第十四章 ~風雲(1)(改)~
フォルストローム王都の北部。火山に点在するカルデラ湖の一つ、シャダラ湖。夏にはボート遊びに訪れる者達で賑わうこの湖も、深夜とあってひっそりと静まり返っている。
薄雲を被せられた月が微かに光を放って存在を主張しているが、灯りとするには心もとない。虫たちの声に交じって、時折魚の跳ねるだけが断続的に聞こえる砂浜の近くには、息を潜める人影が四つあった。
ふいに、砂浜にほど近い浅瀬で何かが動いた。それは水辺の側からでもはっきりわかるほど大きく、かなりの速度で何度も円を描くように旋回していた。その姿が再び見えなくなり、次いで気配を殺していた四つの影が慌しく動き出した。
「よし、引き絞れ!」
合図と共に三人の男が手に持つ荒縄を思い切り引っ張る。撓んでいた荒縄が双方向に引き伸ばされ、一本の直線となって小刻みに震えた。
縄の先端は湖の中に沈んでいる。湖面にはピンと張り詰めた縄が縦横無尽に踊り回り、それを白い水飛沫が逃さずに追いかける。仕掛けた罠から逃れようと懸命に足掻いているのだ。巨大な何かが。
「と、とんでもない力ですよ!」
「ったく、化け物相手に体力勝負を挑むなんて馬鹿げてるぜ!」
綱を引いている二人の獣人、やや小柄なトムスと上背のあるウーダが言動に焦りを含ませた。必死に縄を引き寄せようとするが、踏ん張る足の方はずるずると湖に引き摺られ、履いている靴の爪先が砂に埋もれていた。幾重にも編んだ丈夫な縄が軋んだ音を立てている。
「ぼやいている暇あったら手ぇ動かせ。これを逃したらまた野宿に逆戻りだぞ。――ワイリー! そちらはどうだ?」
一番先頭にいる人族の男、ザッシュはしっかりと縄を握り締めながら後方に視線を走らせた。そこには石の混じった地面に両膝を付き、手を組んでいる若い獣族がいた。何事かに意識を集中しているようだ。
「――方陣の配置終わりました! いつでもどうぞ!」
頼もしい返事を聞いたザッシュは水面に視線を走らせる。
「よし、奴をもう一度水中から引っ張り出す。出し惜しみはなしだ、短時間でケリを付ける!」
『了解!』
縄を持つ三人はガニ股になって腰を落とし、渾身の力を以って縄を引き寄せる。先ほどよりも湖面に生じる水飛沫が大きく、荒くなり、幾重にも波紋を残す。
「ぐぬぬぬぬ……」
「ぐっ、こんちくしょー!」
三人は顔を真っ赤にしながら、歯を砕けんばかりに食い縛った。
「いっせーのー……」
ザッシュの小さな掛け声に反応し、獣族二人の踏ん張る足に力が込められる。
「せい!」
肘を斜め下に引き、瞬間的に体重を掛ける。湖面からの引きが和らいだ。待ちに待ったチャンス到来に、三人は疲弊していた身体に力が戻るのを感じた。余った力を全て、縄を引き手繰る作業に注ぎ込む。
いつの間にか、触れている縄には水に濡れている感触があった。徐々に獲物がこちらに引き寄せられているのだ。
唐突に抵抗が止む。引っ掛かっていた何かが外れた様な、そんな感覚があった。
「ワイリー! 来るぞ!」
「わかってますって!」
間をおかず、鮮やかな黄色をしている何かが水面に揺らいだ。ただ一人、縄を引く重労働から逃れていた細身のワイリーは舌舐め擦りをする。
湖面が半球状に盛り上がった。湖の水に包み込まれた黄色い物体が、喉の奥に引っ掛かっている釣り針から逃れるべく水面に向かって急浮上する。
「<雷の投槍>!」
間髪入れずワイリーが準備していた魔法を発動。ワイリーを囲む術式の強化方陣が明滅し始める。掲げる手の平の真上に細い雷が四方から集結し、槍の形状を形作っていく。
続いて水面から飛び出したのは怪物の巨体だった。魚が跳ねるかのように、黄色い化け物が空中で全身をくねらせる。即座に待ち構えていたワイリーが、それに向かって槍を投擲。雷を帯びた槍が闇夜に稲光を散らしながら獲物に迫る。
――グギャオオオオオオォォォォンッ!
魚とは思えぬ絶叫が山々に響き渡る。槍が怪物の長い首の付け根辺りに命中。背の方から僅かに突き出た。槍から生じた電流が貫かれた怪物の身体を蝕む。怪物が軋むような悲鳴を上げ、水面に叩きつけられる。湖面の水が大きく跳ね上がり、屋根の高さ程に至った。
跳ねた水飛沫をまともに身に浴びながらも、三人が縄から手を離すことはない。ずぶぬれになったザッシュがへたくそな口笛を吹いた。
「……上出来! ワイリー、どれくらい維持できる?」
「たっぷり時間貰いましたからね。あと数十秒くらいならもたせられます」
「よーし、魔法が効いているうちにやつを陸に引き揚げる。いくぞ!」
ワイリーが刺さった雷槍を詠唱で維持することに努め、残った三人が縄を手繰り寄せていく。先ほどと違って強烈な抵抗はない。槍から持続的に放たれる電撃で怪物が思うように動けないためだ。反して、三人が持っている革製の縄は電気を通さない。引っ張る三人がついにワイリーの体を追い越し、更に後ろへと下がっていく。
水面が鈍く光った。雷の槍が燐光を散らしている。間を置かずして水面に怪物の長い首が現れた。怪物の口の中には三人が手に持つ太い縄が続いていた。大きな鉤爪のような釣り針に豚の死骸を括り付けた、特製の釣り道具だ。
黄色い怪物の巨体を湖から陸地に全て引っ張り出し、ワイリーが詠唱を中断する。雷槍が消失したのを見届けたザッシュが縄を手離し、鞘から剣を抜き放って怪物に突進した。
怪物が自分に向かってくるザッシュを敵と見定め、長い首を後方に撓らせて鞭のように振り抜いた。ザッシュは左から地面スレスレに迫る首をジャンプして飛び越える。
大きな風切音を聞きながら、攻撃を避けたザッシュがそのまま怪物の背中目掛けて刃を下向きに固定。体重を乗せた剣を大きな背中に突き立てる。
刀身の八割ほどが埋まり、噴出した血が剣柄まで溯る。怪物が苦痛に身を大きく仰け反らせた。背に乗ったザッシュを何とか振り落とそうと足掻くものの、動きに先ほどの精彩はない。
怪物には水を掻くための鰭も背鰭もあるが歩くための足は存在しない。無論水中では凄まじい速度で泳げるのだろうが、陸の上では無力に等しかった。加えて、ワイリーの電魔法にかなり体力を削られていたのも一因だろう。
己を足蹴にするザッシュに意識を向けた怪物に、残った二人の獣族が疾走。振り回している首の動きにのみ注意を払いながら無防備な脇腹の方に回り込み、剣を振り下ろす。
肉を裂く音が響き、怪物の身体に新たな傷が生じる。呻く怪物がそちらに意識を向けかけた刹那、逆方向から鋭い一撃が加えられた。
今度はカツンと硬質な音がした。トムスの槍の穂が怪物の肉を貫き、腰の骨にまで到達したのだ。
瞬く間に傷が一つずつ増えていき、怪物の動きは目に見えて弱々しくなっていく。流れる血が身体の半分ほどを紅に染め、ついにその場に崩れ落ちた。
「やれやれ、これでやっと王都に戻れるな」
怪物討伐の任務に置けるパーティリーダー、人族のザッシュは血糊のついた刀身の細い長剣をゆっくりと鞘に納めた。一月ほど前に現れたという怪魚――魚と言って良いのか迷う形状だが――そのグロテスクな死骸を見て、軍人たちは安堵の表情を浮かべていた。
「あーあ、やっぱり手袋してくれば良かったなあ。おかげで手がこんなに」
トムスは口を窄めながら両手を見せた。荒縄の摩擦と格闘していた手は皮がずる剥け、所々赤い筋肉が剥き出しになっている。
「うわっ、やめてくれよ。見るだけで痛いって」
ワイリーは血が滴るトムスの手から怯えるように視線を反らした。
「それより早くひとっ風呂浴びたいぜ。いくら近くに温泉があるっていってもあれじゃあなぁ」
「はは、お前は猫肌だからな」
同期の獣族ウーダに、ザッシュは親しみとも苦笑とも付かぬ笑みを浮かべた。討伐を命じられ、この湖に着いてからもう二週間近くが経っている。既に犠牲者も出ていたため、敵の姿が見えないからといってその場を離れるわけにもいかず、四人は交代で見張りを続ける羽目になった。少し体臭も気になり始めている。
一応温泉はあったが、付近が火山帯とあって湯の温度がかなり熱かったため、長く浸かるのは無理だった。熱い湯が苦手なウーダにとってはこの二週間、拷問のような日々だったに違いない。
「……ザッシュ先輩。こいつってどう見ても湖にいる類の魔物ではないですよね」
トムスは自分の手に包帯を巻きつつ、怪物を見降ろして形状を確認する。
既に息絶えている黄色い怪物は、首が異様に長く、ウツボと鮫を合体させたような姿をしていた。口元には小さくて平べったい歯がびっしりと生えている。噛み砕くと言うよりも、すり潰すための形状だ。口蓋の大きさだけでもゆうに1mを超えているだろう。この口で水遊びをしていた子供を捕らえ、丸呑みにしたのだという。その子が果たしてどれほどの恐怖と苦痛に襲われたかは想像に難くない。
腹の中央から尾に掛けてはザッシュの剣によってかっ捌かれている。当然ながら、子供の痕跡はどこにも見当たらなかった。とっくに消化されてしまったのだろう。
「どこにいたって困るぞ。こんな気色悪いやつ。姿形を聞いた時には耳を疑ったが、よもや本当に化け物が釣れるとはなぁ。世界の果てで共食いでもしていりゃあいいものを」
ザッシュが忌々しげに首を振った。ゲテ物耐性のない彼にとっては、こんな不可解な形状の生き物が存在していること自体が腹立たしいようだ。
当然と言えば当然のことだが、子供を目の前で一飲みにされた両親たちの取り乱しようは、半端なものではなかった。てっきり聴取された情報には少なからず脚色が加えられているものと思っていたのだが、こと姿形に関してはそれほどの開きがなかった。
「仇を取れたのがせめてもの慰めですね。やっぱり、この化け物も昨今の異常と関連性があるんでしょうか」
先般よりフォルストロームでは似たような事件が頻発していた。平年と比べても近隣での魔物との遭遇率は異常値を示している。王都に限らず、領内の町でも同じような状況だという。今回は軍の大半の者が出払っているため、今回も已む無く経験が浅い、若年の軍人ばかりでチームを組まされた。
それでも四人は各々の力を存分に発揮し、別段重傷を負うような事もなく怪魚を討伐した。普段から厳しい訓練を課されているが故に、フォルストロームの軍人たちの戦闘能力は四大国の中でも随一と言われている。その背景として、この国では上の者に対する国民の信頼が厚く、軍属を望む者が後を絶たないことが挙げられる。大勢の中から優れた者だけを選別する余裕があり、一番下っ端の兵卒であっても並大抵の戦士では及びもつかない練度に達しているのだ。
痒いのか、ウーダは背中をぼりぼり掻きながら口を開く。
「あってもなくても俺らのやる仕事は同じさ。脅威が現れたら排除する、ただそれだけだ。ま、難しい事はもう少し偉くなってから考えようぜ。それよりこの魚、どうする?」
「何だ、もしかしておまえ、食べたいのか?」
ザッシュはそう言いつつもウーダからじりじりと遠ざかる。
「ばっ、ちげーよ! って、何距離取ってんだ。そんな目で見んな!」
ウーダは心外そうに声を荒げた。
「まぁ、いかにも珍種ですし、学術的価値はあるかも知れません」
「そうそう、ワイリーは流石に良く理解して――」
「――が。幾らなんでも大きすぎますね。何よりこの温度と湿度では街に着くまでに腐敗してしまうし。氷魔法の使い手がいないことを鑑みても持ち帰るのは……」
淡々と事実のみを告げるワイリーに、ウーダの言葉が続く事はなかった。
「はは、確かに良く理解しているよなぁ」
「うっせーよ!」
そっぽを向くウーダの耳に三人の笑い声が木霊した。
――――――
老年の獣族の男が城郭の屋上で佇んでいた。布地の中央に銀糸で獅子を象った刺繍が施されたマントを風に靡かせ、緑豊かな王都を眺めている。
フォルストロームの王にして大陸最強と謳われし戦士、キーア・フォルストローム。六十に届く年齢であるが、精悍な顔立ちはかつての強さを未だ堅持していることを窺わせる。巨木を思わせる体幹を持ち、身の丈は2メードを超えている。袖から剥き出しになった丸太のような腕には幾多の戦いを乗り越えてきた証である小さな古傷が無数に刻まれていた。
「やはりこちらにおられましたか」
のんびりとした声が大きな背に届いた。キーアの後ろ姿を見止め、森族の宰相レギンが目を細めた。灰色の髪に褐色の肌は一見すると獣族にも見えるが、横に尖った耳は森族の特徴である。見た目は四十ほどにも見えるがエルフは長寿で知られている種族である。実年齢はキーアよりもかなり上だった。
「ここ数日どうにも寝付けぬのでな。少し夜風に当たりに来た」
その言葉を表すかのように、振り向いたキーアの目には濃い隈がある。視線が合うとレギンは丁寧に会釈し、数歩の距離をおいてキーアと同じように手摺に手を乗せる。レギンとて中背といって差し支えぬ体格だが、それでもキーアと並ぶと大人と子供ほども差があった。
「あまり根を詰め過ぎませぬよう。お体に障りまするぞ」
気遣いの言葉を掛けられたキーアは、しかし不快そうな顔を作った。
「はぁ、ついに古参のそなたまでが年寄り扱いを始めたか。全く、アミナが力を示し始めてからというもの、城の者どもが口煩くなって敵わぬわ。いっそふらりと温泉巡りにでも出掛けるか」
「お戯れを仰いますな。皆、あなた様のことを心底案じておるのです」
「生憎だが、体は頗る調子がいい。要らぬ心配と切って捨てるのは気が引けるがな」
「王という立場を考えれば、用心に用心を重ねても足りぬほどですぞ」
説教される年齢でもないのだがな、とキーア王は肩を竦めてみせた。
「まぁ、それはそれとして。解決済みの事項ですが一応ご報告に伺いました。先日王都東のパラミア峡谷にて発見された鋼獣がフラムハートの面々によって無事退治されたということです」
「そうか、事態の収拾に時間がかからなかったのが救いだな」
「御意。依然として楽観視は出来ぬ状況にありますが、被害の方は最小限に食い止められていますな」
ここ数か月の間、魔物が人里に近い場所に現れたという知らせが軍部に相当数舞い込んできている。迅速な対応を行ったために被害の方はそれほど拡大していないが、兵たちへの負担は増すばかりだ。どこの町も人手不足に悩まされており、応援を求む声もちらほらと出始めている状態だった。
「まこと、皆の働きに感謝せねばならぬな。冬の特別報酬はちと弾まねばなるまい。――時にレギン、そなたは今回の騒動、どう見ている?」
「どう、と申されますと」
レギンは表情を変えずに応じた。ある程度は質問の意図を理解しているようだった。
「まぁ、大雑把に言えば騒動の背景、首謀者の推測、そして今後の対応だな」
「ふむ、私如きの意見で恐縮ですが、求められたならば答えねばなりますまい」
「忌憚無く申してよいぞ」
「畏まりました。まず、これほど大掛かりな騒動を起こすとなると、かなり綿密に計画を練らねば実行は不可能、最低でも数年越しの計画でございましょう。相当数の人手も必要ですし、大規模な組織が動いているのは確実かと」
「うむ、我が国の転覆を狙っていると考えている者たちも少なくないようだが」
「憶測に過ぎませぬが、私は、敵はそこまで望んではいないのではないかと考えております。と言うと、少し語弊がありますかな。それほどの効果を期待しているわけではないのだと存じます」
「我々がそれほど甘くない相手であることを理解していると?」
レギンはキーアの質問を吟味し、数秒してうなずいた。
「それも理由の一つでしょうな。しかしながら、被害が少ないとわかって尚実行するということは、少なくともこの国を混乱させる、若しくは目を騒動の方に向けさせる陽動、といった意図が見えてきます。本来の目的を達成させる前の下準備、といったところですか」
キーアの目が鋭さを増した。
「ふん、この騒動すらも前座と言うわけか。気に食わぬな」
「お怒りはごもっとも。ですが、そう考えると幾つかの不可解な点に信憑性を持たせられるのです。まず、軍の者が始末した魔物の何匹かには、明らかに人の手で刻まれた呪字が見つかったという報告が届いております」
「聞き及んでいる。呪術系の<魔物使い>が与しているのは間違いないな」
「ええ。それからもう一つ気になる情報が。先頃城下のギルド・シルフィールの傭兵たちが魔物討伐の依頼を受け持ったそうなのですが、彼らが申すには騒ぎを起こしていた魔物が妙な連中に無理矢理運ばれてきたようだ、と」
「ほぅ。それは、目撃証言か?」
「いえ。俄かには信じ難い話ですが、魔物と意思疎通を図ったということですね」
「そういうことか」
「……割にあっさりと納得されるのですね。私などは耳を疑いましたが」
「そういった知り合いもいないではない。状況と照らし合わせればありえなくもない話だし、わざわざそのような妄言を申す傭兵もいるまいよ」
確かに、とレギンは相槌を打った。
「ただ、あれだけの数の魔物を力ずくで従わせてしまうような連中にしては、やり方が少々手温い気がします。魔物を嗾けるという作業においては如何せん不確定要素が強いため、開花せずに破綻した計画もあると思われますが――」
「――それにしても被害が少な過ぎる、か」
「左様でございます。それほどの使い手がいるならば、正体を気づかれぬよう末端の方から我々の戦力を削っていく事も不可能ではないはず。しかしながら、先ほども言いましたように表立って仕掛けてくる様子はありませぬ」
如何にフォルストロームの兵の力量が確かだとはいえ、皆が皆魔物を顎で使うような相手と互角に戦えるかというと決してそんなことはない。やろうと思えば魔物討伐に現れた兵たちを逆に強襲するようなことも出来るはずだが、未だそのような報告は届いていない。
「ともすると、兵力の分散が狙いか」
「現時点では、その可能性が一番高いかと。殊に、隣国のセーニアで不穏な動きがあるとの噂もありますからな」
老王の三角耳がピクリと動いた。
「戦の準備か」
「おそらくは。仮にも教国を名乗る国が不可侵条約を結んでいる我が国に出兵するとは考え難いですが、一年半前の件もありますからな」
「コンラッド・ディアーダの暗殺、か。未だあの内乱には得心がいかぬが、あれがなければセーニアはもう少し早くに動き出していたのかも知れぬな」
「でしょうな、何せ彼の者はセーニアの精神的支柱であったと言っても過言ではない。我々が先王を失った……」
口にした後で自分の言動に気付き、レギンが慌てて口を噤む。
「も、申し訳ありませぬ。口が軽うございました。この罰は如何様にも」
「よい、もう過ぎたことだ。悔いたところで戻らぬし、一番辛かったはずのアミナが立ち直っておるのに儂が悲嘆に暮れているわけにもいくまいよ」
レギンは安堵とも自嘲とも取れる溜息を吐き出した。
「失礼いたしました。いずれにせよ用心に越したことはございませぬ」
「うむ、新兵の訓練を急がせよう。そなたは、今回の件にセーニアが絡んでいると思うか」
レギンは即答を避け、黙考に耽る。
「正直、解りかねますな。先方とは長年に亘ってそれなりに良好な関係を保ってまいりましたし、ここ最近目立って何かが起きたという事もありませぬ。それは件の組織にしても同様、我が国に明確な敵意があるかは何とも」
「敵意がなくとも敵対行動を行っているのは紛れもない事実だがな」
「ですな。加えて、油断できぬ相手なのは確実。魔物を駒のように扱っていることから見ましても、魔物の力量を遥かに凌駕する使い手が加担していると見て間違いありますまい。……その」
「うん? 何だ」
流暢に喋っていたレギンが言葉を濁すと、キーアがわずかに首を傾げた。
「少々申し上げ難いことなのですが、獣姫様にはしばらく単独行動を控えていただく方がよろしいかと。姫様のお力は私とて重々承知しておりますが、敵の規模や目的が掴めていない以上、御身に万が一のことがないとも言い切れますまい」
「……あぁ。うぅむ」
孫娘のことに話題が及んだ途端歯切れが悪くなった老王に、レギンは場にそぐわぬ笑みを誘われる。なればこそ、これだけは伝えておかねば、と語気を強くする。
「仮の話ですが、獣姫様が捕らわれて人質と使われるような事あらば王の身、ひいてはフォルストロームの危機ですぞ。ディアーダ殿を殺めた犯人も未だ捕らえられていないようですし、その二の舞となることだけは避けねばなりませぬ。少なくとも敵の目的や動向が明るみになるまでは」
何卒、と上半身を斜めにするレギンを視野に収め、キーアは重い溜息を吐き出した。
「わかった、そちの忠言を無駄にはすまい。アミナには儂から伝えておこう。……すまぬ、そなたらには今しばらく苦労を掛けることになりそうだ」
「なんの。フォルストロームを守りたい気持ちは王と一兵卒、なんら違いはありませぬぞ。では新兵の訓練と警戒区域については私なりに纏めてみますので、キーア様も少し休まれますよう。明後日、立案をお持ち致します故」
やはり気遣われているな、と老王は苦い笑みを浮かべる。
「では、その言葉に甘えるとしようか。休める時に休むのも仕事だからな」
「そうなされませ。寝所は既に整えてございます、下に参りましょう」
キーアはうなずき、歩き始めたレギンの後に続いた。去り際、ふと広い肩越しに遠い町の灯りに目を凝らす。
頭を過ぎるのはジュアナ戦役以来、苦心しながらも森を切り開いてきた先達の行いだった。フォルストロームを発展させるための礎を築いた彼らが、体を張って守ろうとしてきたもの。それは家々に灯る数多の煌めきであり、多くの民の命に他ならない。
たとえ相手が何者であろうと、この灯火を絶やさせるわけにはいかない。決意を新たにするキーアの双眸には、歴戦の戦士すらも戦慄させるだろう強靭な闘志が漲っていた。