第十六章 ~(3)(改)~
「……ありえん……ありえんぞ。……俺は、認めない……絶対に」
置き去りにされたエグセイユは茫然自失といった表情で、うわ言とも呪詛とも付かぬ言葉を呟いていた。その視線の先には、石灰色の堅い石床が無残に踏み抜かれた跡があった。中心から半径5メードほどの範囲には、蜘蛛の巣状の亀裂が入っている。まるで飛竜が空から舞い降りたかのような有様が、その脚力の凄まじさを物語っていた。
俄かには認め難い光景。けれどもそれが、己の網膜にありありと焼き付いていた。憎き男の姿を、言動を思い浮かべるだけで胸に何かが蟠っていくのを感じた。忌々しいことに、そのはけ口はどこにも見出せなかった。
己の気質を鑑みれば、現実から目を逸らすことなどプライドが許すはずもなかった。どれだけ否定の言葉を吐き出そうとも、それが耳を通し、反転する。シュイ・エルクンドの力が、現時点では己の上をいっていたのだと。
エグセイユは未だかつてない屈辱を噛み締めていた。先ほどシュイが垣間見せた化け物じみた力が、自分に向けられなかったことに安堵してしまった。全力を出していなかった相手に対して、あろうことか反発せずに安心したのだ。
俺は負けてなどいない。そう自分に言い聞かせようとしたが、その響きのあまりの空々しさに寒気がした。戦っていれば明らかに負けていたものを、たまたまその戦いを避けられたから負けていないと言い張るのか。これほどまでに厚顔無恥だったのか。エグセイユ・スキーラという男は。
「……んなわけがあるかよぉ! あの青二才がっ! ちくしょうがぁっ!」
自らも青二才であることを棚に上げつつ、エグセイユががなり立て、遮二無二剣を振り回した。青髪を振り乱しながら薙ぎ払い、振り下ろし、切り上げた。乱れ飛ぶ数多の剣風が建物や工場の備品を容赦なく傷つけていった。鉄製の石炭入れの中央部分に亀裂が生じ、中に収まっていた石炭が床に散らばり始めた。
物に当たり散らしたところで、己の刃があの男の喉元に届くことはない。そんなことは嫌と言うほどわかっていた。虚しいだけの行為だったが、それでも体を動かさずにはいられなかった。
エグセイユは一心不乱に剣を振り回しながらも、揺るぎなかった自分の存在そのものが、床に毀れ落ちる石炭と同様、音を立てて崩れていくのを感じた。
――――――
ほんの十数分前。アミナの伝文を綴った霊体が最後に矢印を象り、魔石が使われた方角を指し示して消失した。エグセイユはそれを見届けた後、溜息を一つ吐き出した。
「……受け取っちまった以上、放置しておくのは流石にまずいなぁ。仕方ねぇ、とっとと終わらせるか」
そう言い、エグセイユは再びシュイに向き直り、剣を掲げ直した。尚も構えを崩さぬエグセイユに、シュイはどこか遠くを見るような目を向けていた。ややあって、小さく口を開いた。
――何をやっているんだよ、お前は。
「……何だって?」
あまりに小さな声だった。聞き取れなかったのか、エグセイユが訝りながらも訊き返した。しかしてシュイのその言葉はエグセイユに対しての問いかけではなかった。己の不甲斐なさに対しての強い憎しみが心情を吐露させたものだった。
――また少女の死を、己に見せようというのか。
今度は言葉にもならず、唇がそれとなく動いただけだった。
謂われなく町を襲う連中に。己に尚も剣を向けているエグセイユに。それに付き合っている自分に抱いていた憤激と怜悧の感情が混じり合って消失した。
空虚な思考に浮かんできたのは、陰惨に過ぎる記憶だった。頭の中では雨音が鳴り響いている。その音が現実へと派生し、全ての音が呑み込まれていく。
――嫌だ、嫌だ、嫌だっ! 冗談じゃないっ!
シュイが歯を食い縛り、耳を抑えた。冷たかった。己の肌を打つ幻視の雨が、体のみならず心までも凍えさせていくのを感じた。抗いようのない恐怖が生じ、今度はそれを掻き消すための憤怒が生じた。
「嫌なんだよっ! もう間に合わないのはっ!」
今度はエグセイユの耳にも、はっきりと聴き取れた。シュイは激しい頭痛を少しでも和らげようとするかのように額を左手で鷲掴んだ。そして剣を構えているエグセイユを、傍らに転がっている自分の鎌を無視し、ゆらりと出口へ向かって歩き出した。
「おい、何のつもりだ手前! まだ決着はついて――な」
エグセイユが放った制止の言葉は、それ以上続くことはなかった。シュイは二、三歩歩いた所で立ち止まり、エグセイユに背を向けたまま両の手を交差させていた。
一見無防備なはずのシュイの姿に、しかしエグセイユは気圧され、構えた剣を振るうのを躊躇した。何か得体の知れない力が、黒衣に引き寄せられつつあるのを感じ取っていた。
<万象にうつろう数多の力の欠片よ 我が身を苗床に顕現せよ>
祈歌を紡ぐと同時に自身に内在する魔力を余すことなく放出。己の身体の周囲を覆いつくしていく。
ややあって、周囲に点在する魔力の微粒子がエグセイユの目にも可視化された。塵のような白い光が。シュイが展開している無数の微粒子、魔力の霧とも言うべきものに吸い寄せられていく。それらが接触した瞬間、次々に結合を起こし、もの凄い勢いで青い燐光の領域を広げていく。
その様子に、エグセイユが思わずたじろいだ。尋常ではなかった。シュイの解放した魔力量に対して、引き寄せられる魔力量が半端な量ではなかったのだ。周辺から集まってきた魔力の粒子がシュイの魔力に我先にと群がっていく。その様は、投じられた餌に群がる魚の大群を想起させた。
収縮した魔力がある程度の質量に至ったところで魔印が形成された。それらがシュイの周りをゆっくりと、左回りに回転しはじめた。
24個目の魔印が配置された途端、シュイの身体を軸とする積層型の魔法陣が姿を現した。苛烈な力が渦を巻き始め、シュイの黒衣が音を立てて靡く。そして、巨大な死神の影を壁面に映し出した。あらゆる者の命を刈らんとする鎌を携えて。
<我を制する剣と化し 封ずる盾と化して 不埒なる者どもを理の淵より追い落とさん>
死を彷彿とさせる言霊を紡いでゆく度に、シュイは己の意識が段々と遠ざかりつつあるのを感じた。以前ニルファナに対して使用し、それ以来使うことを禁じられていた<滅祈歌>。周囲に点在する力を掻き集めて魔法陣を形成し、一時的に己の能力を強化する切り札だった。
だが、ニルファナの地力はその上をいっていた。束の間、そのことを思い出したシュイは束の間苦い笑みを浮かべた。が、その笑みは次なる言葉と同時に消え去った。
「<我が心身を修羅と化せ>ッ!」
瞬間、大気が大きく戦慄いた。力の微粒子が工場内の壁を突き抜け、風となって拡散していく。
発動と同時に、シュイは先ほどまで感じていた体中の痛み、気だるさが失われるのを感じた。代わりに備わったのは、空舞う綿毛の如き身の軽さと、全身から溢れんばかりの力強さだった。
エグセイユは、青い燐光に覆われたシュイを見て肌が泡立つのを感じた。目の前にいる男は、姿形こそ同じだったが、先ほどとはまるで別人だった。胸ほどの高さに淡く光る魔印で描かれた円形の魔法陣を展開しているその姿は、着ている黒衣と相俟って異様の一言に尽きた。
「て、手前、一体何なんだ、そいつぁ……」
我知らず、エグセイユがわずかに後退りした。シュイはまるで物を見るかのような目で、恐れ慄いているエグセイユを見た。一切の感情が読み取れぬ、しかして名剣の切先を思わせる眼光を向けられ、エグセイユが喉を鳴らした。
『追って来るなら好きにしろ。ただし、殺されるのを覚悟の上でな』
先ほどまで発していた声と明らかに違う響きだった。同じ声を幾重にも重ね合わせた様な、残響がいやに耳道に残る声だった。シュイの身体を覆っている得体の知れない力がそうさせているようだった。
無造作に、アミナの放った霊体が先程指し示した方向に向き直ると、シュイは敵を退けるべく戦場へと走り出した。そのはずだった。あまりの瞬発力に、間近にいたエグセイユの目にはまさしくその姿が消えたように見えたのだ。
それを知覚した時には、人一人分の質量の移動によって生じた風が屋内の空気を切り裂き、エグセイユの青髪を掻き乱していた。
「ま、待ちやが……! あ、あの野郎! この俺様を無視しただとっ!」
激したエグセイユが後を追おうとしたが、足が一歩も進まなかった。信じられないという表情で自分の足元を見た。小刻みに震えていた。足だけではなく、全身が。憤怒の感情に負けぬくらいの激しさで、眼前の脅威を恐れた己の本能が、その行為を拒絶していた。
――――――
それからしばらくして、エグセイユはようやく落ち着きを取り戻していた。明日か明後日か、ついさっきまで工場だったこの建物を訪れた者が、変わり果てたこの様子を見てどんな顔をするだろうか。そのようなことを笑って考えられるくらいには。
床や壁には無数の刀傷があった。工場内にあった作業台や手押し車等の備品も切り刻まれていた。施設としてはとても使い物にならない状態だ。建物を支える鉄柱も四分の一近くが切断されている。安全面を考えてもこのまま工場として稼動させるのは不可能だろう。
「そうだ、俺の力はこんなものじゃないはずだ。あんなやつなんかに、遅れを取るわけがねぇ」
エグセイユは、これから自分がどうするべきなのかをわかっていた。至極単純な事だ。今以上の、シュイが自分に見せつけた力以上の力をもってして、シュイを屠れば良いだけの話だ。
無論、あれほどの力を身に付けるには一朝一夕にはいかないだろう。が、それでも、このまま羞恥心を抱えて生きていくなど堪えられるはずもない。今この時こそが、エグセイユが生まれて初めて、心の底から力を欲した瞬間だった。
だが、とエグセイユは考える。この不快感を何年間も燻ぶらせたまま修行に明け暮れることを想像し、頬の皮膚が破れんばかりに顔が歪んだ。
冗談じゃない。このままで済ますものか。まるで道端の石ころでも見るかのように自分を見た、フードの奥にあった忌々しいあの目を。出来る事なら今すぐにでも、絶望の色に染めてやりたかった。
――でも、どうやって。
エグセイユは顎を撫でながら入口の方へと向き掛け、そう言えばと思い返した。周りに視線を走らせ、数秒後、目当ての物を見つけた。
――そうだ、あいつを使えば。
エグセイユは、視線の先に落ちているそれに向かって歩き出した。憎しみに滾る、それこそ悪魔ですら忌避するだろう笑みを、端正な顔に浮かべていた。
――――――
アミナたちの居る場所と走っている黒衣の男との距離はもう100メードほどもなかった。およそ、同じ生き物とは思えぬ足の速さだった。テクラはようやく近づいてきた男を敵だと認識し、すぐに手の平をアミナの方に向けた。
「残念ながら遊ぶ暇はなくなっちまった。先に逝きな」
地に両膝を付いたまま、アミナは己にかざされた手を見て、ゆっくりと目を瞑った。
不思議と心は穏やかだった。甚振られずに死ねるだけでも感謝しなければ、とそのようなことを考えられるくらいには。
だが、目を瞑ってから少ししても衝撃波が発される事はなかった。
「……こ、これ、は!」
動揺の色を含むゾランの呻き声に、アミナが薄らとまぶたを開けた。目に飛び込んできたのは険しい表情で歯を食いしばっているテクラとゾランの姿だった。何らかの重みに堪えているかのようにふらふらと左右によろめき、踏ん張る足は大きく震えていた。
「<更なる威に屈せよ>か! こ、小賢しい、真似を! あの距離から届かせるかい!」
テクラが吐き捨てるように喚いた。術をかけられた2人には、不可視の腕が圧し掛かってくる幻視が見えた。上位干渉魔法の一つ、<プレッシャー>。相手の動きに制限をかける魔法で、術者の実力に比例して効果範囲、射程距離は広くなる。
ただ、一定の効果を望むには少なくとも掛ける対象と同格か、それ以上の魔力が必要だ。黒衣の男がこの距離をして、それも自分たちほどの腕利き二人に纏め掛けしたのならば、一流の魔法使いと遜色ない力を秘めていることに他ならなかった。
「――かぁ!」
「――なんの!」
驚異的な早さで、テクラとゾランが体の自由を取り戻した。魔法を掛けられてからわずか数秒で、2人は強靭な精神力によって自分たちに圧し掛かってくる魔力を跳ね退けた。瞬間的に四散した静電気が歪な線を描き、暗い地面を青白く照らした。
「はっ、数秒だけ寿命が延びたな!」
今度こそはと、テクラの手からアミナに向かって風魔法が放たれた。殺意を込めた、強力な衝撃波が炸裂し、表面の泥水と抉り出した土砂とを激しく撒き散らした。アミナの後方にあった節くれだった木が根元から爆ぜ、樹皮が捲れて中身が剥き出しにされた。
黒い雨が止んだ後には跳ねた汚泥が周りの木々にへばり付き、地面には半球状の窪みが出来ていた。その様子をアミナは、10メードほど離れた場所から、見下ろしていた。
「あ……れ……」
一瞬の内に切り替わった視界に眉を潜め、次いで妙な浮遊感に気づいた。顔を逆の方向に向けてみると、黒い衣服から何者かの白い首元が覗いていた。
『今度こそ、間に合ったみたいだ』
不思議な響きを伴う声だったが、おぼろげながら聞き覚えがあった。張り詰めていた緊張の糸がその一言で断ち切られ、前触れもなく目が潤んだ。
顔がぐしゃぐしゃになるのを懸命に堪えながら、アミナは少しずつ、視線を上にずらした。山を見上げるように。潤んだ瞳が相手の顔をはっきり見ることを妨げていたが、優しげな眼差しが自分の顔に向けられていることだけは理解できた。何か言わなくては、と口を開きかけたが、胸が詰まって言葉にならなかった。
無意識に掴んでいた黒衣の裾を、ギュッと握り締めた。傷だらけのアミナの体は、青い燐光を纏うシュイの両腕に収まっていた。