第五章 ~(2)(改)~
消毒薬の匂いで満たされた部屋の四方にはクリーム色の壁紙が貼られていた。天井の中央には円柱形の青白いランプに火が灯っている。縦長の四角い窓のすぐ手前にやや大きめのベッドがあり、そこにピエールが寝かされていた。
「待たせたな。まだ大丈夫そうか?」
アルマンドは爪先立ちをして、ミルカの後ろで横たわっているピエールを見下ろした。
「……かなり辛そうです。全身に毒が回っているみたいで」
ミルカは悲痛な表情を浮かべていた。まるで彼女自身が苦痛に耐えているかのように歯を食いしばっていた。
横たわっているピエールの体には右の脇から左肩にかけて包帯が厚めに巻かれていた。それでも、胸部の辺りには薄らと血が滲んでいるのがわかった。今は眠っているようだが、色黒の肌でもはっきりわかるほどに顔が青ざめていた。かなりの距離を全力で走った後のように額や手足に脂汗をかき、荒く深く息を次いでいる。ミルカが言うように蜂の分泌する強力な毒が体を蝕んでいるのだ。
デニスはその様子を見て、ほんのわずかに表情を険しくした。が、すぐに後ろで不安そうに手を組んでいるミルカと視線を交わし、軽くうなずいてみせた。大丈夫ですよ、というように。
「少し急いだ方が良さそうですね。ちょっとスペースを作っていただけますか?」
ミルカとアルマンドが了解し、デニスが座る椅子以外を部屋の隅の方に手際よくどかしていった。デニスは空いたスペースに進むと、ピエールに巻かれている包帯をするすると外していく。胸部には何か槍のような物で抉られたのではと思わせる生々しい傷があった。傷というよりはもはや穿孔に近いそれを目にして、ミルカは自分の身体を抱くようにして身を震わせた。
一方のデニスは、その程度の傷は普段から見慣れているといった体で、用意された椅子に腰を下ろした。両の手を包み込むように魔力を集中させ始めると、段々と手袋で覆われた両手が白い光を放ち始めた。
「<慈悲深き神々よ 我が祈りに答えたまえ 命脈に巣食う負の力を浄化せよ>」
デニスの手に溢れんばかりの光が白い雫と化し、横たわるピエールの身体に幾度も降り注いだ。ややあって、ピエールの全身から紫色の蒸気に似た物が現れ始めた。
「こ、これはっ……」
ミルカが驚きの余りに声を上げた。
「絶対に吸うなよ。こいつの身体を蝕んでいた毒が出てきたんだ」
アルマンドが簡潔に説明した。紫色の気体はピエールの体から一定量出続け、デニスの目の先で一塊になった。デニスがそれを鋭く見据え、息を強く発するや否や、その煙は立ち消えるように霧散した。
視線を落とすと、先ほどまで苦しんでいたピエールの顔は驚くほど穏やかな表情になっていた。胸部にあった痛々しい穿孔も真新しいピンク色の皮膚で塞がりかけていた。デニスは深く息を付き、立ち上がった。
「これで大丈夫でしょう。傷も塞いでおきましたからすぐにでも目を覚ますと思います」
「凄い回復魔法……こんなに早く……。あ、ありがとうございます!」
「相も変わらず、大した治癒術だな。助かったぜ、感謝する」
喜びの表情を浮かべるミルカとアルマンドが揃って頭を下げた。デニスが笑って首を振った。
「いえいえ、レムザ神は困っている者を見捨てはしませんよ。では、私は先に教会へ戻らせていただきます。どうぞお大事にしてください」
デニスは音を立てぬようにそっとドアを開け、部屋を後にした。ミルカは、今度はアルマンドに向かって深々と頭を下げた。
「アルマンドさん、ありがとうございます。あんなに凄い治癒術士さん連れてきて頂いて。……後で必ず治療費はお払いしますので」
「んなもんは気にしなくていい、あいつとは付き合い長いからな。つうか、こいつも油断しすぎなんだよな」
アルマンドが眠っているピエールを指差してケラケラと笑った。ミルカは肩を落とし、呻くように言葉を紡いだ。
「……すみません。ピエール、魔物に挟まれた私を庇ったんです」
「なに、そうなのか?」
「……普段から耳に頼り過ぎていたんです。蜂の羽音がとにかく凄くて、敵のいる方角を特定しきれずにいて、死角から接近されていることに気づけなかった。私を突き飛ばして助けたせいで、……私が足を引っ張ったせいで、ピエールが毒針に……。援護を失って孤立した彼は大量の蜂に集られて……。全部私のせい……なんです」
ミルカが顔を両手で覆った。指の隙間から零れる涙が床に出来た水溜りを少しずつ広げていった。いつもはピンと上を向いている三角耳も今ばかりは寝てしまっていた。
「ああ、いや……な、何も泣くことはねえだろうよ」
アルマンドは両手を突き出した格好で固まった。気の利いた言葉が見つからずに困り果てていた。
「お前のせいじゃないよ」
呟くような、力の無い声に二人がはっとベッドに視線を移した。ピエールの眼が薄っすらと開いていた。
「お、やっとお目覚めか」
「ピエール! あぁ、良かった……! 大丈夫? 気分はどう?」
「ああ、大分楽になったよ。少し寝ていたみたいだな」
ピエールが胸にかかっている掛け布団を払いのけ、ベッドに両手を突こうとした。
「ああ、ダメだってば! まだ寝ていなきゃ」
「何、大丈夫だって……あれ――」
安心させようとしたのか、片腕を掲げようとした瞬間に支えを失い、再びベッドに倒れ込んだ。
「アホか。傷は塞がったっつっても失った血や体力が戻ったわけじゃねえんだ、しばらくは安静にしてろ」
アルマンドが呆れた口調でそう言うと、小指で耳を穿り、フッと耳垢を吹き散らした。
「……すんません」
ピエールは溜息混じりにそう言い、前がかりになったミルカに肩を支えられるようにして、頭を再び枕に預けた。
「……俺の力が足りなかったんです」
「……ピエール」
ミルカが涙を拭ってピエールを見た。口惜しそうな表情だった。
「何度もやっている任務だからって油断してたんです。だから、大して警戒もせずに――」
「それは違うわ! そもそも群れに遭遇したのは彼の迂闊さが原因よ。それに、私が奇襲にちゃんと気付いてさえいれば――」
「――違わない。あいつが新米だってちゃんと認識して、事前に慎重に行動するよう言い含めておけば、ここまでひどいことにはならなかったはずだ」
「そ、それは……」
「俺が教えてやらなきゃいけなかった。どんな任務にも細心の注意を払って行動する事の大切さを。それなのに、先輩風を吹かすのも感じ悪いか、と勝手に判断した挙句がこのザマだからな」
すべてが悪い方に転がった。先んじて茂みを掻き分け、森の奥へ進んでいく新人の勇み足を注意しなかったのが始まりだ。一挙に四匹が飛び出してきたのを見て青年が悲鳴を上げ、その声が更なる呼び水となった。獲物の声を聞きつけた周りの蜂たちがわらわらと集まってきたのだ。
三人はなんとか包囲を突破しようと10に近い数を倒したが、後方上空からの蜂の襲撃に晒されたミルカを救うべく、ピエールが身を挺して負傷。その様子を見た青年が――逃げようとしたのか、引き付けようとしたのか特定はできないが――踵を返して二人から遠ざかった。
蜂たちの本能が、どちらが御しやすいかを悟ったのだろうか。ほどなく青年の方が蜂の標的になった。
しゃにむに剣を振り回していた青年は、二人からそう離れていないところで、まさに目と鼻の先で、横の茂みを突っ切って来た蜂に首を深々と噛み砕かれた。吹き出た血煙が蜂の顎を汚し、木の幹にまで届いて赤い色彩を施した。羽音に混じってボギボギン、と耳障りな音が聞こえ、ミルカは危うく悲鳴を発しかけた口を押さえた。首の半分を、骨までも噛み千切られた青年の身体が、そのまま力を失って地面に横倒しになった。土肌に流れ始めた夥しい血は、青年が死んだか、生きていたとして風前の灯であることを如実に表していた。
だらりと投げ出された手足を見て青年の死を確信した二人は、蜂にたかられている遺体を置き去りにし、苦い思いを抱きながらも命からがらその場を脱出した。援軍要請の魔石を使うか判断する暇もなかった。彼の身体を犠牲にしなければ、もっと言えば囮にしなければ、二人とも助からなかったかも知れないのだ。その一方で、遺体とはいえ仲間を見捨てた罪悪感が、二人の心をずっと苛み続けていた。
「自分だけおめおめと生き残っちまうなんて、情けねえ……情けねえよ」
ピエールが目を腕で覆った。頬から一筋の涙が伝うのを見てミルカも再び俯き、ズボンに皺が寄るほど腿の部位を強く握り締めた。悔やんでも悔やみ切れぬ思いがぐるぐると頭の中を回っていた。
「……とりあえず、だ。二人とも今日は早く寝ろ。疲れきった頭で何か考えようったって無理なんだからよ」
アルマンドはそうとだけ念を押し、ひとり部屋を後にした。
廊下に出たデニスが外に向かうべく角を曲がり、足を止めた。同じく立ち止まった黒衣の男が、微かに顔を上げた。
「依頼受諾は間に合いましたか?」
デニスがにこやかに声をかけた。
「ああ。さっきの……」
男は軽く会釈をした。
「お陰様でぎりぎり間に合ったよ、受付の人は既に帰り支度していたけどね」
「そうですか、それは何よりです」
デニスが目を細めてうなずいた。
「あー、そういえばピエールは大丈夫なのか?」
予想よりも早く廊下に出てきたので気になったのだろうか。男の言葉には、姿に見合わぬ若干の不安と気遣いが見て取れた。何より、デニスが歩いて来た方角には医務室くらいしかない。ここまで歩いてきたということは、おそらく後で顔だけでも出すつもりだったのだろう。
ほらごらんなさい、アルマンド。そう薄情な御仁でもなさそうですよ。湧き出た笑いを噛み殺しながら、デニスはミニグラスをすっと持ち上げた。
「ええ、毒はほとんど抜きましたし傷も塞ぎました。あとは元々身体に備わっている自浄作用で十分でしょう。体力は落ちていますが二、三日で全快すると思いますよ」
「そうか、なら良いんだ」
「そうそう、名乗るのを忘れていましたね。私はデニス、デニス・レッドフォードです。呼ぶ時はデニスでいいですよ。以後よろしくお願いします」
デニスがある意図を持って手を差し出した。
「シュイ・エルクンドだ。俺も呼ぶ時はシュイで良い。まだ駆け出しだけどよろしく」
シュイはそれに気付くことなく、握手に応えた。言葉遣いや見た目に反して、シュイの手は張りがあり、若々しく、艶のある感触だった。どことなく声も少し高く感じられた。
――これは驚いた。なるほど、ハーベル嬢が目をかけるだけの事はありますね。
握られた手から伝わってくるシュイの魔力の質は、一流の魔法使いのそれにも近いものがあった。初見では巨大な得物を背負っていることから肉体派の印象があったが、手の平がマメで固くなっていないことから判断するに魔法戦士か、さもなくば純然たる魔道士だろう。
握手をするように仕向けてついつい相手を分析してしまうのがデニスの、アルマンドに言わせると悪癖だった。
「そう遠くないうちに、一緒に任務をする事もあるかもしれませんね」
「あなたは、準ランカーか?」
「ええ、正解です。良くわかりましたね」
「重傷をあんな短時間で治してしまうくらいだからな」
デニスが再び微笑みを湛えた。謙遜、自信、どちらとも取れる表情だった。
「そちらは、駆け出しと言っていましたからBランクですか?」
「いーや、Cランクだ。しばらくは一緒にやれなそうだな」
シュイはきまり悪そうに頭に手をやった。準ランカーでもAクラスの任務ならやることもあるだろうが、Bとなるとかなり怪しいような気がした。
「いえいえ、早い人なら半年経たずにCからBに上がってしまいますよ。それに、準ランカーも緊急時以外は下級の任務をやることもありますからね」
「話半分に受け取っておくよ。では失礼する」
確信めいた声音にシュイが軽く頭を下げ、踵を返した。
「お引止めしてすみません。またどこかで」
シュイはデニスの言葉に軽くうなずくと、来た道を引き返していった。
――シュイ・エルクンドか、なかなかに興味深い。
デニスは胸ポケットからペンの挟まった手帳を取り出し、シュイの名前と特徴をさらさらと書き込んだ。自分の同胞たちに害を成さぬ人物であるよう、心から祈りながら。