第九章 ~(2)(改)~
昼時、小洒落た喫茶店の中はカウンター席も含めてほぼ満員だった。従業員たちは料理が隙間なく乗ったトレイを片手に厨房と客席を行き来していたが、折を見てちらりちらりと、一所に視線を飛ばしていた。
窓際の最奥の席には、一際異彩を放つ少女の姿があった。訪れている客たちの中にも彼女の顔を知っている者がいたのか、そこかしこで囁き声が発されていた。
キャノエの東に位置する港町ヤーベに赴いていたアミナ・フォルストロームは、流入してくる囁き声を払うかのように三角耳をしっしと動かしていた。いつもの事であったが、いつまで経っても完全に慣れることはなかった。素知らぬ振りはあくまで振りに過ぎず、心のどこかで見られていることを意識してしまう。食事の時くらいは人目を気にしたくないというのが、アミナの偽らざる本音だった。
耳が良過ぎるのも意外と難儀な物だった。内緒話をしている当事者たちにとっては聞こえぬつもりだろうが、その実丸聞こえで気に障るのだ。いっそ、「聞こえているぞ」と声高らかに言ってやりたかったが、そんなことをしてもキリがないのはわかっていた。
自分に対しての話題は憧憬や称賛が主だったが、その一方で下衆な話題を口にしている者も少なからずいた。唇を無理やりに奪いたい。胸に顔を埋め、慰めてもらいたい。おみ足に踏まれてみたい。それ以上の、口にするのが憚られるようなことも言いたい放題だ。
表向きは持て囃されようと、一歩引いてみればただの欲情の対象か。アミナは透過窓越しに海を見つめながらも、不機嫌そうに眉をひくつかせていた。
自分のことだけならばまだ割り切れたかも知れない。けれども、度々聞こえてくる雑口には、辟易という言葉すら温いものも混ざっていることがある。他人を陥れる算段。付け合わせの嘲笑。世界に対する恨み節。心にもないお愛想笑い。そういった物が絶え間なく聞こえてくれば、精神衛生上、非常によろしくないのは明白だ。
そういった事情もあり、普段は意識して聴覚を制限していたが、それも長時間続けると疲れてくる。素のままで気にしないためには、何か一つの主題、テーマに思考を傾けることが対処法のひとつだった。
ただ、ここ二、三日に限って言えば、それもどこかもどかしかった。
アミナは店のメニューを見ながら、もどかしさの元凶たるシュイの姿を脳裏に描き出した。それから、黒衣を自分が身につけている姿を想像してみた。
ああいった服装は、一般に馴染み深いものではない。着たところで奇異の目で見られることは避けられないだろう。それでも、周りが敬遠してくれるだけでも正体はバレにくいはず。一度くらいは試してみる価値もあるだろうか。
そんなことを考えていると、店員が近づいて来たのが見えた。考えを一区切りし、片手を上げた。
「お、お待たせいたしました。ご注文はお決まりですか?」
ウェイターが畏れ多いといった様相で恭しく会釈をした。立場ある者に対してどう接するべきか戸惑っているようだ。アミナとしては普段と何ら変わらぬ対応を望んでいたが、それがままならぬことも事実だった。
「大体な。ところで、ここの自慢の一品は何か?」
「ええと、そうですね。本日のお奨めは、港から直送の新鮮な魚介類をふんだんに使いましたパスタでございます。良質な竜糞ウニが北の方から入っておりまして、ソースは香草とトマトの二種類からお選びいただけます」
「おお、それは美味そうだな。ならば、それを4人前お願いする。激盛りで」
「はい、よ……」
束の間、店員の声が停止した。この店での大盛りはおよそ1.25人前。特盛りは1.5人前。激盛りは2人前の量。メニューの最初にもそう書かれていたし、頭の中でもそのような計算をしているのだろう。
「4人前、でお間違えありませんか。……激盛りで。当店ではお持ち帰りはやっておりませんが、それでもよろしいですか」
「うむ、あとシーザーサラダの大を一つ。オリジナルプリンとチーズシフォンも頼むか。……むっ!」
「な、なにか不手際でも?」
一瞬険しくなったアミナの表情に、店員の声がどもった。王族の悪評価など賜れば、失職どころか店ごと潰れかねなかった。アミナは神妙な様子で、店員を見上げた。
「象苺のケーキも追加してくれ」
「か……、畏まりました」
大急ぎで厨房に注文を伝えに向かう店員を見送った後で、アミナは再び窓の方を見つめた。天気は晴れと曇りの中間、と言ったところだろうか。太陽が薄い雲に覆われているがその丸い輪郭ははっきりと見える。巨大な薄紙で包まれた行燈のようだ。
ややあって視線を店内に戻すと、右往左往しているウェイターの黒い制服がちらついた。アミナは、再びシュイとのやり取りに思いを馳せた。あれはやはり『告白』というやつだったのだろうか、と。
あの日以来、胸の奥から湧き出るもやもやを持て余していた。寝るに寝付けず、ベッドの上でタオルケットを腕と足に挟み込みながら、ゴロゴロと転がり回る羽目になってもいた。
自分が人並み以上の容姿を持っているという自覚はあった。人族の母譲りの銀髪は、獣族では珍しい髪色であるし、フォルストローム以外の国の町を歩いていれば誘いの声を掛けられる事もしばしばだった。
だが、王女たる自分と相対し、あそこまで必死に言葉を伝えられた記憶はなかった。
王城を空ける事が多くなった今でも、上流階級の者たちからは連日のように自分宛ての恋文が届いている。その大半は『あなたの美しさに心を奪われた』とか『結婚を前提に付き合って欲しい』などといった、歯が浮いてしまうような内容だ。
それに加えて『竜退治をしてきた』、はたまた『凶悪な盗賊団を壊滅させた』等々。如何にも自分を大きく見せるための経歴、武勇伝が添えられたものも多かった。
実際王城にまで押し掛けられて謁見を直訴され、あまりのしつこさに根負けして会ってみたことも何度かあった。
ところが蓋を開けてみれば、吹けば飛ぶような男ばかりだった。顔はそれなりに優れていたが、それだけだった。無敵を誇るのは手紙と妄想の中だけか、と声を大にして言ってやりたいくらいの落差だった。
実際、アミナと顔を突き合わせ、その鋭い眼光で射竦められたまま、送ってきた恋文と同じような台詞を口に出来た者はいなかった。つい、三日前までは。
アミナは三日目にしてようやく、冷静にあの夜の出来事を振り返ることが出来ていた。不覚にも告白されたくらいで動揺してしまったが、あれが実は偽りで、顔を見せぬために弄した詭弁であったという可能性も十二分にあった。もしそうであればそれで良いが、三日間に亘って感情を振り回されてしまったその事実を認めたくないのも確かだ。それに、やはりあれが本音であったならば。
もやもやとした感情が頭の中でぐるぐると回り、輪を描いていた。何度吹き消しても、再び煙の様に立ち昇って渦を巻くのだ。
普段の自分であれば、本音だったからどうした、と言いそうなものだが、心のどこかでは彼の言葉が本音であって欲しいと思ってしまっていた。その理由がどこからくるのかわからず、その答えを求めている自分が情けなくもあった。
ともすれば、自分は初めて真剣に告白されたその行為にときめいているだけで、シュイに魅かれているわけではないのではないか。そんな考えに落ち着いた。
おそらくは初対面の相手。顔もわからず、傭兵としても格下で、お互いに内面を理解し合うほどの親交があったわけでもない。気になる要素はほとんどないはずなのだ。
仮に彼の告白が本音であったとして、顔を見せぬような人間に心を許す気は毛頭なかった。ここに来たのはあくまで確認のためだ。シュイと名乗る傭兵が、フォルストロームに仇成さぬ存在であるかどうか。それを見極めに来ただけなのだ。何度となく、そう自分に言い聞かせた。
――くっ、意識している証拠ではないか!
堪らず、アミナは出された水を煽る様に飲み干した。テーブルに戻したグラスが思いの外高い音を奏で、先ほど以上に周囲の注目を引いた。
しかして、そんな瑣末な事に気を配る余裕を今のアミナは持ち合わせていなかった。その時点で当初の目論見は成功しているはずだったが、そんな瑣末な考えは遥か彼方にあった。
――うぅ、気に入らぬ。まったくもって気に入らぬ。大体、あの場で大人しくあやつが顔を見せてくれてさえいれば、ここまで気になる事はなかったはずなのに。
誰とてあの怪しげな格好を見れば、一体何者なのだ、と興味を引いてしまうだろう。ある意味卑怯ですらある。まさか、本人はあれで目立たないようにしているつもりなのだろうか。だとしたら突っ込んでやりたいことが山ほどあった。
傭兵になる前、アミナは一つの誓いを立てていた。敬愛する父王が早くに亡くなってしてしまったため、アミナは幼くしてフォルストロームの王位後継者となった。
幼くして身内を失う痛みを知ったアミナは、それから立ち直ると同時に著しい精神的成長を遂げた。
そして幼いなりに考えた。自分が何かしらの不幸に見舞われれば、いずれ他の血筋の者が治めるようになるだろうが、その時に血が流れぬとも限らない。ならばその可能性を少しでも低くするべく、強くなっておくに越したことはないのだと。
今は祖父のキーアが再度王を務めているが、既に齢は六十に近い。そう遠くないうちに、祖父が安心して王位を退けるようにしてやらねばならない。そうとなれば、自分が一刻も早く王に相応しい人物になるか、さもなければ国を支えられるような婿を取らねばならなかった。
元々、シルフィールに入ったのはそのためだった。自分の力を鍛えつつ、婿探しもできて一石二鳥。無論そのことは他の誰にも漏らしていない。
片方の目標は順調に達成へと近づきつつあった。シルフィールに入ってからというもの、アミナは天賦の才に磨きをかけ、戦士として驚異的な成長を遂げていた。今や押しも押されもせぬ準ランカーだ。このままシルフィールのランカーに昇格出来れば、国を治める者としても十分にやっていける。それそのものが自信にもなるだろう。ギルドの主戦力ともなれば、対外的にも十分な肩書だ。そうすれば、名実共に、婿を取る必要はなくなるのだ。
目標達成を前に心を乱す必要はない。今はフォルストロームの事だけを考え、行動する。シュイについては敵であるか否か、それだけ確認できればそれでいい。アミナは改めて自分に言い聞かせた。
ただ、そう、何かの拍子に正体がわかってしまうといったこともあるかも知れない。それならそれで構わない。別に気にしているわけではないが、知ったところで損がないのならば、知っておいた方がすっきりする。それだけの話だ。
ややあって、誰に対しての言い訳か、とアミナが頭を重たげに抱えた。どうにも調子が狂いっ放しだった。気を紛らわせようと、再びメニューを開こうとし、手前にグラスが見えた。
先ほどまで水の入っていたグラスは氷を残して空になっていた。冷え切った底が結露し、テーブルが濡れていた。何となしに形の整った爪で水滴を伸ばし、ゆっくりと線を引いた。
「珍しいね、考え事?」
間近から投げかけられた声に、線が乱れて跳ねを打った。さしものアミナが大きく身体を強張らせた。おずおずと顔を上げると、見知った赤毛の女性がにこやかに、指を揃えて前後に振ってみせた。
「……ハーベル、声くらいかけたらどうだ」
「今かけたでしょ。それにしてもなかなかレアだったね、隙だらけなアミナちゃんなんて初めて見たかも」
「ちゃ、茶化すな。ともあれ、いきなり呼び立てして済まなかったな」
「ううん、近くまで来てくれたし問題ないよ。まだお昼前なのに、今日はかなり蒸すねー」
ニルファナは朗らかに笑いながらアミナの向かいの椅子を引いた。アミナは引いた椅子を元の位置に戻した。
外から入って来たばかりで暑いのか、ニルファナは片手で水色のブラウスの胸元を摘み、もう片方の手で上から仰いで風を送っていた。若い女がその所作はどうなのか、とアミナは眉をしかめた。
「正直驚いたよ、アミナちゃんに呼び出されたことなんてちょっと記憶になかったから。あれから、半年振りくらいかな?」
「そうだな、フラムハートとの合同任務以来か。その節は大変世話になったな」
「それはお互い様だよ、あの任務大変だったもんね。稀に見る総力戦だったし」
かつて、悪名高い賞金首が名を連ねたバイルワールドという裏ギルドが存在した。四大ギルドを始めとした正規のギルドは、台頭してきたその大勢力と何度となく交戦を重ねていたが、半年前にフラムハートの上層部が敵本部を割り出し、掃討戦を決断。良好な関係を築きつつあったシルフィールに協力を求めてきた。
危険を伴う協力要請に、シルフィールは即決を以って応えた。バイルワールドとの戦いに際し、度々犠牲者を出してきた状況に終止符を打つべく、高名な傭兵が数多く参加した。
双方の上位傭兵の混成チームは、ケセルティガーノにあった地下本部を強襲。ギルド同士の衝突としては史上稀に見る大激戦となり、双方に死傷者が続出した。
当時、アミナはまだBランクだったがニルファナを初めとした優れた傭兵たちと共闘し、多大な功績を残した。それが準ランカー昇格への決め手となったと言っても過言ではなかった。
ほどなくして、白い留めボタン付きの袖が視界の端に入ってきた。トレイを両手に持っているウェイターが3人テーブルの前に並んだのを見て、ニルファナがはてと首を傾げた。
「た、大変お待たせいたしました。魚介のパスタと、シーザーサラダ(大)と、オリジナルプリンとチーズシフォン、それに象苺のケーキでございます」
注文を読み上げた後で、ウェイターたちは次々とテーブルに料理の盛られた皿を置いていった。水の入ったグラスが2つあっただけの殺風景なテーブルが、数十秒後には料理の乗った皿で埋め尽くされていた。
流石のニルファナも唖然とした。続いては、注文のテーブルを隣と間違えているのではないかと訝り、ウェイターと料理を交互に見比べた。隣のテーブルには4人座っているが、料理はまだ並べられていなかった。
「あなたも何か頼んだらどうだ? 奢るぞ」
「あぁ、うん、そーだねぇ」
その短いやり取りで、ニルファナはすべてを察したようだった。今ここに並ぶ料理は全部アミナが頼んだものであり、けれども予め自分の分を頼んでおいたわけではないことを。
自分の料理の並ぶスペースがあるだろうか。ニルファナは少し不安げにテーブル上へと視線を走らせた。
「ご、ご注文は?」
ウェイターが恐る恐るといった様相で訊ねた。得体の知れぬ者を見るかのような失礼な目をしていた。こんな美人を捕まえてといった体で、ニルファナはメニューに視線を走らせた。十頁あるメニュー表をおよそ二秒ほどで網羅し、店員を見上げた。その様がただ頁を捲ったようにしか見えず、店員たちは顔を見合わせた。
「んじゃあ、シナモンスティックティーとスペシャルツナサンドお願いしようかな。ティーはミドルで、サンドはトマト風味のソースでね」
「あ、はい。喜んで」
ウェイターが胸を撫で下ろしたように息を吐いた。店が混んでいることもあって、アミナの様な大量注文が来たらたまらないのだろう。
「すみませーん、お会計お願いしまーす」
精算所の方から、女性客の張り上げた声が聞こえた。店員たちが慌しく作業に戻っていった。
――もー、そんなに走ったら埃が立つでしょ。
ニルファナは、去りゆくウェイターたちにじと目を送りつつ、心の中で100点中30点と採点した。それから、パスタをソースごとフォークに絡めているアミナに向き直った。