第十六章 ~修羅、二人(1)(改)~
黒いバンダナを額に巻いた男は、雨雫が付いた銀の肩当てと膝当て以外、これといって防具を付けていなかった。鎖骨の部分には釣鐘型に身を覆うマントの留め金が黄金色に光っている。表地が灰色、裏地が黒色。それに隠れていて上着は見ることができなかったが、穿いているのはベージュのスラックスだ。
美青年と言って差し支えない顔立ちに反して、圭角を一切隠す気のないその態度。何より全てを睥睨しているような目で見られれば、どんな良識人も嫌悪感を募らせること請け合いだ。顎でしゃくる所作は、最早生まれつきなのではないかと思わせるほど様になっていた。
シュイがキャノエで初めてエグセイユ・スキーラと顔を突き合わせた時、彼に抱いた感情を一言で表すならば「何コイツ」だった。二度目の今日は「本当、何なのコイツ」だ。一カ月以上の時を経ても印象が変わらぬこと以上に、一度言葉を交わしただけの自分を本気で殺そうとする男が存在するということに驚きを禁じ得なかった。それも、よりによって緊急事態に陥っているこの状況で。
こんなことをしている間にも、他の傭兵や軍人は人々を守るべく魔物と必死に戦っている。下手をしたら自分たちが穴を開けたせいで人死が出ることだって有り得る。責任感の欠片もない目の前の男に、シュイは怒りを禁じえなかった。
「さっきの音はなんだ。まさか、俺を誘き出すためにやったのか」
「引っ掛かるのかもわからねえのに、んな七面倒臭いことするかよ、馬鹿が。あれは俺がやつらを倒した音だ」
エグセイユが素っ気無く親指で示した方向を見て、シュイは納得した。
彼の立つ位置の更に奥側には体長2メード強くらいの黒い魔物が二匹、並んで倒れていた。影獣とかいう魔物だ。そのうち一頭はこちらの方に向かって、黒く長い舌をだらしなく晒している。体毛がところどころ焦げていることから、魔法か魔石によるものだろう。
大型の狼に似ていて、牙までもが黒いこの魔物。<魔物解体新書>によれば豹をも上回る敏捷性を持っているとのことだった。が、目前の男の健在振りから察するに、それを苦もなく倒したということだろう。人格はともかくとして、腕だけはそれなりのもののようだ。
「しっかし、たまには真面目に任務に取り組んでみる物だなぁ。まさかてめえまで釣れるとは思わなかったぜ。それも、こんなお誂え向きのシチュエーションでな」
新しい玩具を貰った子どものように楽しそうなエグセイユを、シュイは冷気が漂ってきそうなほどに怜悧な面持ちで見据えた。
「何故一人でこんなところにいる。他の二人はどうした」
ランベルトの指示に従っていれば三人一組で行動しているはずだ。その詰問に、エグセイユはさして悪びれる様子もなく、自分の顎を指で撫でた。
「さぁ、そんなのこっちの知ったこっちゃねえなぁ。Cランク傭兵のお守なんざ冗談じゃねえ。まっ、どっかで必死こいて戦っているんじゃねえか? まったくどいつもこいつも、こんな雨の中ご苦労さんなこったな」
馬鹿にしたような口調でそうのたまうエグセイユに、胸奥から沸々と怒りが湧き上がるのを感じた。明らかな任務妨害。服務規定違反。確実に処分対象になるはずだ。
「自分のやっていることがわかっているのか? 任務放棄は重罪、下手をすれば追放だぞ。それとも、もしかしておまえ、連中のスパイだったのか?」
「……任務? スパイだぁ?」
それを聞いた途端エグセイユは目を丸くし、次いで両手で腹を抱えて笑いだした。
ようやく笑気が収まったのか、エグセイウは憮然とするシュイの前で、これみよがしに目を拭った。
「見当違いもいいところだな。何でやりたくもない任務を汗水垂らして、ずぶ濡れになってまでやらなきゃいけないんだぁ? それから、仮に俺がスパイで妨害を目的とするならお前みたいな三下じゃなくてタルッフィの方を狙うに決まっているだろう。脳味噌あんのか、カス」
正論を語るときですらいちいち語尾に相手を貶す言葉を付けなきゃ気が済まないのか。シュイが苛立たしげに足踏みすると弾けるような大きな音が鳴った。エグセイユが顔から笑みを消した。
「じゃあ理由もなしに俺を襲ったと? それこそ頭悪いだろ」
「理由ならあるさ。俺を馬鹿にした奴が同じ世界に息づくことを許せないって何より正当な理由がなぁ。それから、安心しろ。お前はオークにでも殺されたことにしてやる。名誉の戦死だぁ」
下級の魔物相手に殺されたことにされたら名誉も糞もない。もっとも、屈辱感を煽るためにわざと言っているのだということはわかっている。傍若無人、自己中という言葉ですら言い表すには温い。全く共感出来ない論理思考に、シュイは構えを崩さない程度に肩を竦めた。
「やれやれ、おかげでまた一つ利口になっちゃったな。世の中には人間の姿を借りた度し難い生き物がいるんだね。世界は本当、不思議に満ち溢れているよ」
シュイが放った言葉に応じ、エグセイユの目に仄暗い炎が宿る。
「そうそう、思い出した。そういう舐めた口の利き方だったぜ、てめえは。精々煽って俺を怒らせろ、その分だけ死に様が悲惨になるからなぁ」
エグセイユの脅し文句をシュイは鼻で笑い飛ばす。
「そうそう、精々そうやっていかにもな悪役を演じていてくれ。俺はあんたと違って至極常識人なんでね。外道相手じゃないと本気を出し切れないんだ」
売り言葉に買い言葉。叩き売りに対する衝動買いを繰り返す。今はギルド内と違って諌める者は誰もいない。何より相手が放してくれない以上、穏便に事が収まる要素はどこにもなかった。
いや、それも言い訳か。シュイは考えを改めた。逃げようと思えば逃げられる。それを知って尚この場に留まるのは、軽蔑に値する男に背を向けたくないという自分の我儘に他ならない。
「ならば、その本気とやらで精一杯抗ってみるがいい。俺がもたらす死の恐怖からなぁ」
エグセイユの言葉を最後に、二人を隔てるわずかな空間に力場が生じた。空気を撫でるように緩慢な動きで、エグセイユが腰に差している剣柄に手を掛けた。
同じように、シュイは背負っていた鎌を左手に持ち、覆っていた布を取り払う。所々、雨水で薄まった飛竜の血によってピンク色に滲んでいる麻布が宙に舞った。水気を多分に含んでいるため木の葉のように揺れ落ちる事はない。
布が見る間に地面に到達し、二人の姿がブレた。
鋭い鋼の調が建物内に戦慄き、場の空気を長々と震わせた。
その余韻が消えぬ間に建物内を二つの影が跳ね回る。
地に足を付け、宙を舞い、床で、作業台の上で。獰猛な狼と狼が幾度となくぶつかり合う。
鎌と長剣、武器で描かれる円弧同士が広げゆく領域を掻き消し合い、都度に金属音を打ち鳴らし、火花を散らした。
疾い。互いの印象が一時、嫌悪から称賛へと塗り替えられた。身軽さを身上とする己の動きに付いてくる相手に対し、驚嘆ともつかぬ息が漏れる。だが、続いては大人しくやられてくれない相手に苛立ちを募らせ、歯軋りしていた。称賛などは言わずもがな、彼方へと吹き飛んでいる。
間を取った二人が残像を残し、距離を瞬時に詰める。刹那的に大きくなる敵の姿を互いに視界に捉え、接近と同時に渾身の力で得物を振り抜く。
先ほどよりもずっと大きく耳障りな、鐘の音にも似た交錯音が辺りに木霊した。強烈な振動が四方に拡散し、天井の方に近い羽目殺しの窓硝子にヒビを入れていく。
「ぬぅっ!」
「ちぃっ!」
お互いの武器をぶつけ合い、弾かれた反動で腕が痺れにも似た痛みを訴える。踏み留まって体勢を直し、尚も前屈みに突進。猛る二匹の獣が己の牙をかち合わせた。互いの吐息がかかる距離で己の持つ得物を両手で支え、前へ前へと強く押し付け合う。擦れ合う金属同士が傷にも沁みそうな音を奏でる。
「へぇ。少しは、やるじゃねえか。Cランク風情にしては、な」
「少し、だ? それにしては随分と、険しい形相じゃないか」
「それはどうカァー――ぺッ!」
喉を鳴らした直後、唐突に言葉を打ち切ったエグセイユがシュイの顔に唾を吐きかけた。避けられない物をそれでも一瞬避けようと怯んだシュイを嘲笑うかのように、エグセイユが鍔迫り合いを押し切る。後方に突き飛ばされたシュイに対し、流れるように前に出て間を詰めると上段から剣を振り下ろした。
「――このっ!」
シュイが眼前に迫る刃を鎌の柄で間一髪横にいなす。続いては背中を反らし、首を折らんかという勢いで放たれた水平蹴りを回避。そのまま後転するように、足を宙に投げ出す。その慣性で、今度はエグセイユの蹴り出していた足の踝を上方へ蹴り上げた。エグセイユの蹴り足が浮き上がり、その勢いで地に立つ軸足までもが宙に数センチ浮く。
エグセイユが後方に宙返りしたシュイとほぼ同時に着地。痺れる足を強く踏みしめ、憎しみの籠もった目でシュイを睨む。
「ってえだろうが!」
そう吼えるや否や、返す刃をシュイの首元目掛けて薙いだ。シュイが大きく一歩下がって避ける。それを見計らったエグセイユが手首を捻り、突きに転じて踏み込む。
シュイが顔に迫る剣の切っ先を頬の薄皮一枚で避ける。突いた拍子に剣がフードを突き破り、外れかけた。
「グゥッ!?」
突かれた剣と擦れ違うように、咄嗟に繰り出した頭突きがエグセイユの鼻頭に命中。めきりと嫌な音を立てた。相手がよろめいて後退するのを見計らい、鎌を振り抜く。一瞬早くエグセイユが後方に跳躍し、鎌刃が空気を切り裂く音を響かせた。
頬を何かが伝っているのを感じたが、それよりも逆の頬にこびり付いた物が気に障った。シュイは頬を拭うことなく、鼻から血を滴らせたエグセイユに突進した。顔に唾を吐き掛けられた経験がなかったシュイの怒りは殊の外大きい。
――ってか、まだ落ちないし! 痰まで混ぜやがったな、この人でなしが!
「っざけんな!」
鎌刃を振り下ろすと見せ掛けてテコの要領で柄を引き下げ、柄の方を下から振り上げる。怒気によって多少荒くなったシュイの呼気を捉え、エグセイユが身を横にして回避。膝を曲げた状態から前蹴りを繰り出した。 予備動作に反応し、鎌の柄を両手で支えて盾代わりにしてそれを受ける。蹴られた衝撃で、両手で支えた鎌の柄が細かく振動した。負傷していた手首の痛みが更に増し、顔が歪む。
後退し、たたらを踏んだシュイに向かって、エグセイユが明らかに届かぬ場所から剣を薙ぐ所作を取る。シュイが危険を感知し、呼応するように左手を前に出して詠唱。
「<ヴィーク流・疾風の剣>!」
「<吹き荒ぶ風>!」
辰力を込めた剣から放たれる三日月形の剣風と、魔力で密集させた球形の突風が双方向から発生。二人の狭間でぶつかり合う。衝突で巻き起こった旋風が縦横無尽に荒れ狂い、建物内の備品を遮二無二押し倒していく。シュイの黒衣が、エグセイユの灰のマントが風に乗って暴れ出す。
十秒ほどの鬩ぎ合いを経て、やや押され始めていることを確信したシュイが発動を破棄。側面へと跳躍する。一瞬遅れてエグセイユの剣風がシュイの突風を押しのけた。シュイの後方にあった、建物を支えている鉄の柱を何本か、まるで豆腐でも切るかのようにいとも容易く切り裂いていく。
黒衣を翻して向き直り、真っ先に目に飛び込んできたその光景に、シュイは薄ら寒い思いを禁じえなかった。性格破綻者でも腕は一流。現時点では相手が格上だ。しかもこちらは片手を負傷している。
だが、今更逃げることなどできるはずもない。プライドの問題だ。敵わないならば自分はそこまでの人間だったということ。我武者羅に戦うまでだ。
シュイが破滅的な考えに囚われかけた時、ふいに記憶の一部が明滅した。
『戦いに怒りは不要だよ。相手が格上なら尚更、怒りを鎮めて冷静に現状を把握しなさい。傭兵にとって一番大切な仕事は、生き延びることだからね』
ニルファナの言葉が脳裏に蘇り、シュイは怒り任せに行動していた自分を諌めるべく、エグセイユの方に踏み出しかけた足を止める。
自分の方に倒れてきた幾つもの鉄柱を見止め、横に退いて避ける。見事な切り口で切断された鉄柱がわずかに弾み、床に密着した。
「おら、出てこいよぉ!」
エグセイユがのべつ幕無しに、周りの鉄柱をシュイの方へと倒れるよう斜めに切れ目を入れていく。シュイは倒れてくる鉄柱を避けるべく縦横無尽に動き回り、加速し、ときに減速する。
鉄柱が傘の骨組のように積み重なっていく最中、エグセイユから視線を外さぬままに次なる魔法を準備すべく、持っている鎌に自身の魔力を結合。エグセイユが痺れを切らしてこちらへ跳躍したのを見計らい、即時詠唱。
「<絡み付くは雷の蛇>!」
シュイの鎌が雷に覆われたのを見てエグセイユの顔色が変わった。雷を纏わせた鎌がシュイの手から、エグセイユに向けて放たれる。
まさか得物を手放すとは思わなかったのだろう。二重の驚きでエグセイユの反応が一瞬遅れた。そして、その遅れは鎌に触れずに回避することを許さない。
飛んできた鎌を剣で打ち払うも、帯電していた雷が金属を伝い、エグセイユの身体をひた走る。空中で敵の体勢が崩れたのを目に留め、勝機を見出したシュイが跳躍。これで終わらせるとばかりに、折れてない方の拳に渾身の力を込めた。こんなところで時間を潰している暇は毛筋ほどもない。短時間でケリを付ける必要があった。
だがしかし、仮にもBランクの傭兵相手にその考えは少し甘かった。
勝負を急いたシュイを見透かしたかのようにエグセイユの目が色を失い、白い歯が歯茎毎剥き出しにされた。不安定な体勢ながらも革袋から何かを掴み取り、接近してきたシュイの方へと撒き散らす。
魔石だ。視界に散らばる黒い物体を確認し、半ば反射的に<吹き荒ぶ風>を詠唱。魔石が爆発を生じさせるのとほぼ同時のことだった。
魔石の半数近くがシュイの間近で爆発を引き起こし、工場内に轟音が響き渡った。室内の窓ガラスという窓ガラスが一瞬にして砕け散り、建物の外側へと押しやられる。
生じた爆煙に呑まれたシュイを目で捉え、エグセイユが歪んだ笑みを浮かべた。だが、勝利を確信したのは一瞬のことだった。
爆煙を突き破り、石礫のような物が飛来してきた。<吹き荒ぶ風>によって弾かれ、誘爆を免れた魔石が自分の方へ戻ってきたのだ。
体に吸い寄せられるかのように迫る魔石を見て、エグセイユの顔色が青褪めた。ろくに防御姿勢を取る間もなく、魔石が眩い閃光に包まれる。
爆風に巻かれたシュイの体が、生じた歪な球状の爆煙の下部から突き出る。背中から強かに地面に叩き付けられ、10メードほど床を滑る。その際骨折していた手が地面に擦り付けられ、激痛を訴えた。
「があぁっ! ――ぁあぁっ!」
熱さと痛みとでまともな声すら発せられなかった。痛んだ方の手首を掴みながら、はぐきから血が出るほどに歯を食い縛る。気が遠くなるような痛みで頭が真っ白になりかけたが、辛うじて意識を繋ぎ止めることに成功する。
こちらよりやや遅れて、上空へと吹き飛ばされたエグセイユの体が天井の鉄骨に激突するのが見えた。エグセイユは飛びかけた意識を取り戻そうと落下中に頭を揺り動かし、四つん這いで床に着地した。
「んぎっ! ……ぅ」
ピシッ、と磁器に亀裂が入った時のような音がし、エグセイユの口から掠れた音が漏れた。見る見るうちに額から脂汗が浮かんできた。肘か、膝か、それとも両方か。どこかしらにヒビが入ったのは間違いなさそうだ。
二人の着ている服は焦げてボロボロになっていた。露になった肌からは軽い火傷の痕。血が滲み出ている箇所も増えてきていた。
どちらかといえば好戦的な二人が、お互いに姿勢が崩れているのを目の当たりにしても、すぐに飛びかからない。それは、両者共に決して軽くない怪我を負っていることを意味していた。
エグセイユが床に剣を突き刺し、それを支えにして立ち上がろうとする。対するシュイも、折られた手を庇いながら膝を立てた。
「て、手前は、いちいち小賢しい真似しやがって。ゲリ野郎が」
「それは、こっちの台詞だ。痛ぅ、この、ウジ虫」
エグセイユの美しくない言動に中てられたか、らしくもない台詞がシュイの口から漏れた。謂われなき因縁をつけられた上に怪我まで負わされては腸が煮えくり返るのもせんなきことだ。
爆発でのダメージがかなり響いたのか、お互いに喋るのも億劫そうだった。痛みが治まるのを待つかのように、二人はその場で座り込んだまま荒く息をしている。
鎌を回収するか、それともそのまま戦いに移行し、畳みかけるか。
全身の痛みを請け負う頭の中に、戦略思考を強引に割り込ませる。ダメージは鎌に込められた雷をまともに浴びた分エグセイユの方がやや重いはずだ。
シュイが立ち上がると同時にエグセイユも負けじと立ち上がる。荒い息を押し殺し、構える。
「もう……冗談でした、じゃ済まさねえぞぉ。手足の端から一寸刻みにしてやるっ!」
毒づき、拳をこちらに向けて握り締めているエグセイユの言動に、片頬が引きつるのを感じた。ここまでやっといて今更何を言っているんだ、こいつは。溜息を吐き出そうとしたが、呼吸が乱れていてそれらしき息がその他多くの呼吸の中に埋もれてしまう。
心配しなくても貴様の存在自体が冗談みたいなものだ。だが、性格の悪さに加えて言語の扱いまでが不自由とは何とも不憫でならぬ。大人しくママのおっぱいでもしゃぶっているのがお似合いかと思うがいかがか。お望みならぴったりな乳母車をチョイスしてやる。そうだな、ガラガラ付きがよろしかろう。
念話で順に伝えていくうちに、エグセイユの顔が段階的に紅潮していき、頭から湯気が立ち上ってきた。
「……こっ、ここまで俺をムカつかせた奴は、いなかったぞ! このゴキブリが!」
黒いだけに、ということだろうか。洒落にしても本心にしてもゴキブリ扱いは腹が立った。
乱れていた呼吸が整ってきたところで、シュイがようやく溜めていた言葉を返す。
「……お互い様だ。人様を虫けら呼ばわりするなんて、人間としてどこか欠陥があるんじゃないのか。バカって病につける薬が、一刻も早く開発されることを願うよ」
指先を向けてそう言い放った後で、はたと思い出した。こいつ以上にムカつくやつは、以前にもいた。
「……こっ、先にウジ虫呼ばわりしたのは手前だろうが!」
「……細かいことをねちねちと、女々しさもはなはだしいな」
過去に見た醜悪な笑顔が輪郭を結ぶ前に消失する。
シュイは体中に感じる痛みと熱を押し殺し、肩を竦めた。どうやら自分という人間は、嫌な奴に対してはどこまでも嫌な奴を演じられるらしい。自分の新たな一面を見出し――しかしそれがお世辞にも褒められたものではなかったので――何ともやるせなさを感じた。
度重なる挑発的な所作が気に食わなかったのか、エグセイユは酷い風邪でも引いたかのように肩をわなわなと振るわせていた。だが、少しして大きく深呼吸した。落ち着きを取り戻す術も一応は身に付けているらしかった。あるいは感情が高ぶりすぎて、空気が漏れ出る風船のようにしぼんでしまったのかもしれない。
「……もういい、時間の無駄だ。これ以上俺の有意義な人生にてめえ如きが出しゃばることは許さん」
自分勝手な人生哲学の一節を一方的にのたまうと、エグセイユが剣を両手で持ち、天に掲げた。次いで自身の魔力を解放し始めた。剣を取り巻く魔力流量の多さから、どうやら切り札的な何かのようだった。
まだやる気か。シュイがあからさまに舌打ちし、構え直そうとした。
「……魔石か?」
先に気付いたのは、空を見上げていたエグセイユの方だった。シュイにもそれが、所謂騙すための振りでないことがわかった。連絡用の魔石の霊体が戦いを止める調停者のごとく、二人の間に割り込んできた。
背筋が寒くなった。いつもの青ではなく、最寄りの者に緊急事態を知らせるための、毒々しいまでの赤だった。そして、それが二人を隔てる空間に書き殴った言葉を見て、シュイとエグセイユが揃って息を呑んだ。
『劣勢につき至急援軍を求む、アミナ・フォ――――――』
切羽詰まった状況を表すかのように、その名前は途中で断ち切られていた。