第十三章 ~(3)(改)~
いつの間に目覚めたのか、広場にはビアラスの姿があった。リュートを大事そうに抱えながら、軽い足取りで巨鳥の方へと歩いていく。
「何やってるんだ! とっとと逃げ――」
ビアラスがゆっくりとこちらを振り向いた。それから、しーっと口元に人差し指を立てた。
巨鳥がビアラスに向かって唸り声を上げるとビアラスは巨鳥と目を合わせ、無造作に一歩進んだ。その距離はもう10メードほどに詰まっていた。
巨鳥の嘴から燐光が生じた。ブレスの兆候。ビアラスは緩慢な動作で、しかし絶妙のタイミングで真横にステップした。
嘴から雷線が迸った。硬いはずの地盤に深い穴が穿たれ、しゃくりあげるような動きによって雷線が下から正面へ移動。奥の木々を縦に寸断し、最後には空へと消えた。
当たれば必死の攻撃を目の当たりにしながら、未だビアラスから戦意が伝わってくることはなかった。いつまでも避け続けていられるとは思えず、はらはらさせられた。巨鳥には両翼を使った突風攻撃もあるし、空だって飛ぶかも知れない。若しくは鋭い嘴を武器に襲いかかってくるかも知れない。いつ何時、ビアラスが殺されるかわからないのだ。
「オロロウ」
そんなシュイの心配をよそに、ビアラスがその場に腰を降ろした。意表を突かれたシュイが、戸惑いの声を漏らした。
ビアラスは柔らかい草の絨毯に胡坐を掻き、持っていたリュートを奏で始めた。未だ敵意の収まらぬ巨鳥を目の前にして。余りに無謀な行動に喉が震えた。
「お、おい……」
何とか声を掛けようとしたが、踏み出しかけた足が止まった。ビアラスは何かを訴えかけようとしていた。付け爪のついた手は、弦をやたらめったと打ち鳴らしてはいなかった。子守唄のように優しげに、花をそっと摘むように弾いていた。
零れ落ちるような音。硬質な水が指の隙間から一滴、また一滴と垂れていくようだ。生じた単音が周りの空間に散りばめられ、森の奥へと吸い込まれていった。その一方で、合間合間に紡がれる分散和音がいつまでも余韻を残していた。
不意に気づかされた。リュートから発される音色に、力が乗せられていることに。自然界に満ちる魔力と結合させるための、自分と同質の魔力だった。
シュイは、均等に並んだ弦の上で踊っている指に注目した。ゆったりとした旋律が辺りに木霊し、反響している。
ほどなく、先ほどまで感じていた巨鳥の怒気が急速にしぼんでいった。先ほどまで耳に劈くような雄叫びを上げていた巨鳥は首を傾げ、リュートを弾くビアラスをどこか興味深そうに眺めていた。
上位干渉魔法の一つ、<身も心も委ねよ>。効果だけを見ればまさしくそれだった。
だが、それとて普通に使えば対人専用のはずだ。少なくとも、魔物に通じるなんて聞いた事がなかった。
『戦う? チッガーウ』
先ほどビアラスが口にした言葉が脳裏に再生された。やる気がなかったわけではなく、戦う気がなかったのだ。
「トゥラントゥラン、トゥトゥトゥ♪」
口では不可思議な鼻歌を刻みながら、しかしリュートの音色だけはどこまでも穏やかに伝わってきた。森が吐き出す清涼な吐息のように、どこか冷たさを伴いながらも決して不快ではない。体全体が耳になったような感覚。敵意がないことを相手に伝える愉快なリズムが心の鼓動と同期した。
予期せぬことが起こった。碧色の巨鳥はビアラスが奏でるリュートの音色に合わせ、ゆっくりと、たどたどしく足踏みを始めた。すっかり警戒心を解いてしまったようで、ズシンズシンと大きな足音を響かせながらその場でぐるりと一周した。
踊っている。そんな馬鹿なと思いながらも、そのようにしか見えなかった。一瞬とはいえ、あれほどいきり立っていた巨鳥がこちらに背を向けた事が信じられなかった。
シュイはリュートを弾き続けるビアラスを茫洋とした面持ちで見つめていた。一心不乱に、額に汗して弦を摘み弾くその姿を。不覚にも美しいとさえ思っていた。
傷付けたくない。殺したくない。あなたを理解りたい。そんな感情が魔力を含む韻に乗って具に流れ込んでくる。まるで念話の効力を、そのまま旋律へと変化させたようだった。耳に触れてくるメロディはどこまでも牧歌的で、自分の殺気立っていた心までも解きほぐしていくのがわかった。
止めていた息を吐き出した途端、緑豊かな風景が目の前に開かれていった。忘れ難い、故郷の風景が。
牧羊犬に急かされて柵の中に入っていく羊の群れが。丘の上に佇む大きな杉の木が。澄み切った水を湛えた小川が。その小川から水を汲み出す風車小屋と粉引き小屋が。
郷愁と拒絶。二つの感情の波が双方向から同時に襲ってきて、目の前でぶつかった。
「あ……あ……」
シュイが両手で頭を抱え、その場に膝を付いて蹲った。
懐かしい顔が見えた。顔を合わせる度に挨拶してくれた、優しげな青年が。日が暮れるまで一緒に遊んでいた、こましゃくれた幼馴染が。戦い方を教えてくれた、父にも似た威厳を持つ壮年の男が。強くて誇り高く、それでいて儚げな雰囲気を持つ白髪の少女が。
景色が一瞬で切り替わった。白一色の部屋で、木製のロッキングチェアーがキィキィと音を立てて揺れていた。夢の中で何度も見た光景だ。
だが、いつもとは様子が違った。誰も座っているはずのない椅子に、白髪の少女が腰かけていた。
見間違えようもなかった。全身が震えた。ミレイがそこにいる。そう思うだけで息が詰まり、瞬きができなくなった。目を瞑った瞬間に、彼女の姿が消えてしまうような気がして。
シュイは恐る恐る手を伸ばした。ミレイは自分に向かって伸びてくる手に目を細め、微笑んだ。
視界が滲んだ。溢れる感情のままに抱きつきたかった。言いたいことが山ほどあった。責める言葉も、詫びる言葉も。
だが、その手が少女の手に触れた途端、少女の姿は光の藻屑と化した。主を失ったロッキングチェアーが緩慢に揺れていた。
ミレイはもうどこにもいない。強制的な自覚が堪え難い感情の波を呼び、胸を震わせた。上半身の筋肉が痙攣し、胃液が込み上げてきた。喉の下がくぐもった音を鳴らした。今にも吐きそうだった。
最後の最後で、拒絶されたのだという思いが湧き上がった。シュイは口元を押さえて項垂れた。
そして、より正確な記憶の糸を辿ろうととした。あの時自分が本当は何を考えていたのかを。
けれども、そうすることは決して容易ではなかった。嫌でも無残に切り刻まれた思い出と向き合わねばならなかった。
あの時の辛さを味わうくらいなら、いっそこのまま消えてしまえば。自虐的な考えに陥るや否や、耳に不快な雑音が生じた。
「あ……」
見ていた景色が再びホワイトアウトした。掲げた自分の手すらも見えない、白い闇の中に誘われた。それでも聴覚だけは機能していた。先ほどの心地良い音色が無残に破壊されていくのがわかる。頭とも耳とも付かない場所に鋭い痛みが生じ、堪らず目を瞑った。
やがて、痛みが徐々に治まっていった。再びそっと目を開けると、そこには今の自分が見ている景色があった。
「うわっ」
視線の先にいる物体を頭が理解し、反射的にのけぞった。ビアラスの顔が間近にあった。
「だダーいジョブ?」
首を傾げるビアラスを視界に捉えながら、シュイはずきずきと痛むこめかみを捻る様に押さえた。
「……な、何だったんだ。今のは」
ビアラスは申し訳なさそうに、少年のように指で鼻梁を擦った。
「アーあ。おレノメロディに中てられテ、ノーもあカオスがどんとコーイ!」
「……アンタの奏でた音に、頭の記憶が一気に蘇ったってことか?」
「イエーア!」
ビアラスが両手の親指を下に向け、高らかに叫んだ。どうやら合っているらしかったが、その指が何を意図しているのかまではわからなかった。
数秒ほどぼーっとしてから、周りの様子に明らかな変化があることに気づいた。
「あの鳥は、どこにいったんだ? 姿が見えないけど」
「トンでトンで、回っテばいばーイ」
ビアラスが両手を滑らかに動かし、羽ばたく真似をした。
「……逃したのか」
「チッガーウ! 帰っタおうチあっチ!」
ビアラスが南の方角を指差した。お家、とシュイが呟くと、ビアラスは両手の指先を立て、そこはかとなく卑猥な手つきで突く真似をした。
「俺ノジシん作、〝望郷の旋律〟。キソウホンのーこそばユイ、ツンツン」
望郷と聞いて合点がいった。あの演奏には帰巣本能を刺激する効果があったのだろう。だからこそ、故郷の風景が明瞭に蘇ったのだ。
「……あの演奏は、詠唱破棄の干渉魔法か? <デボート>に類するものだってのは何となくわかったけれど」
「アッテルしマチガってル。音楽は全てにツーじる! ……でも、最近おツージきてナイ」
ビアラスがしょんぼりと肩を落とした。
シュイは膝をついて立ち上がり、ビアラスと向き合った。演奏に魔力を乗せる手法は祈歌に魔力を乗せるチャンターに通じる物があるが、魔物にすらそれを理解させる力を持つ者がそうそういるとも思えなかった。奇異な言動はどうあれ、吟遊詩人としての腕前は確かなようだ。
こんな方法もあったのか。そう思わずにはいられなかった。魔物に対して武力を用いることなく、研鑽した干渉魔法で心を通わせる。目の前のみょうちくりんな男がやってのけたのは紛うことなき、誰もが傷つかずに済む理想的な解決手段のひとつだった。
「アアーン。彼ワカレはイヤーいやー連れテ来られタ言ってタ、ここニ」
「……嫌々ここに? あれだけでかい鳥が誰に、どうやって?」
俄かには信じ難い話だった。あれほどの魔物を力ずくでどうにか出来る者がそうそういるとは思えなかった。
「黒イ変ナの言ってタ! たくさんタクサン……あなた黒いけどタクさん?」
「いや、俺は違うけど……。それより、俺のような格好をしていた奴に無理矢理この場に運ばれたってことなのか?」
「ソウそうソンな感ジ。タぶん、俺ビアラス」
「それは知ってる」
あしらうべきところを適当にあしらいつつ、黙考した。黒いのがたくさんという言葉には一つだけ心当たりがあった。大毒蜂の一件で、キャノエの教会で戦った連中だ。
頭が急速に冴えていくのを感じた。先ほどの巨鳥クラスの魔物を強引に従わせられる使い手がそうそういるとは思えない。だが、四人がかりでも押された相手が徒党を組んでいるとなれば十分に可能だろう。キャノエだけでなく、王都のすぐ間近ですら看過できぬことが起きている。すぐ誰かに知らせるべきだった。
「……ビヒン!」
突然ビアラスが立ち上がり、何やら喚き始めた。思考が強制的に中断された。
「なんだよ、いきなりどうしたんだ」
「あ……イケナッ! 駄メッ! キレ……かかってル! このままジャ俺キレる! とても、ヨク……きれル!」
キレるも何も最初から十分キレキレではないか。今頃になって何を言い出すのだろうと、シュイが肩をすくめた。そこで、会話が成立していることに初めて気づいた。ビアラスが言葉の輪郭を取り戻しつつあるのだ。
――取り戻しつつ? あれ、なんでそんなふうに感じたんだ?
首を捻るシュイをよそに、ビアラスは震え始めた自分の体を強く抱きすくめた。下唇が真っ青になり、小刻みに振動している。
どう見てもただごとではないその様子に、シュイがビアラスの両肩を揺り動かした。
「ど、どうしたんだ! 病気の発作か!」
「……三日ニイッカい! 夢イッパい! 素敵……なオク……すり」
急激にビアラスのテンションが下がってきた。面食らったシュイの目前で、ビアラスは震える手で懐からガラスの小瓶を取り出した。
コルク栓で封がされた瓶には薄い青色の粉末が入っていた。どうみても医薬品の色とは思えない、毒じゃないかと疑いたくなる鮮やかな青だった。
お次に取り出したのはスプーンだ。手を震わせながらも使い慣れた様子で粉末を掬い、次いで溶剤の小瓶を取り出した。透明な液体を粉末の上に数滴垂らすと、粉末から白い煙が帯を引いた。
「……あヒひヒ……ウヒ火ヒ」
ビアラスはスプーンを持っていない方の手を上に向け、人差し指の先に火を灯した。スプーンを慎重に火にかけると粉末と溶剤が溶けだした。
「これデ……ゲンき。ウヒッ……うひっ」
虚ろな笑い声を上げるビアラスに寒気を感じた。ビアラスはまごつきながらも注射器を取り出し、出来た混合液をそれに充填した。次いで袖を捲り上げ、痛々しい注射痕に更なる痕を加えようとした。シュイが肩に手を置いた。
「……ちょいまち。もしかしてアンタがまともに喋れないのって」
――それどころか、髪が荒れているのも、急に叫びだすのも、……ついでに便秘なのも?
「ノンのん! ……これオレノ勲章、オトこのあかシ!」
ビアラスは赤黒く変色した注射痕を指差し、誇らしげに語った。頬がはっきりと引きつるのを感じた。
「何が勲章だ! 刺青より質悪いわ!」
シュイが怒鳴りながらビアラスの腕をむんずと掴んだ。ビアラスは何を勘違いしたか――
「お! おまオマもやる? ヤルー!?」
――と期待の籠もった目をシュイに向けてきた。酒か煙草に誘うようなお気楽さで。
「アンタ、話ちゃんと聞いてんのか! 誰がやるか!」
「ヤる!? ハイどウゾー!」
ビアラスは興奮気味に薬剤充填済みの注射器を差し出した。
「ニュアンスで気付け、この馬鹿! 全否定だ、絶対にやらん!」
「あラ! せっかク、ソウ。もーソウ、まいソウ、俺死にソウェーイ!」
支離滅裂な言語を発した後で、ビアラスがおもむろに舌を出した。普通より長くて、やたらと血色が悪かった。だらしなく垂らした舌に持っている注射器を近づけるビアラスを前にして、シュイが疲れたように頭を抱えた。
――男の証とか関係ねえ! ……じゃない、やっぱ止めよう。
シュイは無造作に、ビアラスの目の前に手の平を差し出した。
「おろウ?」
「……<母の温もりに抱かれよ>」
詠唱を終えてから間もなく、ビアラスの動きが目に見えて弱々しくなった。やがて注射器を持っていた手がだらりと下がり、寝息を立て始めた。あまつさえ鼻提灯を作り始めた彼を見て、何とも言えぬ思いに囚われた。
溜息と一緒にそれを吐き出すと、シュイはビアラスの手から注射器を抜き取った。それを粉々に踏み砕いてから、彼の体をそっと肩に担ぎ上げた。