間が限界かな~。夜早くに抜け出てから、朝帰りはちょっとムリ、て感じ?」
おお、今度はまともな答えが返ってきた、と俺は少し感動した。とすると、新たな疑問が出てきた。
「じゃ、それ過ぎちゃったら、どうなんの?」
彼女がちょっと意地悪そうな顔をして、でも少し深刻に答えた。
「簡単に言えば、『脳死』。だってさ、脳の機能もひっくるめてこっちに飛んで来ちゃってるんだもんさ。一応、線で繋がってはいるけど、時間が立つとどんどん細くなって、そのうち切れちゃうの。そしたら、『脳死』。でしょ?」
うわ、シビアな回答だ。確かに、今、後ろ頭にヒモのような線が繋がってる。つまり、これが切れたら脳死ってことか…。
「コワ…。」
「あ、ついでに言っといてあげちゃお。あんまし遠くに離れすぎるのもブー、だからね。」
彼女はまた両手で大きくバツの印をかたどった。
「線はそんなに伸びないんだからさ、どこまででも行けたりしないんだよ~。トーゼンじゃん。無限だったら世界一周できちゃうよ。そりゃアタシも、モン・サン・ミッシェルとか見てみたいけどさ~、さすがにね~~~アハハ」
そうか、距離もある程度制限を受けるんだ、俺は頭の中にいろいろな情報を叩き込んだ。
「で、その距離とはいかな程度で?由里子先生。」
「うむ、半径10kmってとこじゃろうのう。」
どこぞの老師か、と言いたくなるように腕組みをして、うむうむ、と頷いている。
「今日はいろいろと、ありがとうございました!師匠!」
「なに、師匠なんていわれると、照れちゃうじゃ~ん!」
バン!と俺の肩を叩く。いや、そこは冗談ですよ、マジ照れんとってよ、と言いたくなったが、これも彼女の「素」だ。面白いと言えば面白い。
「で、由里子さんはここがお気に入りの場所なの?」
他愛ない話に戻したつもりだった。が、予想外にも、彼女の反応は暗いものだった。
「・・・ん、まぁね。」
意外な表情の暗さに、俺は少し慌ててしまった。俺は取り繕うように言った。
「そうだ、由里子さん。まだ時間大丈夫なら、どっか遊びに行かない?」
少し表情に明るみが差したことに俺はほっとした。
「どっかって、どこさ?」
「どこって・・・、・・・マックとか?」
「食べれないじゃん。」
「・・・あ、そうか。じゃ・・・、ウィッキーランドとか。」
「夜中じゃん。」
「・・・そ、そうだよね。・・・えーと・・・」
彼女はうろたえる俺を見ながら、エヘッと笑って、
「いいよぉ、もう。アハハ、敬くんてば、なにいってんのさ、夜中に行くトコなんかないじゃん。それよか、飛ぼうよ!空、ぎゅーんって!」
いいねぇ!と言おうとして、俺はまだ平泳ぎ程度の遊泳力しかないことを思い出した。俺はもごもごと口ごもる。
「・・・いいけど、俺、ぎゅーんなんて飛べないしさ…」
わかってるよぉ、と小さく彼女は呟いて、俺の手を取った。
「いいって!アタシが引っぱったげる!いっくよ~、ドン!」
彼女に手を掴まれて、急に飛び上がった俺たちは、猛スピードで天空へと駆け上がった。俺は、ただただ彼女に手を引っぱられるばかりで、目が回りそうな状態だったが、彼女は何かを吹っ切るように、スピードを上げ、楽しそうに笑っていた。
星が舞い、街灯が舞い、月が踊る。彼女は、本当に楽しそうに空を駆け巡った。俺はまるでジェットコースターにでも乗っているような気分だったが、とても高揚していた。ぐるんぐるんと回る景色と、彼女の楽しそうな笑い声だけが、いつまでも俺の心に残像を残していた。
『6日間』
それから俺は浮遊する時は、時々、県病院の大銀杏に顔を覗かせるようになった。何故か彼女は、大概そこにいた。たまにいないときもあったが、何をしていたのかと聞くと、
「そりゃもう、敬くんみたいな新入りを見つけてからかいに行くんだってば。大概、女風呂とか、女子寮とかで、窓に顔面ぶつけて鼻血出してんじゃん?これで遊ばずしてどーすんのよ。」
と、答える。が、そんなに頻繁に俺みたいな新入りが発生するのかと聞くと、そうでもないと答える。今ひとつ掴み所がない。
たまに2~3回行っても、ずっといないときもある。そんな時、どうしているのかは聞いたことがないが、彼女だって生身の本体があるのだろうし、毎晩浮遊しているわけでもないだろうから、あえては聞かない。
しかし、今日で6日目になるが、大銀杏に行っても彼女がいない。3~4日なら、まぁそんなこともあるだろう程度ではあるのだが、6日目ともなると一抹の淋しさを感じてしまう。よく考えたら、他に浮遊している人を俺は見たことがない。知っているのはあの黒影法師と、彼女だけだ。いつまでも一人で浮遊するのは、もう楽しくなくなってもきていた。俺はそれから5日ほど浮遊をしなかった。何かぽっかり穴があいたような気がして、飛ぶ気になれなかったのだ。
6日目の晩、僕はいつものように何事もなく布団に入った。浮遊する気もなく、ぼーっと布団に丸まっていた、その時、
バン!
窓ガラスが鳴った。一瞬、昔の恐怖が思い出されたが、今の俺にはそれは一蹴できる恐怖だった。またあの黒影法師かと思い、大きく息を吐いて布団に入った。寝て、幽体離脱して文句言ってやる。
俺は、すうっと眠りに入り、体が浮遊するのを感じた。よし、窓際!と思ってすっと近寄った時、窓の外に黒い影が現れた。
「敬~く~ん、あ~そ~ぼ!」
俺の緊張が一気に解けた。そこには彼女がふわりふわりと浮いていた。俺は窓をすり抜けて外に出て、叫んだ。
「由里子さん!ナニやってんの!ビックリすんじゃん!」
彼女はきょとんとした顔をして俺を見ていたが、またいつものようにニッと笑顔を浮かべて言った。
「最近、遊んでないじゃ~ん。なーんで遊びにこないのさ~」
ちょっと不服そうに口を尖らせて、彼女はくるりと宙返りした。
「な、なに言ってんの!行ったけど居なかったの、由里子さんじゃん!」
彼女は少し俯いて何かを考えるようにしていたが、ふいに顔をあげてまたニッと笑った。
「とりあえず、遊ぼ!なーんでも質問、由里子先生が答えてあげるからさ~」
彼女は俺の手を引いて空に舞い上がった。
俺たちはひとしきり飛び回った後、いろんなところに行った。俺はワンモアトライ!と言って、女子寮の風呂場に突っ込んでみたが、あえなく玉砕し、さんざん彼女にケラケラと笑われた。遊園地の観覧車のてっぺんに立ってみたりした。水族館の魚の水槽の中に突っ込んでみたりもした。彼女のケラケラと笑う声が、俺の左側で心地よく響いた。
俺たちは大銀杏に腰掛けていた。といっても、俺のは腰掛けているフリ。実際には浮いているだけだけど。楽しかった浮遊旅行の後の脱力感のようなものに二人は支配されていた。
俺は、不意に彼女に質問を投げかけた。
「6日間、どこいってたのさ」
彼女は、ぴくりと反応したがそのまま俯いて黙っていた。しばらく、沈黙が二人を包んだ。と、突然、彼女が口を開いた。
「ICUでさ、また一人死んだの。事故でね、頚椎を折って意識不明のままICUに運ばれてきて、でもそのまま死んじゃったの。」
彼女が何を言わんとしているのか、俺にはわからなかった。
「アタシね、その人が死ぬ前に意識が、まだどっかで彷徨ってるんじゃないかと思ったんだ。本当に死んじゃう前だったら間に合うかもしれないし。」
何故か彼女は、その人と自分を重ね合わせるようにしながら語った。
「彷徨うって、つらいんだ。わかるの。だからアタシ、探したんだ。でも、結局見つからなかった。もしかしたら見つけられなかっただけかもしれないし、彷徨うこともなく行くべきところを見つけたのかもしれない。わかんないけどね。でも、結局死んじゃった。意識も見つからなかった。アタシにはわかんない。」
彼女はまた少し沈黙した。すっと顔を上げたかと思うと、声の感じががらりと明るく変わっていた。
「ダメだー、って思ったらさぁ。なーんかスカッとしたくなっちゃってさ!だもんで、こりゃもう敬くんと飛び回っちゃれ!と思ったらさぁ~っ!」
少し小さな声になって、
「思ったらさぁ~…」
彼女の声が急に涙声になったのがわかった。
「敬くん、来ないじゃん。」
彼女の声が嗚咽に変わった。俺は、思わず彼女の肩を抱いていた。彼女は、俺の胸にもたれかかって、しばらくの間泣いていた。
(後編につづく)
ちょっとだけ泣ける作品に仕上がったと思っています。前作に比べて会話文が多く、稚拙な作品になってしまいましたが、いかがだったでしょうか。