第十一章 ~ランカー(1)(改)~
「――ハッ、ハッ、ハァ」
黒衣の男が石林の間を縫うように走っていた。大袈裟な腕の振りからは必死さがにじみ出ている。
それを追う赤髪の女は余裕の表情だ。先を行く男から付かず離れず、空を悠々と飛んでいた。鼻歌のように詠唱を紡ぎ、ゆっくりと両腕を掲げた。
「ちょ、ちょっと待ってよニルファナさん! あれにはわけが――ハッ」
シュイは走りながらの弁解を試みたが、言葉が続かなかった。全力疾走しながらまともに喋れるわけもなく、その程度のことも失念してしまうほどには焦っていた。
「男の子が言い訳なんて見苦しいよ。――とりゃっ!」
ニルファナの手が振り下ろされた。瞬時に大気中の水分が一緒に凝集し、直径5メードはあろうかという氷の塊が生成された。
出来上がった氷が大地をひた走るシュイに向かって落下した。当たったら凄く重そうだった。
――阿呆か僕は! 重さを感じる前に死ぬるわ!
「――うわ、わわわわっ!」
行く先の影が色濃くなったのを見て、シュイが急ぎ180度方向転換した。真下を通り過ぎたシュイを見止めてニルファナが空中でターン。逃走するシュイに向かって、交互に左右の手を差し出した。
書類に判を押すような軽快さで、巨大な氷塊が絶え間なく振ってきた。氷の下部が地面とぶつかる度に、接触によって生じた氷の破片が後頭部にビスビスと当たった。フードがなければそれだけで血塗れになりそうだった。
「痛っ……ぁ痛い! ちょっ、殺す気ですか! ……ってぇっ!」
突如として視界が暗くなったのと同時に、前のめりに身を投げ出して頭から滑り込む。間一髪、氷塊の落下領域から逃れられた。
その前方には、いつの間に地に降りていたニルファナが仁王立ちしていた。黒いスカートが風で舞い上がりそうになり、シュイが慌てて視線を反らした。死の香り漂うこの場においては律義とすら言えた。
「シューイー。一月も経たないうちに正体を見破られるなんて、一体どういう了見なのかな!」
びっと人差し指をシュイに向け、ニルファナが責めるような口調で言い放った。。
「ハッ……ハッ……ちょ、ちょっと……待ってよ。息が……」
息を整える間にも、氷の槍が空から降ってきて鼻先を掠めた。突き刺さった部分から土がパキパキと凍りついていく。身を支えている手まで凍りつきそうになり、慌てて跳ね起き、尻を地に付けたまま後ずさりした。
「お姉さんが質問している時はしゃきしゃき答える!」
――む、無茶苦茶だ。い、いつもだけど。……そ、そうだ! 念話!
この上ない良案だった。シュイは直ぐにニルファナに念を送る。
<だから、これにはわけがあるんですって!>
「……強情だなー、まだ黙っているつもりなの。そんな子に育てたつもりはなかったのに。お姉さん悲しい、悲し過ぎるよ」
ニルファナは酌量の余地なし、と言わんばかりに首を振った。ウェーブのかかった赤い長髪がゆらゆらと左右に揺れた。
――あ、あれ。おかしいな。
<ちょ、ちょっと待ってくださいよ! あれは獣姫様に詰められて仕方なく、ですね――>
「もういい、残念だけど見込み違いだったみたいだね。ボロが出る前に、お姉さんの手で終わらせてあげる」
シュイの顔から血の気が失われた。どういうわけか念話の送信ができていない。気象条件が悪いわけではないし魔力だって足りていたが、きちんと行使できぬ以上何かが狂っているのは間違いない。
「まっ、……ハァ、ちょっと……待ってください」
喉がひりついて言葉がまともに出ず、唾を飲み込んで湿らせようとした。そうしている間にも――ニルファナの身体が徐々に大きくなっていく。一瞬幻術の類かと疑った。むしろそうあってくれと願った。
「さようなら、シュイ。君の事は忘れないよ……多分!」
10メード程に巨大化したニルファナが、周囲に木霊する大音量でそう言い放った。スカートの中が丸見えだということにも気づかなかった。
「た、多分って……待ってよ」
巨大な手が振り上げられ、シュイに向かって――
「ニ・ル・ファ・ナ・チョーップ!」
――無慈悲に振り下ろされた。
「……まっ――うわああああああああ!」
枕に頭を預けていたシュイの目蓋がカッと見開かれた。
「うわっ!」
聞き覚えのある高い声に引き続いて、額に強烈な一撃が見舞われた。
シュイが呻き声を上げ、もんどり打った。打ち据えられた額に手を当て、布団の上で怪しげな踊りを披露している傍らで、枕元に座り込んでいた赤髪の女が呼気を乱していた。
「び、びっくりするじゃない! いきなり目を開いたりして!」
聞き覚えのある声が耳に届き、少しずつ頭がはっきりしてきた。目の前の人物を見、涙目のシュイが額をさすりながら口を開いた。
「……ニ、ニルファナさん? ……あれ、僕……生きてる?」
工具でネジを締めるかのように辺りを見回した。自分が掴んでいる白い掛け布団。床には滲み一つない黄緑色の畳がある。緑色のレースカーテンは左右共に閉められていたが、光を含んだその色合いは既に朝が来ていることを示していた。
「そりゃあ生きてるよ、寝ぼけてるの? ひどいなぁ、いきなり怖い顔して驚かすんだもん。思わず手が出ちゃったじゃない」
「……ああ、夢だったのか。……良かった」
念話が通じなかったのも納得がいった。夢と現の狭間にいたのだ。
暴力を見舞われた理由は相も変わらず理不尽だったが、微かに生じた怒りもそれより強い安堵感に飲み込まれていった。よほど魘されていたのか、背中には寝汗のひやりとした感触があった。以前より大分伸びている前髪もぴったりと肌に貼り付いている。シュイはそれを左右に選り分け、ニルファナに向き直った。
「……ところで、何でニルファナさんがここにいるんですか? 僕、ちゃんと鍵掛けたんですけど」
口調が傭兵になる以前のものに戻っているのに気づかなかった。細かい配慮に気が行き届かないくらいには、頭の中が混乱していた。
「何だか暢気だなぁ、君に忠告するために決まってるでしょ。駄目じゃない、火傷なんて古典的な手を使うなんて。それじゃあ疑いをかけられるのも無理ないよ」
「……あ」
疑いと言われ、シュイはやっとニルファナが来た理由に思い当たった。先ほどの悪夢がまざまざと脳裏に蘇ったが、ニルファナに対する罪悪感が勝っていた。
「アミナ様に会われたんですね。……その、ごめんなさい」
あまりの申し訳なさに口を噤み、頭を下げた。アミナを見くびっていたわけではないが、教会で再会した時にはその話題に触れられなかったため、上手く誤魔化し切れたと思っていた。
だが、そういった楽観視がこのような事態を招いたのだ。身上を隠すことについて、もっと真剣に考えなければいけないことだったのではないか。万が一、こちらの出自が明るみになればニルファナの立場とて非常に危うくなるのだ。恩を仇で返す行為はシュイが最も毛嫌いしていることだった。
落ち込んでいるシュイに、ニルファナは少しだけ声を和らげた。
「ほらほら、男の子が軽々しく頭を下げないの。幸い、というか多分顔がばれても、アミナちゃんなら平気だったと思うけど、黙っていてくれるって約束してくれたから。あの娘、約束は破る子じゃないからそこは安心して良いよ」
それを聞いてようやくシュイの表情が明るくなった。少なくとも、ニルファナに迷惑がかからないことがわかっただけでも朗報だった。
「はい、以後気をつけます」
「よろしい。でもね、わざわざ会いに来たのはその件だけじゃないんだ。凄いじゃないシュイ、キャノエに立ち寄った時に支部の人から聞いたよ。フォルストロームから勲功授与されたんだって?」
「え……ああ」
そんな事はすっかり忘れていたという顔のシュイを見て、ニルファナは花が咲いたかのように微笑んだ。
「いやぁ、推薦したお姉さんも鼻が高いよ。あ、もちろん君ならやっていけるとは思っていたけど、まさか傭兵になって一月もしないうちにA級に類する任務をこなしちゃうなんてさ。これからも無茶しない程度に頑張りなさいね」
シュイは目を瞬いた。ニルファナに出会ってから、おそらくは初めて手放しで褒められた瞬間だった。
「あ、ありがとうございます!」
込み上げる嬉しさにシュイは満面の笑みを浮かべた。髪が大分長くなっているせいか、少女のようにも見えた。
――うーん、愛い奴。……それに、前よりは少しばかり立ち直っているみたいだね。
ニルファナはまるで愛玩動物でも見るように目を細めた。
「……あれ? そう言えばニルファナさん、どうやって部屋に入ってきたんですか?」
シュイは先ほども気になった事を尋ねた。寝る前には確実に鍵をかけていたはずだった。
「ん? ああ、宿のマスターキーを拝借したんだ。色々考えたんだよ。ドアノブ溶かすとか、窓ガラスに穴空けて鍵を開けるとか。でも、後始末が面倒じゃない?」
拝借と聞いてシュイの顔色が青褪めた。今頃フロントの方で大騒ぎになっているのは想像に難くなかった。
「ノ、ノックしてくれればいつでも開けたのに」
「そうなんだけど、寝ているところを起こすのも悪いかなと思ってさ。それに、久しぶりにシュイの寝顔を愛でようとか思ったりなんかしてね?」
その言葉が脳内のフィルターを通り過ぎるのに五秒ほど要した。ややあって、シュイの顔が赤面した。
「や、やめてくださいよ! 恥ずかしい!」
「たっぷり三時間くらいは堪能させてもらったからお姉さんも大満足。そう言えばさぁ、寝言で――」
もう聞きたくないとばかりに両の耳を手で塞ぎ、目を瞑った。だが、それすらも無駄な抵抗だった。
<――脱がしたんじゃないよ。脱げちゃったんだよ>
頭に響いた声に愕然とし、目を開けた。ニルファナの満面の笑みを前にして自らの醜態を思い出したシュイは、どうしようもなく泣きたい気持ちになった。
出発の準備を整えた2人が宿のロビーに向かうと案の定、騒ぎになっていた。支配人らしき女に指を差された従業員がおたおたと首を振っているのが見えた。既に鍵受けにマスターキーがない事に気づいているようだ。
<それにしても、ここの管理はなってないねー。普通はマスターキーなんて鍵付きの引き出しにしまうものだよ? 物取りに盗まれたらどうするつもりだろ>
ニルファナがいかにも思慮深げに首を振った。盗んだ人が言わないでくださいといった気持ちを飲み干し、シュイは溜息を吐き出した。
<まだ怒ってるの? あんまりくよくよするのは損だよ、もっと心を大きく持とう>
<えぇえぇ、どーせ僕の心はちっぽけですよ。……ていうか、それどうやって戻すつもりですか>
シュイがニルファナが手に忍ばせている鍵をチラ見した。
<それはもちろん、こうやって>
無造作な動きに一瞬呆気に取られた。マスターキーを後ろ手の状態から背中越しに放り投げ――
「すみません、チェックアウトお願いしますー」
――そのまま明るい声で注意を引いた。
「あ、はい。ただいまー」
集まっていた従業員たちが揃ってカウンターを振り向き、その中のひとりがいそいそと駆け寄ってきた。
その間にもホルダー付きのマスターキーは急な放物線を描き、鍵受け目掛けて落下した。実に素晴らしいコントロールだったが、幾らなんでも音でばれるのではないか。シュイが肝を冷やした直後だった。
鍵が落下する速度が急激に遅くなり、わずかにチャリッという音を発した。シュイはホルダーに引っ掛かっているマスターキーを見て、パチパチと瞬きを繰り返した。
<そうまじまじと見るもんじゃないよ、気づかれたら不審に思われるでしょ>
<な、何をどうやったんですか? まさか時間に干渉した、とか?>
<ん? そんな大それたことするはずないでしょ。あの地点に絞って無詠唱魔法で上昇気流を起こしただけだよ、シュイも念話は使えるんだから、練習すれば出来ると思うけど? 技術的に言えば無詠唱魔法に門を併用するだけだし>
ニルファナは事も無げに念話を返しつつ、兎のキーホルダーがついた可愛らしい財布から1万パーズ札を取り出した。顔色を全く変えずに集中力を要する詠唱破棄魔法を行使出来る使い手など探してもそうそう見つかるものではない。さり気なく規格外の力を扱えるのだから、その力は推して知るべしだった。
「ご利用ありがとうございました、またお越しくださいませ」
「さ、いくよシュイ」
お騒がせしてすみませんでした。ニルファナに手を引かれながら、シュイは心の中で詫びた。