第十八章 ~(2)~(改)
上下逆さになったランベルトとアミナを見止めたシュイが、目を大きく見開いた。
『な、何でのこのこやってきた! 怪我人は大人しく――』
「――馬鹿者が!」
ランベルトの怒声が轟き、シュイの言葉を丸呑みにした。その存在に気付いていたにも関わらず、不意打ちで脅かされたように全身が震えた。一方で、シュイを動けぬよう固定しているイヴァンは特に動じた様子もなく、肌に突き刺す威圧感を楽しんでいる風だった。
『ばっ、誰が馬鹿だと』
「ぬし以外に誰がおるか! 私とて後足で泥を掛けていくような不届き者を好き好んで追うものか! なのに、アミナ様はぬしの非礼を気にするよりもその身が心配だからと、御身の手当てを後回しにしてまで追うように頼まれたのだ!」
『……な、ん』
「仮にも準ランカーの傭兵が深手を負ったまま戦地に向かうリスクを承知していないわけがない。自分が死ぬ危険とて少なからずあるというのに、ぬしの身の安全を優先したのだ! その心すら無碍にすると言うのならば、たとえアミナ様が許そうとも私が許さん!」
「……シュイ」
痛みを堪えながらも自分の名を呼ぶアミナの声に、シュイは腑が震えるのを感じた。気の強さを彷彿とさせるその紅い目は、憂いに満ちていた。先ほどまで頭を埋め尽くしていた怒りが一斉に別の感情に侵食されていくのがわかった。
魔法陣の光が急激に薄れていくのを見て、シュイが戦意を失ったことを悟ったのだろう。イヴァンはシュイの服から手を放し、数歩後ずさった。
「ランベルト・タルッフィ。それに――おまえがアミナ・フォルストロームか。随分と豪華なメンバーだな」
「――イヴァン・カストラか!」
ランベルトが、次いでそれを耳にしたアミナが瞠目した。ランベルトの反応はモルゾウ・クウガの時よりも明らかに大きなものだった。
『な、何で二人が、イヴァンさんを知っているんだ』
「何で、って、当り前であろう!」
そう返すアミナに、シュイの顔には疑問しか浮かばなかった。
「本当に知らぬ、か。そやつは特級指定犯罪者だ。一年半前にエスニールの反乱に加わり、当時のセーニア騎士団総隊長コンラッド・ディアーダを殺害した罪で追われている。もっとも、他にも要人暗殺の余罪は腐るほどあるがな。八億もの賞金を掛けられている神出鬼没の殺し屋だ」
『な、コンラッド……?』
思いがけぬ名前を聞き、シュイが愕然とした。アミナの言葉の意味を計りかねていた。
「むしろこちらが訊きたい。そのことを知らずしてそやつを知っているそなたは……一体何者なのだ」
アミナから発された問いに答えることなく、シュイは自由が効かぬ身体を何とか上半身だけ起こし、イヴァンの方を向く。
『い、今の話は本当なのか』
イヴァンは無造作に腕を組みながら目を瞑った。
「それは、どちらの意味で訊いている?」
「……どういうことだ」
ランベルトが訝しげにイヴァンを見た。
「実際にその罪状で追われているのは事実だ。賞金が掛けられていることも。しかし――」
イヴァンは目を開け、再びシュイを見た。
「ディアーダ卿を殺した者が誰か、それは彼が一番よく知っているはずだ」
顎で示されたシュイが苦しげに呻いた。アミナとランベルトの視線が揃ってシュイに集中する。
「何故シュイが知っていると? ぬしら、やはり旧知の間柄なのか?」
唸る様にそう言うランベルトに、イヴァンは肩を竦めた。
「俺が答える義理はない。そんなに知りたいなら彼に教えを請う――」
「――がっ」
「ん、どうし――むっ」
「ぐっがっ、がああああああっぁぁぁぁぁぁぁッッッ!!!」
明滅していた魔法陣が消失した途端、シュイが野生の肉食獣のように咆哮した。そう勘違いさせるほどの絶叫だった。見えない手で首を絞められているかのように喉元に五指を突き立て、冬の海に落ちた後のように身をがくがくと震わせていた。
「お、おい! シュイ! シュイッ!」
アミナの発した声が色を失っていた。乗り出して危うく腕から落ちかけたところをランベルトが何とか防いだ。その間にもシュイの全身から脂汗が吹き出ていた。体中の水分が全て抜け切ってしまうのではと心配になるほどの量が。
身体の内側から、棘に覆われた虫がそこかしこから突き破って出てくるような痛み。魔法が自動解除されたことによってエグセイユとの戦いで負った傷の痛みがぶり返し、また、滅祈歌によって強化された身体を酷使した反動が起こっていた。
腹筋が呼吸もままならぬほどに痙攣し、イヴァンとの戦いでいつの間にか骨折した手が意識を蹴り飛ばす。閉じた瞼の裏側に赤とも黒とも付かぬ光がチラついている。耳鳴りが酷く、近くで掛けられているはずのアミナの呼び声すら聞こえなくなる。
これは、罰だ。痛みに苛まれながらもシュイはそのような思いに囚われた。あれほどニルファナに固く禁じられていた滅祈歌を怒りに駆られて使ってしまった。己の怒りに共鳴した想念に取り込まれ、挙句の果てには守りたかったはずのアミナにあんな悲しそうな顔をさせた。他ならぬ自分が。
激しく身悶えしているシュイにイヴァンが歩み寄ろうとする素振りを見せたが、思い直したのか踏み止まった。ゆっくりと背を向け、わずかに目を伏せた。
「……助けたくば一刻も早く手当てしてやることだな。このまま放置しておけば、確実に死に至る」
「――何?」
その台詞を聞き、ランベルトが呆気に取られた。腕に抱えられているアミナは苦しみ喘ぐシュイを見てそれどころではなさそうだった。
「どういうつもりだ。ぬしら、今の今まで戦っていたのであろう」
「くだらぬ擦れ違いは誰にでもあるものだ。それに、彼にはどうにも返し切れない大恩がある」
「恩、だと。それは一体」
「プライベートに立ち入られる筋合いはない」
ランベルトの疑問を切って捨て、イヴァンが足を踏み出した。
「ま、待て! 特級犯罪者をそう簡単に逃がすわけにはいかん」
背中越しに放たれたランベルトの声に、立ち止まったイヴァンは振り向くことなく言葉を返す。
「ほぅ、彼を見捨てて戦うか。まぁそれならそれでいいだろう。もしそうなった場合は、姫の命も保証できないが」
「……ぐっ」
イヴァンの指摘は的を射たものだった。ランベルトが先ほどのシュイから感じた力は相当なものだったが、そのシュイが横たわり、あまつさえ死にかけている以上、イヴァンがそれを凌いだのは間違いない。この場で二人が全力で戦えば、衰弱している二人の命は風前の灯火だ。
「もうよい、ランベルト。シュイがひどく苦しんでいる。このままでは本当に……」
「し、しかし奴を見逃せば――」
視線を落としたランベルトはアミナの目が真っ赤に充血しているのを見て、口を噤んだ。
「――頼む。あやつはきっと、私を助けようとしてこうなってしまったのだ。そなたが彼の非礼に反感を抱いているなら、むしろ私の不甲斐なさにこそ責がある。頼む、頼む……から」
縋るような言葉にランベルトは弱ったように瞑目した。イヴァンは肩越しにアミナを見た。苦しむシュイを見て、まるで己がその痛みに耐えているかのように顔を顰めていた。
「王族らしからぬ言葉だな。強い責任感が成せる業か、それとも――」
「――な、何だ」
語尾を濁したイヴァンに、アミナが潤んだ目を擦りながら訊ねた。
「いや、栓なきことか。久し振りに彼と話したせいか、どうもいつもの調子ではないな」
イヴァンは独りごとのように呟いた。
「ぬしらの目的は何だ。何故フォルストロームを襲ったのだ」
最早追撃を諦めたランベルトの問いに、イヴァンは歩みを止めずに肩をすくめた。
「それに答えたら達した目的が水泡に帰す。心配しなくても、いずれまた会うことになる。そのときを待つがいい」
その言葉を最後にして、イヴァンの姿が音もなく、夜の闇に溶け込んだ。
――――――
雨は上がっていた。木の葉に付着した雫が先から零れ落ち、しきりに水溜りを叩いて高音を鳴らしている。
イヴァンが森の中を歩いていると、前方の木の影からもう一つ木の影が浮かび上がった。それくらいの太さがあった。
「話は終わったみたいだな。アンタにしては少々口数が多かったが」
暗闇から現れたのは熊のような巨体。
「やはり見ていたか」
「途中からな」
「それで、そちらの首尾はどうだ」
「へっへっへ、この身体を見ればわかるだろうが」
そう言って胸を張るリックハルドの全身は無数の刀傷と痣で覆われていた。イヴァンはそれを確認し、小さく溜息を付いた。
「案の定、無理だったか。予想していたとはいえ、一朝一夕にはいかんものだな」
「何でわかる?」
「馬鹿でも分かることだ。キーア・フォルストロームが刀を使うなどと聞いたこともない。そして、彼の御仁がおまえに傷を負わせずに負けることも考えられん。ならば解も絞られるだろう」
タネがわかるとリックハルドはつまらなそうにあさっての方角に唾を吐いた。
「そんな単純なことかよ。まぁ、一応ご尊顔は見れたんだが、思わぬ邪魔が入ってな」
「近衛たちがついていたか。流石に抜かりないな」
「いんや、兵たちをはべらせていたわけじゃねえ。俺を止めたのは一人だ。正直に言って王に手を出す余裕はなかったな」
聞き捨てならぬ台詞にイヴァンが柳眉を持ち上げた。
「おまえを一対一で止めた、だと」
「全く、世の中には未知の化け物がいるもんだ。あんなひらひらした格好でどうして目にも止まらぬ速度が出せるのか、理解に苦しむぜ。まるでおまえを相手にして戦っているみたいだった。おーいてぇ」
リックハルドは傷口が滲みるのか、腕にふぅふぅと息を吹きかけた。
「やはり、国を崩すとなると一筋縄ではいかない、か」
「ま、いい予行演習にはなったんじゃないか。成果は上々だし次が本番だろ。腕がなるぜ」
リックハルドの剛毅な言葉に、イヴァンはえも言われぬ頼もしさを感じた。
「ところであいつ、どういった関係だ?」
リックハルドの問いに、イヴァンはシュイのことを指しているのだと察した。
「同郷の馴染みだ。異国の地で、しかも敵味方に分かれて再会するとはな。何とも運命の皮肉を感じる」
少し考えた末にイヴァンはそう答えた。友と言う言葉を使おうかとも思ったが、齢の差を考えれば滑稽に思われるかも知れなかった。
「へぇ、強いのか?」
「おまえは、何かと言うとまずそれだな。――実際に先ほど戦った。一瞬ひやりとさせられたな」
「おぉ、いいねぇ。今度是非手合わせ願いたい」
歯を見せて破顔したリックハルドにイヴァンは鼻白む。
「あいつと戦う機会はないぞ。次はルクスプテロンだ」
「言ってみただけだって。そんなに肩肘張ってて疲れねえか?」
如何にも皮肉っぽい問い掛けであったが、イヴァンは表情を変えずに答える。
「これが地だ」
「かぁ、羨ましいねえ」
「ちっとも羨ましそうに見えないのは気のせいか」
「そう見えるならそれが俺の人徳ってもんだな。はっはっは」
豪快に笑うリックハルドに、イヴァンは前髪の辺りを掻いた。付き合い切れないと言いたげだった。
「さて、早めに皆と合流するぞ。明日も早い」
リックハルドは伸びている顎鬚を弄びながら鼻を二回啜る。
「やれやれ、ついにこの国ともお別れか。この気候に慣れちまうと雪国はちょっときついぜ」
「年がら年中半裸でいれば誰だってそうだろう。向こうについたら特注で体に合う服を作ってもらえ、それくらいの金なら出してやる」