第十七章 ~滅祈歌(1)(改)~
テクラは攻撃が当たらなかったことが信じられぬという面持ちで、小刻みに震える己の手を見つめた。その手からアミナまでの距離はわずかに数メードで、少なくとも発動の瞬間までは見失っていなかった。風が届くまでに果たしてどれほどの時間的猶予があったか、考えたくもなかった。
傍らにいたゾランは、テクラの風魔法が炸裂した地点と、青白い燐光を帯びているシュイの姿とをまじまじと見比べていた。
シュイの<更なる威に屈せよ>でロスしたごくわずかな時間。長年実戦に身を置いてきた自分が、シュイの驚異的な速度を目で捉え、それでもアミナを救出するには足りないと判断した。
テクラが再度無詠唱魔法を発動させようとしているその間、ゾランはアミナに止めを刺そうとしているテクラをシュイから庇うように立ち塞がっていた。テクラの詠唱を妨害されないようにすると同時に、シュイがアミナの救出に動くのを妨害しようという目論みだった。
けれども、暗闇の中で存在感を示していた青い燐光が消失した途端、ゾランはシュイの姿を完全に見失った。そして、術者であるテクラが当たったと錯覚するほどの刹那に、アミナを掻っ攫った。
目に追えぬ動きを繰り出せるということは、すなわち繰り出すあらゆる攻撃を無効化できることと同義。そして、防御の隙間を縫って攻撃を届かせることもわけないはずだ。
アミナを抱きかかえているシュイに、二人は厳然とした面持ちを向けた。
アミナは、借りてきた猫のように身をすくませていた。シュイの腕の中という特殊な環境の中で、どう振舞えば良いのか一向に思いつかなかった。そもそも、男の腕に抱かれた経験などほとんどなく――あると言っても父と祖父くらいのものだし――それも遠い昔のことだ。
長雨に打たれているだろう腕からはほんのりと熱を感じた。アミナが何気なく視線を下げ、シュイの身体を見て愕然とした。今しがたまで魔物と戦っていたのだろう。着ている黒衣は穴だらけで、全身の至るところに生々しい傷があった。傷口は降雨によって洗われたのか、濃いピンク色になっていた。
アミナは、傷だらけの身体をおして救出に駆け付けてくれたことに強く胸を打たれた。そして、この場に真っ先に駆けつけてくれたのがシュイだったことに密やかな喜びを感じていた。アミナ自身気付かぬくらいのささやかな思慕が。
実際それを自覚する前に、アミナは真っ先に言わねばならぬ言葉があることに思い至った。助けてもらった礼を言おうと、震える唇を何とか動かそうとした。
「わっぷっ!」
顔に白い何かが被せられた。シュイが懐から取り出した白いタオルを、顔に押し付けていた。タオル越しにシュイの手の温もりを感じた。
「……んむ、んう、んむぅ」
シュイがそっと膝を折り、アミナの腰をその上に乗せた。空いた片手で泥に塗れたアミナの顔と前髪をタオルでわしゃわしゃと拭った。汚れが目に入らぬように留意しつつ、所々タオル越しに摘むように、汚れを拭き取っていった。
テクラとゾランは唖然としながら、シュイと、されるがままになっているアミナを見つめた。
ややあって、アミナの顔からタオルが取り払われた。
「ぷぅ……い、いきなり何を――」
『――うん、綺麗になったね』
「……なん」
上がりかけた抗議の声が、満足そうにうなずくシュイに敢え無く遮られた。それはつまり、顔から泥が取り除かれれば綺麗になるという表現が適するのは当然のことであって。などと理屈っぽく考えている時点で、正気とは程遠かった。無造作に投げ掛けられた言葉に、居た堪れなくなった。あまりの気恥ずかしさに、先ほど思い描いていた謝礼の言葉を喪失していた。
何をこれくらいで動揺しているのか。それくらいの褒め言葉は普段から言われているのだ。落ち付け、いつもの私を取り戻すのだ。アミナは懸命に、毅然とした態度を取ろうと努めた。
「そ、それよりも!」
『それよりも?』
シュイが首を傾げ、アミナと視線をきっちりと合わせた。雨とも涙とも付かぬ物が拭き取られたおかげで、暗闇越しではあったが顔が薄らと見えた。以前に見たはずの、偽りの火傷の痕が何故かどこにも見当たらず、その代わりに滑らかな肌が見えた。フードが象る闇の中に、黒真珠のような輝きを放つ目が見えた。
「それよりも……よ、よくこの場所が、わかったな」
言った後で、後悔にぷるぷると悶えた。考えているのとあまりに違うことを口にする自分を心底詰りたい気持ちになった。そんなアミナの心情を知ってか知らずか、シュイは穏やかな声で応じた。
『そうだね、流石に焦ったよ。霊体が示した方角の通りに来たつもりだったのに、どこにも姿が見当たらなかったから。何人か、フォルストロームの軍人たちも必死にあなたを探していたようだし。途中で戦場を離れたって聞いたけれど、こういうことだったんだね』
シュイが二人の敵対者を見据えた。反して、アミナの顔が曇った。良かれと思ってやったとはいえ、兵たちに要らぬ心配を掛けてしまったことに対して、言い様のない罪悪感を覚えていた。
『彼らと手分けして探していたら、この辺りから鳥が一斉に飛び立ったのがわかったんだ。夜目の利かぬ鳥が夜に群れを成すことなんて滅多にないし、近くで誰かがやりあっているんじゃないかと期待してきたんだけど、勘が当たって良かったよ』
アミナは先ほどテクラに繰り出した一撃のことを思い出した。力を振り絞った一撃は相手に当たらなかったが、木々が薙ぎ倒されたことによって就寝している鳥たちを目覚めさせたのだ。
「そなたが霊体を受け取ったのか。何の巡り合わせか、よくよく縁があるようだな」
『教会で救われた恩があるからね。って、そういえば、きちんとお礼を言っていなかったっけ。あのときは、ありがとう』
「……っ、な、何で」
何でそなたがそれを先に言うのだ。そう言おうとしたところで、喉が絡まった。普段通りに喋れぬ己の口が何とももどかしく、苛々にも似た感情が募った。
『どうかした?』
「……い、いや。大したことではない。それに、これでおあいこだろう」
『そうだね。じゃあ、アミナ様もお礼はいいよ』
「……い、いや、そなたが口にした以上は私も言う」
『そ、そういうものなの?』
「そういうものなのだ!」
強い口調ほどに思っていたわけではなく、半ば意地になっていただけだった。アミナは俯きながらもぼそぼそと、しかし懸命に言葉を紡いだ。
「……そ、その」
『うん』
「……あ……がとう」
ぽしょっと、空気が漏れた様な声が出た。顔どころか全身が、強い酒でも煽ったかのようにカッと火照るのを感じた。それでもシュイは消え入るようなアミナの言葉に、軽くうなずいた。
居た堪れなくなったアミナはシュイから顔を逸らし、そこで眉を潜めた。
――う、少し臭うな。私としたことが、気付かなかった。
体からは汗と土の臭いがした。先ほどまで森の中を走り回り、泥の中を転げ回っていたのだ。雨が降っていなければもっと酷いことになっていたはずだった。
はっとしてシュイの方を見ると、シュイが纏う黒衣の袖や裾に汚れがしっかり移っていた。
「す、すまぬ! 大分汚してしまったな。……その、もう良いから下ろしてくれぬか」
助けてくれた相手の服を汚すのはもちろんのこと、仮にも年頃の娘として臭いと思われるのは堪えがたいことだった。加えてこの格好、お姫様抱っこは羞恥の極みだ。何より、いくら闇の中とはいえ、これだけ顔が近ければ自分の感情を見透かされてしまうのではないか。そんな気がしてどうにも落ち着かなかった。
ばつが悪そうなアミナの上目遣いに、シュイは微かに笑いながら、少し呆れた様な口調で応じる。
『汚れなんてどうだっていいよ。大体、そんな身体で立てるの?』
「……あ、えっと……た、多分」
口ではそう言ったものの、無理だと結論が出ていた。命の危険が差し迫っていた先ほどでさえ、立とうとして立てなかったのだ。窮地から救われたことで、身体から力が抜け落ちてしまった今となっては尚更だ。仮に下ろしてもらったところで、無様に泥の池にダイブするのが落ちだった。
『やっぱり無理だね』
「そ、そんなことないぞ!」
『本当に立ち上がる余裕があるなら、あなただったら人に頼むまでもなく、腕を振り払ってでも下りるでしょ。それに、さっきあのおばさんが使った魔法だって、少なくとも避けようとするくらいは出来たんじゃない?』
「……あぅ」
図星を刺され、アミナはすまなそうに、自信を持って答えた解答にペケ印を付けられた子供のように唇を噛んだ。
「お、おばっ――」
ほぼ同時に、どこか緊張感のないやり取りに見入っていた外野から、どもった声が発せられた。
「き、貴様、言うにこと欠いて」
シュイは、歯軋りしているテクラに方をすくめ、すっと膝を伸ばしてアミナを抱き上げた。アミナはその不意打ちに一瞬身体を震わし、次いでそんな自分を恥じるかのように小さく首を横に振った。
『いや、あまりに見え透いたお世辞を言うのも失礼かと思ってさ。対象外に無理に当て嵌めるなんて、型に似合わぬ服を着せようとするみたいで見苦し――』
「――黙れ!」
テクラの手の平が瞬時にシュイの方へと向けられた。が、魔法を発動することまではしなかった。常人離れした動きを見せたシュイに対しては、ただ闇雲に攻撃を仕掛けても無駄だということがわかりきっていた。
『そっちも、大分息が荒いけどその身体でやる気?』
「……む」
無造作に視線を投げかけられ、鉄球を取り出そうとしていたゾランの手が、懐の手前でびくりと停止した。
『まぁ無理もないよね。二人掛かりとはいえアミナ様とやり合ったんだ。相当に体力を消耗していても不思議じゃない』
アミナの三角耳がぴくぴくと動いた。自分が化け物か何かのように言われているのを聞いて少し不満げな表情を作っていた。
「……随分と余裕ですねぇ。両手が塞がっている状態で」
ゾランは淡々とした口調で応じたが、その実、手の平にはじっとりと汗を掻いていた。
賞金をかけられて十年余。テクラとゾランの二人は追手を撒くために、場合によっては撃退するために相当な修練を積んでいた。疲労は感じていたが、その音を呼気に出してはいなかったし、雨が地を叩く音で聞こえるとは到底思えなかった。
こちらはシュイの体が光を発しているために姿がはっきりと見えたが、向こうは違うはずだ。直ぐ隣にいるテクラの顔を識別するのがやっとという暗闇と大雨。ましてや10メード近い距離で、どうして疲弊しているのを見破られたのか。
『ふふ、解せないと言う面持ちだね』
ゾランが、今度こそはっきり顔を引き攣らせた。少なくとも、シュイが何らかの方法で闇を無効化していることだけは確信した。それは、一対二という数的優位を難なく覆すくらいの強みだった。
『おっと、忘れていた』
ふいにシュイがアミナの膝を支えていた手を抜き取り、しかし片手でしっかりと抱きすくめた。胸と胸がぴたりと密着するや否や、アミナの顔がぼっと火照った。心臓の音が伝わらないかとドキドキしていた。
シュイはそれに気を取られた様子もなく、自由になった手の平を空へと向けた。そして次の瞬間――
「――くっ!」
テクラとゾランが反射的に腕を掲げ、両目を庇った。
シュイの手の平から放たれた光が、白い巨柱となって天に伸びていった。暗闇の中に溶け込んでいた雨が白々と照らされ、光のシャワーと化した。雷雲にまで到達した光が傘の骨組みのように拡散し、木々の輪郭を映し出した。
アミナは眩しさに目を細めながらもシュイの方を見ようとして、息を呑んだ。膨大な光量はフードが作る陰影すらも取り払い、束の間シュイの顔を露にしていた。
「……あ」
知らずと声が漏れた。アミナはキャノエでの一件以来、シュイの正体についておよその見当を付けていた。おそらくは自分と同い年か、やや齢上くらいの青年ではないかと。
けれどもそこにいたのは、思慮深げな老齢の魔法使いでも、精悍な顔付きをした青年でもなかった。どこか表情に陰りのある、それでいて優しげな、まだ顔立ちのあどけない少年だった。
長めの睫毛と憂いを内包した黒い瞳。真っ直ぐな鼻に固く結ばれた唇が、アミナの目に強く焼きついた。
思わず身を乗り出した瞬間、今度こそ視界が白一色に染まった。
樹木を覆う葉の色が黒から鮮やかな緑へ変化した。昼間がきたと勘違いしたか、猿や狼、はたまた鴉といった動物たちの鳴き声が森に木霊した。
ほどなく、辺りを真昼の姿に変えた光柱が段々と細くなっていき、面から線となり、消失した。
再び森に暗闇が戻った。ちらちらと過ぎる光の余韻に目を瞬きながら、テクラとゾランはシュイが何をしたのかを明敏に悟った。<照明魔法>を使い、アミナを探しているフォルストローム兵たちに居場所を知らせたのだ。あれほどの光に気付かぬ者がいるはずもなかった。もたもたしている内に敵の援軍が馳せ参じるのは明白だ。
「随分と、面倒なことになっちまったねぇ」
テクラが苦々しそうに呟いた。残された選択肢は二つ。そう遠くないうちに援軍が来るのを承知でシュイと戦うか、この場から退散して仲間と合流するか。
この場に留まって戦う場合、シュイがアミナを抱えていることは大きなハンデになる。だが、それを考慮しても尚、戦うのは危険過ぎる。今のすさまじい照明魔法を目にしては、そう判断せざるを得なかった。
光量の多さは魔力の大きさに比例する。そして、あれほどの照明魔法を目にするのは今日が初めてだった。今まで相手にしてきた追手や傭兵とは別格の相手なのだ。
それ以前に、相手がまともに戦ってくれるかも微妙だった。先ほどシュイが垣間見せた身のこなしを考慮すれば、逃げに徹された場合、援軍が駆けつけるまでの間にケリをつけることはまず不可能だ。それならばまだましな方で、ヒットアンドアウェイに徹されたら生き延びることができるかどうかすら怪しかった。
けれども、二人にはこのままこの場を退散しづらい事情があった。後にこの件が明るみになれば――これほど大きな騒ぎが明るみにならないはずもないのだが――二人がアミナを執拗に追っていたことも周知の事実になる。もしリーダーが、イヴァンがそれを耳にしたらどうなるか。追跡者の正体を必ず突き止めようとするに違いなかった。万が一にも任務そっちのけで人狩りを楽しんでいたのだとバレたら、ひょっとすると処分されてしまうかも知れない。前門の虎、後門の狼だ。
「流石に彼に知れたら不味いです。やるしかありませんね」
隣にいるゾランから背を後押しする声が発された。
「……そうだね、せめてその死にかけの小娘に止めを刺していかないとねぇ」
フォルストロームの象徴たるアミナを始末したとすれば、当初の目論見とは異なるものの自分たちの目的は果たしたも同然だ。イヴァンも文句は言わないだろう。テクラは己の持論が間違っていないと自らの心に言い聞かせた。
「折角荒稼ぎ出来そうだったのに、残念ですね」
『……荒稼ぎ?』
ゾランは、自分の微かな声を反復したシュイの耳聡さに舌を巻きつつ、愛想笑いを向けた。
「ええ、獣姫様の悲鳴を<忘れずの石>に吹き込んで売ろうと思っていたのですよ。どうです、よろしければ貴方も一枚噛みませんかね?」
訊ねるまでもなく、アミナを助けにきたシュイが応じるはずもない提案だった。ゾランにしてみれば戦闘前に交わす社交辞令のようなものであり、シュイに対する縛りでもあった。あからさまに挑発することで、逃亡と言う選択肢を選ばせないための。
その言葉は、ゾランの思わぬ形で状況を一変させた。シュイは、胸元の布地が微かに引っ張られたのを感じ、視線を落とした。アミナの小さな手がそこにあった。気丈な彼女が――それでもゾランの脅し文句に怯えたのだろう――微かに肩を震わせていた。
褐色の身体は自分以上に無残な、見ているだけで胸が痛むような状態だった。左腕は一目で折られているとわかる。二の腕の辺りは酷い内出血を起こし、青黒くなっている。手足も擦り傷と切り傷だらけだ。束の間、アミナのその姿が、自分が良く知る少女と重なった。
一瞬身が強張った。目頭に熱を感じ、次にはそんな自分を律するようにゆっくりと目を閉じた。今必要なのは涙などではなかった。目の前にいる強敵を屠る力、あらゆる脅威を退ける強さだった。
ややあってアミナは、自分を抱く腕に力が込められていくのがわかった。痛みを感じるほどに窮屈に抱かれ、それで不思議と心が落ち着くのがわかった。身体の震えが止まり、シュイの胸にそっと身を寄せた。自分でも驚くほどの自然さで。
『――<執行>』
遅れて、無理やり感情を押し殺したような低い呟きが、三人の鼓膜を震わせた。シュイの瞳に、暗い炎が迸った。それこそ夜の闇よりも絶望的な、年幼い少年が心の奥底に閉じ込めていた激情だった。
それからわずか数分後、ゾランは何気なく放った己の軽口を、心底後悔することになった。