第十八章 ~イヴァン・カストラ(1)~(改)
イヴァンと視線を重ね合わせたシュイは、彼が自分の知る青年とは別人なのではないかと疑った。かつてのイヴァンには、寡黙のみならず、どこかほっとするような陽だまりの暖かさがあった。なのに、目の前にいる男はどうだろうか。その佇まいはあまりに冷然としていて、視線を向けられただけで凍土に誘われたような心地がする。
だが、左目の外側に縦に走る刀傷は、紛れもなく以前の彼にもあった傷痕だ。頬は少しこけているがその顔にも間違いなく見覚えがあった。
「その呼び方からすると、俺のことを知っているようだな。どう見ても軍の者ではなさそうだが」
よく通るその低い声を聞いて不意に懐かしさが押し寄せてきたが、同じくらいやるせなさも募った。
『……どういうことだ。なんであなたが、よりにもよってこんなところに』
易々と答えてくれるとは思っていなかったが、それでも訊ねずにはいられなかった。
「生憎と、素性も判らぬ者に喋る口は持っていない」
眉一つ動かさずそう返したイヴァンに、唇を噛んだ。背後にいるゾランと似た黒衣を着ているのを見咎め、認めたくはない可能性に行き当たる。ゾランとお互いに名前を呼び合ったということは、イヴァンはやつらの一味なのだ。フォルストロームの人々に再三魔物を嗾け、アミナを甚振って殺そうとした連中の。
戦う動機を思い出したシュイは、心が熱されていくのを感じた。たとえ相手が知己であろうと加害者の側に回るのならば、一切容赦するつもりはなかった。
『答えろ、あんたらの狙いは何だ。返答次第によっては』
「殺すか?」
鋭く睨むシュイにイヴァンが表情を一切変えずに応じる。
『……必要があれば、そうすることになるかもな』
「それは、おまえには無理だな。だから答える必要もない」
最後まで聞き終わらぬうちにシュイが前進、すかさずイヴァンも反応。互いが渦に引き寄せられるかのように徒手の間合いに侵入。ほとんど同時に拳が振るわれ、闇の中に大きな波紋を生じさせる。
上半身だけをやっと起こしたゾランが、イヴァンの援護をしようと折れていない方の手をポケットに突っ込んだ。が、魔石を握り締めたところで、そのまま凍ってしまったように動かなくなった。二人の動きがあまりに迅過ぎて目に追えず、手の出しようがなかったのだ。
闇を二つの影が縦横無尽に行き来していた。二回、三回と拳を交わすも決定打には至らない。驚異的な反射神経と瞬発力が克ち合い、先に鳴った衝撃音の余韻が消えぬ間に次の衝撃音が奏でられる。その様はさながらティンパニの独奏曲だった。一際余韻を響かせる大きな音が鳴ったかと思えば、数回に渡って連続した音が続く。二人の呼吸に合わせて次々と音が連ねられていく。
埒の明かぬ攻防に一度距離を取ったシュイが、体を低く維持したまま突っ込んだ。イヴァンの放つ蹴りの軌道を読み切り、横に回り込むような動きで回避。無防備な脇腹目掛けて左拳を振り抜いた。が、こちらの拳の軌道を見切られたのか、手の甲が逆手で外側に押しやられる。腕を畳むようにしてイヴァンが側頭部目がけて肘打ちを叩き込んでくる。頭を下げて躱した刹那、目の前にあるイヴァンの膝が揺らいだ。
両足が地面から離れた。そう思ったときには背に風圧を、交差させた腕に強い痺れを感じていた。体重が軽いとはいえ、両腕での防御ごと宙に蹴り飛ばすとは驚異的な脚力だった。しかし、痛覚は滅祈歌のおかげでほとんど麻痺している。
と、地上にいるイヴァンが跳躍した。止めを刺さんと一気に距離を詰めてきているのがわかる。
飛ばされた方角にあった木の梢に背と後頭部を何度となく叩かれながらも、シュイは左手を後方へ向けた。
『<吹き荒ぶ風>!』
詠唱とともに強化された突風が手の平から勢いよく噴射され、シュイの身体が真逆へと方向転換。イヴァンの目が見開かれたが、すかさず思い直したのか拳を構える。遅れずシュイもイヴァンに向けて蹴りを繰り出す。
『らぁ!』
「ふっ!」
上空と地上から描かれた二つの斜線が苛烈に衝突し、お互いの身体が弾かれるように真逆の方向へと離れる。一際強烈な重低音が轟き、周囲に伝播した衝撃波が木の幹と葉を震わせ、枯葉を散らしていく。
地上へと飛ばされたイヴァンが頭から墜落する寸前、素早く身を翻した。きりもむように一回転してものの見事に両足で着地。踏み込んだ靴の踵がぬかるんだ地面に二本の短い線を引く。
対するシュイも間近にあった高木の枝に腕を伸ばした。逆手でそれを持ち、飛ばされた勢いを利用してくるりと上に向かって回転する。間を置かずに、下にある足場になりそうな枝を見遣り、二回、三回、と飛び降り、地上へ舞い戻った。
降り立ったところで気づいた。赤黒い色になっていた魔法陣が激しく明滅していた。<滅祈歌>で掻き集めた魔力が長時間展開し続けたことによっていよいよ底を尽きかけていた。
――時間切れ、か。あと二発がいいところだな。
どうするかを考える間もなく、遠目にイヴァンが互いの距離を詰めんと速やかに疾走してくるのが映った。シュイが舌打ちをした。体重を乗せた渾身の蹴りを拳で受けたにも関わらず、全く堪えた様子が見受けられなかった。相当に鍛えられているのはわかっていたが、それにしたって呆れるほどの頑丈さだ。先ほどの二人とは強さの次元が違う。
しかしながら、唯一の決め手と成りそうな<怒れる霆の過流>を詠唱するには魔力を使い過ぎている。足早に近づいてきていることから策を練る暇も与えない気だろう。
束の間地面に視線を落とし、腹を決めてイヴァンに手をかざした。思い付いた一手に全てを懸けるべく。
相手が30メード圏内に到達したところで、シュイが<吹き荒ぶ風>を放った。手の平から生じた突風は、イヴァンに向かわなかった。発動の直前に手の向きが変えられ、斜め下の泥の川へと殺到した。
強化された風圧がぬかるんだ地面を一気に抉り、溜まっていた雨水が除かれて地面が露になった。風圧で前方に押し遣られた泥水が落ちていた小枝などと共に高々と舞い上がった。シュイとイヴァンとの間が暗幕で隔てられた。視界が完全に遮断された。
突然現れた汚泥の高波に、しかしイヴァンは動じる様子もなく、真っ向から向かっていった。
「<風精の加護を以て>」
着ている黒衣に風の付与魔法を行使し、イヴァンが泥の波に体当たりした。長身を纏う風が泥や小石を左右に掻き分けながら等身大の穴を穿ってゆく。
けれども、それを潜り抜けた先にシュイの姿はなかった。
視界が遮られたわずかな時間を利用し、側面にあった木の裏に身を伏せていたシュイがイヴァンの後方へと回り込んだ。相手の視線がこちらに向いていないことを高速で切り替わる視界の中で確認。間髪入れず<ライトニング・ボルト>を発動。死角からの不可避の一撃で動きを止めたところで追撃を食らわせる。そのはずだった。
思いも寄らぬことが起きた。強化された電撃が背に直撃する寸前で、イヴァンが跳躍した。真上ではなく正確にシュイの方角へと、明らかに狙って飛んでいた。
宙で身体を捻り、自分の方に向き直ったイヴァンを見て、反射的に両手を前に出して防御しようとした。だが、イヴァンは蹴りを入れるでも拳を振るうでもなく、ただ防御するその手を掴んだ。
予想外の事態にシュイが瞠目した瞬間――視界が斜めに傾いだ。
『――がっ』
一瞬にして、度の強過ぎる老眼鏡を掛けさせられたようになった。痛みはなかったがあらゆるものが歪み、距離感が全く感じられなくなった。足が勝手にたどたどしい歩を踏み、そのまま仰向けに倒れた。
数秒して、空の方を向く歪んだ視界に黒い影が現れた。イヴァンが自分を見下ろしているのだとわかった。
シュイが歯を食い縛りながらも、何とか手足に力を込めようとする。が、体が言うことを聞かない。
「無駄だ。如何に痛みがなくとも、脳を揺らされては立ち上がることなど叶わん」
シュイが目を見開いた。戦闘中、攻撃を受けても平然としていることを不審に思ったのだろう。こちらが痛覚を遮断していることを察し、顎に狙いを定めたのだ。おそらくは長い腕を被せるようにし、死角を作った真横から掌底打を放った。
脳が揺れれば脳震盪を起こし、体への命令は滞ってしまう。身を起こすこともできない状況がそれを物語っていた。
だが――
『く、……そん、な。何で……あの状況で、位置が正確に……』
たどたどしくも紡がれる質問に、イヴァンは少し表情を緩めた。何がそんなに可笑しいのか。シュイは憎々しげに唇を噛んだ。
「それはお前が、最後の最後で詰めを誤ったからだ」
『……何、だと』
全く訳がわからないといった様子のシュイを見て、イヴァンは鼻梁を撫でながら言葉を続けた。
「察するに、夜戦の経験がほとんどないようだな。骨折って作った折角のチャンスを、自らの行動で台無しにしてしまったのだから」
シュイは茫々としている頭で、それでも投げ掛けられた言葉の意味を必死に考えようとした。
『そういう……ことか』
数秒して、シュイは夜戦という言葉から己の失態を理解した。
イヴァンが指摘したのは、不意打ちに電撃魔法を選択したことだった。風の膜に覆われていたイヴァンに対し、シュイは炎や水、あるいは風の魔法では効果が薄まると判断し、風膜を貫く電撃魔法を行使した。だがしかし――
「そう、昼間ならばさほど問題はなかったはず。けれども、この宵闇の状況下において雷から放たれる光は目立ち過ぎるのだ。無論、火の魔法も同様だが。視界内に収まっていた木の幹や葉に、淡いながらも反射光が垣間見えた。照らされた範囲と角度でお前のいるおよその居場所がわかったというわけだ。大抵の者ならばそれでも反撃するまでには及ばなかっただろうが、残念だったな」
『……完敗、か』
口が勝手にそう呟いていた。多分に悔しくとも認めざるを得なかった。あまりに戦闘経験の差があった。たとえ自分の体が万全の状態であっても、彼には到底勝てなかった。それがはっきりわかるほどの実力差があった。
イヴァンが緩めた表情を再び引き締めた。
「久々に血が滾った。楽しませてくれた礼だ、せめて苦しまぬように送ってやる。だが、その前に」
イヴァンがシュイの顔の横に一歩を踏み出した。
『何、だよ』
「そうだな、顔くらいは見せてもらおうか」
そう言い、イヴァンはシュイのフードに手を伸ばした。視界が黒で覆われ、思わずシュイが身体を硬直させたが、構うことなくフードを掴み取って上にずらした。
そのまま彼も硬直した。
まさか。ややあって放たれた呟きからは、初めて感情の揺らぎが読み取れた。
『もう、どうでもいいや、とっとと殺してくれ。幻滅した、アンタまでこんな、くだらない真似するなんて』
シュイは言葉にして、一年半前の出来事を思い出し、胸を掻き毟りたい思いに駆られた。あらゆるものが信じられなくなった日。世界への関わり方もわからなくなった日のことを。
「やはり、生きていたんだな」
イヴァンは意外そうに、そしてどこか懐かしそうにシュイの顔に見入った。
『生きてて悪かったな。どっちだっていいだろ、今から殺すんだから』
「まぁそれはそれとして、奇遇、と言う言葉で片づけるのもなんだな。何故こんなところにいる? その妙な技は、誰かに教わったのか?」
シュイの歯がぎちっと音を立てた。
『相変わらずのマイペースだな! 大体、人の質問に答えないでそれはないだろ!』
あまりの剣幕に、しかしイヴァンはわずかに笑みを誘われたようだった。
「やれやれ、そっちこそせっかちな所は変わっていないじゃないか。顔を隠していたくせに――」
「――貴様、シュイから離れろ!」
唐突に張りのある声が響いた。イヴァンが、次いで倒れているシュイが声の方に振り向いた。二人から少し離れた場所にはランベルトと、彼に抱きかかえられたアミナの姿があった。