第十六章 ~(2)(改)~
魔石に送っていた念を中断し、アミナは石を空に放り投げ、身を潜めていた茂みから飛び出した。一瞬遅れて上空から複数の無形の刃が襲来。アミナが今まで潜んでいたアベリアの茂みを切り刻み、桃色の花弁と堅い葉を散らしていく。一方でアミナの投げた魔石は木の梢を突き抜け、宵闇の空に浮かぶと赤い霊体を象り、彼方へと消え去った。
カスタネットを打ち鳴らしたかのような舌打ちが響いた後、高木の上から森の奥へ走っているアミナに向かって数多の風の刃がばら撒かれた。アミナはほとんどそれを目視せず、超感覚を頼りに飛来する数多の刃の軌道を確認。高速で移動しながらも舞うような流麗な動きで攻撃を悉く躱していく。アミナの周りには切断された細かい枝葉だけが積み重なっていく。
正に妖精の如き身軽さだったが、首元には薄らと汗を掻き、息もわずかながら上がっている。雨の降りしきる中、森の中を走っているとあって体中は泥だらけだ。休む間もなく攻撃を仕掛けてくる敵に対し、準ランカーたるアミナが未だ反撃の糸口を掴めていなかった。なぜならば――
「くっ!」
突として刃とは別方向、側面から飛来してくる物を感知し、アミナが背を弓なりに逸らした。空を見上げる格好となり、木々の梢と暗い空を背景に眼前を横切ったのは直径5センチメードくらいの小さな鉄球だ。それがアミナの胸の上を猛スピードで横切り、傍らにある木の幹に深々とめり込んでいた。摩擦で生じた熱が黒く細い煙を燻ぶらせ、妙な臭いを放った。恐るべき膂力から放たれたであろうそれは頭に当たれば即死、他の場所であっても深刻なダメージを負わせるに足る威力だった。
一息付く間もなく、再び後方から風の刃が迫る。アミナは背を反らした時に上に見えた太い枝に向かって跳び上がり、それを回避すると共に両手で枝にぶら下がる。一度、振り子のように反動を付けてから足元の茂みを一気に飛び越えるべく枝から手を離す。枝が細剣のように大きく震えた刹那、その枝に今度は鉄球が直撃した。
長い距離を飛んで着地したアミナは、二人の追手から逃れるべく森の奥へと進む。個々の能力を比べれば自分の方がやや上回っているという確信がある。しかしながら、実力差が然程ない敵二人を同時に相手するのは厳しく、機を待つ以外に良策はない。
実を言えばもう一つ、選択肢があったはずだった。明らかにアドバンテージのある敏捷性を武器に振り切ることは出来た。だが、アミナはそれをしなかった。出来ない理由があった。
兵士たちと共に大勢の魔物と戦っている折り、何者かの接近を遠目に確認したアミナは顔を判別し、悪名高い犯罪者である事を理解した。
見た目が三十半ばほどの、肩くらいの黒髪を紐で纏め上げた女はテクラ・エモンという名の人族だ。元々はセーニアの上級貴族で高名な魔術師だ。手がつけられぬほどの癇癪持ちで気紛れに従者を殺したり、耳の形が悪いと言って削ぎ落としたりするなど目に余る残虐さがあった。あるときその話がどこからか外に漏れ、紆余曲折を経て死刑囚になったらしい。
密告したのは家人の誰かだと言われているがもはや確かめる術はない。彼女が牢番を籠絡させて脱獄した数カ月後、彼女の家族が住まう屋敷が原因不明の火災に見舞われ、一家揃って焼死体となってしまったからだ。他にも悪名高い数々の逸話を持つ人物だが、無詠唱で風魔法を乱発できるほどの実力は認めざるを得ない。
四、五十台の、人の良さそうな細目の男はゾラン・ダレラック。こちらは獣族の武器商人として世界的に有名だ。小国同士の紛争、あるいは内乱に介入して対立感情を煽り、抗争を激化させ、国が立ちゆかなくなるまで金を啜り続けたことで知られている。
真偽は定かではないが、敵対国の仕業に見せ掛けて町一つを滅ぼしたという話もあることから<自作自演>の異名を持つ男だ。表立って行動することがないため戦闘能力は未知数だが、彼によって蒙った被害の大きさを鑑みて賞金額は相当に高く設定されており、5億パーズは歴代の賞金額でもトップ10に連なる金額である。
彼らと魔物と、双方を相手にしての混戦となれば兵たちに多くの犠牲が出ることは避けられない。それを嫌ったアミナは兵隊長に指揮の継続を命じた上で一人突出し、敵が自分に狙いを定めてくれたのをこれ幸いと、魔物との戦場から徐々に遠ざかるように努めた。振り切らない速度で敵を引き付け、身を隠す場所の多い森の奥へと誘い込んで時間稼ぎをしていた。
今以って、付近では大勢の兵士が魔物と戦っている最中だ。もし自分がこの場から離脱すれば、自ずと追跡を諦めた彼らの矛先は近くにいる誰かに向くことになるだろう。それが、魔物を相手に戦っている兵士であればどうなるか。これほどの腕前を持つ敵を魔物と同時に相手すれば、結果は火を見るよりも明らかだ。人一倍強い責任感が、そのような事態に陥る可能性を見過ごせなかった。
けれども、腕利き二人を相手に防戦を繰り返していれば体力は急激に失われてゆき、集中力も摩耗する。
いつまでもつだろうか。援軍は間に合うだろうか。アミナは湧き出た不安を胸にしまい込もうとしたが、段々と重くなってきた足が、はたまた追手の二人が垣間見せる獲物を甚振る狩人のような歪な笑みが、それを許さなかった。
さらには、平常時にはそれほど気にしていなかった、連日の激務による疲労の残渣が思いの外足枷となっていた。アミナは、集中力を維持出来る時間が、当初の予想より遥かに短かったことに気づく。だが時既に遅く、今や振り切る体力が残っているかも怪しい。
タイムリミットは刻々と近づいてきていた。
全く攻撃が当たらないことに業を煮やしたテクラが走りながらもヒステリー気味に舌打ちし、隣にいるゾランを睨んだ。
「アンタ、いくらなんでも距離を取り過ぎだろ! 腰の剣は飾りかい! もう少し近づいて注意を引き付けてくれりゃあいいものを!」
並行してアミナを追走するテクラの剣幕に、ゾランは苦い笑みを誘われる。
「あれほどの辰力使いを相手に接近戦を挑めとは、相変わらず無茶を言いなさる。いや、それにしても流石に疾い。あれだけの密度の攻撃を潜り抜けるとは見事なものです。こりゃあひと工夫しないととても当てられませぬなぁ」
「暢気なことをお言いでないよ! さっきの魔石を見ただろう。あまりもたもたしていたら援軍が来ちまうよ」
「わかっております。そろそろ相手も私の攻撃に慣れてきた頃。仕込みはこれくらいで宜しいでしょう。次で仕掛けます、先ほどのように獲物を追い立てていただけますか」
そう言い、ゾランは懐に手を入れ、二つの鉄球を取り出した。今まで持っていた鉄球よりもいくらか輝きが鈍いそれを手の平で弄ぶ。
「わかった、しくじるんじゃないよ」
テクラはぶっきらぼうにそう言ってから両手を上下に合わせ、念じ始めた。
数分後、アミナは楠の木の上に登り、気配を消して周囲の様子を窺っていた。
もしや諦めたか、と思ったのも束の間、アミナに向かって何かが木をするすると登ってくるのがわかった。
螺旋を描くように迫ってくるのは5mほどの大蛇だった。恐らくはどちらかの使い魔なのだろう。
蛇には生き物の温度を感知する能力がある。如何に気配を消そうとも体温までは消しきれない。居場所がバレたことを確信し、アミナは再び木から飛び降りて逃走劇を開始する。
一分少々のこととはいえ、体力はわずかながら戻っていた。アミナは木々の間をすり抜け、迫る風の刃を跳び上がり、あるいは伏せて避け続ける。
もう一人、ゾランはどこへいったか。視線を目まぐるしく暗い森の中に走らせ、木の上からこちらに向かって振り被る姿を見止めた。
斜め上からはゾランの投げた鉄球が連続して二つ、それより先に斜め後ろからは地を這う風の刃が飛来。挟み撃ちにされたアミナが真後ろに跳躍し、風の刃を回避すると共に鉄球の落下点から逃れる。
予期せぬことが起こった。一個目と同じく地面にめり込むはずの二つ目の鉄球が水飛沫を上げ、アミナに向かって勢い良く跳ね上がった。
「なっ――がはっ!」
予想外の鉄球の動きに腹筋を固める間もなく、下腹部に衝撃が走った。弾んだ鉄球が右脇腹にめり込み、薄い板の上に乗った時のような軋んだ音を立てた。
「か……あっ……ぐっ」
耐え難い痛みが走り、肺から空気が押し出された。何とか両足で着地するもたたらを踏み、腹を押さえながら蹲った。手と腹の隙間からぼとりと何かが落ちた。黒い球だ。固い地面に何回か弾んだ後でわずかに転がり、停止した。
アミナは目の前に転がった球を見て、それが鉄球ではなく、精巧に似せた違う物だということに気付いた。磨いて艶を出すことによって先ほどまで男が投擲していた鉄球に似せてあるが、おそらくは弾力性のある樹脂を固めて造られた物だろう。そうでなければ、雨で幾分ぬかるんだ地面で弾むはずもなかった。ご丁寧にも威力を増すために重りまで入れてあるようだ。
痛みに悶え、身動きが取れないアミナを見て、ゾランはじっとりと湿った笑みを浮かべる。
「……流石に、あれだけ刷り込まれては避け切れなかったようですなぁ」
ゾランが持っていた球は二種類あった。今まで一種類しか使っていなかったのは、獲物の油断を誘うための策。まんまとそれに嵌ってしまったことを知り、アミナがガチリと歯を噛み締めた。
ゾランの舌舐めずりをした口から涎が一滴跳ねた。攻撃の挙動を確認し、アミナが痛んだ身体を押して側面に走り出す。
「ぐぅ……うぐ……ぅ!」
足を踏み出す度に振動が鈍痛を呼び起こし、食い縛った歯から呻き声が漏れ出した。そして、その痛みが保っていた集中力の綻びを広げていく。
数分もすると、その弊害は顕著に表れていた。敵からの度重なる攻撃に反応しきれなくなってきたのだ。上空から迫る攻撃を間一髪、跳躍して避ける。だが、次の攻撃に対する予想が追い付かなくなってくる。脳からの電気信号は増していく痛みと思考とを往復する。それが反応を遅延させ、精彩を欠く。結果、相手の攻撃がついにアミナの身体を捉え始める。最早、個人の力では逃れようもない悪循環に嵌っていた。
「ほらほら、どうしたぁ!」
アミナの衰弱具合を高みから見ていたテクラが、止めを刺すべく衝撃波を無数に放った。威力を落とし、形状も刃から殺傷力の低い球状に形を変えていたが、数は先ほどに倍するものだ。
アミナが何とか横に身を投げ出そうとするが、脇腹に再び激痛を感じ、動きが止まる。衝撃波がアミナの肩を掠め、着ているジャケットの袖を剥いだ。反動で身体が起こされ、捻る様に斜めに回転し、地面に投げ出される。
「あっ、ぐぅ……うぁ!」
地面に叩きつけられた衝撃で再び脇腹に痛みが襲ってくる。珠のような脂汗の雫が形の良い鼻の先から滴り、泥の水溜りに小さな波紋を作る。
銀色の美しい髪の毛は泥に塗れ、体には生傷が無数に出来ていた。体が頭からの命令に耳を閉ざし、動こうとしない。痛みと疲労はたくさんだと言わんばかりに。
テクラがゆっくりと暗闇から姿を現し、四つん這いになった泥塗れのアミナを見降ろして勝ち誇ったように胸を張る。
「くく、獣姫様ともあろうものが泥遊びかい? 嘆かわしい限りだねぇ。まるで何年も使い古した雑巾みたいだよぉ」
アミナは荒い息を途切れ途切れに吐きながら言い返す。
「……年増を必死で隠そうと、バターのように白粉を塗りたくっている、涙ぐましいそなたよりはマシだ」
「なっ――」
テクラの噛み締めた歯が剥き出しになった。
「何だとこの豚!」
テクラの手から衝撃波が発せられた。それを見てアミナの紅い目が煌いた。千載一遇のチャンス。辰力を込めた左手を後ろ手に、空を引っ掻くかのように振り抜く。
連なる五本の三日月形の刃が生じた。残っていた力を余すことなく込めた一撃はテクラの風魔法を容易く貫通する。
「しまっ――がっ!」
テクラの悲鳴が聞こえ、アミナは微かな笑みを浮かべた。だが、すぐに顔色が変わった。引き裂かれるはずのテクラの身体が横に弾き出されるように吹っ飛んだのだ。テクラは泥を転がり、うつ伏せの状態でようやく止まった。
「――いつつつ、な、何すんだい! このトンマ野郎!」
味方のはずの自分に向けて風の魔石を発動させたゾランに、テクラが自分の腰を擦りながら悪態を付いた。
「せ、折角助けて差し上げたのにその言い草はないでしょう。そちらを御覧なさいよ」
顔を真っ赤にして怒鳴ったテクラが、ゾランの指差した方角を見、一気に顔を青褪めさせた。目に映ったのはメキメキと音を立てて倒れている幾つもの大木と、腰丈くらいの切り株だった。アミナの渾身の一撃はわずか数秒で森の中に緑色の谷間を作っていた。
外した。
アミナは起死回生を狙った一撃を躱されたことに落胆を隠せなかった。一人だけでも消えれば、弱った体でも逃げ切れる見込みはあった。一方で、テクラは頬に何かが垂れているのに気付き、さり気なく手で顔を拭い、それを見て硬直した。
「……貴様ぁ、よくもアタシの顔に!」
激昂したテクラの手の平がアミナに向けられ、再度衝撃波が放たれた。避け切れないと判断したアミナが咄嗟に両手を交差させ、防御する。
しかし、力がほとんど残っていない身体では踏ん張ることすら叶わず、華奢な身体が跳ね飛ばされた。交差させた手が衝撃に堪え切れず、大の字になったその瞬間――
「――いっ!」
左腕の裏が楓の幹に激突し、肘の少し上辺りからあらぬ方向に折れ曲がった。ぶつかった木の幹を軸としてアミナの身体が横に投げ出され、泥の中を無様に転がっていく。
「……ぎ……あっ!」
仰向けの格好で、激痛にのたうつアミナの細まった視界に影が横切る。咄嗟に右手で地面を強く押し出し、横に転がって逃れる。数瞬遅れて、アミナの腹部を狙ったゾランの膝蹴りが地面に飛沫を作った。何とか身を起こそうと膝を突き、立ち上がり掛けたアミナを再び衝撃波が襲った。
「きゃああっ!」
またも圧し飛ばされ、小さく身を縮めたアミナの背が浅い窪みに溜まっていた泥水を巻き上げていく。
「ぐ……ごぼっ! ……うっぶっ……げほっ」
口の中に流入してきた泥に、アミナが何度となく咳き込んだ。その振動すらも響くのだろう。脇腹を押えようとするが、その腕は折れている。反応する代わりに違う痛みを訴えてきた。唇の端から涎が一筋伝う。
――どうやらここが、死に場所か。
ゆっくりと歩み寄ってくる敵二人を霞む視界に捉え、アミナは操り人形のように、左右にふらつきながらも立ち上がろうとした。だが、体を支える両膝が笑い、再び地に付いた。最早立つことすら叶わなかった。黒い水溜りに映った己の顔には、絶望の影がちらついていた。
「さて、どうやって殺してくれようか。少なくとも顔を傷付けてくれた礼はしてやらないとねぇ」
テクラが妖艶な美貌に不思議と良く馴染む醜悪な笑みを浮かべた。頬に刻まれた一筋の傷、そこから雨で禿げたペンキのように垂れる血がおどろおどろしさを助長している。
「しっかしまぁ、巷じゃ聡明だなんだと聞いていたけれど存外馬鹿な小娘だねぇ。一人でアタシら二人を相手にしようとするなんて、己を過信し過ぎじゃないか?」
テクラの意見は一見正しくあったが、アミナの胸中を正確には現していなかった。アミナは痛みに白んだ意識の中、自身の思惑が、誘導が成功したという一点においては安堵していた。
「じゃあ止めを――」
「――お待ちを。少し時間をかけてもらえませんか?」
後ろから掛けられた声に反応し、テクラが肩越しにそちらを見た。
「どういうつもりだい、ゾラン。あまり時間はないんだよ。任務そっちのけで遊んでいることがばれたらただじゃすまないし」
テクラの言葉にも、ゾランは商人らしい愛想笑いを崩さなかった。
「いやなに。幾つかの<忘れずの石>に獣姫様の悲鳴を吹き込もうと思いましてね」
淡々と、しかし非道な提案をしたゾランにアミナの目が見開き、反してテクラの口元が釣り上がった。
「ま、それくらいなら別に構わないけどねぇ。そんなのどうするんだい?」
「これがまた、物好きにはそれなりの値段で売れるのですよ。以前攫った有名な踊り子の物などは億近く稼げましたのでね。ましてやあの獣姫様であれば、もっと上を狙えるかも知れませんなぁ」
「そりゃぁいいね。……合作ってことでアタシとアンタで4:6でどうだい?」
「2:8です」
ゾランの突き放した言い方にテクラが唇を尖らせる。
「そりゃないだろうに。アンタ一人では倒せなかっただろうし、せめて3:7ってとこだ」
「1:3、これ以上は譲れません。売る場所を知っていなければ価値は著しく下がりますから」
小数点まで切り詰めるゾランに、テクラは苦々しい表情を隠せない。
「が、がめついねぇ。まぁいいだろ。――と言うわけだよ、獣姫様。楽には死ねると思いなさんな」
アミナに向けたテクラの笑みが数瞬して消える。唇を噛むアミナの目がまだ死んでいないことが、テクラにとっては面白くないことのようだった。
「まさか、まだどうにかなるとか思っているのかい? その身体で」
「……生……憎と、諦めが……悪いので、な」
痛みを堪えながらたどたどしく言葉を紡ぐ満身創痍のアミナを見て、テクラは失笑しながら横に首を振る。そして、視線の先に、アミナを絶望の淵に追いやる格好の材料があることに気づいた。
「……わかっているよぉ、援軍を待っているんだろう。でも残念ながら、一縷の望みすら断たれたようだねぇ」
テクラが唇を吊り上げながら顎で示した。アミナはそちらに視線を走らせ、辛うじて手で顔を覆うことを我慢した。それでも、敵を前にして不覚にも唇が小刻みに震え、歯がかちかちと音を鳴らした。抗いきれぬ恐怖で。
三人目の、彼らと同じような格好をした黒ずくめの者が、遥か先からこちらに向かってくるのが見えた。これほど離れていてもある程度はわかる。彼らに負けず劣らずの実力者だということが。青い燐光を纏い、そして、鎌を背負っていないということが。もしかしたらと思わせた、見知った黒ずくめの男ではなかった。
体から力が抜け落ちようとしていた。詰んだと言って間違いではなかった。折られた腕は動けと命じても小さく震えるだけで使い物にならない。腕が振れず、さらに脇腹まで痛めていては目の前の狡猾な狩人たる二人を振り切れるはずもない。集中力は既に途切れている。普段のアミナの五感であれば、敵の接近をテクラより早く察知していたはずだった。更に敵が増えるとあっては、助かる見込みはない。
魔石の霊体は届かなかったのか。援護にくるほどの余裕がなかったのか。それとも、自分が霊体を飛ばした場所から離れ過ぎてしまったせいなのか。待ち望んだ援軍は、終ぞ来ることはなかった。
仕方がない。アミナは心の中でそう呟いてみた。自分で納得するために、己の蒔いた種なのだと言い聞かせてみた。
案の定というか、その一言で割り切れるものではなかった。国のためにやるべきことを、祖父のキーアを置いて、孫娘の自分までもが先に逝くのだ。死ぬことに対する恐怖以上に、申し訳ない気持ちで埋め尽くされた。
――ジジ様、ごめんなさい。
謝罪の言葉が浮かび、思いがけず目尻に涙が浮かんだ。アミナのその様子を見て、女は愉快気に高笑いした。
「はっはぁ。どうしたんだい? 滑稽な話じゃないか。あの獣姫様が、こともあろうにべそを掻くとはねぇ。悪いけどこれからが本番だよ。せいぜいよがってもらって、高く売れる商品を作らなきゃねぇ」
投げ掛けられた挑発の言葉は、アミナの紅い目に火を灯す。
ただでは死ねない。せめて残った彼らの為に、一人だけでも道連れに。悲壮な覚悟を胸に、アミナが反応の鈍い身体に力を込めようとした。
「――止まり、ませんね」
微かに上擦ったゾランの呟きが、アミナの鼓膜に届いた。
「……何だって?」
テクラは眉を潜めているゾランの視線の方角を訝しげに見遣り、彼の言わんとすることを理解した。
自分たちが優位に立っているのは遠目から見ても明らかだろう。なのに、何故彼はあれほどの鬼気を纏い、猛然と走ってくるのか。
――まさか。
はっとしたアミナは、先ほど見た方角へと視線を走らせた。一時お互いの顔を見合わせていたゾランとテクラも再度そちらを注視した。
朽ち果てた傘のような穴だらけの黒い外套を闇に透かし、瞠目に値する足運びで間合いを詰めてきた三人目を。