第七章 ~(2)(改)~
聞き慣れぬ警戒音に通行人たちが足を止め、不安げに周囲を見回し始めた。それから数秒ほど遅れて、魔法で拡声された声が聞こえてきた。
『緊急警報。大毒蜂の群れが、町の南東上空から侵入しました。繰り返します、大毒鉢の群れが町の南東上空から侵入しました。外出されている方は、急いで近くの建物に避難してください。戦える方は町の中央、長老樹付近にお集まりください』
放送を耳にするなり、すぐそばにいた若い男の顔からみるみるうちに血の気が引いていった。歩道で乳母車を押していた女が、傍らにいた子供の手を握り締め、今しがた外に出てきたシュイの脇を通り過ぎて図書館に駆け込んだ。付近で一番大きい建物ということもあってか、左からも右からも、前からも。老若男女関係なく、各々可能な限りの急ぎ足で図書館に向かってきた。
ややあって、同業者と思しき者たちが避難者の流れに揉まれながら図書館から出てきた。その中にピエールの姿を見止めたシュイは少し及び腰になった。ピエールはシュイの姿を見つけると険しい顔で近付いてきた。
「ああ、いや、さっきのは決して逃げたわけじゃあないぞ? たまたま外の空気が恋しくなったんだ」
「アホっ! んなのんきなこと言っている場合か!」とピエールが突っ込んだ。
「……だよな。大毒蜂って言っていたよな。アレ、大量発生でもしてるのかな」
実際、前回の仕事で遭遇していたこともあり、急襲の報を耳にしてもさほどの驚きはなかった。が、それにしたって森の奥深くでの話だ。町を襲ってくる事態にまで発展するとは考えが及ばなかった。
「わからねえが、その可能性は高いと思う。俺も何度か依頼受けた事あるけど、多くても五、六匹くらいしかお目にかかったことなかったし」
どこか悔しそうに、ピエールが唇を歪めた。前回の任務で不覚を取ったことが我慢ならぬというように。
おそらくは聞き耳を立てていたのだろう。門の前で立ち往生していた短い金髪をした森族が二人に近づいてきた。痩せ形で上背があり、美男子と言って差し支えない。それでいてどこかひょうきんそうな顔だ。年齢は二十前後といったところで、ゆったりとした青いローブを纏っていた。
「見ない顔だが、察するにあんたらも傭兵みたいだな。放送通りに長老樹へ行くのか?」
率直な質問に、シュイは少し考えてから口を開いた。
「いや、幸いここは町の南側だ。分散する前に少しでも早く現場へ行って侵入を喰い止めた方が良いんじゃないか」
ピエールがシュイの意見に賛同した。
「だな、一旦中央に集まるなんて悠長なことはしていられないだろ。一般人があんなのに襲われたらひとたまりもないし」
「……そうだな、わかった。多少のリスクはあるが、遅かれ早かれ他の傭兵たちも駆けつけるだろう。そちらさえ良ければ、それまで共闘しないか。群れを相手にするなら二人ずつより四人で連携した方が安全だろう」
「それもそうだな。えっと、そっちの御仁は異存ない?」
シュイは男の後ろに隠れていた、背の低い傭兵に目を移した。黒装束を身に纏い、口に覆面を付けている彼は陶器を思わせる白く滑らかな肌、それと相反する漆黒の艶やかな髪をトップで纏めていた。紫色に煌く目と横に尖った耳は純血かそれに準ずる魔族の特徴だ。
「……ん」
魔族の傭兵はシュイに視線を返し、小さくうなずいた。というより、森族の青年のフォローでそれがうなずきなのだとわかった。
「悪い、こいつちょっと人見知りが激しくてな。普段から無口だからあんま気にしないでやってくれ」
森族の青年がさもすまなそうに言ったので、シュイはむしろ申し訳ない気持ちにさせられた。
「構わない。じゃあ、即席だが四人で組むとしよう。俺はシュイ、こいつはピエール。お前たちの名は?」
「俺はシャガル。このちんまいのはピオラ」
シャガルは覆面の傭兵を指差して言った。
「ピオラ、何だか可愛らしい名前だな」
ピエールがもっともな感想を述べた。
「……ほっとけ」
思いの外高い声が返ってきて、シュイとピエールは顔を見合わせた。よくよく見れば胸に微かな膨らみが二つあった。
馬車道、排水溝、街路樹。町の景色が前から後ろへと流れていく。遠く南の方にはキャノエを囲む外壁が見えたが、空を飛べる魔物に対しては無用の長物だ。
シュイは疲弊せぬ程度の速度を維持しつつ後ろを振り返った。
「遠距離攻撃はできるか?」
「問題ないぜ」とピエール。
「むしろそっちが専門だ」とシャガル。
「……可能」とピオラ。
「そっか、なら柔軟に戦えそうだな」
そうしている間にも、図書館の方角に逃げる街の人たちを何度か目の端に捉えていた。放送が入ってから既にそれなりの時間が経過している。大毒蜂がこの辺りに辿り着くまでそれほどの猶予があるとは思えなかった。見かけた敵は片っ端から倒さないと、逃げている者たちが追いつかれる可能性は大だ。
「……敵、視認」
ピオラの呟きに反応し、三人が瞬時にピオラの視線をなぞり、前方にある集合住宅と思しき建物の谷間に目を移した。もう見覚えのある大毒蜂が三匹、縦列に走るシュイたちの方へ向かって飛んできていた。
シュイが内心で安堵した。こちらとしては、逃げる者たちのことを気遣わねばならない分、上空をすんなり通過されるよりは降りてきてくれた方が余程有難かった。
「よし、一番近い蜂から狙い打つぜ。三人とも、巻き込まれないように注意してくれよ」
三人が少し横に広がったのを見止め、シャガルが舌舐めずりしながら左手を逆手に掲げた。大気に満ちる魔力が左手に吸収され、精神統一によって内的魔力と同調。
最寄りの蜂との距離が30メード程に狭まったところで左手を引き、何かを握り締めるように隙間を作った。
「<雷の投槍>!」
シャガルが詠唱を終えるや否や、握り拳の両側から青白い光が迸った。手の中に握られた槍が――創造によって細長く形状化された雷が――向かってきた蜂たちへ投げ放たれた。
投擲された雷の槍が空の塵を焦がし、隊列を組んで飛んでいた二匹の蜂をまとめて貫いた。辛うじて攻撃から逃れた一番先頭の一匹が、逃走を図ろうと上昇を始めた。
「……遅い」
逃すまいとピオラが地面を蹴り放った。驚嘆に値する身のこなしだった。路地を挟む赤煉瓦の住居の壁を足場代わりにし、じぐざぐに蹴り放ちながら空へと駆け上がっていく。
飛んでいる蜂を高さで上回ったところで、ピオラが窓枠を一際強く蹴り出し、真横へと跳躍した。身体を捻り込みながら、今まさに空へと向かう蜂に襲いかかった。
わずかに遅れて蜂が自身を覆った影に気づいたが、もう手遅れだった。次の瞬間、いつの間にか抜かれていたピオラの短剣が、蜂の身体に数か所の切れ込みを入れた。
蜂の断末魔が地上にまで漏れ聞こえた。宙でくるりと一回転し、難なく着地したピオラの後を追って、蜂の体が無様に墜落した。
「……鮮やかだな」
二人の見事な手際に対し、シュイが走りながらも賞賛の言葉を口にした。
「いやいや、こんなの大したことじゃないさ」
シャガルは謙遜するが、そのくせどこか得意気だった。むしろ、この程度が自分の実力だと思わないで欲しいというような含みすら感じられた。お調子者という印象は的外れでもなさそうだ。
「……シャガル、温い」
脇から放たれたピオラの言葉に、シャガルがうっと顔をしかめた。あれくらい一発で仕留めろ、ということだろうか。シュイとピエールが顔を見合わせて苦笑した。
煩雑な路地を抜けたところで、草花に覆われた丘が姿を現した。細い丸太と砂利で作られた階段を駆け上がると、少し離れたところに古びた教会が見えた。
「おい、あれっ!」
ピエールが叫ぶと同時に教会の扉の辺りを指し示した。6匹の蜂が扉に向かって体当たりしていた。どうやら、中に一般人が逃げ込んでいるようだ。
「まずいな、今にも壊れそうだ」
両開きの扉が歪んでいるのを見て、シャガルが言葉に焦りを滲ませた。ここから魔法を放てば教会の建物ごと破壊してしまう可能性がある。この速度でいけば目算であと二十秒ほど、もつかどうかは際どいところだ。
「――先に行く」
シュイがそう言い残し、続いて三人が目を瞠った。既にかなりの速度で走っている状態から、鎖を断ち切るかのような勢いで急加速した。
みるみる内に近づいてくる蜂の群れを見据え、首の後ろ、背負っている鎌の柄に手をやった。修練の甲斐あってか、以前よりは手に馴染んでいる気がした。
蜂たちが背後から迫る気配に気づいたのか、扉から目を離した。太陽を背にした黒い影が背中から大鎌を外し、くるりと頭の上で一回転させた。
「<絡みつくは雷の蛇>!」
シュイが結合済みだった魔力を瞬間解放。鎌に雷を纏わせつつ、体を独楽のように回転させて蜂たちの群れに飛びこんだ。
帯電した鎌が白亜の円盤を描いた。その領域に触れた蜂たちが切断され、あるいは雷に体を焼かれ、どっとその場に崩れ落ちた。
上空を旋回していた蜂たちが異常に気づき、同胞を死に追いやったシュイを排除すべく急降下した。
シュイが応戦しようと空を睨んだところで、あさっての方角からいくつもの刃が飛来した。落下速度を見越して投げ放たれた銀色の刃が、蜂たちの横腹に次々と突き刺さっていく。
シュイが短剣の飛んできた方へ視線を走らせた。既に大分追いついてきていたピエールが、腰のホルダーから投擲用の短剣を抜き取りざま、シュイに最接近した蜂目掛けて投擲した。
シュンと風を裂く音が鳴った直後、ナイフが蜂の脇腹の端を抉り、教会の壁に当たって跳ね返った。シュイの数メード横に落下した蜂は、空に六本足を向けてぴくぴくと痙攣していた。浅い傷で済んだはずだったが、刃の部分に痺れ薬が塗ってあるのか、一向に起き上がることが出来ずにいた。
「……やるね」
三人が揃って教会の前に辿り着くと同時にピオラが感嘆の言葉を口にした。
「へへ、先輩直伝さ」
ピエールが不敵に笑った。先輩というのはおそらくアルマンドの事だろう。前触れもなく顔に投げ付けられたナイフの事を思い出し、シュイは微かに顔をしかめた。
シャガルは周囲を見渡し、他に敵がいないことを確認した上で扉へと歩み寄った。かなりの猛威に晒されたのか、分厚いはずの扉は醜く歪み、ところどころに大きな亀裂が入り、とても使い物にはならなそうだった。
「入り口にいた蜂はみんな片付けたぞ、中の者たちは無事か?」
シャガルが扉に向かって声をかけると、中から歓声が上がるのが聞こえた。それから間もなく、扉の片方がゆっくりと振動し、牧師と共に男たちが数人出てきた。
扉を素手で押さえつけていたのか、牧師を除く者たちの手は真っ赤に腫れ上がっていた。
「おぉ、皆様、ありがとうございます」
ふっくらとした体形の、ひとの良さそうな牧師が四人に向かって礼を述べた。
「怪我している者はいないか? 治癒術にも心得はあるけど」
シャガルがそう言うと、牧師の脇にいた男たちが顔を綻ばせた。
「是非お願いします、ここまで逃げてくる最中に毒針に刺されてしまった者が二人いまして」
おもむろに、ピオラがくいくいとシャガルの青いローブを引っ張った。
「ん、ピオラ、どした?」
「……あれ」
眉を顰めたピオラに促され、その場にいた者たちが南の空を見た。各々の顔つきがはっきりと強張った。
「ちょ、な、何だよあれ、まさか全部大毒蜂だってのか」
ピエールが呻くように呟いた。
北から南へと流れている雲を背景にして、空にある黒い斑点が徐々に大きさを増してきた。パッと見、百をも軽く越そうかという蜂の群れが、こちらへと向かってきていた。耳障りな羽音も少しずつ大きくなっている。
シュイが再び教会に視線を戻した。扉はもはや原形をとどめておらず、これ以上の攻撃に耐えられそうもなかった。外壁は厚めで丈夫そうだったが、あれだけの数がきたら壊されないとも限らないだろう。急いでこの場所から避難した方が賢明に思えた。
「……この付近に、他の建物はないのか?」
シュイが、隣で神妙そうな顔をしている牧師に尋ねた。
「はい、教会の他にこれといった建築物は……」
「そうか、避難中に追いつかれては元も子もないな」
丘にポツンとあるこの建物は蜂の格好の目標となっているようだった。だが裏を返せば、ここさえ守りきれば蜂の拡散は防げるし被害も激減するはずだった。
「……シャガル?」
ピオラが外から、教会内で怪我人の様子を見ているシャガルに声をかけた。床には教会を飾っているだろう聖布が敷かれており、そこに二人の男女が寝かせられていた。シャガルが険しい表情で額に手を当てた。
「……毒はともかく、傷の位置があまりよくない。今すぐにも治療を始めないと命が危ない。残念だが、動かすどころじゃなさそうだぜ」
「しゃあねえ、三人で凌ぎ切るしかないな」
ピエールが決然とそう言い、ピオラとシュイも覚悟を決めたようにうなずいた。
「いくらなんでも無策であの数を相手にするのは無謀だ。少し時間を貰うぞ。牧師さんたちはもう中に入っててくれ」
「わ、わかりました」
牧師や若者たちが教会に入っていくのを目の端に捉えながら、シュイは急いで頭を回転させ始めた。
大毒蜂は、単体ではそれほど恐ろしい敵ではない。多面的に攻撃されなければある程度ゆとりを持って戦える相手だということを、前日の戦いで知っていた。
町には相当数の傭兵や、ベチュア亭に滞在している軍人たちがいる。先ほどの放送からはそれなりに時間が経っている。そろそろ長老樹に集まった者たちで編成された討伐隊が出発している頃だ。
ならば、無理して敵の殲滅を考える必要はない。傭兵たちがこちらに援軍を出す余裕が出来るまで時間を稼げればこちらの勝ちだ。
ただし、三人で時間を稼ぐには数的不利を少しでも軽くする必要があった。敵が空を飛べるというのがとにかく曲者だ。息を付く間もなく四方八方から襲われ続ければ、如何に手練の傭兵とて不覚を取るのは避けられない。ならば、敵が攻めてくる方角を限定するにはどうすればいいのか。
シュイは伏せていた顔を上げた。
「ピエール、地面に直径5メードくらいのコの字を、30メード程度の間隔で4つ、向きを教会側に統一して描いてくれるか。踏んでも消えない様、なるべく深目に。それから、出来たコの字の中央部分に、番号を1から4まで振ってくれ」
「何だって?」
意図の見えぬ説明にピエールが怪訝な顔をしたが、シュイは構わず言葉を続けた。
「悪いけど時間が惜しい、作業中に説明するから、頼む」
「わ、わかった」
ピエールは首を捻りながらも大剣を抜き、その切っ先で地面に線を描き始めた。
「おい、教会の入り口はどうするんだ? 流石にこれ以上は持ちそうにないぜ」
シャガルの声が教会の中から聞こえた。両開きの扉は既に元の形を呈しておらず、あと一度か二度体当たりされたら確実にぶち破られそうだった。
「昆虫は寒暖差に弱いだろ。扉を閉めた跡に氷の壁で塞げば、そうそう突撃してくることはないはずだ。今は夏だし中の人が凍える心配もない。シャガルが治療の合間に溶けた分を補強してくれれば、何とかしのげるはずだ」
「なるほど、良案だ。しかし、それをやるなら三人も全員中に入って、入り口から侵入しようとする蜂を迎撃した方が安全じゃないか?」
「本当ならそうしたいところだけど、何しろあの数だ。万が一蜂の体当たりで壁が壊されてしまったら乱戦になる。多くの犠牲が出るのは避けられない。建物に被害が及ばないよう、誰かが外で攻撃を引き付ける必要がある」
「……どうするの?」
ピオラが不安げに口を挟んだ。
「図書館前でシャガルが言っていたように、長老樹からの救援を待とう。極力蜂の攻撃を凌ぎ易くした上で。あれは、そのための目印だ」
シュイはそう言ってピエールが描いている図形を顎で示した。既にピエールは四つの図形を描き終え、番号を描くのに取り掛かっていた。
怪訝そうな表情をした二人に、シュイは自身が考え出した作戦の意図を説明した。詳細を聞くにつれて二人の顔は徐々に和らいでいった。
「……納得」
ピオラがわずかに目を細めた。
「ただ、これも苦肉の策には違いない。効率良く倒すためだから仕方ないが、かなりぎりぎりの戦いになるはずだ」
「……それもそうだろうが、やつらの羽音が気になるな。あれだけ距離が離れていてこの大きさだ、接近してきたら相当なもんだぞ。大音量の中で合図のやり取りなんかできるのか?」
シャガルが心配そうに尋ねた。念話を使うから問題ない。そう返したシュイに、二人が大きく眉を上げた。
「……念話!」
「使えるのか!」
<覚えたてだけどね>
脳裏に響いた明瞭な言葉に、二人がお互いの顔を見合わせた。
「こんな感じだ、よろしく頼む。ピエール、話は聞いていたよな」
準備を終えて戻ってきたピエールが、二本指で大剣の泥をそっと拭った。
「もちろんだ、腕が鳴るぜ」
「よし、二人ともあの番号を覚えておいてくれ。左から数えて一から四までだ」
「……了解」
「ああ、……って外野かなりうるせえな」
既に会話が大分聴き取り辛くなっていた。迫りくる蜂の群れの飛翔音は増すばかりで、距離も500メードを切っていた。
「三人とも、無理はしないでくれよ。それから……」
氷壁を築くべく入口に近づいてきたシャガルが、空を見据えているピオラに一瞬視線をやった。言外に含んだ思いを汲み取ったシュイとピエールが、力強くうなずき返した。
「……頼んだぜ。 <氷結壁>!」
高らかな詠唱と共に、壊れかけた両開きの扉が、下から吹き出した水に覆われた。その直後、扉の淵の部分に霜が降り、中央に向かって白い領域が広がっていった。
氷を透かして三人を見据えたシャガルは、再び怪我人の治療に取り掛かるべく教会の奥へと走っていった。
「――――来た」
ピオラが呟くや否や、シュイとピエールが揃って空を見上げた。夥しい数の大毒蜂たちが教会に狙いを定めたかのように、一斉降下を始めていた。