第十四章 ~(3)(改)~
他のテーブルでは軽食を頼む者がちらほらと出始めている。柱時計は正午十分前を差していた。
二時間余りに亘って赤裸々な慣れ染めを聞かされたシュイは、疲れを隠しながらも口を開く。
「た、確かにアミナ様は素敵な方だと思いますが、少なくとも告白した覚えはありません。おそらく、俺以外の誰かじゃないでしょうか?」
リズは「うーん」と首を傾げた。
「ですが、姫様は相手の顔がわからないと仰っていました。顔を隠している傭兵は――」
「――他にもいないことはないですよ。実際、キャノエのギルドでも二人程見かけましたし」
「本当ですか? ……ふぅ、振り出しですかぁ」
三角耳が寝るほどにしょんぼりしたリズを見て、シュイは少し申し訳ない思いに囚われた。が、心当たりが無いのに滅多なことを言えないのも事実だった。
「でも、あれですね。アミナ様って本当に人気がありますね」
リズは、シュイが話の合間に頼んだオレンジジュースを一口飲んでからうなずいた。
「そうなんですよー。傍から見ていても頑張り屋ですし、同性の私から見ても魅力的に映りますからね」
「ですよね。だったら放って置いても自己解決するんじゃないですか?」
リズは視線をテーブルに落とした。
「まぁ、そうなんでしょうけれど。姫様の場合、背負う物があまりに多過ぎますから。その反面、自分のことに対して無頓着な面もありますし、出来得る限り力になってあげたいのです。多分、姫様自身にも周りにそう思わせる何かがあるのでしょうけれど」
リズはそう言って眉を潜めた。確かに、十六歳の少女が国の期待を一身に背負うのは生半可なことでは務まらないことはわかる。アミナ以上に王族の責務を全うしている者が果たしているだろうか。シュイには想像もつかなかった。
「どうやら私の早とちりだったみたいですね。お時間を取らせてしまい、申し訳ございませんでした」
「ああ、いえ。俺も結構暇していたので気にしないでください。どうせ図書館にいくくらいしか予定はなかったので」
「図書館、でございますか?」
依頼完了まで六日の猶予があること、勉強をしにフォルストロームを訪れたことをシュイが告げると、リズは何かを思い付いたように手を叩いた。
「まぁ! それなら私もお力になれそうですわ」
「力、ですか?」
怪訝そうな表情を浮かべるシュイを尻目に、リズはポケットからメモ用紙を取り出し、一枚破ると何かをペンで書き始める。
「ええ。あそこには一般の方には立ち入り出来ない区域がありまして、希少な書物もいくつか置かれているのです。もしよろしければ――」
リズは書き終えたメモ用紙を破り、シュイに両手で差し出した。
「この署名を入口から入って一番右奥にいる受付員にお持ち下さい。閲覧制限区域に入れますので」
「制限区域……。でも、良いんですか?」
シュイは受け取った紙をマジマジと見つめながら訊ねた。閲覧制限されているからには、それなりの禁書が収められているはずだ。少々失礼な言い分ではあるが、一介のメイドがポンと許可を出していいものとは思えなかった。
「シルフィールの傭兵さんでしたらこれから先、姫様のお力になることもあるでしょう。その方の手助けをすることに問題などありませんわ」
リズの朗らかな笑顔がシュイの躊躇いを払拭した。
「そうですか。ではお言葉に甘えさせていただきます」
「はい! では、私はそろそろ王城に戻る時間ですので失礼致します」
「ええ、ありがとうございま、あれ?」
リズが立ち上がり、シュイが釣られて顔を上げた。だが、リズの姿はそこにはなかった。既にリズは宿の出口に移動していた。入り口を振り返り、固まるシュイを見て、リズは優雅に一礼するとあっという間に姿を消した。
「な、何て身のこなしだよ」
囁きのような声が、勝手に口から漏れ出ていた。
北区から南区への陸橋を渡り終え、大理石で出来た長い階段を上っていく。
図書館はシルフィールのギルドから程近い場所にあった。ギルドの入り口から階段を上り、高台に出て右手に見える建物だ。
近くまで来ると、建物はまるで神殿のように、筋状の窪みがある長い円柱に支えられていた。屋根の付いた広い階段を三階分ほど上ったところに入口があった。そうしている間にも何人かが中に入っていき、それと同じくらいの数の人が外に出てきていた。
図書館内に入ったシュイは思わず感嘆の息を漏らした。建物は一階から五階まで四角い吹き抜け状になっていた。雨による湿気と強い日差しは蔵書の天敵であるため、高い天井は曇りガラスで塞がれている。驚くべきはその広さだ。中央の通路の突き当たりの壁は50メード近くも先にあった。
館内は利用者の貸し出しの応対を除いては内緒話しか聞こえないくらい静かではあるのだが、ちょっとした規模の食料品店を思わせるほど人の往来が多い。
長いカウンターには受付員が8人も座っており、それでも列になって順番を待っている利用者が大勢いる。
シュイはしばしの間立ち止まってそれを眺めていたが、リズの言い付けを思い出し、右奥の通路へと歩いていく。
突き当たりを左に曲がると、地下への階段の手前に小さなカウンターがあり、その奥側に受付が座っているのがわかった。制服を着た若い森族の男が読んでいた本から目を離し、近づいてくるシュイの格好に戸惑いつつも会釈をした。
「申し訳ありませんが、こちらは一般の方は立ち入り禁止となっております。もし読みたければ王城にて閲覧の――」
「これを確認して頂きたいのだが」
「え? ……あ、これ!」
シュイがリズから託された続け字のサイン入りのメモ用紙を見て、受付の顔が明らかに強張った。
「いや、大変失礼致しました。ヘイロン家所縁の方だったのですね」
失態を犯したかのように謝罪する受付を見て、シュイは目をぱちくりさせた。
「え、あ、あぁ。そんなところだ」
出会って間もないが、縁は縁だろう。都合の良い様に解釈することにした。
「こちらの書物は全て持ち出しが禁じられています。内容を書き写すこともなりません。係の者が監視しながらの閲覧となりますが、それでよろしければお入りください」
「わかった。でも、随分と厳重なんだな」
本を読むだけなのに監視まで付けられるとは、今までに聞いたことがなかった。
「悪用を防ぐためです。封呪とまではいきませんが、それに継ぐ魔法書なども置いてありますので」
「えっ、そんな強力な魔法書が置いてあるの?」
「……の?」
「……か?」
予想外のことに地が出てしまったシュイは、律儀に語尾をつけ足した。
案内する――と言うより監視の意味合いが強いのだろうが――受付の後を追って地下への階段を下りていくと、空気が段々とひんやりしてきた。紙が痛まぬように空調を効かせているようだ。
螺旋状の狭い階段を下りきるのにはそれなりの時間がかかった。おそらく4階分くらいは下りただろう。階段が途切れた先は狭い通路になっていた。床には黄色い絨毯が敷かれているが、5メードほど先に影のような物があった。
「あれって、油汚れか?」
シュイが歩きながら絨毯を指し示して訊ねると係員は
「いいえ、血です」と顔色一つ変えずに答えた。
ああ、とシュイは頬を掻いた。
「ちゃんと事前に忠告していたのに書き写そうとしていた閲覧者がいたので無理矢理連れ出そうとしましたら殺意を以って抵抗してきまして、仕方なく強制的に排除しました」
ということは、受付が手を下したのだ。シュイの目が自然と受付の腰にある剣に向いた。
「へぇ、そういうことって結構あるのか」
「以前は一般の方にも限定的に公開していたのですが、そんなことが立て続けに起こった時期がありましてね。王城の司書家を介さないと入れないような措置を取るに至った次第です」
そんな会話をしながら二人は柔らかい絨毯を歩いていった。
通路の先には、かなり広い閲覧室があった。ただ、天井がかなり低かったので妙な圧迫感がある。真ん中のスペースに大きなテーブルが一つあった。それを囲むように、三方に衝立が置かれ、更に周りを本棚が六角形を象る様に配置されているといった具合だ。
「本日はあなた以外にお客様はいらっしゃいませんので、存分にお使い下さいませ」
「え、でも俺も飛び込みと言って差し支えなかったけど」
他に飛び込み客がくることもあるのでは、とシュイが含ませると、受付は苦笑しながら首を横に振った。
「司書家の署名を持ち出す人なんて、年間に5名もいませんから。ちゃんとした閲覧許可証ですと日時はこちらで取り決めさせて頂く事になっておりますので。仮に今日先客がいたら、明日以後に来館するようお願いしていましたよ」
「ということは、閲覧は一日に一人だけなんですか?」
「多い時で三人くらいですかね。学生が気軽に来るような場所ではありませんし。何よりほとんどの利用者は上の図書館だけで事足りてしまいますから」
「ああ、それは確かに、そうだよね」
地上の図書館だけでも蔵書数は相当な数に違いない。少なくともキャノエの数倍はあるだろう。
「ここに置かれているのはかなり希少な書物が多いです。それを読めるのですからあなたは運が良い」
「はは、そうなんだ。じゃあ、時間を無駄には出来ないな」
「閉館は午後9時となっておりますので、それまでは存分にご利用ください。私は一旦係の者を呼んできますので適当に本を選んでいてください。それから――」
受付の笑みが瞬時に消えた。戻ってくるまでは絶対に本を開けないでくださいね。抑揚のない声で、そう言った。明らかな脅し文句を耳にして、シュイの鼓動がドクンと大きく跳ねた。
扱えるのが初級の魔法だけでは心もとなかったので上級魔法書を探す。上級付与と干渉魔法の本を選び取ると他の項目の棚にも向かい、<魔物解体新書>、<知って丸得、傭兵生活の小ネタ>の三冊を抱えて席に向かう。
四人、もしくは六人用と思われるテーブルには椅子が二つしかなかった。
「このテーブルが閲覧席でいいんだよね?」
「うむ、とにかく許可を取るのが大変だからな。そんなに来客数は多くないんじゃよ」
受付が呼びに言ったのは七十にもなろうかという背の低い獣族の男だった。頭の頂点は髪の毛が後退し、見事に光沢を帯びている。耳が剥き出しになっている頭は、不思議と潔さを感じさせる。
先ほどの受付はと言えば、監視業務を引き継ぐなり、元いた場所へと引き返していた。
「わかった。では贅沢に使わせてもらおうかな」
シュイは大っぴらに本を広げて読書に耽り始めた。所々滲んだり皺が寄ったりして読み難い場所もあったが、前後の文から推察して補完していく。
黙々と机に座って読み耽っているシュイを見ながら、係員も自分の仕事を始めるべく、向かい側で書類を広げる。
それに気づいた様子もなく、シュイは上級付与魔法の術式を確認している。上級付与魔法はどちらかというと防御系統の魔法が多い。防御魔法との明確な違いは持続時間が長い点に尽きる。その分結合にはより多くの集中力を必要とするし、そのために解放する魔力の量も初級魔法の比ではない。
――これ、いいなぁ。
素直にそう思わさせたのは<魔を打ち払いし縛鎖>という魔法だった。武器や防具に付与する魔法だが、維持している間は術者の実力に応じて触れた魔法を霧散させてしまう効果がある。
まさしく対魔法使いの切り札にも成り得る効果を持つ魔法だが、致命的な欠点も書かれていた。必要とする魔力量が半端ではないのだ。一回の戦闘で何回も使える類のものではないため、発動するタイミングの見極めが難しい。
だが、この魔法が使えるというだけでも、相手にとっては相当戦い辛くなるはずだ。ともすれば、フェイントにも使えるかも知れない。
シュイは他にも数点、気に入った魔法を暗記するべく音読を繰り返した。
「結局一日中付き合わせてしまって、申し訳ない」
シュイは階段を上りながら係員に詫びた。
「いんや。稀な事じゃから気になさるな。それより凄い集中力だったのう。流石、シルフィールの傭兵になられるだけのことはある」
「そんなたいしたことはないです。その、また来ても良いでしょうか?」
「うむ、予約がない日ならばいつでも構わんぞ。ちゃんと閲覧許可を持っていればな」
いつでも、というのは社交辞令の言葉だったかも知れないが、図々しくもうなずいておくことにした。
図書館を出ると、既に辺りは闇に覆われていた。空は厚い雲で覆われ、どこにも星が見当たらなかった。明日はかなり荒れそうじゃな、と係員が呟いた。
「では、気をつけて帰りなされよ」
「ありがとう、お休みなさい」
係員に別れを告げ、シュイは月明かりの無い暗い夜道を歩き始めた。高台の階段を下りていく途中、傭兵と見られる者たちと擦れ違った。橋の真ん中で、真下で汽笛が鳴り響いた。河口から王都の港に入って来る定期船だ。
足元から来る妙な震動を知らずと楽しんでいる自分に気付く。続いて、橋の手摺に手をやり、海の方へ目を向ける。
シュイは一日一日を満喫していた。ニルファナにからかわれ、色々な人に出会い、見たことのなかった景色を目にし、新たな知識を得る。他愛のない生活をこの上なく愛おしく感じていた。
まるで幼い日に戻ったかのようだった。五感を全開にして、世界の全てを受け入れていたあの頃のように。雪山の尾根から見た、金剛石よりも輝かしい黎明。鼻を痛めるほどに強い、真夏の深緑の香り。広大な滝水が地へと落ちる、大地の叫びのような轟き。何もかもが新鮮で、世界を知ることにただただ喜びを感じていた自分が、再現されていた。
ニルファナへの感謝の念は日増しに強まっている。だがそのことが、重荷にもなっていた。初めの覚悟を忘れたわけではない。だが、日々の積み重ねに埋もれてしまうのは避けられなかった。初志貫徹という言葉があるが、あれほど実行が難しい言葉もそうはなかった。
一年半前、罪無き多くの者が徒に運命を狂わされた。シュイもその一人だった。その元凶を駆逐するべく、シュイは傭兵になることを決断した。世界の裏側の情報を収集するのに都合が良いと踏んみ、ニルファナに希った。
けれども、蓋を開けてみれば充実した生活を送っている。そのことに言いようのない罪悪感を抱いてもいる。苦しみ抜いて死んでいった者たちの屍の上に、立つ物の姿として適切なのかどうか、自問自答する毎日だった。
果たしてこのまま手を拱いていても良いのだろうか。そんなわけがない。自問に対し、胸の奥から自答が返された。断罪されるべき者たちに罪を贖わせた後で、己の罪を償わなければならないのだと、心が告げていた。
そのためには大きな力が必要だ。武力でも知力でも、発言力でもいい。強大な国をも打ち崩す力が。
投げ遣りな行動に運命の女神は微笑まない。ニルファナはシュイをそう諭した。歯痒くとも、前に進むための準備を整える必要があった。
シュイは幸せな記憶を払いのけ、埋もれた記憶を掘り起こして傷口を剥き出しにした。そして、その痛みを思い出した。繰り返し、何度も、何度も。
例えるなら精神の自刃症だった。女々しくて、愚かしい行為。だが、それによってもたらされる痛み以上に恐れていたことがあった。自分が思いの外、薄情なやつだと知ることだ。
ふと、己の行動を疑問視する声が上がった。何で勝ち目の見えぬ戦いを続けようとするのか。苦しむためだけの人生なんて馬鹿みたいじゃないか。仮に実行出来た所で他の者たちの運命をも大きく変えてしまうのに。誰も救われるやつなんていやしないのに。
そうやって自分のしようとしている行動を、してきた行動を、冷ややかに窘めるもう一人の自分が存在した。堪え難い憎しみを忘れることは果たして弱さか、強さか。
肯定と否定を交互に積み重ねて生きてきた自分の周りには、選択肢を自然と選び取り、求道し続けている者がいた。ニルファナ、アミナ、ある意味ではビアラスもだろう。
彼らのように生きてみたい。そんな憧憬を抱く一方で、憎しみを捨て去ることも出来なかった。雁字搦めに近かった。表面上、傭兵としての日々を過ごす一方で、意識の深層では悲鳴に近い自問自答が繰り返されていた。納得できる終止符の打ち方を、決着の付け方を教えて欲しかった。そして、何時しか自分の選んだ答を誰か一人だけでもいい。肯定してくれることを望んでいた。
この時、シュイは知る由もなかった。自分より一足早く、一つの解を導き出した者との邂逅が迫ってきていることに。
イヴァン・カストラ。
かつての悲劇を分かち合った、同郷の青年の変貌振りに。