第二章 ~初仕事(1)~(改)
11月29日、改稿
肌色煉瓦で舗装された道路を二時間ほども走っただろうか。ついに大粒の雨がぱらつき始めた。強い日差しで熱されていた石材が雨水を蒸散させ、夕立独特のえもいわれぬ匂いが立ち込める。
従者の男が一旦馬車を止め、水羊の毛で作られた雨避けのコートをいそいそと取り出した。ミルカとピエールも同じようにフード付きのコートを革袋から取り出す。デルモントはその合間に濡れぬよう身を縮めて馬車の中に入っていった。
ピエールはコートを羽織りながらも後ろに視線を転じた。シュイが何も用意していないのを見て、にやにや笑いを浮かべている。
「おいおいエリートさん、雨対策はなんもなしか? まっさか初めての任務じゃあるまいし、天候への対策は基本中の基本だろ?」
―――初めての任務で悪かったな。いちいち絡んでくるとは暇なやつめ。
シュイは、得意げに指を振るうピエールから視線を逸らし、馬車の後輪が巻き上げる泥にかからぬよう後ろに距離を取った。
「あんたはもう……。エルクンドさん、でよかったよね。なんだったら予備の貸してあげるけど?」
ミルカが後ろを振り向いてそう言った。
「いや、構わないでくれ。この衣はそれなりに風雨に耐性があるから」
シュイはそう返した後で、一応の厚意に対して少々素っ気ない態度だったか、とちょっぴり後悔した。
今着ている黒い衣はニルファナのお古を譲り受けたものだが、魔力を練り込んだ特殊な布で出来ているため魔法に対してかなりの耐性がある。目に見えぬほど薄い魔法障壁を、それを着用している者の全身に張り巡らせる効果があるのだ。普通の雨風くらいではさほど気にもならない。
「そ、ならいいわ」
ミルカは更に素っ気なく言うと、再び周囲を警戒しはじめた。
数分の間に、路傍の窪みにはいくつもの水溜りが出来ていた。雨は一層激しさを増し、視界を著しく悪化させていった。
日が姿を隠す頃には降っていた雨もすっかり鳴りを潜めていた。空には雲の谷間から星が覗き始めている。
辺りに民家などの人工物はほとんど見受けられず、左右が広大なすすき野原に囲まれている。風が吹く度に、すすきの漣が西に向かって流れていく。まるで動物の群れがすすき野の中を移動しているかのようにも見える。耳を澄まさずとも鈴虫と蛙の鳴き声が絡み合った粗雑な音楽が聞こえてくる。おもむろに、大きな光が二つ、叢から舞い上がった。大人の手の平大はありそうな、巨大な蛍だった。
進めど進めど、たまに旅人や馬車にすれ違うくらいで人気は無いに等しかった。ボーヴィのギルド支部を出て六時間近くが経っていたが、未だ宿屋に着く気配はなかった。
「おい、従者さん。今日の宿屋はあとどれくらいで着くんだ?」
ピエールが首をこきこき鳴らしながら訊ねた。ずっと走り通しで流石に飽きてきたようだ。
「そうですね、このスピードなら二時間はかからないと思います」
「そっか。さんきゅ」
シュイは二人の会話を小耳に挟みつつ、小さく溜息をついた。疲れはほとんどなかったが、目標もなく、無駄口もあまり叩けず、延々と馬車と同じペースで走るというのは中々に辛いものがある。報酬が高いのにもかかわらずこの依頼書が未だに掲示板に貼ってあった理由が何となくわかった気がした。
ふと前を見ると、ピエールとミルカが何やら小声でボソボソと話し合っている。退屈を持て余しているのは前の二人も同じようだった。
「見えました、あの建物です」
一時間ほども経った頃、従者が発した声に釣られ、三人が視線を前方へと向けた。時を同じくして、デルモントが馬車の中から出てきた。片手にブックカバーを付けた本を持っていることから、読書で暇を潰していたようだ。馬車の中には火の灯ったランプが揺れている。
舗装路の左手には――灯りが漏れている窓の数から察するに六階建てだろう――随分と大きな建物が見えた。辺りが暗いため外観はわからないが、他に建物が見当たらない。あの建物が今夜泊まる場所で間違いないなさそうだった。
「おお、予定より早いですな。これなら四日程で着いてしまいそうです」
やっとついたか、とシュイは手を組み、前に小さく伸びをした。前方で走っている二人を見ると、あちらも似たようなことを思っているのか、ほっとした表情を浮かべている。
宿屋の厩舎に馬車を停めたデルモントと従者、そしてシュイたち三人の傭兵は、ホテルの中に入っていった。
――――――
ドアを押した途端、取っ手に付けられていた鈴が鳴り響いた。左手にはガラス張りの大きな透過壁に面したラウンジがあった。室内から漏れ出た灯りが小さな草花の植わっている庭園を薄らと照らしている。
デルモントが一人右手にあった受付で手続きをし、戻ってくるとホテルのキーを三人それぞれに渡した。宿代は依頼人持ちのようだ。シュイが袋から出しかけた財布をしまった。
「明朝の出発は八時になります。十五分前までにこちらへ集合してください」
ロビーの時計を確認すると、既に二十時を過ぎていた。
シュイはキーを受け取り、四角いホルダーに彫ってある部屋番号を確認すると、ロビーの脇にある階段を上がっていった。
―――401号室、あそこか。
四階に上がったところで間近にあった三つの部屋番号の並びを見、一番奥の部屋が泊まる部屋だと気づいた。
自室の鍵を差し込もうとした時、「ちょっと待って!」と声を掛けられた。言われた通りに横を向くと、廊下の奥から走って来るミルカが見えた。
「ん、どうかしたのか?」
「……あの、……ごめん」
ミルカは立ち止まるなり、すまなそうに俯いた。
「え? 何かしたのか?」
「ピエールのことよ。さっき聞いたわ、あいつからあなたに絡んだんですってね。私てっきり……」
思案の外だったので思い出すのに数秒を要したが、シュイはようやく港町ホーヴィでのことを言われているのだとわかった。
「何だ、そんなことか」
「あいつ、二年近くかけてやっとCランクになったからさ。いつもは悪いやつじゃないんだけど、いきなり推薦でCランクになった傭兵がいるって聞いて、ちょっとやっかんでるだけなんだ。不快な気分にさせて、本当にごめん」
そう言いながらも、ミルカが再び頭を下げた。
―――嫉妬か、なるほどなー。
シュイは半ば無意識に顎を押さえた。あの態度に一時腹を立てていたのは確かだが、自分が苦労して下積みした二年間を紙切れ一つですっ飛ばしたやつがいると聞けば、少々面白くない気持ちになるのも無理からぬことかも知れない。そうと考えると、少しは怒りも薄らいだ。
「気にしてない。じゃあ、明日な」
シュイは鍵を回しながらそう言った。
「……あ、ありがとう。……うん、また明日」
その言葉が偽りではないと察したのだろう。ミルカは少しはにかんだ表情を見せた。
部屋に入って錠を下ろし、鎌を壁に立てかけたシュイは、窓際にある背もたれ付きの椅子に座った。
意外となんとかなりそうだ。叢で明滅しているたくさんの蛍の光を見ながらそんなことを思っていた。護衛というくらいだから、夜盗か何かに襲われるのを覚悟、もっと言うと期待していたのだが、正直何もなかったことに拍子抜けしていた。少し考えてみれば、そうしょっちゅう襲われるほど治安が悪いのなら、道端が死体だらけになっているはずだった。
つい半年ほど前まで、シュイは頻繁に賞金稼ぎたちの襲撃を受けていた。ひどいときには三日置きくらいの頻度で追われることもあった。
必然的に、周囲の警戒のために眠りが浅い状態を保って寝るのが習慣となった。寝床の大半は固い木の上だった。幹の太い木を探し、先端の方に足を伸ばし、寄りかかって寝るのだ。木の上であれば暗い森の中では相手に気付かれにくいし、実際そうしてから気付かれることはほとんどなくなった。おかげで悪夢に魘される場合は別として、非常に寝相が良くなってしまった。夏場群がってくる蚊には参ったが、強い匂いを放つ香草を肌に塗ることで事なきを得た。そんな生活が一年近くも続いた。ニルファナに出会うまでは。
そういったこともあり、護衛の任務というものに対して襲われなければおかしいといった妙な先入観を抱いていた。無論、何事もなく依頼を達成できるならそれに越したことはない。御者だけの馬車に比べれば、三人で囲んでいるだけでも十分、襲撃者に対する威嚇になるはずだった。
未だ目は冴え切っていた。眠くなるまでニルファナに教わった訓練を行うことにした。黒衣を脱ぎ、籠に入っていた汗拭き用の白いタオルで体を満遍なく拭いた。人心地付いてから、ベッドの上に身を投げ出した。
仰向けの状態で両の手の平を天井に伸ばし、ゆっくりと魔力を練り込んでいく。手の上に液体のように蠢く魔力球が生じたところで、様々な動物に変えていく。鳥から魚へ。犬から猿へ。獅子から鼠へ。形状変化を繰り返すことで、魔力の純度と具現化の速度を早める訓練になる。
しばらくすると精神的疲労が蓄積されていき、若干眠気が出てきた。それでもまだやれる、と判断できるうちはひたすら繰り返した。弛まぬ研鑽こそが、己が目的に通じる標となるはずだと、そう信じて。
――――――
護衛五日目の夕方、シュイたち一行はフォルストロームの国境付近に差し掛かっていた。ここに至るまで大きなトラブルも特になく、予定よりもかなり早いペースで道中を進んでいた。
一度だけ、シュイは三日目に通った山岳地帯の登山道で、物陰に潜む複数の気配を感じていたが――幸いにもと言うべきだろう――襲ってくるようなことはなかった。大剣を背負っていたピエールが不機嫌そうに、怒りの捌け口を探しているように鼻を鳴らしていたからだとシュイは確信していた。朝方に湯気立つ動物の糞を踏ん付けていたのが原因だろう。ミルカがいつもよりピエールと距離を置いていたのが後ろからでもわかった。
「いやぁ、この調子でしたら今夜中にもついてしまいそうですな」
あまりにも順調な旅路にデルモントは上機嫌だった。シュイは、これくらいが順調の基準に入るのだな、と一人納得した。
「一応この辺りに今夜泊まる予定の宿もあったのですが、必要無さそうですね」と、従者も朗らかに請合う。
「お三方はどうです? 疲れの方は?」
デルモントが三人に尋ねた。
「問題ないよ」とシュイ。
「平気だぜ」とピエール。
「ええ、まだいけます」とミルカ。
予想通りの答えだったのか、デルモントは満足げにうなずいた。彼の目から見ても、三人に疲れはほとんど見受けられなかったようだ。
「では、一気に進んでしまいましょう!」
デルモントの掛け声と共に御者が黒い乗馬鞭を振るい、馬車の速度が一段と増した。
ゆるやかな山道を進んでいくと、山をそのまま縦に真っ二つにしたような、急傾斜の巨大な谷が見えてきた。谷の間にある関所の先が、フォルストロームだ。
フォルストロームは大陸南部を領土とする獣族の王が支配する国で、国民性は豪放にして快活、他国とは一風異なる文化を持っている。
獣族は他種族と比べて身体能力に優れているため、女性であってもミルカのように傭兵として身を立てる者が多い。決して閉鎖的ではなく、各国との文化交流も多いため知能のレベルも標準的だ。
また、国土の八割が森林地帯であり、特異な動植物がわんさかいる。水を根から吸い上げてホースのように枝から噴射する樹木。夏の間だけ湖の上に木枝で巣を作り、卵を産む鳥。
何より有名なのは、太古の時代からキプロ大森林の地中に住まい、森の土を食べて生きているという森龍だろう。生き物である以上排泄物もするので、土を食べては糞にして再び土に還す、というなんとも自然に優しい竜である。糞は一見普通の土と見分けがつかないが非常に豊富な栄養分を蓄えているため、豊作を約束する土として高額で取引される。獣族には半ば神格化されているほどに偉大な存在だ。
関所に向かって進んでいくと、閉じられた大きな門の左右に二人、見張りの兵がいた。一人は身体が相当に大きく、頭部の両側からL字の角が生え、威圧的な顔をしている。もう一人は、背丈はシュイとさほど変わらないが目立つほどに爪が長く、如何にも俊敏そうな体つきだ。
門の前で一旦足止めされ、獣族の二人に身分証の提示を求められた。一行は皆それぞれの身分証を、あるいは傭兵の認定証を二人に見せた。淀みなく四人の検分が終わり、最後にシュイが見せると―――
「すまないが、顔を確認させてもらっていいか?」
大男がそう言った。予想通りの反応だったが、シュイは敢えて訊ね返した。
「認定証に何か問題が?」
「いや、そういうわけではない。ただ、万が一にも我が国に仇なす者を通すわけにはいかぬのでな。高額賞金首のリストに乗っていなければ直ぐにでも通ってもらう」
賞金首の中には国の要人殺害や大盗賊等、凶悪な犯罪をやらかした者もいる。そういった危険人物を関所でシャットアウトするのは、国を守る兵たちの重要な仕事の一つである。他の四人と違って顔を隠しているシュイが怪しまれるのは、ごく当たり前のことだった。
「わかった。あなただけで良いのなら。多少不愉快な思いをするかも知れないが」
不愉快という言葉に反応し、ピエールとミルカが怪訝そうな顔を見合わせた。
「ああ、構わん。ならこちらの方でお願いする」
そう言って大男は番所の方を指差した。シュイはうなずき、大男と共に建物へと入っていった。
番所に入ると、正面には丸められた地形図などが入っている本棚が見えた。傍らには二つの椅子と男の体格にあった大きめの机。壁には武器をかけるための留め具が打ち付けられている。シュイは部屋の中央まで進むと大男の方に向き直った。そして、被っているフードの端を掴み、ゆっくりと後ろに引いた。
大男の表情が一瞬険しくなったが、すぐさま元の表情に戻った。これも予想通りの反応だった。
「……すまなかった。戻ってもらって構わない」と、大男が一言侘びを入れた。
「いや、お互い仕事だからな。では失礼する」
特に気にする風でもなく、シュイは淡々とフードを戻し、番所を出ていった。
「デルモントさん、お待たせしました」
出発の準備を整えていた一行に再びシュイが加わった。
「いやいや、無事に終わって何よりです。では行きますかな」
「いや、お手数をお掛け致しました。ご協力感謝します、道中お気をつけて」
馬車が見えなくなり、痩せた男が敬礼を崩して番所に向かった。と、大男が神妙な顔をして突っ立っていた。
「ん、どうした。何かあったのか?」
大男は眉を潜めた男に、小さく首を振った。隠しきれぬ憐憫の表情に、男は首を傾げるばかりだった。