第二十章 ~(2)~(改)
「タレイレン様からの報告は以上です。他に何かございますか?」
黒髪を肩の上で切り揃えた受付員の女は臨時報告を終えると持っていた書類から目を離した。
ランベルトは重厚な書斎机に両手で頬杖を突き、目を瞑ったまま緩慢に呼吸していた。寝ているように見えたのか、受付員が揺すってみようかと手を伸ばした。が、直ぐにその手が引っ込んだ。薄らと片目を開けたランベルトに彼女は慌てて失礼しました、と頭を下げた。
ランベルトは特に受付員を咎めるようなこともせず、顔の位置はそのままに視線だけを横にずらした。そこには彼女がたった今持ってきたばかりの投書箱があった。上にある投函口からは折り畳まれた紙片がはみ出している。
苦情がこれほど押し寄せるとは少し甘く見ていたか。表情こそ変えなかったが内心では舌打ちしたい気分だった。甘く見ていたのはアミナに対する軍人たちの信望具合であり、フォルストロームの民たちの行動力だった。行き過ぎた、と付け加えた方が適切だろうか。
先日、ランベルトは王城に足を運んでアミナと面会し、紆余曲折は別として、シュイが彼女の命を救ったのは間違いないことを再確認した。滅祈歌という魔法言語によって意志の制御が上手くいかず、あのようなことになったとも聞かされた。本来ならそれで一件落着となるはずなのだが、一つ厄介な問題が残っていた。既に広まってしまった不名誉な噂をどうするか、ということだ。
アミナがシュイによって救われたことを公にすれば、噂が下火にはなるかも知れない。が、その代わりに軍人たちが更に不満を抱く懸念がある。本来ならば彼らが身を挺してでも彼女を守らねばならないはずだったところを、逆にアミナが彼らを守ろうとして無茶な行動に出てしまった。それが原因で危機に陥り、あまつさえシュイに助けられていたとなれば、軍人たちの面目が丸潰れになる。
最終的に被害は最小限に抑えられたが、後々の影響を鑑みてはアミナの取った行動が少々軽はずみであったと思わざるを得ない。小さな不確定要素も積み重なるとこうまで深刻な事態を招いてしまう。
懸念は他にもあった。魔物襲来による民たちの心境の変化だ。フォルストロームが建国されてからおよそ三百年が経つが、王都がこれほど大規模な敵の襲来に晒されたのは過去に遡っても前例がない。町から一歩出れば自然と警戒心が増すものの、天災は別としてぬるま湯に浸かっていた民たちに、町の中なら安心だ、という意識が定着していたのも無理からぬことだ。
ところが、今回の件でその安全神話が覆された。正体不明の敵の襲撃からはまだ日も浅く、未だ取り払われぬ不安によって温厚であるはずの住民の心が知らず知らずのうちにささくれ立っている可能性は、決して低くない。上手く騒動を沈静化しないとやり場のない怒りの矛先がシルフィールへ向けられることも考えられる。
詰まるところ、その話を公にしたところで禍根は残る。元々軍人たちから派生したと思われる噂であるし――アミナへの信望にこそさほどの影響はなさそうだが――シュイやシルフィールに対する印象は決して良いものにはならないだろう。むしろ、今後の風当たりが強くなりかねない。何よりも、この不穏な時期にフォルストローム軍との連携が覚束なくなるのは非常にまずい。
ランベルトはやっと頬杖を崩し、上半身を起こした。
「それで、セーニア教国が近々出兵するという話は真なのだな?」
「は、はい。騎士団にいる身内からの情報ですので間違いありません。相手はルクスプテロン連邦、相当大規模な遠征になるのでは、とのことでした」
セーニア教国はこの百年ほどで周辺の小国を幾つも呑み込んできたが、ここ最近はセーニア騎士の精神的支柱であるコンラッド・ディアーダが斃れたこともあり、表立った動きを見せていない。それが、フォルストローム王都の襲撃直後に何年来の遠征となれば、民たちも偶々時機が重なっただけとは考えまい。
「あるいは、フォルストロームが先の襲来の余波で未だに動けないと踏んで行動を起こしたのかも知れません。あちらも我々の被害状況は逐一把握しているでしょうし」
受付員の推測に、ランベルトは小さくうなずいた。現状、度重なる魔物襲来に対応するため、セーニアとの国境付近に配置していた兵たちは近隣の町村の警戒に中てている。これはセーニアの意図を確かめるために宰相のレギンが命じたことなのだが、ここ一週間ほどはセーニア側の国境警備兵たちも姿を見せなくなっているそうだ。
これについてランベルトは一つの仮説を立てていた。セーニアとフォルストロームは長きに亘り同盟を結んでいる間柄であるが、昨今においてはそれほど親交が深いわけでもない。ともすると、セーニアは遠征の際にフォルストロームから背後を突かれることを危惧していたのではないか。そして、魔物の対応に手一杯で国境警備兵にも人数を割けぬほどに余裕がないことを知り、満を持して今回の遠征に至ったのではないか、と。仮にそれが事実なら、レギンの策はセーニア側を早く動かしたという点において一定の効果があった、ということになる。
ただ、セーニアに害意を抱いていなかっただろうフォルストローム上層部にとってはあまり愉快な話ではない。フォルストロームが兵を引き上げるまで出兵しなかったということは、先方が自分たちの想定以上に猜疑心を抱いていたという何よりの証。同盟を結んでいる間柄にもかかわらず、向こうがフォルストロームをそれほど信用していないことが今回の件で露見したわけだ。
目下の所襲撃者の目的は不透明なままであり、セーニアが一連の襲撃を裏で糸を引いていると断定できるような証拠も上がっていない。けれども、襲撃からまだ日も経たない内にあたかも連動したかのような動きがあれば、彼の国に疑いを持つ者も少なからず出てくる。今回はいち早くシルフィールが情報を拾ったが、数日もしないうちに軍部でも情報が共有されているはずだ。
王都襲来以降魔物の出現は也を潜めているが、再度の襲来がないと断言出来る状況でもない。セーニアがフォルストロームに攻めてきた場合は別として、動いたところで直ぐにどうこうできるというわけではない。が、現段階で両国間の仲が悪くなると、後々の戦乱の火種にならないとも限らない。
そしてそれはシルフィールを初めとする傭兵ギルドとて決して無関係ではない。ルクスプテロン連邦とセーニア教国。四大国同士の大規模な戦いが始まれば、中立を貫くかどちらかに肩入れするかで揉めることになるだろう。所属する傭兵の半数近くはこの二カ国の出身者だ。
場合によっては支部の閉鎖も検討する必要があるだろうし、最悪、ギルドが割れることすら想定する必要がある。ランベルトの顔から憂いは晴れなかった。
――――――
「あなたにだけは頼みたくないので、今回は見送らせていただきます」
そう言い放った若い獣族の女はシュイをきっと睨みつけてから足早に去っていった。二件目の依頼をもあっさりと破棄されたシュイは、フード越しに頭を掻きながら重い溜息を零した。
滅祈歌と戦いによる傷が癒えたのはつい三日前のこと。外傷こそ少なかったものの痛んだ筋肉や体力の回復には思った以上に時間が掛かった。今も体が本調子とは言い難い。
アミナとリズに見送られて王城を後にしたシュイは、以前泊まっていた宿に荷物を回収しにいく途中で、少なからず自分の噂話を耳にすることになった。アミナを「雌犬」などと口汚く罵倒し、あまつさえ泥の川に投げ落とした、という信じがたい尾ひれを聞いて、暗澹たる気持ちにならないわけがない。
そもそもアミナを泥まみれにした、という疑惑に関してはシュイに心当たりは全くなかった。自我が薄れかけていたこともあってテクラとゾランを追う時の蹴り足のことなど及びもつかなかったからだ。けれども、心当たりがないからこそ、噂話が実は本当のことではないか、と自分で自分を疑っていた。自我が薄まってしまった折に、半ば無意識的にそういった暴挙をやってしまったのでは、と。それは半分正しくて、半分間違っていた。
一方で、騒がれている当のアミナは祖父のキーア王から城を出ぬよう命じられているとのことだった。孫娘にして唯一の肉親である彼女があれほどの重傷を負って帰還するなどということはただの一度も前例がなく、王も多分に堪えたのだろう、というのがリズの話である。
シュイはアミナの背負っている物が、おそらくは自分の荷物以上に重いのだと理解していた。あの小さな体で国の期待を一身に背負い、フォルストロームの姫として、シルフィールの準ランカーとして責務を果たしている。それを考えると、復讐に身を焦がす自分がどうにも浅ましく思えた。
もやもやとした気分を一新すべく、南区のギルド支部に来たまではよかった。けれども、掲示板の依頼書を剥がして依頼人に会う際、名を名乗ると即座に拒否された。どうやら自分は相当この国に嫌われてしまったようだ。
とはいえ、自分で撒いた種が発端だ。結局はキャノエのときの様に悪い評判を払拭するしかない。
そう自分に言い聞かせたシュイが、もう一度掲示板に歩み寄ろうとしたときだった。
「あまり芳しくないようだな」
横から声が掛けられ、シュイがロビーの方を振り向いた。
「あ、タルッフィさん」
軽く会釈したシュイに対し、ランベルトは片手を上げて応えた。
「依頼を探しているということは、怪我はもう治ったようだな」
「お蔭様で。その節はありがとう、あなたが俺を王城まで運んでくれたんだって?」
「礼など構わん。――まぁ、傭兵である以上色々な噂は付き纏うものだ。有名になればなるほど、な」
「……すまない。本当なら良い噂を流さなくてはならないはずなのに」
肩を落とすシュイにランベルトは周りをきょろきょろと見回しながら言った。
「キャノエでの事件のあとは一割強増えたのだが、今回は逆だな。まぁ致し方あるまい。ほとぼりが冷めれば徐々に客も戻ってこよう。私にもそういった経験の二つや三つ、ないではないしな」
そう付け足して、ランベルトはにやりと笑った。それでシュイは、少し心が軽くなった。
「ああ……。あのさ、迷惑ついでに一つ訊きたいことがあるんだけれどいいかな?」
ランベルトは軽くうなずいた。
「その、俺がアミナ様を罵倒したり泥の川に突き落とした、っていうのは、本当の話なのか?」
ランベルトは顎を撫でながら視線を宙に向ける。
「解釈次第では暴言と言えなくもなかった。が、内容については罵倒と程遠いものだな。むしろ口答えという語句が正しかろう。それから、……なるほど。確かに後ろ向きでは見えなかったであろうな」
「後ろ向き?」
「おぬしがアミナ様を私に預け、賊二人を追って走り出したとき、蹴り足で泥を飛び散らせたのだ」
「じゃあ、やっぱり本当の――」
「――その点は大いに感謝するがいい。私が反射的に彼女を背で庇っていなければ、間違いなく泥塗れになっていただろう。もっとも、隣にいる兵たちは見事に被害を蒙ったようだが。その後は兵たちと別れてぬしらを追ったのだが、今にして思えばアミナ様に泥が散っていなかったかどうか、あの暗闇では見分け難かったかも知れん。噂を流した兵たちも、自分らの有様を見て勘違いしてしまったのかも知れん」
「そうか、そういうことだったのか……」
「まぁそういうわけで、豪勢な食事の約束は取り消しだな」
シュイは一瞬キョトンとし、数秒してようやく思い出した。
「あ、あぁ。あの話か。覚えていたんだね」
ばつが悪そうに笑うシュイに、ランベルトはやや声を顰めた。
「――シュイ。こうなればアミナ姫に泥のことだけでも事実無根であると弁明させては――」
「――駄目だよ、彼女にはこんなことで嘘を吐かせたくない。泥をぶちまけたのが本当のことだと知った今なら尚更だ。ただでさえ多忙な方なのにこれ以上手を煩わせることなんてできない。これ以上彼女の荷を増やすわけにはいかないよ」
「そなたの気持ちはわからぬでもない。しかしな、これ以上騒ぎが大きくなれば返って彼女に大きな迷惑をかけることになるぞ」
「今回の件は全て俺の至らなさが招いたことだ。だから――」
「――随分と物分かりががいいじゃねえか」
あさっての方から聞こえた声に二人が振り返ると、軍人の服を着た者らが二人の方に近づいてくるのが見えた。
「何だぬしら。ぞろぞろと」
眉をひそめるタルッフィに先頭にの軍人が手をかざした。
「悪いがタルッフィ殿は黙っていてもらおう。その格好、貴様がエルクンドとかいう傭兵だな。よくもまぁ、のほほんとこの国にいられたものだな」
居並ぶ六人の軍人たちは顎をしゃくるようにしてシュイをあからさまに見下した。
「……アミナ様の件、か」
「それもあるが、それだけじゃないだろ? 貴様にはセーニア領の小村での過剰防衛の疑いがかかっている。この不穏な時期にごたごたを起こしてくれやがって」
「……何の話だ? 過剰防衛って」
首を傾げるシュイの隣でランベルトが目を見開いた。
「はっ、すっ呆ける気か。なら訊くが、貴様は鎌を得物としているらしいな」
「それが、どうかしたのか」
何でそんなことを訊ねてくるのかわからず、シュイは首を捻る。
「それはどこにある?」
「魔物の襲撃時になくした。うろ覚えだが、多分どこかの工場みたいなところに置き忘れたんだと思う」
軍人たちが顔を見合わせ、せせら笑った。
「やれやれ、随分とわかりやすい嘘をつくもの――いや待て、工場だと?」
「まさか、あそこを廃墟にしたのも貴様なのか!」
途端、男たちが色めき立ったのを見て、シュイは尚も首を傾げた。少しして、おぼろげながら記憶に引っ掛かるものがあった。
「廃墟? ……あぁ、もしかしてあの建物が? そうなっていたとしたらそれは――」
「――待て。ぬしはその件にも心当たりがあるのか?」
出掛けた言葉を遮ったタルッフィに、そういえば説明する暇が全くなかったな、と頭を掻く。
「飛竜との戦闘が終わって一旦別れた後、スキーラって傭兵に絡まれたんだ。以前あいつとはちょっと揉めていたんだけど、いきなり不意打ちを仕掛けられて骨まで折られたもんだから、戦わざるを得なかったんだよ」
シュイの説明を聞き、ランベルトは唸りながら額を押さえている。
「何故そのことをもっと早く言わなかったのだ!」
「こっちだって色々あり過ぎてそんなこと忘れていたし、城にいたから言う機会だってなかったんだよ」
「たとえそうであったとしても、魔石による連絡くらいはできたはずだ! ぬしとてシルフィールの規約まで忘れていたわけではあるまい!」
シュイが城を出たのは一昨日前のことだったが、長い間臥せっていたせいか体の動きが固く、ギルドに来るのは差し控えていた。王城にいるときには――少なくとも意識を取り戻した後には――ランベルトと一度も会わなかったし、それ以外ではイヴァンらの襲撃日にしか顔を合わせていない。
確かに、魔石での連絡くらいは出来たはずだった。しかしながらイヴァン・カストラとの邂逅や彼の狙い。アミナとリズが掛けてくれた暖かな言葉。滅祈歌に対する恐怖。何よりこれからの身の振り方を考えることで頭が一杯だった。それらのことに比べればエグセイユや彼との戦いの場となった建物の記憶など些事に過ぎず、相当奥深くに仕舞われていたとしても仕方がなかった。
いつの間にか、シュイたちの周りには人だかりが出来ていた。そんな中、軍人たちが険しい顔をしたままシュイに詰め寄ってきた。
「スキーラという名前には聞き覚えがあるぞ。確かその者もシルフィールの傭兵ではなかったか! 貴様ら一体どういうつもりだ!」
「あんなやつと一緒くたにしないでくれ。本人に聞いてみればいいだろ」
しっしと手を振りながらシュイがぶっきらぼうに返した。幾らでも言い分はあったはずだが、意識的にアミナの名を出すことを避けていたためにどうしても付け込まれる隙があった。一度見えた綻びからはどんどん糸が解けてきて収拾がつかない。ランベルトにしても、工場を廃墟にしたのが二人だと聞かされ、こちらがそれを認めるような発言をしたとすれば庇う手立てがなかっただろう。
「何と軽率な……。この上は一刻も早くスキーラを呼び出し――」
「その必要はない! そもそも今問題にしているのはエルクンドのことだ! 時間稼ぎをされて有耶無耶にされては敵わんっ!」
その言葉にランベルトが何か言いかけたが、それより先に別の軍人が喋り出した。
「大体、俺は傭兵なんぞが信用出来るか当初から半信半疑だったんだ。いつか必ずこうやって馬脚を現すときが来るんじゃないかと思っていたぜ。シュイ・エルクンド、貴様が今セーニア南部一帯でどう呼ばれているか教えてやろうか? 死神だ! ランカーのハーベルが推薦したって聞いているが、こんな馬鹿を推薦するとはあの女、強くとも目はとんだ節穴だな!」
シュイの顔がフードの奥で醜く歪んだ。自分が言われる分にはまだ我慢できていたが、尊敬しているニルファナまでも貶されては、思考に炎が走るのを止めようがなかった。
「だから、それは身に覚えがないって言っているだろうが! 戦ってばかりで共通言語も通じないほど脳みそが干からびているのか! 大の大人共が雁首揃えて憶測並び立てただけで鬼の首を取ったような顔しやがって。大体、アンタらがもうちょいしっかりしていりゃあアミナ様だって――」
「――シュイ!」
ランベルトが止めに入ったが、遅かった。その言葉が軍人たちの気に障ったのは間違いがなく、既に何人かの顔は、触っただけで火傷しそうなほど真っ赤になっていた。
「話は終わりだな。シルフィールにここから出ていってもらうよう王城に嘆願書を出さねばなるまい。喉元にカミソリを括りつけているも同じ、危なっかしくて敵わん。いずれは王都だけではなく、この国からも出ていくことになるかも知れんが」
何だと、というシュイを遮り、ランベルトが前に進み出た。
「しばし待たれよ。こちらに落ち度があったのは認めるが、そなたらの端から決めつけるような態度も問題ではないか」
「支部長殿までこちらに非があると言いたいのか? ――う」
ランベルトの全身から闘気じみた威圧感が滲み出し、詰め寄りかけた男が逆に半歩引いた。
「我々は此度の襲撃騒動に関して常々そちらの要請に応え、再三にわたって民たちの安全確保に力を注いできた。言うに及ばず、ここ数年の間、我々は良好な関係を築こうと努力してきたはずだ。ぬしらはそれすらも否定するというか」
「そ、そこまでは言っていない」
「言っているだろう。そなたらが非難しているシュイとてキャノエでは百を越える大毒蜂を相手に命の危険を顧みずに戦ったのだ。他ならぬフォルストロームの民のために、だ。それを棚に上げて自らの鬱憤を晴らすだけのために責め苦を並び立てるのが、フォルストローム軍の流儀と申すか」
「……ぐ」
黙り込んだ軍人を押しのけて、後ろから軍人の女が進み出た。
「だからといって、そいつをそのまま見逃すわけにはいかん! 我々のことならまだ我慢も出来るが、アミナ様の件に関してだけは譲れぬ!」
そうだそうだ、と周りからも囃し立てるような声が上がる。
「無論、処罰はする」
シュイはその言葉に、信じられないといった面持ちでランベルトの頭を見上げる。ランベルトは肩越しにシュイを見下ろした。
「シュイ、私はぬしを個人的には嫌っていない。が、私がここにいる以上は、個人である前にフォルストローム支部長としての責務が優先される。そして、ぬしはシルフィールに少なからず害を成そうとした。その意味がわかるな。先程の言葉は失言に過ぎる」
「……だ、だけど」
「支部長としてぬしに処罰を申しつける。ぬしはこれより――」
「――待て。この件、悪いけど私に預らせてもらえないか」
聞き覚えのある声にシュイが周りに先んじて振り返った。
「ニ、ニルファナ……さん?」
呆然と呟いたシュイに、黒と金色のドレスローブを正装したニルファナは一瞬だけ褐色の目を向けたが、興味なさそうに視線を外した。そのままランベルトの方を見て軽く目礼をする。
「ハーベル嬢! ご無沙汰しておりますな。何故こちらに」
ランベルトも同じように礼を返した。突然の珍客に軍人たちからもどよめきが上がる。その美しさと、美しさに隠された死の棘を持つ赤髪の麗人は、一瞬にして場の空気を飲み干した。
「なに、タレイレン殿が気を利かして私に連絡を寄越してくれたのでね。推薦した傭兵が粗相をやらかしたっていうから、後始末を付けにきたまでだ」
後始末、という言葉にシュイが竦み上がる。そして、二言目でやっと気づいた。口調がいつものものではないのだ。自分のことをお姉さんと呼ばず、今までシュイの前で披露していた、間延びした話し方は見る影もない。
「ニ、ニルファナさん。信じて、俺は――」
「――言い訳は不要。――シュイ・エルクンド。表に、出ろ」
愛らしい桃色の唇が紡ぐ言葉は、しかして強制力を伴った呪詛だった。普段優しげだと思っていた目は、極限まで引き絞られた強弓にも似た威容を誇っていた。
シュイは、今までの経緯からニルファナがどういう人物か、ある程度理解していた、気になっていた。時々乱暴だけれど気立てが良くて、思いやりのある女性。そう信じて疑わなかった。けれども、今目の前に映っているのは、凶悪な犯罪者が畏怖するに値する一人の傭兵だ。歴戦のつわものに一言一句すら結ばせない。ニルファナの放つ冷厳にして超絶的な魔力に中てられ、四大国最強と言われたフォルストローム軍の精鋭が、まるで置物になってしまったかのように委縮してしまっている。
それは恐怖そのものだった。気迫だけで人の呼吸を、心臓を止めかねないほどだった。直ぐにも吐息を吐き出そうな巨竜の口蓋を、眼前に突き付けられたように。
だが、それ以上に不安があった。もし彼女が、味方だと信じて疑わなかった自分を本当に見放してしまったのだとしたら。その心細さたるや、陸地の見えぬ大海の只中に取り残された漂流人の心地だった。
「表に出ろ、と言っている」
もはや、まともに目を見ることすら出来なかった。これほどの怒りを買ってしまった自分が、ただただ情けなかった。かつて覚えがない凄みを見せるニルファナの命に、シュイは生唾を飲み込みつつも従った。