第十五章 ~(3)(改)~
雨音に混じって吐息にも似た呟きが木霊していた。年季のいった樫の杖を横向きに、祈りを捧げるように両手で掲げていたゲシュペト・キルピオは肩越しに後ろを睨む。そこには並び建つ建物の隙間から見える南の空に目を凝らしている黒ずくめの男、モルゾウ・クウガの姿があった。
「何じゃ? 何か言ったか、クウガ殿」
ゲシュペトがしわがれた声で訊いた。見た目は六十ほどと思われるが、髪の毛が真っ白であるから実際はもう少し上かも知れないが、綺麗さっぱりと剃られた髯と背筋が真っ直ぐに伸びた姿勢はむしろ若々しい印象を与えていた。
「上空を旋回していた飛竜の姿が見えない。どうやら排除されたようだな。敵もなかなかやるものだ」
コントラバスの響きにも似た低い声が返された。齢は四十過ぎくらいだろうが、細い目の下にある刀傷が人相の悪さに拍車をかけていた。髪の毛は剃髪と言わぬまでも相当に短く刈上げ、頭の形がはっきりとわかる。喉に見える縄のような痣は拷問の痕のようだ。
「ほっほ、そんなことか。心配しなくてもネタはまだたくさんあるぞぃ」
ゲシュペトは他愛ないと言わんばかりに視線を元に戻す。老人の足元には赤い線で小さな六茫星の魔法陣が描かれていた。ゲシュペトが瞑目し、念じると両手に置かれていた杖が宙に浮かぶ。それに呼応するように、魔法陣が淡く光り始めた。
「呪術とは便利な物だな。こうも手軽に魔物を呼び寄せることができるとは」
「随分と簡単に言ってくれるが、容易そうに見えて色々と制約があっての。一度に使役出来るのは三匹までじゃし、遠くに離れている魔物を呼ぶほどに魔力を消費する。まぁ、暴れさせるだけならそんなに苦労もないがの」
そう言いつつもゲシュペトは指先から魔力を解放し、魔法陣の上で創造した文字を三重の輪で形成された空欄に継ぎ足していく。その際、魔法陣の中央を向くように配慮もしているようだ。
杖がくるくると回り、並ぶ文字が増えていく度に、陣から放たれる光量が多くなっていった。その様子をどこか眠たそうに見ていたクウガは再び後ろの方を見た。どこか未練がましそうに。
「そろそろ地味な作業にも飽いていたところだ。少し遊んでくるか」
「待て待て! クウガ殿、よもやカストラ殿の命を忘れたわけではあるまいな」
踵を返したモルゾウを、ゲシュペトが非難めいた口調で制止した。
「この区域での目標は既に達成している。合流まではまだまだ時間がある、多少暇を潰したところで問題なかろう」
「あのな、あまり勝手なことをする――」
「すぐに戻る」
「あっ、これ、待たぬかっ!」
言い捨てるや否や、モルゾウは住宅街の方へと走り出していた。ゲシュペトが慌てて振り返ったときには、その姿は遥か彼方にあった。
今から走っても追い付けまい。ゲシュペトの眉間に深い皺が幾重にも刻まれた。
「全く、仕方のない戦闘狂じゃ」
ゲシュペトが厄介事を背負い込んだように頭を抱えた。モルゾウだけに留まらず、どいつもこいつも自己中に過ぎた。振り回されてばかりいる現状がどうにも腹立たしい。道端に落ちていた小石を尖った靴の爪先で蹴り飛ばす。小石は路地を数回跳ねてから壁の方に軌道を変え、ぶつかって止まる。
「まぁ、無用な心配かのぅ」
エレグスの要人暗殺によって一億五千万パーズもの懸賞金を掛けられている賞金首、モルゾウ・クウガ。賞金額の高さは実力に比例する。彼の安否を気にするより先に、やらなければならないことが山ほどあるはずだ。
ゲシュペトはようやっと落ち着きを取り戻し、魔物を呼び寄せる作業を再開した。
屋根の上で合流したシュイとランベルトは付近を見回し、魔物がいないことを再確認していた。
「飛んでいるやつはもういないみたいだな。ここは、もう良いか」
鎌刃に布を巻き直しているシュイに、ランベルトがうなずいた。
「うむ、長期戦を覚悟していたが存外早く片付いた。嬉しい誤算というやつだな」
「つまり、あんまり期待されていなかったってことだね」
語感に自嘲の響きを感じ取ったのか、ランベルトは笑みを誘われたようだった。
「評価を改めた、と言ってもらいたいな。あまりくだらぬことを気に病むものではない、一応は私なりの褒め言葉のつもりだ。悪天候らしかぬ素晴らしい使い心地だったぞ。如何せん使い手は少ないが、付与とは真いいものだな」
「ま、そこまでたいしたこともないけどさ」
褒められたら褒められたでこそばゆい。シュイは照れ隠しにぷいと横を向いた。ランベルトは束の間頬を緩めてから、周囲の様子を把握するべく三角耳をピクピクと動かし始めた。
「使役者もここを離れたようだな。少なくとも、何者かの気配はない」
「どうする? 一旦ギルドの方に戻ろうか」
「ふむ、異常がなければ連絡が来るまで待機するべきか」
「よし、じゃあ――」
微かに軋むような音が空気を震わせ、ランベルトが、次いでその様子に気付いたシュイが南側を向く。小高い丘の上では鉄塔が拉げ、危なっかしく揺れていた。
「あれも……だよね?」
「いや、あそこは王城に近いからあちらで対処するだろう」
ランベルトの表情を見る限り、口にした言葉は必ずしも本心ではないようだ。上の立場にある者は下の者の働きを信用しなければならないが、相手の実力が未知数だけに不安が残るといったところだろうか。
「そっか。なら今度こそ戻ろうか」
ランベルトがうなずきかけた時だった。
『!!』
峻烈な殺気が並び立つ二人の間を風と成って通り抜けた。シュイとランベルトが目を見開き、瞬時に後ろを振り返る。
50メードほど後方。フードの有無以外、シュイの姿を写し取ったかのような格好をした男が一人、煙突の上に佇んでいた。
この距離を無視して明確な畏怖を感じさせたことから、相当な手練なのは疑いようがない。明らかに、キャノエの教会で相見えた男よりも強い。背筋に冷たい物が流れている。
「敵、だよな。あいつ、何でわざわざ?」
ランベルトは、返事はせずに目を細めた。
「誘っているつもりか? いや、それよりあの顔は、どこかで」
「知っているのか?」
というか、ここから見えるのか。シュイは雨の中に目を凝らしてみるが、霞む視界の中では顔の輪郭すらも判り難かった。獣族の感覚器官が優れていることは知っていたが、ランベルトはその中でも群を抜いているようだ。だからこそ、支部長を任される立場にまでなれたのだろう。
「人相は少し変わっているようだが、おそらく間違いない。モルゾウ・クウガ、高額賞金首リストの前頁の方に載っている暗殺者だ」
どの雑誌にでも言えることだが、前頁に近いほど知名度が高い者が載っていることが多い。その事実を知るだけでも実力を窺い知ることが出来た。
「強いんだな」
というのもいささか間抜けな発言だったようだ。ランベルトは少し苦い顔をしてみせた。
「弱いはずがなかろう、シルフィールでも第一級指定犯罪者に分類されている危険人物だ。しかし、あれほどの大物が加担しているとはな。どうやら敵は想像以上に厄介な相手のようだ」
「どうするんだ? やっぱり、ここは住宅街だから戦闘は避けた方がいいかな」
ギルド前に集合した時のランベルトの弁を思い出しながら、そう言った。
「少し考えを修正せねばなるまい。ぬしは魔石を使い、私の名においてギルドに連絡を取れ。受付員を遊ばせておくような事態ではないから閉店しろとな。どうせ今日は客も来ないだろう。受付員は全員Bクラス以上の傭兵。戦いに加わってくれれば楽になる」
信じ難い発言に、シュイは耳を疑った。
「タルッフィさん、まさか戦う気? 出来るだけ戦闘を控えるんじゃないのか?」
「幸いこの近辺は先ほどの飛竜騒ぎで避難も済んでいる。やつとて己の腕だけを頼りに闇の世界を生き抜いてきた男だ。人質を取るような真似をして茶を濁す、もっと言えば己の名を汚すことはあるまいよ。ぬしは連絡を取った後一旦ギルドに戻って彼らと合流し、任務を続行しろ」
「でも、一人で勝てるのか?」
シュイの言葉に不安を感じ取ったのか、ランベルトは軽く肩を竦めた。
「心外な台詞だな。私とて伊達に支部長を張っているわけではないぞ。それに、相手が一人ならこちらも一人の方がやりやすい。これは心理的な問題にもとるが」
対等に戦いたいという気概によるものか。暗に手出し無用と言われ、シュイは口を噤む。
「仮に私が全力を出しても勝てぬような相手なら、ぬしがいたとてあまり助けにはなるまい」
その言葉は流石に聞き逃すことが出来ず、食ってかかろうと一歩踏み出した。ランベルトが手で制し、淡々と言葉を続ける。
「別にぬしの力が劣っているとは思わぬ。が、その力を遊ばせておく気もない。何より、負けるつもりは毛頭ない。我儘ついでに済まぬが、先ほどの付与をもう一度頼む。それで十分に過ぎる」
シュイは不承不承ながら、出した足を引っ込め、差し出された鎖に手をかざした。
<世の産声を今尚伝える風よ その息吹掴みし手に 加護を施す力を>
再び、ランベルトの持つチェーンクロスが風の膜に覆われていく。
「感謝する。では、健闘を祈る」
「こっちの台詞だろ。後で豪勢な晩飯驕って貰うからな」
シュイの軽口にランベルトが眉を上げる。
「ふむ、良かろう。約束しよう」
シュイがその場から離れていくのを合図に、モルゾウとランベルトがほぼ同時に互いへと走り出した。10メードほどの距離を空けて、双方違う建物の屋根の上で足を止めて対峙する。
「……ランベルト・タルッフィか。シルフィールの支部長自らお出ましとは痛み入る」
「どこまでも侮れぬやつらよ。フォルストローム軍に限らずシルフィールの組織構成も把握済み、というわけか」
「我らが草は至る所に伸びている。取り除いたとてその根は残る。いつまでも」
ランベルトの眉がわずかに上がる。
「我ら、か。ぬしのような者が群れているとは少々解せぬな。忍びの者が表舞台に出てきて一体何を成そうというのかな」
「悪いが世間話をしに出てきたわけではない。退屈凌ぎにきたのだ。わかったらさっさと構えろ」
素っ気なくそう言い、モルゾウは袖に仕込まれていた妙な形状の短剣を取り出した。ランベルトはそれに見覚えがあった。苦無とかいう異国の諜報員が使う武器だ。刃と柄との境目がはっきりしないそれは黒く塗られており、いかにも無骨で、無機質的な冷たさがあった。
「意外とせっかちだな、ぬしは。元々暗殺者向きの性格ではないということか」
そういいつつ、ランベルトも鞭持つ手を後ろ手にし、モルゾウに構えを取る。
降りしきる雨が少しずつ弱まってくる。雷が二人のいる建物を分かつ様に空を縦断。互いの右目と左目を稲光が覆い隠す。
「……辞世の句はあるか?」
雨音の中、不思議と響くモルゾウの低い声に、ランベルトは薄く笑う。
「退屈凌ぎで命を落とす事もあるぞ、と言ったところか」
「ふん、面白い」
モルゾウがいかにも愉快そうな笑みを返す。
二人の放つ気勢に触れ、弾き飛んだ雨が更に細かい粒子と化す。霧雨のようになったそれらが辰力を高めつつある二人に纏わりつき、螺旋を描きながら蒸発霧を生む。屋上から二対の白い柱が天へと駆け上っていく。
張り詰めた空気が限界まで凝縮して行き、遠方で響いた爆発音をきっかけとして、相対する二人の目が見開かれた。
――――――
魔石での連絡を終え、シュイはギルドへ戻るべく来た道を逆戻りしていた。雨は先ほどより勢いを弱めていたが、時折成り響く雷鳴は相変わらずだった。
ランベルトは大丈夫だろうか。ちらちらと後ろを振り返りながらも、心にこびりついた微かな不安を払い落とせずにいた。だが、彼とて準ランカー。しかも支部長ということはランカーに相当近い位置にいるのだろう。
そうと認めたくなかったが、自分がいたところであまり出来ることがないのも確かだった。アミナの助太刀でなんとか勝ちを拾ったキャノエの教会での一戦から、さほど時が経過したわけではない。今の実力ではまだ足を引っ張るだろうし、たとえ奥の手を出したところで援護に使えるような代物ではない。
走っている最中、遠雷の音に混じってやや近くで爆発音が響き、足を止めて音が聞こえてきた方角を見遣る。束の間、明滅した視界に映ったのは高さ15メードほどの、屋根がドーム型の大きな建物だった。
「なにかの工場か?」
まさか中で魔物が暴れているのだろうか。その可能性が頭に浮かぶと、続いてはそのまま見過ごしていいのか、という考えに囚われる。
「一応、様子だけでも見ておくか」
自分の力でも倒せそうな魔物なら始末しておいた方がいいだろう。どうせギルドに戻ったところで魔物を始末することに変わりはない。万が一、敵が複数であっても足には自信があるから逃げながら魔石で応援を呼べばいい。
結論が出るとシュイは警戒網を限界まで張り巡らせ、そちらの方角へと爪先の方向を変えた。
その判断が、自分の運命を大きく左右するとも知らずに。
工場と見られる建物の近くまでくると、丸太で作られただけの簡素な資材置き場があった。石炭が木の箱に入れられ、堆く積まれている。その箱の奥には、長方形に切り揃えられた木材が一定数に分けて縄で束ねてあるのが見える。
シュイはそれを尻目に、建物の入り口にゆっくりと近づいていく。
五階建てくらいだと思っていたその建物は、一つの巨大なフロアだった。中に置いてあるのは作業台、あるいは建物を支えている鉄骨といったものだ。入り口の左右側には二階側の細い通路へ上るための階段が設置されている。
「おかしいな、この辺りで爆発したはずなんだけど」
音の発生源になりそうなものはどこにもなかった。ぱっと見る限りでは魔物の姿形も見当たらない。息を殺しながら、慎重に中へと足を進めていく。外套に弾かれた雨が雫となって流れ、滴り落ちた。その音がやたらはっきりと聞こえた。
広間の中ほどまで来た途端、警戒網に何者かが引っかかった。素早くその方角に向き直る。だが、そこにあったのは鉄製の、舟形の石炭入れだ。
唐突に視界が暗くなるのを認識し、瞬時に斜め上を向く。目に飛び込んできた影に、反射的に右肘を曲げて防御態勢を取った。
手の甲に強い衝撃が走るのを感じ、呻き声が漏れる。履いている靴の底が床を擦り、生じた熱で焦げついた。5メードほど押し出されたが、何とか踏み止まってそちらを向いた。間をおかずに黒い影が目の前に迫る。咄嗟に横に身を投げ出す様に転がり込む。遅れて左頬が熱を帯びるのを知覚した。敵の足先が掠っていた。
床に両の手を付いたまま、シュイは敵の再度の跳躍に合わせるように詠唱。
「<氷結壁>!」
地面から天へ伸びるように氷の壁が出来上がる。刹那、摩擦音と粉砕音が混じったような音が鼓膜を震わした。敵の足が氷の壁の中央にめり込み、亀裂が壁の四隅に伸びていく。
危険を察したシュイがその場から飛び退くと同時に氷の壁が破砕される。シュイが先ほどまでいた場所に氷の破片が飛散、床にも落ちて硬質な音を奏でた。
距離を取ったシュイは、頬よりも手の甲のダメージが大きい事に気づいた。鈍い痛みがじわりじわりと指先に向かって侵食していく。右手の中手骨のいくつかにヒビが入ったようだ。
まだ動くことを確かめるように痛む手を軽く握り、ゆっくりと開く。ただそれだけだったが、目の前にいる青髪の男は勝利を確信したかのようにほくそ笑んだ。
「くく、痛んだようだなぁ? それなりの手応えがあったからな」
敵の正体と洞察力に対する動揺を飲み干し、シュイは構えを崩さずに口を開いた。
「予期していたとはいえ、それでもまさかという思いが否めないな。任務中にこんな真似をしておいて、よもやただで済むと思っていないだろうなっ!」
歪んだ笑みを浮かべるエグセイユ・スキーラを見据え、シュイは怒りを露にした。