第十七章 ~(2)(改)~
世界は、様々な想念に満ち充ちている。大気、大地、生物、無機物。ある土地で生き物が死ねば、無念の思いがその土地に住まう。
ことに人は想念の集合体と言っても過言ではない生物だ。日々の営みにおいて喜怒哀楽を表し、他者と争い、手を取り合い、感情を衝突させ、時に共有する。
外界へと発散された想念は、同種の想念と磁石のように引き合う性質を持つ。それが寄り集まることで、微細な魔力を帯びていくのだ。人が作り上げた道具には創造主の魂が宿るというのも、魔法学的な見地からすれば常識に等しい。
精霊族と呼ばれる高次生物の多くはそれを食料としている。様々な想念を含んだ魔力を体内に取り込み、気が遠くなるような長い時間をかけて無害な物に分解し、世界に還流している。
けれども、取り込んだ想念の全てを分解できるわけではない。本当に少しずつ、澱とも言うべきものが、精霊の中に溜まっていく。戦争や飢餓、天変地異などは強い負の想念を過剰にもたらす。その量が多くなればなるほどに澱が嵩増ししていき、ある時を境に溢れ出てしまう。本来無個性であるはずの精霊族が、強い自我を獲得する由縁である。
精霊族は善意に満たされると聖霊と呼ばれるものに転生するが、反して悪意を摂り過ぎると悪霊に身を落とし、世界に仇成す。大方の場合は受肉を経て具現化し、そのまま現世に留まることが多いのだが、稀に転生の際に生じる魔力の過剰な還元反応によって、転移層と呼ばれる時空の歪みが発生することがある。そうした場合、具現化した精霊は現世とは別個の世界へと移送されてしまう。
隔絶された世界に住まう精霊族は、等しく神格化されるほどの力を秘めている。高位の魔法によってのみ姿を現す彼らを、人は召喚獣と呼ぶ。
自然界に存在する魔力は吸収や結合によって集めることが可能だ。そして、滅祈歌の併用によってもたらされる魔力の供給量は、上級魔法を用いてなお到達できぬほどの域にある。
だが、魔力と想念が切っても切り離せない物であるが故に、過剰に力を集めようとすれば相当量の想念も集まってくる。魔力を集め過ぎて制御を失えば、渦を巻く想念に自我が引っ張られ、最悪取り込まれる。そうなった場合にはどうなるか。文字通り、自分を失ってしまうのだ。悪霊に身を落とした、精霊族のように。
シュイは、まるで馬に乗った時のような浮遊感を味わっていた。思考が肉体からゆっくりと引き剥がされていき、脳が持つ自己防衛本能によって抑えつけられていた五感が一気に覚醒した。
滅祈歌を使うのは都合三度目だった。初めて使った時には、意識が集まった想念と融合して別人格が生じ、暴虐の限りを尽くした。
二回目は相手が悪すぎたのか力を発揮しきれず、自分でも良く分からないうちにあっさりと封殺された。
今もって、術の効果はわからないことが多かった。効果を試すような機会などなかったし、そもそも使うことが怖かった。
自分が自分だとわからなくなることは、死んでいるのと同義だ。仮に肉体が生きていたとしても、それは器に自分とは別の意識が吹き込まれているだけのことなのだ。
そんなリスクを好き好んで背負う者がどこにいるだろうか。そう思う一方で、心はこれを強く欲していた。親しい者を目の前で失う恐怖は、自我を失うこと以上に耐え難いことだった。
周囲の空間認識を終えたところで、体を覆っていた燐光が消失。足元に強化魔法陣が展開された。
『――ぐっ!』
体全体にかかる負荷に、シュイが苦しげに呻いた。辛うじて崖の淵で思考が踏み止まり、引っ張られている意識を手繰り寄せた。自我は薄れかけているが、しかし喪ってはいなかった。
「……ぶか!」
間近で発されたはずのアミナの声が、やたらと耳に遠く聞こえた。おそらくは大丈夫か、だろうか。
『平気、だ』
心配をかけまいとシュイが応じたが、発した言葉の違和感に気づくことができなかった。<我が心身を修羅を化せ>を発動してからの言動の変化。制御に手一杯で、些細なことに気を配る余裕がなくなっていたことに。
様子を窺っていたテクラが、よろめいたシュイを見てついに動いた。合わせた両手を花弁のように広げて魔力を集約し、解放。
<狂嵐の砲撃>。その詠唱と同時に、細長い十指の中央に歪みが生じ、螺旋状の風が放たれた。降り注ぐ雨が粉砕され、地に落ちている濡れ落ち葉が巻き上げられた。さながら横向きの竜巻の威容で、アミナを抱いているシュイに直進した。
ふいに変化が生じ、テクラとゾランが目を剥いた。雨が白い霧と化した。ぴちゃりと、濡れた地面を踏んだ音が響いた。二人の頭がその音を認知した時、シュイの姿はどこにもなかった。
その直後、あさっての方角にあった木の幹の辺りから水飛沫が跳ねたが、テクラたちはそれに気づかなかった。風魔法が目標を喪失した空間を抉り、先ほどまでシュイがいた場所の後方にあった木々に風穴を空けていく。およそ七、八割の横幅を失った木々が、左右に頼りなく揺れた。そして、抉られた内側にゆっくりと傾いていった。
ひらひらと、木の葉が無数に舞い落ちていた。木が倒れる音を聞きながら、テクラたちはシュイたちの姿を夜の闇に求めた。だが――
『<怒れる霆の渦流>』
頭上から聞こえた声に反応し、二人が素早く空を見上げた。
「なっ、いつの間にっ!」
稲光が連続して明滅し、白い光の中に木々の輪郭と、アミナ抱くシュイの影を捉えた。二人が追撃しようと構えるよりも先に、傍らにある大木の上に移動していたシュイの左手に、四方八方から雷が乱れ落ちた。
耳を劈く轟音が鳴り響いた。シュイが立っている木の幹が、上空から飛来する雷の束に焼き潰されていく。頭上から迫る白雷を目にし、脇に抱えられているアミナが思わず目を瞑った。
だが、集まった雷の束がシュイたちの身体に届くことはなかった。テクラとゾランの頬に、雨とは違う雫が伝った。およそ人には扱えぬ雷を、シュイは指先でコインを弄ぶかのように回転させていた。
ほどなく、剥き出しになった左手に収斂した雷線の束が、風車のように回転しながら眼下へと撒き散らされた。視界を埋め尽くす雷の渦流を目の辺りにし、テクラとゾランが顔色を変えた。咄嗟に跳躍し、辛うじて直撃を避けたものの、足場のことを失念していた。雷が水溜りに触れ、辺り一帯の地面に電飾が施された。遅れて、帯電した地面に二人が着地した。
「ぎぃああぁぁッ!」
「ぬぐぁあああッ!」
爪先から頭の天辺まで、二人の体を強烈な電流が走り抜けた。聞くに堪えない絶叫が長々と響き渡り、雨音を掻き消していった。
シュイが行使した魔法は攻撃魔法ではなく、れっきとした付与魔法だった。本来なら雷を拡散させて飛ばすような効果などないのだが、魔法陣により発動と同時に強化され、威力と攻撃範囲が大幅に増したのだ。周囲に集まる魔力を利用して自己催眠をかけ、身体能力と集中力を大幅に底上げする。これこそ滅祈歌の真骨頂だった。
「……がっ、はぁ……はぁ」
「……ぐっ、何という」
雷で焼け焦げた枝葉の臭いが立ち込める中、膝折り、地面に手をついたテクラとゾランが、未だ痺れている身体に何とか力を込めようとした。
一瞬にして場を変質させるほどの威力。全身に及んだ痛みや熱から判断するに、地面に落ちて分散した雷とはとても思えなかった。もしも直撃していたら死んでいたか、よほど運が良くて意識を失っていただろう。
――準ランカーでも上位クラス。下手をしたら、それ以上か。
ゾランは魔法陣を従えたシュイから目を離さず、必死に頭を働かせた。相手は神速と呼ぶにふさわしい速さを誇り、想像を絶する魔力までも駆使する化物だ。少なくともアミナを追いかけ続け、消耗した身体で勝てるほど甘い相手ではない。たとえ二人の体力が十全だったところで、相打ちに持ち込むのが関の山だろう。
二人にとって、この戦いは命を賭してまで勝つべきものではなかった。アミナを追い詰めるのは所詮退屈凌ぎの域を出なかった。
逃げの一手しかない。損得勘定を終えた二人は束の間顔を見合わせ、よろめきながらも撤退を始めた。
木の上からテクラたちが退却していく様子を見て、アミナが安堵の息を漏らした。兵たちが魔物を討伐するのにかかるくらいの時間は稼げたし、あの二人も今ので相当なダメージを負ったようだし下手なことはできないだろう。何より、シュイが自分を窮地から救ってくれた。そうと実感するだけで胸が熱くなった。
「……良かった。何はともあれこれで――」
『――クズ共が、そう簡単に逃がすかよ』
「……え?」
三角耳を震わしたアミナが、シュイの顔を恐る恐る窺った。無論、付き合いとも言えぬほどのやり取りしか交わしたことはなかったが、それでもシュイが発するような言葉とは思えなかった。
表情こそ変わっていなかったものの、その顔色は先ほどと明らかに変わっていた。一目ではっきりとわかるほど血色が悪かった。
続いて、シュイの黒衣を掴む自分の手も、同じような色になっているのがわかった。アミナは首を捻って後ろを見、ようやく違和感の正体に気づいた。シュイを取り巻く魔法陣の色が、青から黄緑色に変化しつつあった。
何かがおかしかった。得体の知れない不安が、体の奥底から湧き出てくるのを感じた。
以前ニルファナと食事をした時、彼女はシュイの実力がアミナに及ばないという主旨の言葉を口にしていた。ニルファナがそういう類の嘘を付かない性格であることを、アミナはよく知っていた。
だが、今のシュイは好調時の自分と匹敵するか、その上を行くかも知れない。ならば、どうやってそれほどの力を得ているのか。
不可解な点はまだあった。キャノエで初めて出会ったとき、シュイは自分に対して敬語を使っていた。だが、今までのやり取りを省みると、その様子がほとんど見受けられなかった。
シュイがこれほどの力を行使できているのは、精神に変調を来すほどのリスクを犯しているからではないか。そんな考えに辿り着き、不安が恐怖へと転化した。
『追いついて来たか。悪くないタイミングだ』
そう呟くや否や、シュイが無造作に、足場にしていた枝から地面に飛び降りた。落下中、再び両腕に抱き抱えられたアミナが素っ頓狂な声を上げた。
「あぃっ! ……かっはっ」
着地時の衝撃が折れた骨に伝わり、耐え難い痛みが頭を貫いた。口からひゅうひゅうと、隙間風のような声が漏れ、涙が滲んだ。先程までの、怪我をしている自分に対するシュイの気遣いは、見る影もなくなっていた。
森の奥に見えた人影が段々とはっきりしてきた。現れたのは、腕に鎖を巻き付けたランベルトだった。体の至る所に傷を負っているものの重傷と言えるほどではない。それから五秒ほど遅れて、フォルストロームの軍人と思しき者が数名やってきた。先程シュイが使った<照明魔法>に気づいたのだ。
「ア、アミナ姫っ、ひどいお怪我を! それに、その姿は……シュイ、なのか?」
『無事だったようだな。タルッフィ』
先ほどまで一緒にいた少年の変貌振りに、ランベルトがたじろいだ。それを気にするでもなく、シュイは素っ気なく抱えていたアミナを差し出した。ランベルトは、半ば操られたように手を出してアミナを受け取った。アミナが自分を手放したシュイに慌てて手を伸ばしたが、空を掻いただけだった。シュイは元いた位置に戻っていた。
「シュ、シュイ。そなた……」
「一体何があったのだ。それに、敵はどこに……アミナ様?」
怪訝そうに二人を見比べているランベルトに、シュイは微笑を返した。
『とりあえず彼女は任せた。相当痛んでいるから早めに医術師に見せてやってくれ』
「ま、待て、シュイ! そなた、何か……おかしいぞ」
シュイは踏み出しかけた足を止め、アミナを肩越しに見た。
『おかしい? だから何だってんだ、文句でもあるのか』
打って変わって冷たい台詞が飛び出した。アミナはより一層濃くなっていく不安に身を震わせた。
「貴様、それが獣姫様に対する口の利き方か! 幾らなんでも無礼に過ぎるぞ!」
兵たちが語気を荒げたが、シュイは意に介した様子もなく、肩をすくめてみせた。
『悪いけど今はあんたらの説教なんか聞いている暇ないんだ。狩人を気取った下種どもに、もっと別の楽しみを教えてやらなくちゃいけないんでね』
「な、なん……」
いかにも鬱陶しそうな物言いに、兵たちが目を見開いた。
――折角の機会だ、狩られる者の気持ちを教えてやろう。心胆寒からしむまで。
シュイは再びテクラたちの消えた方角に向き直り、ゆっくりと腰を落とした。
『――じゃあな』
「い、行くな! シュイ!」
一方的に別れの言葉を言い放ったシュイが、呼び止める悲痛な声にも耳を傾けることなく、ぬかるんだ地面を蹴り放った。泥が勢い良く跳ね上がり、咄嗟にランベルトが広い背でアミナを庇った。脇にいた兵たちは避けきれず、全身に泥の装飾を施された。
「……ぶえっ、ぺっぺっ! き、貴様ぁっ!」
アミナとランベルトは呆然と、兵たちは憤然と、あっという間に遠ざかっていくシュイの背を見送った。
シュイを取り巻く魔法陣が黄色から橙色へと変わり始め、より一層輝きを増していった。




