5話 神様の景色
そのものすごいスピードに僕は目を開けていることもできず、ぎゅっと目をつぶり、おおかみのワイヤーロープほどもある硬くて太い銀色のたてがみをつかんで
(早く着いてくれ。早く着いてくれ。)
心の中でその事だけを念じていた。
こんな恐ろしい時間は今まで生きてきた中で初めてだ。
早くこの恐ろしい時間が過ぎるよう心の中で祈った。
どれほどの時間がたっただろう。
「ぴたっ」と、急におおかみが止まった。
(え、もう着いたの?)
いやに早く着いたなと、思いながらおおかみの背におぶさったままうっすらと目を明けると、おおかみの頭越しに360度のパノラマの山の風景が広がった。
「おお」
僕は思わず感嘆のため息を漏らした。
金糸、銀糸、黄色、オレンジ、赤、茶色。そして紅葉していない木々の緑色がぼこぼこと突出し、一面じゅうたんのような彩だった。そして遥か彼方には乳白色の雲が目の覚めるような雲海を作り出し、威厳と尊厳に満ちた山々の冠になっていた。空はどこまでも澄み切って青く、紅葉とのすばらしいコントラストを生み出していた。
その雲海の下には大小の山々が、雲海の雲の切れ目から射す光によって照らされ、雄大に広がっていた。
「おお、神様」
僕は口に出して言ってみた。
それほど素晴らしい景色だったのだ。この世の中にきっと必ず神様は存在するのだと、確信できるような神々しい光景だったのだ。
「ちょっと休憩だ」
僕はおおかみの背から降り、改めて周りの景色を眺めてみた。
僕たちは突出したかなり大きな岩盤の上にいた。
その岩盤の上からさっき見た光景をもう一度眺めた。
風の音がした。色も匂いもついていない。音さえわずかに耳に触れる程度だ。
じっと、僕は音を聞いた。そして神々しい光景を見下ろし、胸いっぱい空気を吸い込んだ。その空気は僕の体の頭のてっぺんから足のつま先まで、隅から隅まで新しく新鮮な酸素を取り入れてくれた。
僕は自分の足が地に着いているのかどうかもわからなくなってきた。得も云われぬ何かの存在に包まれ、ここにいることが現実なのか夢の中なのかさえもわからなくなって。
「気持ち良いだろ」
「頂上よりはちょっと落ちるけどな」
僕ははっとし、横にいるおおかみの横顔を見つめた。
(そうか、頂上に行かなかった僕にこの景色を見せてくれようとしたのか)
「小っちぇよな。俺たちって」
「いつもはあのずーっと、ずーっと下の、ちいちゃなちいちゃな場所でごちょごちょ動いて一日終わってんだぜ」
「そうだね」
「そうだろ」
「この山の上に来たら、どっちが食うか食われるかの立場だとか、いろんなごちゃごちゃしたことがどうでもよくなってくるような気がしねえか」
「うん」
「だから今日は、俺はおまえを食べなかったんだ。理由がわかったろ?」
おおかみは耳まで裂けた口元をほころばせた。
「今日は俺は獲物を仕留めれなかったし、おまえは木の実が探せず、くいぶちのあてを又考えないといけない。」
「でも、こういう日があってもいい。そう思わんか?」
「そうだね」
僕とおおかみは天敵同士で、どこまでいっても絶対交わる事のない敵同士だけど、なんだか一瞬そんなしがらみを越えて、お互い気持ちが通じたような気がして、心臓の辺りがふんわりと暖かくなった。
おおかみもきっとそう思ったに違いない。
「さ、そろそろ行こうか」
おおかみは僕に背を向け、腰を落とした。
僕は今度は自分から黙って、おおかみの背につかまった。




