第十九章 ~(3)~(改)
コンラッド・ディアーダはセーニアの国民的英雄であり、象徴でもあった。誰かに例えるならば、フォルストロームにおけるアミナのような存在だ。
下級貴族の出身であった彼は騎士道精神をそのまま体現したような男で、十年に一人と言われるほどの英傑だった。文武両道に優れていたが、芸術にも造詣が深く、特に絵の才に長けていた。彼が戯れに描いた風景画は、亡くなった後では相当な高値が付けられている。
剣技に卓越していたコンラッドは長きに亘ってセーニアを苦しめていた蛮族の一派を退けて名を上げた。その後は史上最年少、齢二十三にして騎士大隊長に昇格。軍学校時代から恋仲だった現教皇の妹カティス・セーニアを妻に娶り、一男一女を儲けた。貴族としては珍しく晩婚であったが、大恋愛を経て一緒になった妻カティスとの仲は睦まじかった。
コンラッドは生涯側室を持たなかった。大貴族となった者が妻を一人しか娶らぬことは、セーニアという国に置いて非常に珍しく、その一途さ、生真面目さも彼の評価を高めた一因だ。
年の近い教皇アダマンティス・セーニアとは幼馴染であり、学友でもあった。コンラッドとカティスとの仲を取り持ったのもアダマンティスだと言われている。婚姻によって王族の系譜に名を連ねてからというもの、彼に対する国民の信望は教皇へのそれと並ぶほどになった。
セーニアで確固たる地位を築いたコンラッドは、特使として諸外国に赴くことも多くなった。何時しかその名声は周辺諸国にまで響き渡り、道端で遊んでいる子供たちのごっこ遊びに彼の名が挙げられることも多くなった。ナイト・マスターという万人に判りやすい字面も多分に子供心を擽ったのだろう。
誰もが羨むような順風満帆の人生を歩んでいたコンラッド・ディアーダ。シュイがそんな彼と出会ったのは、やはり外遊がきっかけだった。その頃には騎士団総隊長に昇格し、所有する屋敷から王城へと移り住んでいたディアーダ一家は、セーニアの北西にある同盟国ディボルクの闘技祭に賓客として招かれた帰り道、エスニールに立ち寄った。以前からエスニールとは個人的に付き合いがあったようだが、シュイにとってはそのときが初対面だった。
エスニールの族長の一人、ミレイ・ロズベルクの家に居候していたシュイは、コンラッドが訪ねてきた折に彼女と一緒に出迎えた。最高位騎士に名を連ねるだけあり、第一印象は厳格さが強く残った。傍目には三十前半くらいの容貌で身の丈が高く、身体も見るからに鍛え上げられたものだった。後日にシュイは、実年齢が四十を越えていると知らされ、相当に驚かされることになった。騎士と言えば大方日焼けしているものだが、彼もその例に漏れることなく、小麦色の肌だった。色の濃い碧眼に対してオールバックにした薄茶色の髪が若々しい印象。類稀な家族思いでもあり、言葉の節々に妻や子供への気遣いが垣間見えた。
シュイは、彼の息子ゼノンとは齢が一回り以上離れていたせいもあって疎遠だったが、同年代の娘アデライードとはすぐに仲良くなった。
ゼノンとアデライードは教皇の妹であるカティスの血を、セーニア王家の血を引いている。そのせいもあって、年端もいかぬ頃から周囲の好奇の的となっていた。腹に一物抱えた大人たちが取り入るために、あるいは利用するために、父であるコンラッドの目を掻い潜って二人に近づこうとした。謀議渦巻く王宮内は、心許し合える友人を作れるような環境ではなかったようだ。
兄のゼノンは、現教皇に未だ子供が出来ないこともあってセーニアの第一王位継承者だった。自分に跪く者たちを毎日のように見ながら育った彼は、次第にそれを当たり前のことのように思い始めたのか、少しずつ驕慢な性格に傾いていった。
妹のアデライードも、ゼノンほどではないにしろ様々な思惑に晒された。具体的に言うと、十にも満たぬ幼少の頃から見合い話が何件も来るようになった。アデライードと婚姻関係を結んだ家系は、当然王家の外戚に名を連ねることになる。それによって得られるメリットは計り知れぬものがあったのだ。
その内にアデライードは人と会うことを避けるようになり、家に引きこもりがちになった。内向的になり、一人部屋で歌を口ずさんでいる愛娘を見るに見かね、コンラッドは思い切って外遊に連れ出すことにした。少しでも気分転換になってくれれば、と考えてのことだったのだろう。
実の所、アデライードから話を聞く限りでは、当初はいい迷惑だとしか思っていなかったらしい。大人同士が談笑している間、見知らぬ土地で、やはり一人寂しく暇を潰さねばならなかったからだ。子の心親知らずよね、と彼女はしょっちゅう頬を膨らませていたものが、シュイは相槌を打ちながらもお互い様だと思っていた。
コンラッドに連れられてエスニールに立ち寄った際、暇を持て余したアデライードはこっそりと族長の屋敷を抜け出した。窓から見えた丘の大きな木を目指した彼女は、そこでシュイたちと鉢合わせた。
シュイが初めてアデライードに出会ったとき、彼女は胸元に桃色のコサージュが付いた薄絹のドレスを着ていた。一目で高貴な身分だとわかるものだった。五指を何の抵抗も感じさせずに通しそうなほど手入れの行き届いた、肩の下まである金髪は如何にもお嬢様然としていて、そのくせ碧眼は捨て犬のような寂しげな光を放っていた。そんなアデライードを前にして、シュイは仲間たちと顔を見合わせ、うんうんとうなずき合った。
人懐っこいエスニールの子供たちに遠慮の二文字はなかった。彼女をいつも自分たちがしている遊びに容赦なく巻き込んだ。牧場で草を食んでいる羊たちにいきなり抱きついたり、ミミズを餌にして小川で釣りをしたり、厚紙を下に敷いて芝生に覆われた川縁の坂を何度となく滑り降りたりした。
遊んでいる間、ずっと澄まし顔をしているように見えたアデライードだったが、後日、再びエスニールを訪れたコンラッドの話では帰り路でまた是非連れていって欲しい、と自分からせがんだそうだ。それを聞いてシュイは、ちゃんと楽しんでもらえたのだとわかって少し嬉しくなった。次第にアデライードはエスニールの子供たちと打ち解け合い、笑顔を見せてくれることも多くなっていった。
元気になっていく娘の姿に、コンラッドも思うものがあったのだろう。外遊の有無に拘わらず、一家総出で村を訪れることも増えていった。
コンラッドは暇を見ては体術を教えてくれた。元々エスニールでは何かしらの武芸を学ぶことを推奨していたのだが、組み手というものにどうにも苦手意識があった。練習とはいえ実戦稽古、寸止めではない。訓練中に相手に怪我させてしまうことだって当然ある。拳が相手の体に当たり、骨を響かせる感覚と言うのは、シュイにとってあまり好ましいものではなかった。実際、道場では鼻血や青痣は日常茶飯事で、骨を折られた子も何度となく見かけた。有り得ぬ方向に曲がった腕を見て、その場から逃げ出したくなることもしばしばだった。
コンラッドはシュイの運動神経を早くに認め、エスニールを訪れた時にはしばしば稽古を付けるようになった。全ての打ち込みをあっさりといなしてしまうコンラッドに対して、シュイは遠慮の二文字を取り払い、思う存分拳を振るえるようになった。
それまでシュイはコンラッドが剣の扱いにのみ優れているのだとばかり思っていたが、彼の強さを支えていたのは優れた体捌きと動体視力だった。何しろ、拳をまともに手で受けてもらえるようになるまで一年以上の時がかかったのだ。
時を経るに連れて、ディアーダ家との関係は深まっていった。年齢の垣根を越え、お互いに心を許し合い、様々な話をするようになった。国の成り立ちや経済問題。各国間との微妙な軋轢。はたまた病弱な妻、カティスの心配。思春期を過ぎても反抗的なゼノンの愚痴。以前と打って変わってすっかり明るくなったアデライードの様子も。
食卓で自分の話題がしょっちゅう出てくると聞かされると少しこそばゆかった。面映ゆそうなシュイに、コンラッドは笑いを禁じ得ぬ様子だった。
時にはシュイも身の上話をした。故郷のケセルティガーノを出て商隊に加わることになった経緯や、訪れた国々での人々の暮らし振り。はたまた、商品として扱っていた魔法道具のことなどについて。
かなり細かい性格なのだろう。商売や魔法道具の話をすると質問攻めにあった。取り扱っている道具にどんな効果があるのかはもちろんのこと、どういう風に使うのか。どのような材料で作っているのか。はたまた、どんな客が多いのか。どれくらいの利益が出るのか等々。
シュイはコンラッドと話すのが好きだった。実際に最先端で政務に携わり、各国を巡っている彼のする話は、同世代の子供たちと遊ぶのとはまた違った楽しみを与えてくれた。逆に、幼い自分と話していてもコンラッドの方がつまらないのではと不安になり、実際にそう訊ねてみたことがあったが、彼はやんわりと否定した。大臣なんかと話すよりも君と話している方がずっと楽しい、と冗談めかして言ってくれた。シュイが十一歳の頃までは、不穏な空気など一切感じられなかった。
疎遠になり始めたのは出会ってから二年が過ぎた頃。コンラッドの妻であるカティスが病に倒れたことが始まりだった。
元々身体があまり丈夫でなかったカティスだったが、それでも起き上がれなくなる程ではなかった。王妹という身分もあり、彼女はセーニアの王城で有効と思われるありとあらゆる治療を施された。しかし、一時的には持ち直しても、また徐々に容体が悪くなっていった。一向に治らぬ彼女の病に、巷では誰かの呪い、はたまた一服盛っている者がいるのではなどといった噂が囁かれ始めた。その頃のコンラッドとアデライードの落ち込みようといったら、声も掛けられないくらいだったのを覚えている。
そんな家族たちの前で、しかしカティスは笑顔を絶やすことはなかった。闘病で体力が衰えていき、口数が少なくなってきても、苦しみを呑み込んで背筋をぴんと伸ばし、微笑みを浮かべ続けた。そのいじらしさが殊更に、見舞い人たちの胸を詰まらせていた。
シュイが十二歳になって間もなくのこと、カティス・ディアーダは帰らぬ人となった。享年三十九という若さだった。
そして、それからわずか八カ月後のこと。
その日、シュイはミレイに食料品の買出しを頼まれ、エスニールの村はずれにある市場を歩いていた。
コンラッドとは三カ月前に会ったのを最後に、ぷっつりと音信が途絶えていた。度々人目を忍んでエスニールに来ていたアデライードも、何時しか姿を見せなくなっていた。
カティスが亡くなってから間もなく、セーニアの軍部では様々な動きがあったようだ。セーニアに対して反抗的な態度を取る北方諸国への開戦論を支持する一派が台頭。穏健派の中心だったコンラッドを抱き込もうという動きが強まっていたらしい。
同盟国であるエスニールは首尾一貫して穏健派の立場を貫いていたが、ある時期を境に徐々にその立場は悪くなっていった。エスニールの族長たちはセーニアに対する不信感と警戒感を強めていたが、とある事件をきっかけに決裂が決定的なものとなった。
著しい情勢の変化に、シュイの保護者であるミレイ・ロズベルクは危機感を募らせていた。密かに非戦闘員を友好国に避難させられるよう、上に顔の利くユウヒ・タカナシという人物と連絡を取り合った。シュイとも行商を通じて知己であった彼は、その依頼を快く引き受けてくれた。
シュイは保護者代わりであるミレイのやることに文句こそ言わなかったものの、内心ではあまり快く思っていなかった。セーニアにコンラッド・ディアーダがある限り、実力行使などするはずがない。彼がそんなことを許すはずがない。仮に強硬派を止められなくなっても、親しい自分たちには危機を教えてくれるはずだ。そう信じて疑わなかった。
頬に何かが触れ、雲行きの怪しい空を見上げようとした。が、視界に何かが映り、首の動きが途中で止まった。
普段遊び場にしていた丘の稜線が、数多の黒いもので埋めつくされていた。目を凝らして、それが連なる騎馬隊だとわかった。
唐突に、その列が乱れた。中央から徐々に下方に曲がっていき、横一線のそれがうねうねと波を打ち始めた。背筋から足先まで一気に冷え切った。
即座に声を発して警戒を呼びかけようとしたが、喉が痙攣して上手く動かなかった。震える喉を片手で鷲掴むようにして、無理矢理捻り出した。
「セーニア軍だ! こっちに向かってる!」
突然叫んだイェルドに、お釣りを渡そうとしている商人や露店を物色している者が振り返り、硬直した。突然何を言い出すのだと困ったような笑いを浮かべたが、シュイの表情を、続いてはその手が示した方角を見て、顔を引き攣らせた。
「ば、馬鹿な! 連中本気か!」
大人たちが次々に驚嘆を口にした。イェルドとて信じられぬ気持ちだったが、迷っている時間は残されていなかった。距離はあるが、馬であればここに至るまでに五分とかからないはずだった。
「うだうだ言っている時間は無いよ! 非戦闘員を湖の方へ誘導して! 僕は族長たちに知らせて来る!」
イェルドが脇目も振らずに走り出して間もなく、敵襲を知らせる魔石があちらこちらで爆音を鳴らし、村の中が一気に騒然となった。時を同じくして驟雨が地面を叩き始めた。乾いた砂が飛び散り、次第に泥の領域を広げていった。
――どうして……どうしてなんだ! コンラッド!
心中に湧き出た疑問と憤怒を押し潰し、イェルドは泥を蹴散らしながらミレイの屋敷目指してひた走った。
それから間もなくして、騎馬隊の見るに堪えぬ殺戮劇が始まった。
普段から武芸を奨励しているだけあり、エスニールの大人たちはよく戦った。実際、後日に判明した死者の数はセーニア兵の方が多いくらいだった。しかしながら、絶対的な数量の差とイヴァン・カストラの不在。ましてや非戦闘員を庇いながらの不利な戦い。突然の奇襲によって準備時間がなかったことも災いした。
隊列をまともに組むことも叶わなかったエスニールの戦士たちは、孤立した者から大群に呑み込まれ、息絶えていった。エスニール側が非戦闘員を含めて約八百人。対するセーニアの兵は四千を下らなかった。
培われてきたはずの信頼は、血と汚泥と、無念の涙によって洗い流された。エスニールの戦士たちの必死の奮戦、駆けつけたユウ・タカナシの助力もあって全滅こそ免れたが、それでも助かった者の方がずっと少なかった。そして――
――――――
シュイは言葉を切り、かたかたと震え出した己の身体を何とか止めようと抱きすくめた。アミナとリズは、涙で滲むシュイの、それでも挑みかかるような双眸に一切の声を発する事が出来なかった。せめて零すまいと目を細めて瞬きを堪える所作が尚の事、健気に映った。噛み締めた唇から血が一筋流れ出で、シュイの着ている白いシャツに赤い斑紋を残した。
「――イヴァンさんは、戻ってきたはずです。全てが終わってしまった後に。大勢の友人や親類が殺され、家も畑も焼き尽くされた、変わり果てた故郷へと。そのとき、一体彼が何を思ったのか、何を想像したのか。――昨日は頭に血が上っていて考えが及びませんでしたが、頭が冷えた今ならわかります。俺だからこそ」
イヴァンはさぞセーニアを、何より自分自身を憎んだことだろう。どうして肝心なときに自分は故郷を離れていたのか。皆の為に戦えなかったのかと。
そして、それはシュイにとっても同じことだった。自分がもっと早くに滅祈歌を以って戦いに加わっていれば、被害をもっと少なくできたかも知れなかった。だが、そのリスクを知っているが故に、我を失う可能性を恐れていた。もしかすれば、その牙が味方にも向くのではないかと。どちらが正しい選択だったのかは、今更証明できるはずもなかった。
「彼がセーニアへの復讐心を忘れるはずがなかった。アミナ様の話を聞いて、そう確信しました」
彼の国への報復。最終的にシュイは滅祈歌を使い、万難を排してコンラッド・ディアーダを殺すことに成功した。それによって復讐を一部果たしていた。
そしてイヴァンも、おそらくは傭兵時代に培った独自のルートから情報を収集し、エスニールの虐殺に関わった者たちを消していたのだ。もしかしたら、今回のフォルストロームへの襲撃もセーニアへの報復に何らかの関わりがあるのかも知れない。その結論は、当たらずとも遠からずといったところだろう。
ややあって、聞き入っていたアミナが目を瞑ったまま口を開いた。
「そなたも、同じか? 今もなお」
セーニアを憎んでいるのか。シュイは続く言葉を察して眉をしかめたが、ゆっくりと目を伏せた。
「ニルファナさんと出会う前は、道すがら聞こえる子供たちの笑い声ですら、聞くに堪えませんでした。重なるんです。殺戮に興じていたセーニア兵たちのそれと」
シュイはそう言って両耳を押し潰すように頭を抱えた。それが曲がりなりにも戦いと呼べるものであれば、踏ん切りがつくこともあったかも知れない。だが、仮にも同盟国に宣戦布告もなしに襲いかかり、内乱の汚名を着せて自分たちの罪をなかったことにする。そのようなむごい仕打ちに我慢できるものだろうか。そんなことは、絶対に不可能だ。
セーニア兵たちの罵声や笑声に混じって死んでいった子供たちの悲鳴が、未だに耳にこびりついていた。ふとした時にそれを思い出し、呼吸もままならぬほどに胸が震えた。その度に、身体の奥底にまで根を張ったそれを周りの肉ごと削ぎ落としたい衝動に駆られた。
「今でも憎い、です。どうしようもなく。エスニールの仲間たちあれほどの地獄を見せておきながら安穏と笑っていられる連中を、どうして許すことができるでしょうか」
知らなければ許されることなのか。殺戮に加担した兵にのみ全ての責があるのか。違うはずだ。その兵を支えている国が、国を支える民たちが根幹にあるはずなのだ。
兵を飢えさせぬための食料を作る者が憎かった。人を殺すための道具を作る者が憎かった。乗っている馬を育てた者が、殺した者たちの金で何不自由なく生活している家族が憎かった。虐殺を内乱という言葉に挿げ替えた者たちが、何ら疑問を抱かずにそれを受け入れた者たちが。
「俺は、なんとしてもエスニールの汚名を雪ぎたい。今は無理でもいずれは必ず。その気持ちは変わりません。その一念で、傭兵として身を立てることを志したんです。ただ、わからないんです。本当にそれが正しいことなのかどうか」
「シュイ……」
シュイを悩ませていたのは、やることの困難さ以上に、それをやり遂げた後の影響だった。出来るか否かは別として、セーニアの上層部が総浚いされれば国は乱れ、諸外国の脅威に晒され、そして力無き者は悲惨な末路を辿ることになる。
それでも構わないと言う自分がいた。強国に牙を剥く以上、相手の犠牲など慮る余裕などない。その必要もない。やられたことをそのままやり返すだけの話だ。強い者が弱い者を潰すならまだしも、弱い者が牙を剥いて何が悪いのか。ただひたすらに、万感の憎しみを込めて相手の喉元に突き立ててやればいいのだと。
一方で、事情を知らぬ者に果たして罪があるかを己に問い続ける自分がいた。復讐に大勢の者を巻き込んで何が残るのか。より多くの憎しみが残るだけだ。世界を不幸で満たすことに何の意味があるのか。保護者だったミレイが語った三つの生。それに真っ向から反逆する道を選ぶのか。
シュイは細く長く息を吐き出した。わだかまった感情を少しでも外へ吐き出そうとするように。
「ニルファナさんは、俺の話を信じてくれました。そしたら彼女、俺に言ったんです。違う人生を歩んでみる気はないかって」
「それは、如何にも彼女らしいですね」
ずっと話に聞き入っていたリズは束の間アミナと顔を見合わせ、ようやく頬を緩めた。
「ランカーの彼女は資金力もありましたし、ほとぼりが冷めるまで人一人を保護するくらいは簡単なこと。そう諭された俺は、彼女の提案について前向きに考えました。考えようとしました。山奥でひっそりと畑を耕すのか、ほとぼりが冷めたのを見計らって以前の様に商隊に加わるのもいい。でも――」
「――無理だった、か」
シュイはアミナに力無くうなずいた。
「どうしても、忘れられなかった。穏やかな生活をしていると余計に思い出してしまう。逃亡生活を続けていたときよりもはっきりと、あの日の光景が浮かんでくるんです」
今でも鮮明に覚えている。セーニア兵に殺された皆の、無念だけを浮き彫りにしたような顔が。セーニア兵を殺した自分の、どす黒い血に汚れた手が。
「どうすれば気が晴れるのか。どうすれば先に進めるのか。いの一番にやりたい事を考えてみたんです。答はあっさりと出ました。あの悲劇を仕組んだ者たちを全て見つけ出し――」
シュイは二の句を継がなかったが、その場にいる二人には容易に想像がついた。彼が傭兵という道を選んだことからも察せられた。仕事はきついが、短時間で力をつけ、裏情報を探り出すにはこの上ない職業だ。陰謀を企てた者たちが寿命や病気で死ぬなど許せない。そうと言わんばかりの壮絶な気迫が感じられた。
アミナは、ニルファナもこの決意を聞いて自分と同様の印象を持ったのだとわかった。以前二人で話したとき、彼女はこう言ったのだ。シュイが無関係な者たちに害を及ぼすのであれば始末をつける、と。
シルフィールのランカーという立場である以上、ニルファナがシュイの復讐に直截的に力を貸すことはできない。知名度の高い彼女が動けばギルドの傭兵たちをも巻き込むことになるからだ。
けれどもセーニアに非があると知った以上、シュイの復讐を止める気も起きなかったのだろう。双方に譲歩した結果が、シュイをシルフィールに誘うという選択肢を提示させたのだ。
「奇しくも、俺もイヴァンさんと似たようなことを考えていたんです。俺には彼の行動を否定できないし、する資格もない。こんな場違いなところでお姫様と、アミナ様と話していられるような人間じゃあないんです。滾る憎しみに身を任せ、コンラッドのみならず数えきれないくらい人を殺めた。彼らの家族をどん底に叩き落とし、人生を狂わせてしまったんですから」
シュイは許されざる罪の告白を終え、自嘲気味に笑った。アミナはそれを見て、悲しそうに目を細めた。死に際に至った老年の男が、自分の人生を省みて浮かべるような寂しい笑みだった。
「それは、違う」
小さいが、鈴の音のようにはっきりした声だった。伝えようという意志が明確に感じられた。シュイの顔から笑みが消えた。
「決定的に、違う。仮にイヴァン・カストラがセーニアに対する復讐の布石としてフォルストロームを襲ったのだとしても、全く無関係な者に害を成したのは変えられぬ事実だ。しかしそなたは、フォルストロームを必死に守ろうとした。後先を考えず、私の元に駆けつけようとしてくれた。これほど嬉しかったことはない」
アミナは自分の胸元をそっと手で押さえた。今も尚秘められた熱を、ワンピース越しに確かめるかのように。
「そうですよ、エルクンド様。きっとハーベル様も、あなたの本質的な優しさを見抜いたからこそシルフィールに誘ったのではありませんか? と、私はそう思いますけれど」
リズも腰に手を当て、まるでシュイにそうしろと促すかのように胸を張った。
「……アミナ様、……リズさん」
アミナは高まった熱を入れ替えるかのように大きく息を吐き出した。
「たとえそなたが罪人であろうとも、私の命を救ってくれた事実に変わりはない。そして、そなたが戦ったことで救われた命が大勢あったことも信じてやまぬ。私は、そなたの選択を支持する。正道を歩もうと畜生道に落ちようと一向に構わぬ。この先何があろうと私は、私だけは、そなたの歩む道を肯定し続けよう」
唐突にシュイは瞬きが収まったのを感じた。顔の筋肉がどうにも上手く動かなかった。
「だからと言って、滅祈歌の使用を許したわけではないがな」
アミナはそう結び、シュイに悪戯っぽく微笑みかけた。
自分を見つめているアミナの一言一言が、自分の味方であろうとする彼女の強い意志が、心の深くへと沁みこんでいくのがわかった。荒れ果て、渇ききった土壌に潤いを与え、埋もれた感情がゆっくりと芽吹いていった。
シュイは、握られた手の甲に熱いものが滴ったのに気付き、半ば無意識に左手の窓の方へ顔を逸らした。頬を伝うのは、悲しみの涙ではなかった。滲んだ視界には部屋に差し込む陽光が、いつも以上に眩しく映っていた。