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第二章 ~(2)~(改)

 夜が深まり、街道沿いにある樹木の密度が増してきた。キプロ大森林に差しかかったようだった。

 漆黒の森に囲まれた道路は見通しが悪く、光源もない。シュイたちは頻繁に辺りを警戒し、異常がないか視線を走らせていた。



 ふと、馬車内の照明が落ちていることに気づいた。どうやらデルモントは早めの仮眠を取っているようだ。車輪がカラカラと回る音と夏虫の声、稀に狼の遠吠えが耳に入ってきた。


「なぁ、ちょっといいか」


 唐突に、ピエールが後ろを振り向き、シュイに話しかけた。


「何だ?」

「その、昼間の関所でのことだけどよ、不愉快ってどういうことだ?」

「ピエール、あんたねぇ。知り合ったばかりの人にそう根掘り葉掘り聞くのは失礼じゃないの?」


 ミルカが眉をハの字にしながら(さと)した。ばつの悪そうな顔に変わったピエールを見て、シュイが相好を崩した。


「いや、別に構わないよ。大したことじゃないから」

「そ、そうだろ? ほらミルカ、本人もそう言っていることだし――」

「顔に大きな火傷の跡がある、ただそれだけさ。まぁ、薄々察しが付くと思うけれど、見たってあんまり気持ちのいいもんじゃないからな」


 シュイは努めて明るく言ったものの、前を走る二人の表情が明らかに曇った。


「……す、すまねえ」

 ピエールが素直に詫びたことに、シュイの方がうろたえた。

「……もう、だから言ったのに」

 ミルカもしゅんと肩を窄めた。頭の上にある三角耳まで寝てしまっていた。

「か、構わないって言ったじゃないか」

「で、でもよ」


 本当に申し訳無さそうな顔をしているピエールに、シュイは鼻の頭を掻いた。今まで抱いていた印象はとてもいいとは言えなかったが、ミルカの言うようにそこまで悪いやつでもないかも知れない、と。


「まだ任務中だろう、もうすぐ着くとはいえ、少し気を抜きすぎじゃないか?」


 シュイが笑いながらそう言うと、ピエールはミルカと顔を見合わせ、そうだな、と呟いた。

 言葉を切って、ピエールとミルカは再び周囲に注意を払い始めた。これ以上、このことに触れるのはかえって礼を失すると思ったようだ。



 小高い丘を登り切ると、眼下に町の明かりが見えた。外壁の奥、町の中央には巨大な樹が立っており、梢が淡青色や橙色に変化している。暗闇に佇む淡色パステルカラーの光を帯びた大樹。その幻想的な光景は夢の中の世界を思わせた。


「これは、凄いな」

「あそこがキャノエの町ですよ。中央にあるのが町のシンボル、長老樹です。もう一息ですね」


 気を利かせたつもりなのか、従者がどぅどぅと馬車を止めた。遅れてシュイたちも足を止め、その光景に見惚れた。


「やっぱ、ここからの眺めはいつ見ても最高ね」

「だな、こんな景色、他じゃあ見られないぜ」

「二人は、この町に来たことがあるのか?」

「ええ、ここは私の地元みたいなものよ。隣町に実家があるの」



 夜もどっぷりと更けた頃合い、一行は無事キャノエの町に入った。

 町の通りには警備兵以外に人気もなく、辺りはひっそりと静まり返っている。どうやらこの国では、住民のほとんどが午後九時までに就寝するらしい。あまりあくせく働くようなことはなく、のびのびとした風土のようだ。


 それから三十分ほどして、馬車は町中にある円形の芝広場の前で停止した。デルモントが経営する宝石商店は、もう目と鼻の先ということだった。


「いやー、真に助かりました。こんなに早く着くとは、流石シルフィールの傭兵様ですな」

「まぁ、何事もなかったからな」


 満足げに頬を緩めるデルモントにそう返したピエールの顔は、少し誇らしげだった。


「いやいや、あなたたちが護衛してくださったからこその安全な旅路です。では、これが約束の報酬になります。どうぞ受け取ってください」


 デルモントは従者に頼むことなく、シュイたちに金の入った布袋を直接手渡していった。そんなところからも、彼の些細な心遣いが感じられた。

 シュイが中身の金額を確かめると、依頼の報酬より少し多い事に気づいた。


「確か、34万パーズずつだったはずでは?」


 袋の中にはぴったり40万パーズ入っていた。デルモントはシュイの指摘に軽くうなずき返した。


「早期の依頼達成にこれ以上ないほど満足しておりますので、若干色を付けさせていただきました。どうぞ、お受け取りください」

「そういうことなら、遠慮なく頂きます。ありがとう」


 シュイが礼を言い、それに続いてピエールとミルカが口々に礼を言った。


「いえいえ、こちらこそ。では、また機会がありましたらお頼み申し上げます。どうぞお体に気をつけて!」


 デルモントが隣の従者に目配せした。ほどなく閑静な町に、再び車輪の音がカラカラと鳴り始めた。


「デルモントさんも、商売の方頑張ってくださいね」


 ミルカが走り去る馬車に手を振ると、馬車の側面からデルモントの手の平がひょこっと出た。

 初めての依頼は滞りなく終わりを告げた。



 デルモントの馬車が去った後で、40万パーズの報酬が入った袋の重みを感じ、シュイはようやく任務を終えたことを実感した。初めて自分で仕事を選び、自分の勤労で得た報酬。それを目にするだけで、自然と顔が綻ぶのを止められなかった。

 取り立てて何事もなかったように思うが特別報酬(ボーナス)まで上乗せしてくれたわけであるし、デルモントも口先だけでなく、満足してくれたのだろう。小さく拳を握り締め、初任務を終えた余韻に浸るシュイは、ややあって後ろからの視線に気づいた。

 後ろを振り返ると、ピエールとミルカがきょとんとした表情でシュイを見ていた。


「……あ、じゃ、じゃあ。またどこかで」


 感傷に浸っているのを見られた気恥ずかしさを押し隠そうと、シュイが二人に先んじて別れの挨拶を告げた。


「あ、おいおい。ちょっと待ってくれ」


 ピエールがその場をそそくさと立ち去ろうとしたシュイを呼び止めた。


「ん? 何だ?」

「いや、なんだ、その……」


 不思議そうに振り返ったシュイに、ピエールが言い淀んでいるのを見て、ミルカが代わりに言葉を紡ぐ。


「うちら、いい宿知ってるんだけどさ。良かったら一緒に来ない? この時間だと空いてる宿、もう少ないと思うし」


 ピエールもそれが言いたかったんだ、と言わんばかりに何度もうなずいている。

「なら、お言葉に甘えさせてもらうかな」


 シュイは一考してからそう言った。遅い時間から宿を探すのはかなり難儀な作業だ。二十四時間ロビーが開いているような宿は非常に少ない。ましてや、この町の平均就寝時間は他国より早いのだから、下手をすれば野宿をする羽目になりそうだった。


「じゃあ決まりね。建物はちょっと古いけど料理は期待できるからさ」



 ミルカの先導に従い、三人は広場に面した大通りから遠ざかっていった。運河沿いの、馬車ではちょっと入れそうにない細い道を進んでいた。

 密集していた建物の間隔が開き出した頃、三人は宿屋〝ベチュア亭〟に辿り着いた。建物の軒下から玄関までは長い階段で結ばれている。何故か一階部分がなく、やや高めの二階部分を何本かの太い柱が支えている。見ると、下の階には何頭かの馬が繋がれていた。一階部分は厩舎代わりのようだ。


「ここだよ。私たち昔馴染みだから、結構安くしてくれるんだ」

「ここの女将さんは本当に料理が上手いんだ。特にシチューは絶品だぜ」


 得意気にそう言うピエールに、シュイもそれは楽しみだ、と応じた。


 半分に割った丸太を繋ぎ合わせたような階段を昇る。宿に入って間もなく、店の奥から少しふっくらとした女将が愛想良く出迎えてくれた。ひょこっと茶色の髪から覗いている三角の耳を見て、やはり獣人ビーストだとわかった。


「いらっしゃい。こんな遅くまでご苦労さ……あらっ、ミルカとピエールじゃないの。しばらく見なかったけれど、ちゃんと生きていたのねー」


 いきなりのご挨拶に二人が不満げに口を尖らせた。


「それはないよ、ベチュアさん」

「全くだぜ」

「あはは、冗談だよ。っと、後ろの方もお仲間かい?」


 ベチュアはひょいと背伸びをしてシュイの方を見た。シュイはフードを押さえながら軽く会釈を返した。


「ええ、エルクンドさんっていって、見た目はこんなんだけど意外と良い人よ、多分だけど」


 ミルカの言い回しに、シュイは眉を顰める。


「褒めているのか? 貶しているのか?」

「両方に決まってるぜ、なぁ?」


 ピエールの言葉に釣られて皆がドッと笑った。シュイも微かに笑いを誘われた。


「三人とも、その様子じゃ夕飯まだだろ。部屋に持っていくかい?」

「えへへ、流石ベチュアさん、わかってるぅ」

「俺、肉大盛りで!」


 二人の調子の良さに、ベチュアは苦笑しながら三階の大部屋に入るよう告げた。



 階段を上がり、左に曲がって突き当たりの部屋の前に来た。一瞬あれっと思ったが、玄関が二階なので、確かにここが三階だという事に気づいた。

 (ふすま)を開けると、部屋の床には畳が敷いてあった。(わら)の香りがやたらと懐かしく感じられた。広すぎず、狭すぎず、年季が入っていて、手入れの行き届いた落ち着いた部屋だ。


「さぁ、座って待ちましょう」

「そうだな」


 三人は部屋の入り口からフェルトで出来た靴カバーを嵌めるとそのまま部屋に入り、腰を下ろし、思い思いに(くつろ)いだ。

 しばらくすると、木のテーブルの上にご馳走が並び始めた。よく煮込まれたとろとろの肉入りシチュー。胡桃(くるみ)入りの焼きたてパン。淡水マグロのソテー。山菜入りの茶碗蒸し。爆弾南瓜(パンプキンボム)の冷製スープ。どれも手間隙かけていると思われる一品料理だった。


 そして最後に「ちゃんと冷やしてあるよ」とベチュアが大瓶に入った麦酒を運んできた。


「これだから女将さん大好き!」

 ピエールは調子良く煽てる。

「あはは、相変わらずちゃっかりしてるよ」


 ベチュアは三つのグラスに一杯目だけを注ぎ入れた。


「じゃ、三人ともごゆっくりね」


 そう言い残し、ベチュアが部屋を後にした。



「それでは、任務が無事達成できた事を祝いまして、乾杯!」

 ミルカがグラスを掲げた。

「乾杯!」

「か、乾杯!」

 掛け声と共にグラスを交わすや否や、ピエールとミルカが一気に麦酒を飲み干していく。


「ぷはぁー、たまんねぇー」

「うんまーい、仕事の後のこれは最高ねー」


 さも美味しそうに飲んでいるピエールたちを見て、シュイも勢いよく口に含んだ。辛うじて吹き出すのをこらえた。

 苦い。

 よくよく考えてみれば、酒を飲むこと自体初めてだった。二人共、何でこんなものを美味しそうに飲めるんだろうと首を捻った。

 ちびちびと飲み、その都度顔をしかめながら少しずつ量を減らした。

 半分ほどまで飲んだところで、テーブルにジョッキを置き、気を取り直して湯気の立っているシチューを一口分掬う。


「これは、美味いな」


 素直な感想が勝手に口を突いて出た。煮込まれた肉と野菜が口の中で溶けるようだ。麦酒の苦みはあっという間に口の中から消え去った。


「でしょでしょー。ここのシチューは一度食べたら病み付きになるよ。ただ、何の肉かは教えてくれないんだけどね」


 そう言いながら、ミルカたちもシチューを食べ始めた。謎の肉と聞いて少し気になったシュイだったが、まぁ人肉じゃなければ、とあっさり割り切った。


「そうだな、噂では<獣姫様>もたまにこちらに食べに来ているらしいぜ」

「<獣姫様>?」


 その語句の意味を確認すると、口と皿とを往復していたミルカのスプーンがピタッと止まった。何かまずいことを言っただろうか、とシュイが不安そうに言葉を待った。


「え、エルクンドさん知らないの!?」

「ああ、知らない」

「ほ、本当かよ? フォルストロームのお姫様で十六歳にしてシルフィールの準ランカーだぜ? シルフィールどころか傭兵やってて知らないやつはいないと思うけれど」


 驚きから発された何気ない言葉だったのだろうが、その語尾はシュイの鼓膜に(いささ)か皮肉めいた響きを与えた。


「へぇ、そんな人まで食べに来るんだ。まあ、それも納得の味だね」


 今度は南瓜のスープを啜る。どっしりとした濃厚な味だが、甘さは程良い。


「うーん、傭兵がそこまで世情に疎いのはまずい気がするなぁ」


 言葉に嫌味が感じられぬことから、ピエールは本気で心配しているようだった。


「大丈夫、そのうち覚えていくさ。物覚えは悪くない方だし」


 シュイはさらりと受け流し、次いで魚の身を食べ始めた。



 シュイが頑張って一杯目のジョッキを空にしかけた頃、気を利かせたピエールが不親切にもジョッキに八分目くらいまで継ぎ足してくれた。

 見れば、ミルカとピエールは大瓶の酒を半分くらいまで減らしていた。段々と酔いが回ってきたのか、喋り方も徐々に砕けたものになってきていた。


「シュイってさぁ、どうして傭兵になったの?」


 いつの間にか呼び捨てにされていた。シュイがいつからこうなった、と首を捻った。


「あのハーベルさんが推薦したってくらいだし。何か目的があってシルフィールに入ったわけでしょ?」

「ああ、目的……ね」


 咄嗟の返事に(きゅう)し、言葉を濁した。


「私はねー、やっぱり獣姫様に憧れてかなー。幸い人並より身体能力高かったからさ」


 ミルカが自分から話し出したことに安堵し、次いで確かに、とうなずいた。ホーヴィでピエールの後ろに回りこんだ時の素早さもかなりのものだったが、それ以上にピエールを身に付けた鎧ごと片手で軽々と持ち上げたのには驚かされた。

 しかし、そのミルカが憧れるほど獣姫様というのは凄いのだろうか。少し興味が湧いてきた。


「獣姫様って、そんなに有名なのか?」

「そりゃね! 獣姫アミナと言えばフォルストローム中の憧れだよ。容姿端麗で、聡明で、しかも凄く強いんだ。私より三歳も年下なのにさ」


 ミルカの興奮気味な口振りからみると、アミナというお姫様はフォルストロームの国民にアイドル視されているようだ。弱冠十六歳にして準ランカーというのは確かに凄いことなのだろう。


「なるほどね。―――レオーネは何で傭兵に?」


 ピエールは掲げていたジョッキを下ろしてシュイに向き直る。


「ピエールでいいぜ。そんかわし俺もシュイって呼ばせてもらうからよ。ええと、そう、傭兵になった理由だったな。俺は、ジウー連合の小国の出身なんだ。お前も知っているだろうけど、あそこは大部分が砂漠地帯でさ。宝石とか、石油とか、地下資源はあるんだが働く場所はそんなにない。だから、あの地方に住む連中の大半は、他の国へ出稼ぎに行くのさ」


 シュイはいつしか見た世界地図を思い出した。ジウー連合は大陸中央からみて南西の方角に位置する、広大な砂漠を領土に持つ小国群だ。キャノエからずっと西に行けば辿り着く。


「へぇー、意外と苦労人なんだ」


 しみじみとそう言うシュイに、ピエールが口を尖らした。


「意外とは余計だっつうの。まぁ、両親の他に弟と妹が四人もいるから、正直言ってあんまし暮らしは楽じゃなくってよ。腕っ節には自信があったから傭兵になろうと決心したんだ。幸い、間に立つ人もいたからな」

「家族のため……か」


 尊敬に値する動機だ。素直にそう思うことができた。そんな立派なものがない、守りたい人もいない自分と違って。

 忌まわしい記憶が蘇り、シュイの心が闇へと沈みかけたその時―――


「―――おわっ」


 やおら背後から叩かれ、シュイの身体が前にかたむいた。危うく料理の並ぶ食卓にダイブするところだった。


「シュイの答えはー? まだ聞いてないよー」


 ミルカの張り手だった。容赦なく、小さな手の平でびしばしと背中を、肩を叩いてきていた。酔いで余り手加減ができていないのだろう。踏ん張っているのに身体がぐらつく。何しろ鎧を着ているピエール(おとな)を軽々と持ち上げるくらいの怪力だ。


「や、やめてくれ。―――痛っ、言うって。言うから―――あだっ」

「すまん、シュイ。こいつ酒に弱いんだ」

「……イテテテ。謝っている暇があったら止めてくれよ」


 心底困っている様子のシュイを見て、ピエールは苦笑いした。


「ああ、悪ぃ悪ぃ。でも、興味あるな、何で傭兵になった?」


 やっとのことでミルカの魔手から逃れると、シュイは用意しておいた嘘を付いた。


「……そうだね。やはり名声と、後は金かな」

「なるほど、至極真っ当だ」


 予想通りに、ピエールはあっさりと納得した。そもそも、傭兵は金さえ払えば基本何でもやる職業だ。金目当ての人間の割合が多いのは当たり前のことだった。愛国心があれば騎士になるだろうし、平和に堅実に生きたいなら普通の職業を選ぶだろう。


「まぁね、もう一杯どうだ?」

 そう言ってシュイは大瓶を持ち上げるとピエールがすまねえなとばかりに微笑を浮かべ、ジョッキを差し出した。

 とくとくと注ぎ込まれていく麦酒の白い泡を見ながら、シュイは二人が投げ掛けた質問を反芻(はんすう)した。

 何故傭兵になったのか。

 金と名声を目当てに傭兵になる者は多い。そもそもそういう職業だ。ならば、名声と金以外を目当てに傭兵になろうとする少数派の動機は何か。きっとろくでもない動機のやつが大半だろう。

 それは、賞金首という立場から決別する方法であるのと同時に、自分が果たさねばならない命題への一歩でもあった。年若く、しかも女性であるニルファナが垣間見せた圧倒的な強さへの憧憬。その力をもってすれば、あるいはおのれの目的が果たせるのではないか。至極単純にそう考えたのだ。

 それは半ば思い込みに近いものだと自覚してもいたが、それでもなお縋りつくしかなかった。シュイは、自らの何を犠牲にしてでもいいと思うほどに力を欲していた。



 酔っ払ったミルカが畳に寝転がったのを最後に、男二人は苦笑を交わし、晩餐をお開きにした。ピエールがおぶったミルカの小さな口からは既に寝息が漏れていた。

 シュイが先んじて(ふすま)を開けると、ピエールは礼を口にし、ついでにボソボソと謝罪の言葉を口にした。ホーヴィの件だろうと思い当たり、シュイもこちらこそ言い過ぎた、と頭を下げた。

 悪い気はしていなかった。雨上がりの晴天を仰ぐような、すっきりとした心地になっていた。



 二人と別れて部屋に戻り、鍵をかけた。ふと、顔の妙な感触が気に障り、はたと思い当たる。


 ―――おっと、外すのを忘れてた。


 鏡を見ると、皮膚が溶けているような顔が映った。目は溶けた皮膚で塞がりかけ、鼻は左側に傾き、唇は捩れている。誰が見ても醜い男がそこにいた。

 フードを外し、顔に手をあてがい、両側の耳元から前へゆっくりと引っ張った。少し皮が突っ張り、微かに痛みを感じたものの、ペロンと皮膚が剥けるように、顔から樹脂で出来た厚い皮が剥がれた。濡らしたタオルで少し汗ばんでいる顔を丁寧に拭い、タオルを顔から外した。いつもの顔がそこにあった。

 念のために持ってきて正解だった、と独りごち、続いては皺がよっている透明なマスクに視線を移した。国を行き来する限り、関所は避けて通れない。番兵を誤魔化すのに必要だと思って、ホーヴィに滞在している時に作っておいた、魔力を込めた樹脂だった。これを付ければどんな美男美女も醜い火傷顔に一変する。

 正直に言ってあまり付け心地の良い物ではなかった。石鹸をつけたまま顔を雪がないような心地だし、騙すことにしたって後ろめたさは付き纏う。だがそれでも――


 シュイは記憶を呼び起こすように宙で視線を止めた。

 背に腹は変えられない。

 誰を偽ろうとも、こんなところで(つまづ)く訳にはいかないのだから。

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