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エピローグ(改)

1月9日、改稿

 絶好の行楽日和。久方振りに顔を出した太陽が、海から吹く風に温もりを与えている。

 フォルストロームの南区にある船着き場では、多くの旅行者が可動橋を渡って船に乗り込んでいた。富裕層と思しき家族連れ。大きなバッグを担いだ中年の女商人。学者のような風貌をした少年。そして、黒衣を身に纏った男。


 数分後、シュイはエレグス領行の定期船の上にいた。ホーヴィにあるシルフィールのギルド支部を目指していたときと同じように。違う点といえば、隣にニルファナがいないことくらいだろうか。

 下の方では荷揚げが急ピッチで進められている。長距離の旅客船には相応の水や食料、燃料が必要になるし、交易品を運ぶ場合もある。正方形の木箱に詰められたそれらを、筋肉鎧を纏った屈強な水夫たちが流れ作業で行っている。特に重量のある積荷は船の下層へと運ばれ、重石代わりになる。重心を低くすることで多少の風でもあまり傾かなくなるらしい。


 船を慌しく行き来する汗だくの水夫たちを、シュイは手すりに体を預けたまま見下ろしていた。手の平にはもぎりの手で半分にかれた特等船室の乗船券が握られている。

 昨日ニルファナと別れる間際、餞別(せんべつ)として託された物だった。



――――――



 一陣の涼風が巻き起こり、高台をそっと撫でていった。上空で雷雲が発達し、辺りが急激に暗くなっていく。空には歪な灰色の円が浮かんでいた。

 周囲にはギルドに乗り込んできた軍人。あるいは物見高い傭兵や通行人が、シュイと相対するニルファナを囲むように人垣を作っていた。

 衆目を意に介した様子もなく、ニルファナは険しい顔でシュイを見据えていた。

 シュイは、ニルファナと目が合うだけでいたたまれない気持ちになった。彼女に対して何も申し開きできないことが恐ろしかった。良かれと思ってやったこととはいえ、結果的にシルフィールの評判を貶めたのは確かだ。


「何故私がここに赴いたか、わかっているな?」


 至極簡潔なニルファナの問いに、シュイが力無く項垂れた。傭兵になって三月も経たぬうちに、しかもつい先日に警告を受けた矢先でのこの騒ぎだ。己の心中はさておき、推薦人の評判を損ねたのは間違いなく、またギルドにとっても見逃せない行為だということを実感せざるを得なかった。

 沈黙を肯定と取ったのか、ニルファナが目を瞑り

「――ならば、報いを受けなさい」

 そう言葉を切って手を掲げた。

 その所作がやたらと緩慢に見え、シュイの脳裏を死の予感が掠めた。けれども抗う気持ちは失われていた。他ならぬニルファナの前でみっともない真似をしたくなかった。

 そもそも初対面の時に殺されていてもおかしくなかったのだ。大恩ある彼女の手によって引導を渡されるのであれば。

 諦めが全身を支配した瞬間、強く息が吐き出された。視界からありとあらゆる色が失われ、血液が沸騰したかと錯覚するほどに体が熱せられた。

 ニルファナが雷を落としたのだということと、頬が地面にぶつかったのだということをほぼ同時に知覚した。石畳に右頬を打ちつけ、擦過傷を負った。


「……ぐ……ぅ」


 体が痛みと熱に支配され、言うことを聞かなくなった。それでも肘を曲げてなんとか顎を持ち上げた途端、二度目の雷が背中を直撃した。

 手足の指が突っ張り、背筋が反り返った。筋肉が強制的に収縮、両肩が畳まれて脇腹を激しく圧迫する。体の自由が奪われたが、苦痛だけは正確に伝えてきた。腹の中身がぐるりと引っくり返ったようだ。

 猛烈な吐き気に襲われ、げっぷが出た。まるで高山を全力疾走したかのように、やたらと息苦しくなった。

 遠ざかった意識の断片が「いいぞ」だの「もっとやれ」だのと囃し立てる声を捉えた。2人を人垣で囲い、高みの見物を気取っている者たちからは歓声が上がっていた。

 その屈辱感が意識を現実に引き戻しかけたが、それすらも許さぬと言わんばかりに三度目の雷が身体を蹂躙した。全てが真っ白になり、次いで暗転した。もはや目が開いているのかどうか、自分でも定かではなかった。


 意識が薄らと戻ってきた。胸の筋肉が痙攣を起こし、自発的な呼吸が出来なかった。雷による衝撃によって辛うじて呼吸させられているという有様だった。

 気がつくと、視界の中に収まっている手の甲の血管部分が、赤褐色に変色しているのがわかった。今まで見たこともなかった体の変調に、やはり自分はここまでなのだと悟った。

 全身の痛みと熱さは言うに及ばず、それ以上に心が軋んでいた。頭のどこかで、ニルファナだけは事情を理解してくれるのではないか。ともすれば、許してくれるのではないか。そう考えていた。己を貶めているのは自分の望むようにならなかったことに対する落胆であり、胸奥で彼女に甘えていた自分への強い苛立ちだった。

 彼女の優しさに胡坐を掻き、好き放題やってきた結果がこれだった。見放されても仕方ないことをやってしまった己の愚鈍さを実感してしまった途端、嗚咽が込み上げてきた。情けなくて、悲しくて、立ち上がる気力すら起きなくなった。



 いっそ、このまま消えた方がいいのかもしれない。そんな思考を、もう何度目かわからなくなった雷が途切れさせた。

 ほどなく、先ほどまで聞こえていた観衆たちの声が、ほとんど聞こえなくなっていることに気付いた。その代わりに雑音が聞こえ出し、ついに聴覚までもがいかれてしまったのかと思った。

 だが違った。ぎこちなく首を動かしながら周りを見渡すと、先ほどまで野次を飛ばしていた観衆たちが気まずそうに顔を見合わせ、何やら囁き声を交わしていた。口を半開きにしたまま自分を見て、硬直してしまっている者もいた。



 ――これで少しは懲りた?


 頭に聞き覚えのある声が閃いた。幻聴かと思いつつも、藁にも縋るような気持ちでニルファナの顔を見上げた。


「何だ、その目は。まさか今更許しを乞うつもりじゃないだろうな」


 そこには先ほどと同じようにニルファナが立っていた。温かみが一切感じられぬ言葉を投げかけ、地に伏せる自分を鼻で笑っていた。


<本当はこんな体罰じみたことしたくなかったけど、口で言っても判らないんだから止むを得ないね。お姉さん、今回は本気で怒っているんだから>


 シュイの目がはっきりと見開かれた。言葉と並行して、念話が頭に響いていた。いつもの口調と同じであることに体が総毛立ち、胸が大きく震えた。

 

<……すみません。迷惑ばかりかけ……がっ>


 再び雷が身体を走り回り、念話が遮られた。周りの群衆たちから、息を呑む音が聞こえた。


<そんなことはどうだっていい!>


 ニルファナらしからぬ強い感情が、頭の中に反響した。雷が途切れた後で、シュイは痛みに悶えながらも再び顔を上げた。


<もぅ、まだわからないの? きみ、滅祈歌使ったでしょ。魔力の波長が滅茶苦茶に乱れているから一目瞭然。あれだけ、あれだけ念を押したのに、一体どういうつもり!?>

「……す、すみません」


 思わず念話ではなく声に出た。自分はただ怒られることを恐れていたのに、ニルファナはただ自分の身を案じてくれていたのだと知って二重のショックだった。滅祈歌を用いたことに対する罪悪感。ニルファナの優しさに疑いを持った自分を恥じるばかりだった。


<謝って済む問題じゃない!>


 先ほどよりずっと大きな雷が降り注いだ。が、シュイに当たると思われた刹那、拡散して四方に散った。激しい稲光で遠目からでは直撃したように見えたはずだった。

 地面に拡散した放電が体に及んだものの、魔法に対して耐性を持つ黒衣がダメージを和らげていた。痛みはあったが、派手な見た目と轟音ほどには効いていなかった。反して、観客たちのざわめきは悲壮感を帯びていった。

 シュイが軽微なダメージから立ち直る最中、ニルファナが再度の念話を送りつけてきた。


<ここから先は念話を使いなさい。こうなった以上、生半可な芝居じゃお客さんも納得してくれないからね>

<……芝居?>

<他の傭兵たちに迷惑をかけるわけにはいかないでしょ。誰が仕組んだことか知らないけれど、このタイミングで騒ぎを起こされたのはちょっと不味い。早めに処理しておかないとセーニア騎士団に呼び出されかねないからね。兵隊長クラスには、君の顔はほぼ確実に知られているはずだから、さ>


 再びニルファナの手がゆっくりと振り下ろされるのを見て、歯を食いしばった。一際強烈な雷が身体を襲ったが拳を握りしめて耐え抜いた。それでも苦痛に喘ぐ声が食いしばった口から漏れた。目の前の石畳に亀裂が生じ、破片が宙に飛び散った。当初は囃し立てていたはずの観客たちから、ついに甲高い悲鳴が生じた。


<いっけない! ちょっぴり強かったかな>


 当の本人も今のは流石にやり過ぎたと思ったのか、頬がぴくぴくとひくついていた。衆目には怒りに打ち震えているように見えただろう。


<へ……いきです>


 普段なら全然ちょっぴりじゃないと反論するところだが、空の言葉を口にしながら念話と無詠唱魔法を並行してやっているのだ。威力の調整は相当に困難なはずだった。

 ランベルトの非難めいた声が耳に入ってきたが、シュイはニルファナからの念話だけに意識を集中した。


『――口出しは不要、これは私とエルクンドとの――』

<まぁタルッフィを騙せているなら一安心か。――それで、何で約束を破ったの? 生半可な理由じゃお姉さんも納得しないよ>


 話の合間にも雷が走ったが、今度は荒い息が漏れるだけで済んだ。雷にも大分打たれ慣れてきていた。


『ギルドでの立ち振る舞いは再三――』


 シュイは滅祈歌を使ったときのことを思い出した。霊体の途切れた文字を見て、最悪の事態を想像したことを。


<アミナ様から魔石での救援要請が届いたんですが、あの赤い霊体を見て焦ってしまって>

<――待って、この辺で一つ相槌を入れてくれるかな。一旦、本当の声の方に集中して>

<あ、……はい>


『正直にいって、見損なった。あらぬ疑いをかけられるような真似をしてギルドの評判を貶めるとはね。もう少し賢い男だと思っていたが、所詮はこの程度の男だったか』

「ニ、ニルファナ……さん」


 その舌鋒に心の脆い部分をごっそり抉り取られた。口では芝居というものの、多分に事実を含んでいるだけに堪えた。普段は快活なニルファナだけに、冷たい態度を取られた時のショックたるや筆舌に尽くしがたいものがあった。


<よし、もういいよ。――でも、まさかそれだけの理由で使ったの?>

慙愧ざんきに堪えないな。――タルッフィ殿』


 耳に届いた声から遠ざかる様に記憶を辿った。エグセイユの憎々しい顔と、赤い霊体の途切れた文字。それらがかつての記憶を連想させ、感情を沸騰させたのだと今になって気づいた。

 閉じた目蓋の裏に見えたのは、ゼノン・ディアーダとその取り巻きたちの顔。破壊と殺戮の限りを尽くし、酷薄な笑みを浮かべる者たちだ。

 罪悪感の欠片も感じられない態度とその言動に、感じたことのないおぞましい思いが湧き上がった。エスニールの者たちが、ミレイが冷たくなっているのに、なぜ断罪されるべき者たちがこうして笑っていられるのか。そして今、アミナの命までも奪うのか。記憶がひどく混線していた。


<――思い出したんです。看取った大切な人の顔を。それにアミナ様が重なって。どうしようもないほどに怖くて、悔しくて……どうして>

「どうして……こんな……」


 誰にも伝えられなかった、秘めた思いや葛藤が溢れ出した。雷によるものではなかったが、それでも視界が明滅した。手の中にいるミレイ・ロズベルクの温もりが喪われていく感覚がありありと蘇った。

 はっきりしていたのは、同じことを繰り返されたら自分の心が今度こそ壊れてしまう。そうなることへの恐怖と、その元凶に対する憎しみに襲われていたことだった。

 ニルファナは、シュイの目から涙が零れる様子からすっと目を逸らした。


『さて、フォルストロームの勇敢なる――』

<それじゃあ駄目だよ、シュイ。憎しみは心の麻薬、現実から逃れるための甘い誘惑なの。それが一過性の物であればまだ良いけれど、そこに常時浸っていたら一生出てこられなくなる。ランカー仲間だって例外じゃない。そうやって身を持ち崩してしまった人をお姉さんは知っている。

 激情に身を焦がしてそのまま燃え尽きちゃったら、誰より必死に戦って君らを生かそうとしたエスニールの者たちが報われない。そうでしょ?>

<……ニルファナさん>

<お姉さんはね。シュイがエスニールで初めて滅祈歌を使ったとき、膨大な想念に呑み込まれた君の自我が奇跡的に回帰できた理由についてこう考えている。エスニールの者たちは、君を依り代に利用したのと同時に守ろうともしていたんじゃないかってね>

<……僕を、守る>

<もしかしたら君だけじゃなく、生きている家族や友人も。もちろん、自分たちを殺したセーニア兵たちに対する復讐心もあっただろう。

 二度目はお姉さんが早くに止めたから大事には至らなかった。今回は、たまたま止めてくれた人がいたんだろう。そうじゃなければ、こうしてここにいられなかったはずだ。どれだけの綱渡りをしてしまったのかを、自覚なさい>


 気持ちが込められたニルファナの言葉に、心が揺らいだ。そうした意図がなかったとはいえ、暴走を止めたのはイヴァンであり、正気を取り戻せたのはあの場に駆け付けてくれたアミナとランベルトのおかげだった。

 何のことはなかった。支えてくれている人がいなければとうの昔に命を落としていたのだ。それを曲解し、自分のことばかり考えていたことが恥ずかしくなった。それと同時に、感謝もしていた。



『それを聞けて安心した。これで――』

<いいかい、これが私からの最終忠告だよ。金輪際、滅祈歌に頼るのはやめなさい。万が一使うとしても逃走手段に限定しなさい。己の非力の結果、生じてしまったことを受け止める覚悟を持ちなさい。それが嫌ならどうすればいいのか、ちゃんと自分の頭で考え続けなさい。どこの誰が編み出したんだか知らないけれど、あれは精神の自殺にも等しい行為だからね>

<……はい、わかりました>

<ならばよし。君の泊まっていた宿にエレグス領行の乗船券を預けておいた。あの国はフリーの傭兵が多いし学べることも多いはず。四大ギルドの影響が薄い分、共通クエストの数も多いしね。ひとまずはあちらに向かいなさい>

<エレグスへ……?>

<ほとぼりが冷めるのを待つためだよ。シルフィールから少し距離を置くことで、自分を見つめ直す機会にもなると思うから。

 それからこれはまだ極秘の話だけど、セーニア教国が近々ルクスプテロンに対して戦争を仕掛ける。そうなれば数か月ないし一年ほどは、国境や領海を封鎖する国も出てくるはず。身動きが取れなくなる前に、動かないとね>


 ニルファナのその言葉を聞き、シュイが拳を強く握り締めた。


<もしもこの先セーニアが再び暴走するようなことがあれば、自ずと君の進む道も定まるはず。今回の件で君も骨身に沁みたでしょ。逸脱した行動を取るには時流と大義名分が必要。来たるべき日が訪れるまでにしっかりと力を蓄えなさい>

<はい、ニルファナさん。ごめんなさい、僕のせいで>

『話は聞いていたな、シュイ・エルクンド。お前には――』

<謝罪はそれくらいにして、そろそろ行きなさい。身体が痺れて思うように動けないだろうけれど我慢して。舞台からの退場までが芝居だからね>

<で、でも、このままだとニルファナさんの評判が悪くなるんじゃ>


 言いながらも、シュイは体に力が入るかどうかをそっと確かめた。ニルファナはその様子を目にしつつも、微かに唇の端を持ち上げた。


<何を一丁前のことを気にしているんだか。迷惑をかけるのが下の者の仕事、とは言わないけれど、下の者のしたことに対して責任を持つのは上の者の領分。まだひよっ子の君が気にすることじゃないよ>

<どうして……>

「どう……して……」


 思いの丈が、自然と声にも表れた。ニルファナへの敬慕と感謝の波が交互に押し寄せていた。憧憬に値する強さと優しさをどうしたら得られるのか。そう考えている自分に気づき、遅れて自分もそうありたいのだと気づいた。強くとも傲慢とは距離を置き、誰かを許すことができる懐深さを備えた傭兵に。

 何よりも、自分が見捨てられていたのではないとわかり、どうしようもなく嬉しかった。胸の奥が雷の痺れで震えているのか、喜びで震えているのかわからなくなっていた。


『返事など求めるな。本当なら――』

<こらこら、頼んでもいないのに声を出すんじゃありません、アドリブだって結構大変なんだから>

<あ、ご、ごめんなさい>

<……いずれまた会いにいくよ。前にも言ったと思うけれど、お姉さん以外に殺されるのは許さないからね。負けちゃあ駄目だよ>


 そう言い、ニルファナは間近でなければわからないほど微かに、目を細めた。

 シュイはレムース神殿での彼女の啖呵を思い出した。あれが自分に向けての言葉でもあったことを知り、口元に苦笑いが浮かんだ。

 ぎこちないながらも何とか立ち上がり、痺れる両足を踏ん張った。足の裏に痛みが走ったが、歩けないほどではなかった。シュイの体力と黒衣の耐魔性を考慮した上での、ぎりぎり後遺症がでない絶妙な痛めつけ方だった。


<はい、必ず>

<いい返事だ。どんな逆境だろうと()ね退けられる、格好良い大人になってね。君にならそれが出来ると、信じてるから>


 シュイは激励を噛み締め、涙を零さぬようきつく目を瞑った。背中を向けたまま小さくうなずき、万感の意を一言に込めた。

 ありがとうございました。感謝を表すその囁きが、風に浚われていった。



――――――



『間もなくエレグス領行の船が出港致します。各町までの到着予定日時をお知らせ――』


 船内放送が脳裏に響き、顔を上げた。フォルストロームの街並みがうららかな陽光に照らされていた。先日の襲来の悲壮感はどこにも感じられなかった。

 南東の丘陵地帯にはアミナがいるはずの王城が見えた。最後の挨拶が出来なかったのが心残りといえば心残りだが、どちらにしても何を話せば良いのかわからなかった。でも、きっと彼女なら自分のために怒ってくれるだろうと思えた。自分を信じ、案じてくれる人が少なくとも二人いるのだ。その期待に応えなければならなかった。

 省みれば、得た物は多かった。ニルファナは相変わらずいつものニルファナだったが、彼女のことが以前にも増して好きになった。ピエールやミルカらシルフィールの傭兵たちと知り合い、他ギルドの傭兵と共闘し、アミナやリズとも交流を持つことができた。

 ふと置きっぱなしにした鎌のことを思い出し、忌々しい青髪男の顔が過ぎったが、即座に彼方へと弾き飛ばした。不快な気分になるのは後でいい。今はこの温もりの余韻に浸っていたかった。


 復讐心を忘れられるかは今もってわからない。ニルファナに説教された後であっても、憎しみを忘れてしまうことへの恐怖は消えていなかったからだ。

 エスニールの滅亡に関与した者はまだたくさんいるはずだ。狡猾な彼らは、危険が迫れば保身のために関わりのない者たちを延々と盾にし続けるだろう。真に罰されるべき者たちに刃を届かせるにはどうすればいいのか。そういった考えを頭から切り離すことはできなかった。

 ともすれば、イヴァン・カストラのように暗躍し続けることも選択肢の一つではあった。けれども、シュイは彼の生き様を否定できないのと同様に肯定もできないのだと理解していた。ニルファナやアミナの心根や生き様を知った今となっては。


『己の非力の結果、生じてしまったことを受け止める覚悟を持ちなさい。それが嫌ならどうすればいいのか、自分の頭で考え続けなさい』


 ニルファナが掛けてくれた言葉が、頭の中で何度となく反芻された。漠然と願うだけでは望みが叶うことはない。具体的な目標を設定し、情勢を把握。犠牲を極力抑えられるような、緻密な計画を練らねばならなかった。

 ニルファナやアミナのように、己の心身を鍛え上げる必要がある。そうすることで初めて自分が今求めてやまぬ答えに、彼女たちの思考に近づける気がした。


 出航を知らせる汽笛が響き渡り、足元が緩慢に動き出した。船が港から少しずつ離れていく。

 シュイはゆっくりと海の方に向き直った。緩やかに湾曲した水平線が、眩いほどの輝きを放っていた。

 その輝きの中に、更なる光が射した気がした。



――――――



 同時刻。ドレスローブを身に纏ったニルファナは、港に程近いホテルの屋上で、指輪に収まるくらいの船が出港するのを見届けていた。視界に収まっていた船がゆっくりと動き出したのを見て感極まったのか、胸ポケットから取り出したピンクの花柄のハンカチで目尻を拭った。


「こんなところからでは、良く見えないのではないですか?」


 ぎょっとして後ろを振り返ると、そこには見知った顔があった。


「ディジー! いつからいたの?」


 ディジー・マクレガーは眼鏡の縁を持ち上げながら微笑んだ。普段のスーツ姿ではなく、ベージュのロングカーディガンにレッドブラウンのレギンスというラフな格好だった。高いヒールの靴を履いているせいで、ニルファナは目線を少し上に向けねばならなかった。


「この場に、という意味なら数分前。王都に、という意味なら一昨日です。あなたにしては、随分と無防備でしたね。そうしんみりせずとも、別れの挨拶は済んだのでしょう?」


 そういうディジーにニルファナは一瞬呆気に取られ、続いては顔をほんのりと紅潮させた。


「ひっどーい! よりによって盗み聞きしてたわけ?」

「たまたま、ですよ」

「たまたまなもんかい。<盗聴タッピング>の指定範囲が相当狭いって言っていたのはディジーじゃない」


 ニルファナは腕を組み、ぷいとあさっての方角を向いた。

 念話を盗聴するための魔法、<タッピング>。指向性があり、術者の意識が向く方向からの念話を傍受する最上級魔法の一つであり、修練を積めば覚えられるという類のものでもない。微細な魔力をも漏らさず吸収する吸収(アブソープ)の才に飛び抜けている者のみが使える秘術であり、ニルファナですら扱うことが不可能なものだった。


「そういえば説明していましたっけ。それにしても、まさかあなたが涙する姿を見られるとは思いませんでした。余程あの子に入れ込んでいるようですね」


 ディジーが華やぐように微笑んだ。ニルファナは顔を背けたまま口を開いた。


「茶化さないで、わざわざそんなことを言いに来たわけじゃないんでしょ。支部長直々にってことは、相当に悪い知らせかな」


 名高き女傑の鼻のよさに、ディジーは軽く肩を竦めてから両の踵を揃えて佇まいを正した。


「よい知らせと悪い知らせ、2つあります。どちらから聞きたいですか?」

「どちらからでも結構」


 未だ子供のように拗ねているニルファナに、ディジーは微かに頬を緩めた。


「ではまず悪い方から。<ミスティミスト>がセーニアへ加勢する動きを見せています」


 ニルファナの視線が一瞬だけディジーに向けられた。


「ふん、想定内とはいえ、ギルドが大国間の戦争にしゃしゃり出ていくとはね。被害拡大は免れないか」

「致し方ありませんね。情勢から見て、ルクスプテロンから領土を任されているフラムハートがルクスプテロン側に肩入れするのは間違いありません。ならば、先手を打とうと考えたのでしょう」


 四大ギルドのフラムハートとミスティミストは何百年来の仇敵である。それがいつ頃からかもわからずにお互いを憎み合っている。

 昨今、フラムハートのマスターは大病を患い、余命幾許もないと伝えられていた。長年の仇敵を追い落とすのにこの機会を逃す手はなし。そう考えたところで何ら不思議ではなかった。


「アークスもお気の毒にね。やっとマスターに任じられると思ったらこんな難題に直面するんだから」

「アークス……。確かゼノワ家のご当主でしたね。正式に決まったのですか?」

「そのはずだよ。それよりウチのギルドはどうするんだろうね」

「当面は中立を保つことになるでしょうが、近年はフラムハートとの関係が良好ですから敵視される可能性も大いにありますね」

「風当たりが強くなるのは避けられない、か」

「でしょうね。いつまでもどっちつかずではいられません。大義名分がどちら側にあるか早期に見極める必要があります」


 ニルファナはようやくディジーの方を見た。


「マスターはどうしてるの?」

「相変わらずですよ。エスチュード家の関連企業に指示し、蓄財で物資や鉄材をせっせと買い漁っているそうです。物価の高騰を見越しているのでしょう」

「うーん。彼女って何時でも冷静に時流を見られるから凄いよね」

「今回は金策ばかりに勤しんでいるわけでもありませんよ。ちゃんと支部にも指令書が届いています」


 ディジーは視線を下げ、脇に抱えていた黒い鞄から一枚の羊皮紙を取り出した。ニルファナはディジーから手渡されたそれを流し読みする。



 ――伝達事項――


 一つ。明確な指針が決まるまでの間、ギルドに所属する傭兵たちは軍事物資の輸送、戦地での要人護衛を自粛すること。また、敵対国間の国境の往来を自粛すること。


 一つ。ギルド支部への定期報告を徹底すること。中立国で賞金首や犯罪者を見掛けた、あるいは何らかの異変を察知した場合には早急に魔石か口頭にて報告をすること。


 一つ。軍が動けばその分犯罪者の取り締まりや雑務に手が回らなくなり、治安や生活環境が悪化することが予想される。治安や土木、医療関係の報酬を一定の割合で上乗せするのでランクが低くともそちらの任務を優先すること。


 一つ。当面はなるべく単独行動を行わぬようにすること。戦地に近い地域での仮宿はギルド支部か警備兵、用心棒を擁する指定の宿に泊まるよう心がけること。


 一つ。準ランカー以上で戦争に参加、もしくは関わらなければならぬ(しがらみ)がある者は支部長に報告すること。一時ギルドを離れなければならないと判断された場合には、円滑な業務を妨げぬために必ず支部に脱退届を提出すること。


 一つ。他国、他ギルドとの交戦を極力慎むこと。ただし、細心の注意を払っていた上で不測の事態に巻き込まれた場合はこの限りではない。



 附言。理不尽な実力行使を用いる輩に対してはシルフィール一同結束し、子々孫々に至るまで逆らう気が起きぬよう骨髄、心髄に入るまで戦慄させるべし。その対象が組織、はたまた国であっても例外はなきものと心得よ。以上。


 シルフィール・マスター ラミエル・エスチュード



「うわ、意外と過激だね」

「煽るポイントを心得ていますよねぇ」


 檄文といっても差し支えぬそれを見て、ニルファナとディジーは苦笑を交わし合った。


 緩いカーブを描く水平線の彼方に、シュイを乗せた客船がゆっくりと消えていく。形が消えて点になり、それが白波に飲まれたのを確認すると、ニルファナは目を瞑りながらその場で伸びをした。そうすることで少しでも寂しさを紛らわせようとしているようだった。


「あーあ。傍にいないとなると、何だかこの辺りがもやもやするなー」


 そういい、ニルファナは手の平で円を描くように胸元を撫でた。


「見守ることも愛情です。大丈夫、あなたの気持ちはしっかり届いていますよ」

「そう、だよね」


 ニルファナは切なげに溜息を吐き出し、ぐっと背筋を伸ばした。


「いい方のニュースも、よろしいですか」

「はいどうぞ」

「かねてからの依頼の件です。ユウヒ・タカナシの所在がわかりました」

「え、ほんとに?」


 即刻肩を降ろしたニルファナにディジーは小さくうなずいた。


「ええ、商人ギルドにいる友人からの情報ですので確かなものです。半年ほど前に輸送業から手を引き、ケセルティガーノの小村で妻子と共に暮らしているとか。でも、何で彼を探していたのですか?」

「個人的事情、とだけ言っておくよ。良かったー、こんなに早く見つかるなんて。ディジーに頼んで正解だったよ」

「光栄です。では、私はこれで」


 言葉を切り、下り階段に向かいかけたところで、ディジーが足を止めた。


「やはり、最後に一つお訊ねしておきたいことがあるのですが、よろしいですか」


 振り返ったディジーに、ニルファナは軽く顎を下げた。


「何故あのような子どもを傭兵にしたのですか? 年齢を謀ってまで」


 やはりばれていたか、とニルファナはちろっと舌を出した。


「彼が望んだことだよ。それに、当初はお姉さんもあまり乗り気じゃなかったんだ」


 それを聞いて、ディジーが目を細めた。


「少年の時分で傭兵に……ですか。何やら込み入った事情がありそうですが」

「まぁね。シュイはディアーダ卿を殺めた張本人なんだ」

「――なんですって! ナイトマスターを!」


 ディジーが素っ頓狂な声を上げた。イヴァン・カストラというもっともらしい容疑者が既にいたため、真犯人の存在などは疑ってもいなかったようだ。それはシルフィールに入れることを決めたニルファナの思惑通りでもあり、そしてセーニア教国の思惑通りでもあった。


「こっちが良いって言うまでは秘密にしておいてね。あの子はエスニールの出身なんだけど、どうやらあの内乱には裏があったみたいでさ。今回のルクスプテロン遠征とも、あながち無関係じゃないかも知れない。――あの子からディアーダ卿をその手に掛けたことを告白されて、善し悪しはどうあれ心が揺り動かされてね。もう十二分に苦しんだようだし、あのまま潰させるのもどうかと思った」


 ニルファナは後ろ手を組み、空を見上げた。

 傭兵は色々な場所に足を運ぶ必要があるし、様々な境遇の者と出会うことが多い。ニルファナはシュイに多くの傭兵と係わり合いを持たせようと考えていた。そして、強かな生き様を知ることで、少し良い影響を受けてくれればと願っていた。


「あとは保護欲、それとも育成欲というべきかな。お姉さんから何とか逃れようと必死に頑張るあの子を見ていたら、なんだか情が湧いてきちゃってさ。ここ数年は結構荒んだ生活を送ってたから、そういう感情が芽生えたことが自分でも意外だった」


 口には出さなかったものの、ニルファナはシュイとの遭遇時、シュイが極力戦いを避けようと逃げに徹したことを評価していた。もし仮に、のっけから滅祈歌を使って無闇矢鱈に力を振るおうとしたのなら、その場で始末していたはずだった。

 シュイを追い回しながらも、ニルファナは胸の内で何かが変わりつつあることを実感していた。漠然としたその感情はシュイが滅祈歌を行使するのを目の当たりにした時、明確な形を成した。

 一刻も早く止める必要がある。そう急いている自分に驚きを感じた。


「彼が、日常への橋渡しになったわけですか」

「そうだね。あの子と関わっているうちに、お姉さんにもまだこんな心の機微が残っていたんだなぁ、って気づかせてくれた。そういう意味で見返りはあったわけ。おかげで毎日新鮮な気持ちを味わえるから」

「あなたの仰り様は、まるで恋する乙女のようですが」

「ふふ、否定はしない。今は戦争なんかより、あの子をどうやって自分色に染めるかに没頭したいんだけどなぁ。それはお姉さんの力が誰かに向けられることよりもずっと素敵で、有意義なことだと思うけれどね」



 ニルファナが言葉を置き、海の彼方へと視線を向けた。

 少年の境遇を憂い、一つの楽曲を彼の人生に重ねた。華々しい前奏に始まり、荒々しくも機知と起伏に富んだ旋律。要所要所で奏でられる重厚な和音。それらは、浮き沈みの激しい傭兵たちの人生と重なり、ときに絡み合っていくだろう。


 艶やかな笑顔を口元に湛えたニルファナは、シュイが後に完成させることになるだろう壮大な楽曲に思いを馳せた。今はもう船の姿が見えぬ水平線を、どこか名残惜しそうに見つめていた。




 第一部 ~見守る者~ 了

後書きを書いたことがないので何を書けば良いのやら、ですが。

書き始めたのは別の物ですが、完了した小説はこれが初めてなので

大げさに言えば感無量といったところであります。

拙い部分も多々あったことをご承知の上で

お付き合いくださった読者の皆様に感謝を。



活動報告で少し触れていますが、これは第一部になります。

第二部の舞台は三年ほど後のレグナール(この世界の名です)。

第一部での様々な出来事を受け止め

ニルファナの想い、期待に応えようと懸命に頑張り

著しい成長を遂げたシュイが活躍するエピソード。

であるはずなのですが、まだ数万字しか出来ていません。

推敲できている部分はプロローグのみ。

企画倒れになったらどうすんだって話ですね(TーT)


2月18日追記:こちらの作品は完結にします。

第二部は別作品として投稿しますが

読んでいただければ幸いです。

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