第六章 ~(2)(改)~
「毎度ありやとやすっ!」
思わぬ上客の来店に、肉屋の主人はほくほく顔だった。
シュイは虎の餌用に一番安い豚肉を一塊丸ごと買った後で、鎮静剤に使う<ヤスメ草>等の植物の粉末を購入した。加えて雑貨屋では周辺の詳細地図と、もう一つの依頼用に薬草を束ねるための皮紐をいくつか購入した。最後には敵の群れに遭遇した時用に魔具の店へと赴き、攻撃用の魔石を何種類か揃えた。
万全の準備を整えたシュイは、買ったばかりの地図を見て現在地とキプロの森の位置を確認する。見る限りでは小走りで二時間ほどの距離だった。
時刻はまだ正午前。急いで森に向かえば日が暮れる前に終わらせることもできるだろう。
シュイは買い揃えた道具を皮袋に詰め込み、目的地に向かって走り始めた。
キャノエから大森林を貫くように南西に伸びている街道を通り、そこから道を外れて南側の森に入った。途中、小さな羽虫が大量に飛んでいて鬱陶しかったので一旦足を止め、微弱な風系の付与魔法を黒衣にかけて口に入ってこないようにした。
さらに森の奥へと進んでいき、虎退治の依頼人が説明していたと思われる場所に辿り着いた。
――小川が流れていて向かいの木には縄張りを示す爪痕が二箇所、間違いないな。
依頼人から聞き出した景観と周りの景観が見事に一致した。既に虎の縄張りに入っていることを実感したシュイは辺りに注意を払いつつ、豚肉が入った紙包みを取り出した。表面にヤスメ草の粉末をなすりつけ、丈夫な麻の紐で縛り、振り子状にした。
肉を引っ提げて散策すること十数分、虎のものと思われる唸り声が遠くに聞こえた。シュイは適当に狙いを定めながら肉の塊を縦方向に振り回し、木の隙間目掛けて放り投げた。調味料たっぷりの肉が緩い弧を描き、地面にドスンと落下した。
――グアアアアァウ!
ビリビリと、肌にヤスリをかけるような重厚な咆哮が轟き、シュイは間近にあった木の裏に身を隠した。
茂みの少し上を黄と白と黒の縞模様が滑るのが見えた。件の虎のようだ。
突然空から降ってきたご馳走に驚いたのか、しばらくは辺りをぐるぐると回って警戒していたが、ふいに何かを食す音が聞こえ始めた。食欲に負けて鎮静剤入りの肉を食べ始めたのだ。
シュイはその場で気配を殺しながら虎の食事が終わるのを待った。ふと、咀嚼する音が止み、代わりにざっざと、草を踏む音が聞こえ始めた。こちらに近づいてくるかと体に力が入ったが、そういうわけではなさそうだった。虎は向かって左側の方に移動を始めた。
薬の効果が現れる時間を計りつつ、シュイは虎を視界に捉えられる場所まで移動を繰り返した。体長が悠に3メードあるだろう虎は、なんとか歩いてはいるものの酔っぱらったようにふらふらだった。
薬が効いていることを確信し、背負っていた鎌に手をかけた。虎の顔が木の幹の裏に隠れ、再び現れた瞬間、側面に回り込むように飛び出した。
虎の青い双眸がこちらに向けられたが、鎮静剤が効いているせいで動きに冴えはない。鎌を両手で握り締め、緩やかな弧の軌道を描くように駆けて虎との距離を詰める。
面食らって身を縮めた虎の喉元を目掛け、シュイが鎌刃を下から上へと振り抜いた。束の間、腕にかなりの重みを感じ、直後に強い抵抗感が失われた。
虎の皮を狩猟用のナイフで丁寧に剥ぎ、前と後ろの足を全て切り落として皮袋に詰め込む。本音を言えば骨も薬になるので持ち帰りたいところだが、この巨体を街道まで引っ張っていくのは一仕事だろう。人手があれば問題はなさそうなので、今日中に戻って医者の依頼者の方にでも教えてやれば喜ぶかも知れない。
一通りの作業を終え、次は薬草を取りに行こうと立ち上がったその時、異変は起きた。
どこからか妙な音が聞こえてきた。何かが擦り合わされるような耳障りな音が段々と大きくなってくる。生じた危機感に、シュイは素早く魔力の警戒網を周囲に放った。樹形の魔力糸が半球状に広がっていき、遅れて、後方から何かが接近してくるのを感じ取った。シュイは虎の遺体から数歩離れ、襲撃者を振り返った。
黒と橙色の縞模様をした巨大な昆虫が、耳障りな羽音を響かせて勢い良く飛んできた。だが、こちらは既に体勢を整えている。横に転がりこむようにして突進を避け、瞬時に後ろを向いた。昆虫が羽を震わせて上空へ舞い上がっていくのが視界に映った。上空でゆっくりと方向転換し、こちらを金属質な目で見下ろすと、ギギギッと歯をならして威嚇した。膨らんだ尾からは煌く銀色の針の先端が見え隠れしている。間違いなく、ピエールたちを襲った魔物とはこいつのことだろう。
――嫌だな、何だかとっても、……グロテスク。
恐怖とは別の意味で、肌が泡立つのを感じた。昆虫なんぞ間近で見るもんじゃない、と心底思わされた。体長が大柄な大人並みにありそうなそいつは、ちょっとした木の幹ならひと噛みで倒してしまいそうな巨大な顎を持っていた。腹の橙と黒の縞模様には薄っすらと血管のような管が見え、ピクピクと動いている。今は引っ込めているようだが、当然尻から毒針も出すのだろう。
見た目こそあれだったが、巨体のせいかそれほど動きに速さを感じなかった。おそらくは次の一合で問題なく倒せるはずだ。
ただし、それは相手が一匹であればの話だ。現にピエールたちは群れに襲われたと聞いていた。
あるいはこの付近に巣でもあるのか。シュイは周りの木々に視線を走らせたが、それらしき物は見当たらなかった。ついでに滞空し続ける蜂の他にも仲間がいないか警戒してみるが、少なくとも今は大丈夫なようだ。
やや遅れて、再度大毒蜂がシュイに向かって突進してきた。先ほどの攻防でタイミングを掴んでいたシュイは、鎌を背にして両手で持ち、ぎりぎりまで敵を引き付けた。そして、敵がシュイに噛み付かんと顎を左右に開いた刹那、シュイが引き気味だった足を前に大きく踏み出し、膝を曲げてお辞儀をするかのように体勢を低くし、噛みつきをやり過ごした。後を追うようにして、地に付いていた鎌刃が後ろから前へ、大きく弧を描きながら大毒蜂に襲い掛かった。
鎌刃が蜂の胴体を寸分違わず捉えた。手に突進の強い衝撃を感じるも何とか堪え、突き刺した勢いそのままに前方の地面へと思いっきり叩きつけた。
強かに地面に押し付けられた蜂がブシュッと空気の漏れるような音を立て、緑色の体液を撒き散らして痙攣する。びくんびくんと、その震えが鎌の柄を持つ手に伝わってきた。
気色悪いにもほどがあった。ゾゾゾと、全身に鳥肌が立つのを感じた。これはなんとも見る人を選ぶ光景だ。今度からは焼き殺そう、そうしよう。動かなくなった巨大な蜂から目を逸らしつつ、シュイは固く拳を握り締めた。
鎌刃にこびり付いた蜂の体液にげんなりした。えも言われぬ臭いに体と思考の両方が拒否反応を示していた。このまま布に包むのは流石に嫌だったので、小川のある場所まで戻り、流水に鎌の先を浸した。ザッと洗った後で火の付与魔法をかけて水滴を蒸発させた。
これでやっと薬草を取りにいける。そう思ったのも束の間、またしても耳障りな羽音が聞こえてきた。しかも、今度は先ほどと違って複数のようだ。
――ちょっとちょっと、本当に異常発生でもしているのか?
再び上空から大毒蜂が現れた。しかも今度は団体様、三匹もいる。やはり早めにこの場を去れば良かった、と少し後悔した。これ以上増えたら流石にまずいかも知れない。そんな思考を無視して早くも一匹が空から迫ってきた。
「……<その身に焔を宿せ>!」
二度目ということもあり、シュイの行動は迅速だった。方向転換させる間もなく、火に包まれた鎌を真横から薙いで鎌刃を突き立てた。
ボッという音と共に、燃え盛る鎌刃に刺された蜂が炎に包まれた。金属板が軋むような悲鳴を上げ、ものの数秒ほどで息絶え、黒焦げになって地面に落下した。焼けて炭化した足が崩れて地面に散らばった。
大きくとも昆虫は昆虫。火の魔法は相当に効果があるようだ。何より、黄緑色の膿瘍のような体液を見ずに済むメリットは計り知れない。あれを浴びるかもとびびりながら戦うのは断固拒否したかった。
仲間のやられる様子を見ていたのか、二匹の蜂が左右に散った。両側面から挟み込むように緩急を付けて襲い掛かってきた。
連携が完璧ではないことを見破ったシュイは先に突っ込んできた、自分により近い蜂のほうに火に包まれた鎌を思い切り放り投げた。回転した鎌の柄の方が、蜂の眉間の辺りに命中した。蜂の身体がボッという音を立てて燃え、付いた炎が羽を焦がし、燃え盛る鎌と一緒に地に落ちた。刹那、近づいてくる音を頼りに背後からの蜂を左側に跳躍して回避。屈んだままの体勢で、右脇を通り過ぎ、空に舞い戻ろうとする蜂に手をかざした。指先に魔力を集中させて同調。ふいに青白い電気の糸が浮かび上がり、バチバチと帯電の音を鳴らし始める。
「<集束する雷>!」
雷の攻撃魔法が掌から放たれた。青い雷撃が蜂の身体に向かって伸張し、羽の付け根辺りに命中。そのまま川向こうの岸に墜落した。倒すとまではいかなかったものの効果は十分にあったようで、遠目からでも大きく痙攣しているのがわかる。
とっととこの場所を離れないとキリがない。シュイは手早く荷物をまとめ、既に火の消えた鎌を拾い直すと、そそくさとその場を後にした。
くぼ地になっている日溜まりで無事に薬草の群生地を見つけた。周りを警戒しながらも、手早く摘み取っていく。根と数枚の葉さえあればまた生えてくるということなので、真ん中辺りで手折るようにした。
ある程度の数を揃えた後で、薬草を紐で丁寧に束ねていく。十束ほど作ったところでそれを余すことなく皮袋に入れた。
結局、あれから大毒蜂に遭遇する事はなかった。もしかしたらまだ大量にいるのかも知れないが、あれ以上の数を一人でやるのはリスクが大きい。
とりあえずは、先に頼まれた依頼を達成するのが先決。シュイは少し重くなった腰をとんとんと叩きながら、木の隙間にある茜色に染まった空を見上げた。
キャノエの町に戻ってきた頃には、日はどっぷりと暮れていた。今からギルドへ行ったところで受付は全員帰ってしまっているだろう。達成報告は明日に回すことにし、再び<ベチュア亭>の方に足を向けた。
久方振りの実戦だったが身体の動きはすこぶる良く、鎌の扱いも付け焼刃の割には上々の出来だった。何より、自身の魔力が確実に上がっているを実感できたのは大きな収穫だ。この調子なら、飛翔魔法を扱えるようになるのも時間の問題か。
あまりにも順調な依頼の経過に気を良くし、自然と足取りも軽くなる。程なく<ベチュア亭>に着き、宿の扉を開けた。
「いらっしゃいませー。一名様で宜しいですか?」
従業員が愛想良く声をかけてきた。シュイは後ろ手で扉を閉めながらうなずき、それから玄関を見回した。
「あれ、ベチュアさんはどうしたんだ?」
「あぁ、女将さんなら厨房でてんてこ舞いです。昨日今日って団体さんが入っていまして、みなさんほんとによく食べられるので」
そういえば、そんな事を言っていたような気もする。ともあれ、いい店が繁盛するのはまことに喜ばしいことだ。
今日の部屋番号は301号室だった。階段を登る途中で獣族の団体が二列になって下りてくるのが見えた。独特の歩き方と威圧感から軍人と察せられた。ベチュアたちが言っていた団体さんというのは多分彼らのことだろう。
ベチュアの料理はそこいらのレストラン等とは比べ物にならないほど味がいい。宿代もかなり安いので場所があまり良くないことを差し引いても常連は付き易いはずだ。メインの通りからは離れているが、それでも来客がひっきりなしであることを考えると、隠れた名店という言葉がしっくりくる。かくいう自分もわずかな間に三度泊まっているのだし、もう常連と言って差し支えないレベルかもしれない。
こちらが考え事をしている間に、軍人たちはシュイを胡散臭そうに見ながらその場を通り過ぎていった。末尾の男が舌打ち代わりだと言わんばかりに、ズボンから覗いた尾を尻にピシャリと叩き付けた。当たり前であるが、感じの悪さは否めなかった。上司の指導が行き届いていないのだろうか。
――ま、あんな厳つい連中を指揮しているくらいだもんな。きっと装飾大猿みたいなブサ顔しているに決まってるさ。
自分の胡散臭い格好を棚に上げつつ、シュイは胸の内で好き放題に罵るのだった。
――――
「くしゅんっ。むぅ、いかんな、風邪でも引いたか?」
形の良い鼻梁が細い指で擦られた。
一階の大部屋には団体用の大きな四角いテーブルがあった。一番奥の窓際にある座布団には少女が一人、ちょこんと鎮座していた。
身体こそ小柄だが胸にある二つの膨らみは水色の服の生地を押し出している。絹糸のように柔らかそうな銀髪は肩の上できちんと切り揃えられており、細長い眉毛の下には爛々と、紅光石にも似た濃密な赤を宿す眼があった。頭頂部からはフサフサの三角耳が覗いているが、尻尾がどこにも見当たらない。その外見的特徴は混血に見られるものだ。
服装はボーダーのカットソーにダークパープルのショートパンツというラフな格好。両手には甲の部分に銀糸装飾が施された黒いアームカバーを付けている。
ほどなくして、大勢の獣族たちがぞろぞろと大部屋の中に入ってきた。少女はそれを一瞥し、何の気もなさそうに湯呑を持って茶を啜った。
「姫様、大変お待たせいたしました」
敬礼する軍人たちに視線を上げた少女が鷹揚にうなずき、目配せで着座の許可を与えた。階級が上の軍人たちから順に腰を下ろしていく。全員が座ったのを確認し、少女が湯呑を下げて口を開いた。
「それで、収穫はあったのか?」
「はっ、やはり数週間前に大量発生の兆候がありました。既に何人か犠牲者も出ておるようでして」
由々しき報告に少女は湯呑の中にある水面を見据え、重々しくうなずいた。
「捨て置くわけにはいかぬな」
「はっ、調査中に遭遇した蜂は漏れなく始末致しましたが、異常とも言える繁殖の速度から考えますと焼け石に水かと」
「うむ。だが、異常は繁殖速度のみに留まるまい。あれほどの成体が飛び回るには少々早い時期だ。ともすると亜種の母体がいるのかも知れぬ」
通常、大毒蜂の数が一番多くなるのは秋頃のことだ。夏真っ盛りの時期に飛び回る例はあまり確認されていない。
「言われてみれば、確かにその可能性も否めませんね。いくつかの報告書を照らし合わせますと、この近辺で確認された大毒蜂たちは普段の連中とはいささか特徴が異なるようです。本来、巣に近寄らない限りはもう少し大人しいはずですが、やたらと好戦的な傾向が見られまして」
「把握。――それで、大体の場所は掴めたのか?」
少女の問いを受けた隊長が向かいの若い男に目配せすると、男は手にしていたロール状の地形図をテーブルの上に広げた。
隊長が指を差した場所にはキャノエの文字。そこからつつと、指が南西方向に進む。それに従って、地形図にある赤い点の密度が増していくのがわかる。少女は赤い双眸を微かに細めた。
「調査隊が遭遇した蜂の分布図を見ますと、キプロの森の南西部へ行くほどに数が増えている傾向があります。調査段階で最深部まで踏み込むことは避けましたが、その近辺と見て間違いないでしょう」
「わかった、明朝は私も出よう。町の住人たちを守るにもこれ以上被害を拡大させるわけにはいかぬ。必ずや近日中に片を付けるぞ」
『ははっ』
少女の凛々しい瞳が左右に素早く流れ、軍人たちがぴっと背筋を伸ばした。




