第十章 ~(3)(改)~
束の間、脳裏を過った最悪の事態。しかして、目の前に姿を現したのはあまりにも意外な人物だった。
「……な、に」
「……ア、アミナ様!?」
男が驚愕し、シュイが声を上擦らせた。シャガルは男に対して構えを崩さぬまま、肩越しに視線を送った。
「悪いがそんな物騒な魔法を使うのは勘弁してもらいたい。仮にもこの教会は、我が国の指定重要文化財なのでな」
アミナが飄然と言った。蒼い月光に煌めく銀髪が、隙間から吹き込む風に靡いている。紅の眼を爛々と光らせ、手に何者かの足を掴んだまま中に入って来た。顔を床に引き摺られた男が、微かな呻き声を漏らした。かなり出血しているのか、群青色の床に歪な線が引かれてゆく。その有様に、宙に佇む男が息を呑むのがわかった。
「何分活きの良い獲物だったものでな、少しばかりやり過ぎてしまったようだ。まだ辛うじて生きてはいるがな」
アミナはシャガルの隣で立ち止まると掴んでいた足を無造作に手放し、宙に浮かんでいる男に視線を送った。血の臭いがより一層濃くなった気がした。
「さて、貴様らが何者であるか、何を企んでいるのか穏便に問い詰めたいところだが、答えてくれる気はないのだろうな」
「あのガーソンが、こうもあっさりやられるか。……噂以上の化け物だな」
男はアミナの質問に反応することなく肩を竦めた。が、先ほどよりも余裕がないのは明らかだった。声に微かな震えが含まれていた。
「聞く耳持たぬか、まぁそれならそれでよい。――無理矢理聞き出すまでだ」
会話の余地なしと即断したのか、アミナから刃物のような圧力が発せられた。不覚にも膝を折るところだった。男から感じていた殺気がぬるま湯に思えるほどの畏怖を感じた。
男の目が泳いだ。挙動が更に落ち着かなくなった。辰力を極限にまで高めたアミナの周りには、力の渦が具現化していた。顎を引いて頭を屈め、身を低くしていつでも飛び出せる体勢に入っている。今にも岩山から飛び立ちそうな竜の威容で。
「……さ、流石に分が悪い。ここは引かせても――」
「――どうあっても逃がさぬ。なに、幸いにしてここは教会だ。全てを聞き出した後でそのまま供養してやる」
語尾すら結ばせず、明確な殺意が示された。あくまで強硬な姿勢を貫くアミナに男が舌打ちし
「――ふっ!」
おもむろに、近くにある黒糸を引っ張った。
宙吊りにされ、存在を忘れられていた牧師の身体が一瞬にして細切れと化し、宙に撒き散らされた。既に失血死していたのか、血が噴き出すような事はなかった。
アミナを除く3人がそれに気を取られた。その隙に男が金属糸から飛び降り、教会の奥へと撤退。月明かりに照らされた教会の壁に薄い影が過った。
「逃がさぬと言ったっ」
傍にいた3人を割り入る勢いで、アミナが地面を蹴り放った。尋常ならざる脚力に敷き詰められた石畳が後ろに押し流され、山を作った。
男の速さを凌駕する迅さで、緋色の双眸が線を描いた。落ちてきた牧師の肉片が彼女の顔や肩に降りかかったが、それを意に介した様子もない。速度を緩めるどころか矢の如く加速し、瞬く間に先を行く男との距離を詰めてゆく。
只ならぬ気配を感じたのか、わずかに後ろを振り向いた男の眼に、恐怖が過った。
慌てた男が奥の扉を蹴破らんと足を掲げた。アミナが目標の横腹に狙いを定め、拳を握り締めた。
ドアが蹴破られた瞬間、奥の壁面で小さな影が大きな影に食いついた。開閉音に遅れてタンスでも倒れたかのような鈍い音が響く。
「――おぐっ!」
決して大きいとはいえないアミナの拳が、男の脇腹に、杭を打ち込んだかのように突き刺さった。筋肉質な体が壁面に押し付けられ、拡散した衝撃によって壁が円状に浅く陥没。その周囲にまでヒビ割れが走る。余程の激痛に襲われているのか、男は完全に沈黙していた。声を漏らすことすら叶わなかった。
「詰めが、甘かったな」
唾とも泡ともつかぬ物を吐き出す男に対し、牧師の血と肉片に塗れたアミナは男の脇腹から拳を抜き、容赦なく二撃目を放とうとした。
束の間、濁った男の眼に暗い光が宿った。ただならぬ危険を察知したのか、アミナがすぐさまシュイたちの方、後方へ低く跳躍した。
それを追うように、男の身体が爆ぜ、石床が弾け飛んだ。爆煙が上がり、大小の破片が四方八方へ飛び散った。迫る破片を間近に見て避け切れないと判断したか、アミナが床に両手を向けて魔力を放出し、上空へ逃れた。
その直後だった。
「――つぅ!」
突如アミナが苦鳴を漏らした。上昇していたアミナの体が空中でつんのめるように停止していた。その体が撓ったかと思うと、今度は下方へと弾き出された。
アミナの落下点に、爆風で飛ばされた破片が猛然と迫った。それを目の端に捉え、アミナの顔色が変わる。時間的猶予はなく、回避は不可能。迫る床に両手を向け、我が身を襲うであろう破片に堪えるべく歯を食いしばった。
『<氷結壁>!』
異変を察したシャガルとシュイの声が重なった。落下点と破片を分かつように、地面から分厚い氷柱が立ち上る。
アミナが四つん這いで着地するや否や、奥の方から飛んで来た破片が、出来上がった氷柱に突き刺さっていく。奇しくも重ね掛けになった強固な氷は細かい破片を軒並シャットアウトした。
遅れて、一際大きな破片が飛んできた。耳障りな切断音を響かせながら氷の柱に食い込んでいく。根元にひびが入り、アミナの側に傾いた氷の柱を前にして、体がひとりでに動いた。抱いていたピオラをシャガルに手渡し、倒れてくる氷柱を横目に立ち上がりかけているアミナに突進する。
「失礼しますっ!」
「えっ……ひゃっ!」
前もって詫びながらも腕を伸ばし、アミナの細い腰を引き寄せて斜め前方に跳躍。目の横を過ぎった氷柱が耳元に風をもたらした。シャガルやピエールの叫ぶ声が後ろから聞こえた。
もつれ合うように床に転がり込んだのと、氷柱の倒壊音が同時だった。舞い上がった氷と石の欠片が雨のように降り注ぎ、背や肩を叩いた。
「……ふぅ、間に合った」
思わず安堵の声が漏れ、それから今の状況に気づいた。あろうことか、仰向けのアミナに覆い被さるような格好になっていた。右肘に柔らかなものが当たっていて、髪の毛が触れ合うほどの近くに、固まったアミナの顔があった。
「あ、わっ、す、すみませんっ」
反射的に床についていた左手を突き放し、仰け反るように立ち上がった。自分がやらかした無礼を思い返し、身も凍りつくような心地になった。肘に当たっていたのは、おそらく彼女の胸だろう。死刑、は流石にないと思いたかったが、王族に対する猥褻行為が果たしてどれほどの罪になるのか、想像もつかなかった。
一方のアミナはすぐに動くことはなかったが、ほどなくしてゆっくりと身を起こした。
「い、いや、こちらこそすまぬ。私とした事が、ぬかったな」
アミナが立ち上がりながらも詫びの言葉を口にした。流石に動揺は隠し切れていなかったが、少なくとも怒っているようには見えなかった。体から強張りが取れていくのがわかった。
アミナの背には薄らと赤い線が引かれ、そこから血が滲み出ていた。宙を見上げると、先ほど男が使っていた黒糸が、主を失ったクモの巣のように未練がましく残っていた。跳躍の際に背を引っ掛けたのだとわかった。
「情報を漏らさぬよう自ら死を選ぶか。徹底している」
重々しい呟きが耳道に残った。シュイは、アミナが引き摺ってきた方の男に目を移した。外で待ちうけていたのは間違いなくこの男だろう。もしも彼女がこの場に駆け付けなかったら、確実に挟み打ちにされていた。そうなっていたら、果たして切り抜けられただろうか。
「……う、シャガ……ル?」
「ピオラッ、良かった、気がついたか」
「……わ、私……また」
ピオラが唇を震わせた。羞恥以上に悔しさを滲ませていた。前回に引き続いて気を失っていたことが、我慢ならぬというように。
両手で顔を覆いかけた彼女に、シャガルが慰めの言葉をかけた。
「ピオラ、落ち込むことはない。……今回は相手がちょっと悪過ぎた」
「……でも。……うぶっ、……ごふっ」
ピオラがシャガルの腕の中で咳き込んだ。喉につかえていた胃液が、閉じかけられていた口元から飛び散った。黄色い飛沫がピオラの顔と、抱えているシャガルの腕に跳ねた。
「ピ、ピオラ!」
「……う、うう」
醜態を晒した自分を恥じているのか、それとも強い吐き気と酸味に涙腺が刺激されたのか。ピオラの紫色の目から涙がぽろぽろと零れ落ちた。
「一旦外に出て、全部吐かせてくる。気管支に入ったらまずいからな」
「わかった、まだ敵がいないとも限らない。何かあったらすぐに呼んでくれ」
「ああ、さんきゅ」
声をかけたピエールに軽く手を掲げ、シャガルがピオラを抱いて教会を出ていく。その様子を見送ってからシュイは懐に手を伸ばした。
「アミナ様、これを……」
白いハンカチをそっと差し出した。アミナは一瞬キョトンとしたが、すぐに思い至ったようだった。体にこびりついた牧師の血と肉片に。
「あぁ、すまぬ、気が利くな」
アミナはおずおずと、差し出されたハンカチを受け取った。
「やれやれ、今回はそなたらに随分と助けられてしまったな」
「……いえ、助けられたのは俺の方です」
ハンカチを動かしていたアミナの手が止まり、紅の目がシュイの姿を収めた。
「大毒蜂をあれだけ倒せたんだから、もう対人戦も大丈夫だと思い込んでいました。ひどい自惚れです。いざ人を相手にしてみたら動きが縮こまってしまって、結果、仲間を窮地に追いやってしまった」
先ほどのピオラの悔しそうな表情を見て、シュイは強く自戒していた。黒糸の男は自分たちよりも明らかに格上だった。確実に生き延びるには誰かがあの男を始末せねばならなかった。人を殺める罪悪感を忌避し、敵の行動を制することを妨げ、ピオラが負傷する要因を作ってしまった。
最終的には切り抜けられたものの、それは偶然とアミナの力によるものだ。いわゆる勝利とは程遠い。何より、過去のトラウマを克服できていないことに落胆せざるを得なかった。
顔を伏せたシュイに、アミナがハンカチを畳みながら口を開いた。
「顔を上げよ」
「……アミナ様」
「自分を省みるのはいいが、責を求めるは建設的ではない。失敗とて次への足掛かりにすることで宝となろう」
「失敗が、宝ですか」
「躓いて当たり前というくらいに考えることだ、初めから二本足で立てる者などいないのだから。人はその生い立ちからして、痛みを得て初めて転ばぬことを覚える生き物であろう」
アミナの言葉が、すっと頭に沁みていった。目の前の少女が体現している言葉でもあるのだということが、なんとなしに理解できた。
「……わかりました、今回の経験を糧にして――」
「――ああ、それから念のために断っておくが」
アミナが声を一段と高めた。シュイはなんだろう、と首を傾げた。
「そなたの手を借りずともな、最後の氷柱は、避けられたぞ」
息が詰まった。心臓に拳をまともに打ち込まれたかのようだった。
「あ、あの……」
「さておき、気持ちはありがたく受け取っておこう。今後とも精進することだ。そう、いずれ私を助けられるくらいにな」
アミナが腕を下ろし、悪戯っぽい笑みを浮かべた。初めてみせてくれたその表情に、ひとつ鼓動が大きく鳴った。
翌日。フォルストローム軍の綿密な捜索により、教会の隠し倉庫から調香具が発見された。牧師は殺されてしまったものの公民館から警報を流した職員が緊急逮捕され、彼らの悪行の全てが明るみにされた。他に仲間はいなかったとのことで、軍に内通者がいるのでは、という予想は杞憂に終わっていた。
殺された牧師の悪行は、同情の余地がないほどにひどいものだった。身よりの無い信者の支えとなる振りをし、死後寄付をさせるよう約束を取り付けてから自然死に見せかけて殺し、私腹を肥やしていた。仲間内でも金使いが荒いことで有名だったようだ。
このまま続けていればいずれ不審に思われると予想は付いていたようで、一気に荒稼ぎしてからきっぱり足を洗おうと考えた。そのうち、大量に発生したと聞き及んだ蜂を利用した殺人を思いついた。
金と引き替えに協力を持ちかけられ、計画に加担した職員が告白した事のあらましに、キャノエの民たちはこぞって憤慨した。職員に対しても近日中に刑が執行されるとの事だった。フォルストロームの裁判は非常に迅速で、冤罪、若しくは酌量の余地がない限りは、遅くとも半年以内にケリがつくらしい。
夕暮れ時。丘の上にある大きな病院から傭兵が2人、連れ立って出てきた。
「やれやれ、とんだ大騒動だったな」
ピエールは疲れた顔を隠さず大きく伸びをした。反して、言葉からは達成感が滲み出ていた。
今回の事件を迅速に収束させた功績に対し、フォルストロームからは4人に感謝状が送られることになった。それに伴い、ギルドの方でもA級任務の達成に値する大幅なギルドポイントの加算が決定。聞くところによると昇格に関わるポイントのようで、二人共にBランクに大幅に前進したと言って良いそうだ。
「まぁ、すっきり解決とはいかなかったけどな」
シュイが空を見上げながら言った。牧師の一件は落着したが、自爆した男たちの企みが明るみになったわけではなかった。もう一人、アミナが先に倒していた男も、翌朝に息を引き取ってしまったのだ。
検死の結果、胃の内容物からは解けかけた錠剤が発見されたらしい。解剖に立ち会った医者の話では予め毒を飲んでいた可能性が高いということだった。彼らが所属する組織の秘密保持のため、撤収が完了した時点で解毒剤を飲むよう取り決めていたのでは、というのがアミナの意見だった。
被疑者死亡に終わったその件については、フォルストロームの軍部が引き続き調査を行うということだった。アミナを始めとして優秀な者たちが集っているため、遠からず明るみになる日は来るだろう。
シャガルは負傷したピオラの回復を待って、ルクスプテロンのギルド本部に報告に行くとのことだった。海を隔てた遠い異国の地。再び会えるかは正直わからなかったが、シュイとピエールは2人と再会の約を交わし、別れを告げた。
「シュイ、おまえはこれからどうするんだ?」
通行人たちが行き交う中、2人が長老樹の根元で立ち止った。シュイは聳え立つ巨大樹をゆっくりと見上げ、目を細めた。
「依頼を受けながら、世界中を旅してみるよ。今回の件ではアミナ様に助けられっ放しだったし、つくづく自分の非力さを痛感した。もっと強くなりたいのはもちろんだけど、学ばなければならないことも多すぎる。ひとまずは王都に向かうつもりだ」
今回の一連の騒動に際しては反省しきりだった。アミナとの力量の差を感じ取ったのもそうだが、もし初めからフェロモンや蜂の特性のことを知っていれば、早くに牧師を疑う事も出来ただろう。
キャノエの西方、フォルストロームの王都には大陸有数の図書館が存在する。そのことをシャガルから教えられたシュイは、そこで知識を蓄えようと考えていた。
「そっか、そんなら名残惜しいけれどここでお別れだな。俺は一旦ホーヴィに戻るよ」
「ん、もうミルカが恋しくなったのか?」
「ちっ、ちがわい!」
ピエールが声を高めて反論した。続いては衆目を集めたことに気づいたのだろう。微かに身を縮めた。
「なんつうか、今回は色々ショックが大きくてよ。悔しいけど今のままじゃ命がいくらあっても足りないことを痛感したし、心身ともに一から鍛え直すことにしたんだ。今度会う時には、お前にも負けないくらい強くなっておくよ」
「そうか、わかった。……それにしても」
「ん、なんだ?」
「いや、ホーヴィでお前に絡まれたことが、まるで大昔のことみたいだと思ってさ」
「あぁ、はは、ほんとにな」
二人は顔を見合わせ、微笑を交わした。初対面の時とは違う、嫌味が一切含まれない清々しい表情だった。
わずかに湿り気を帯びた風が吹き、二人はどちらからということもなくお互いに右手を差し出した。
「じゃあな、シュイ。またどこかで会おうぜ」
「ああ、ピエール。体には気をつけろよ」
2人が長老樹の下で硬く握手を交わした。再会の意志を託し、そしてお互いに違う方角へと、後ろを振り返ることなく歩き始めた。
シュイの影が伸びていき、ピエールの影が縮んでいく。2人の若い傭兵たちが去りゆく姿を、長老樹は葉をざわめかせながら見守っていた。