第十七章 ~(3)(改)~
雨の勢いは弱まりつつあった。西の空から雲が少しずつ取り払われていく。
テクラとゾランは時折後ろを振り返りながら、暗い森の中をひた走っていた。葉に落ちる霧雨の音は、まるで森そのものがざわめいているようだった。
軽やかなその音に水を踏む音が響く。それ以外に異音が、追跡者の足音が混じっていないか、後方へ耳を傾ける。
テクラは楽しみを邪魔した黒衣の男の姿を思い浮かべた。普段なら怒りが先行するはずだったが、願わくば二度と出会いたくないという気持ちの方がずっと強かった。
深手を負っているアミナを抱えている以上、すぐに追撃をかけてくるとも思えなかったが、先ほどの照明魔法に引き寄せられた者は多いはずだ。解き放った魔物もそろそろ殲滅される頃合。敵に見つかれば矢継ぎ早に魔石で仲間を呼ばれ、その数がネズミ算式に増えていくことだろう。
先ほど男が駆使した雷を思い浮かべ、テクラは小さく身震いした。自分の首に賞金が掛かって早十数年。今までにも何度となく追手を相手にし、時に返り討ちにした。しかしながら、あの男の強さはその中でも五指に食い込む難敵だ。広範囲魔法の威力もさることながら、あの俊敏な動きに対応出来る者はそういない。率先してあれと戦おうとは思わない。勝てるかも怪しい相手に勝負を挑むのは自己愛主義に反しているからだ。
「さすがに相手が悪い、早く他の仲間と合流しないとねぇ」
テクラが走りながら言った。
「そうですね。先ほど敵が使った<照明魔法>に気付いた仲間もいる筈です。あとは、どうにか誤魔化せればいいんですが」
誤魔化さなければならないのは、言うまでもなく持ち場を離れてアミナを追っていたことだ。そのためには、何故こんな森の奥にいたのかというもっともらしい理由を創作せねばならなかった。
犯罪者に準じる者たちであるが故に、正義感から罰しようとするような者はいないだろう。が、自分たちが役割を果たしている最中に遊びに興じていたことを許すほど寛大な連中でもない。
「大軍と遭遇したから周りが仕事に集中出来るよう注意を引き付けていた、で良いんじゃないかい? 実際、あの小娘が指揮していた兵の数は相当いたんだし」
ゾランが視線を前方に固定をしたまま深刻な顔を作る。
「それは、一時的にはそれでも良いかも知れませんが」
「もしバレたとしても相手から単独で仕掛けてきたことにすれば良いさ。獣姫が敵から逃げ回っていたなんて情報が広まる事はないだろうし。仮にもフォルストロームの偶像なんだしさ。王侯貴族ってのは意外と体面を気にするものだから」
「なるほど、妙に説得力がありますね。って、そういえばあなたも元貴族でしたか」
「元は余計だよ。心の中は今でも貴族さ」
儚げな表情を作るテクラに、ゾランは何とか吹き出すのを堪えた。
木々の間隔が大分広がっていた。森の出口は間もなくのようだ。二人が安堵の息を付きかけ、次いで自分たちに近づいてくる音を聞き取った。二人が肩越しに後ろを見た。
「……やはり、そう簡単には逃がしてくれないようですねぇ」
動揺を抑えようとするかのように、ゾランは己の胸に手を当てた。黒ずくめの男が背後から徐々に差を詰めてきていた。視界の悪い中で、躊躇が一切見えぬ足運びだった。走ることにより生じた風が、すり切れた黒衣を靡かせている。
「ちっ、しつこい男は嫌われるってのに! ……ん?」
テクラの眉間に皺が寄った。妙なことに、先ほど抱えられていたアミナの姿が確認できなかった。どこかに置いてきたのか、それとも誰かに受け渡したのだろうか。
シュイが顔を上げ、舌なめずりをした。どうやって料理してやろうかというように。その攻撃意識を明敏に悟ったテクラが、左手のみを逆手にし、前を向いたまま風魔法を放った。その勢いでテクラの身体がやや前に押し出され、反して後方には突風が向かっていった。
一瞬、シュイの姿が横に傾いだ気がした。目蓋にかかった雨を除けようと瞬きした時には、どこにも姿が見当たらなかった。
風が木に衝突する音から遅れること数秒、テクラとゾランは左側面から発される音に気づいた。ザッザと、濡れ落ち葉と小枝を踏みしめる音が継続的に鳴っているのがわかった。立ち並ぶ黒い柱のような幹を盾にして、宵闇よりも濃い影だけが俊敏に動くその様は、自分たちが追われている獲物であることを否応にも彷彿とさせた。
影があっさりと横並びになったのを見て、テクラとゾランが息を呑んだ。影はそのまま、二人の足運びと自分のそれを合わせてきた。走りながらも、自分の優位を見せつけるように。
焦燥に駆られたゾランが魔石を取り出し木々の隙間を狙って投げた。が、魔石はカーブを描き、シュイの後方でむなしく爆発した。敵の姿は視界にこそ固定されていたが、その実高速で動いているのだ。相手の未来位置を予測して投げなければ当たるはずもなかった。
「落ち付きなゾラン! いつもの冷静さはどうしたんだい!」
そういうテクラの声からも、先ほどアミナを嬲っていた時の余裕は消えている。そして、彼女を放置してまで追ってきた以上、向こうに自分たちを逃がす気がないことは明白だった。
『……ふん、悪足掻きは終わりか?』
嘲るようにそう言ったシュイが無造作に袖を捲り、白い右手を覗かせた。人差し指と中指を密着させ、その手を胸の前に畳んだ。
間断なく、顔を叩いていた雨が止んだことに気づいた。シュイの指先で、雨水が糸を巻くように集約していくのを見て、テクラの顔から血の気が引いた。
『<水禍で杯を満たせ>』
水の糸を紡いだ手が、薙ぎ払う様に内から外へと振るわれた。シュイの進行方向から左へと、水流で象られた白い曲線が巨大な鞭のように撓り、木々を次々に薙ぎ倒しながらテクラとゾランに迫った。
だからこそ、軌道は明確に読み取れた。テクラとゾランが目前に迫るそれを、すぐ手前の木々が倒れるタイミングで大きく跳躍。高圧水流が二人の真下を通り過ぎた。
飛び越えた水の鞭は、しかし後方に至るまで猛威を振るった。辺りにあった大部分の木々がめきめきと音を立て、あちらこちらで倒れ始めている。
着地し、自分たちに向かって倒れてきた木々を横目で見遣り、ゾランが避けようと足を踏み出した。刹那、黒い何かが目に過った。
「うごっ!?」
息が詰まったような声が漏れた。シュイの脚が振るわれるや否や、ゾランの視界が上下逆さまになった。あまりの衝撃に両足が宙に浮き上がり、弾かれた顔が下を向いていた。
『余所見してるとは随分余裕じゃないか、――よっ!』
間を置かずにシュイが無防備な背中に掌底を突き出した。太鼓を叩くような音が響き、逆さまになったゾランの、食い縛った歯の隙間から、血の入り混じった唾液が飛び散った。
ゾランの頭が抜かるんだ地面に到達し、体が三度に亘ってバウンドし、そのままつんのめってうつ伏せの状態になった。一瞬顔が後方へと向きかけたが、そこで失速して地面に突っ伏した。遅れて、先程ゾランが避けようとした木が、シュイの背中に倒れてきた。
シュイはそれを手の甲で受け止め、難なく押し遣った。倒れてきた木が根を支点にして今度は逆向きに弧を描き、地面に横たわった。
一瞬にして森の中に出来上がった扇状地帯と、びくびくと痙攣しているゾランを見比べ、テクラは発するべき言葉を失った。ゾランの実力は、準ランカーに及ぶとは言わずとも、上級傭兵に劣らぬものではあったはずだ。
その彼が、沈黙した。たった二発で。
震える太腿を抓ることで、テクラが無理やり体の感覚を取り戻した。そして、何も言わずに森の出口を目指して逃げ出した。
シュイはその様子を冷やかに見ていたが、追うことはしなかった。押し飛ばしたゾランの方に向き直り、ゆっくりと歩き出した。
黒く淀んだ水溜りがぼこぼこと、湯が沸騰したかのように泡立っていた。シュイは突っ伏しているゾランの髪を遠慮なしに左手で掴み上げた。
「が……ひっ……はぁっ!」
口と鼻を塞いでいた泥水から解放され、ゾランはひゃっくりでもするように荒く息をした。持ち上げられている白髪の入り混じった髪の毛が頭皮を引っ張り上げた。
『ははは、そんなに森の空気は美味いか? 可哀想に、仲間に見捨てられちゃったなぁ、あんた』
シュイが意図的に声を潜めた。己の声にじっとりとした恐怖を含ませるように。魔法陣の輝きは紅への変化に移行しつつあった。
「は、はなし……なさい」
痛みに呻きながらも呼気を回復しつつあったゾランが、喉から懸命に声を絞り出した。
『はっ、頼まれなくたってこんな脂ぎった髪の毛、いつまでも掴んでるはずがないだろう。それより聞かせてくれよ。今の気持ちを』
鼻で笑うシュイをゾランは憎々しげに睨みながら、それでも頭の中で必死に生き延びるための方策を思案していた。商人である以上、客の顔を立ててプライドを捨てねばならぬことは往々にしてある。もっとも、それを最後にしたのは遥か昔のことだった。
「そこまで執拗に追って、何が目的です。私の賞金ですか。見逃してくれるなら、それくらいの金なら――」
『へぇ? アンタ賞金がかかっているんだ?』
ゾランはその意外そうな口調に目を見開いた。賞金が目当てでないのならば、何故ここまで執拗に追ってきたのか。アミナを甚振った報復のつもりだろうか。だが、それほど彼女のことを大切に思っているならば手当ても済ませず放置したままここに来るわけがない。急ぎ、その足で手当てに向かうはずだ。
そもそも、シュイがアミナの窮地に駆けつけたのは彼女を助けるのが第一の目的だったはず。だが、彼は彼女を放置してここにいる。この矛盾はどこからくるのか。
ゾランは、まさかシュイの精神状態が駆けつけたときからずっと、今に至るまで変質しているなどとは想像もしなかった。故に判断しかねていた。相手の目的が何なのかを。
ゾランの迷いを、目まぐるしく動いている眼球から察したのか、シュイは相手の反応を確かめるように、淡々と言葉を紡いだ。
『明確な目的? そんな物あるはずがないだろう。ただ、自分が強いと勘違いして世の中を舐めきった野郎が、いざ自分の目の前に死を突き付けられたとき、どんな反応をするのか知りたくなっただけさ』
何とも明解な回答だった。その言葉が、シュイが所謂こちら側の人間ではないかというくだらない考えをゾランに抱かせた。
『なぁおい、教えてくれよ、何が愉しくてあんな真似をしたのか。相手を好きなようにいたぶるのって、そんなにも愉しいことなのか?』
シュイの眼光がフードの奥で怪しく光った。己への害意を明敏に感じ取ったゾランが両手を同時に、自分の着る服のサイドポケットに突っ込もうとした。だが、左手はあっさりと内から外に弾かれ、返した手で右手首を掴まれた。目に追えぬ手の速さにゾランが生唾を呑んだ。その途端――
「――うぐぁっ!」
シュイが右手の指に力を込め、ゾランの手首を握り潰した。すぐさまその手を離し、激痛に仰け反ったゾランの両肩を両手で押し出し、地面に突き倒した。
後頭部をぬかるんだ地面に埋もれさせたゾランは赤黒い手形が付いた手首を無事だった手で押さえながら痛みに喘いでいる。シュイはその様子を見ながらどこかつまらなそうに溜息を吐いた。
『なぁ、愉しいか?』
再びゾランに訊ねたはずの言葉が、今度は自分に反ってきた。相手を屈服させ、見下し、優越感を感じ。その後に残るものはあるのか。
別に残らなくたっていい。淡々と作業をするだけだ。そんな声が頭の中に響いた。
ゾランが泥だらけの上半身だけを起こした。シュイがゆっくりと右手を翳すのが見えた。
「……ぐっ、本当にここまでの、ようですね。やはり火遊びに手を出す物ではない。ひり付くような危険に魅力を感じてしまうのは、性でしょうか」
ゾランは努めて達観したように言葉を紡いだ。遺言となるだろう言葉を
「目にかけた凶器が狂気を纏い、戦場で何より美しく映える様を。命同士がぶつかり合う、儚くも燦然とした輝きを、もう一度でいい、見たかったですねぇ」
そうと締め括った後、ゆっくりと目を瞑った。
たとえようのない倦怠感に包まれていたシュイが、ようやく己を取り巻く魔法陣の変化を見止めた。既に深紅を通り越して、静脈血の色よりも濃くなっていた。この色が闇にまで落ちた時、自我は消え失せる。薄れかけていた自我がそうと告げた。
流入した想念の塊が、それでも良いじゃないかと呟いた。そうすれば少なくとも、これ以上苦しむことはなくなるのだと。自責の念に駆られ、眠れぬ夜を過ごすこともない。夢を見ないくらいの深い眠りを得られるのだと、甘言を囁きながら手招きした。
薄れかけたシュイの自我は、ちゃんと己が目的を果たしてくれるのかを想念に問うた。答は返って来なかった。彼らは純粋な力故に嘘を付くことを知らない。だから、その問いにも答えられないのだ。
――何で僕は、こいつと戦っていたんだ。
知らぬ間に、戦う動機そのものを見失っていた。シュイはゾランと、ゾランに向けた手を見ながら瞬きを繰り返した。
いつまで経っても止めが刺されないのを疑問に思ったのか、ゾランが薄らと目を開け、一挙に見開いた。視界の中には黒ずくめの男が二人映っていた。その表情の変化を悟り、シュイが素早く後ろを向いた。
斜め後方に、背の高い黒ずくめの男が、両腕を組んで悠然と立っていた。
突如現れた新手に、シュイが警戒心を研ぎ澄ました。効力が増し、殺気を余すことなく捉える感知魔法をもってしても、接近に気づくことができなかった。男からは敵意どころか、意と呼ぶべきものが一切感じられなかった。
「随分と、手酷く痛めつけられたものだな、ゾラン」
「イ、イヴァンッ!」
ゾランが驚愕を含んだ声を発した。そして、その言葉はシュイにも別の驚きを与えた。
聞き覚えのある名前。しかしどこにでもある類の名前ではない。男の顔をまじまじと見て、やはり見覚えがあることを確信した。静けさと精悍さを内包した締まった顔立ち。切れ長の漆黒の瞳、ショートスタイルの珈琲色の髪が雨に濡れて傾いでいる。
『イヴァン、さん?』
ゾランの言葉を追うように、口からその名が繰り返された。イヴァン・カストラはゾランから視線を外すと、己の名を呼んだシュイに目を細めた。