第四章 ~(3)~(改)
カイルが外に出てきてから三日後のこと。
午後、シュイは屋敷の近くにある原っぱにカイルを連れ出し、魔法の基礎を教えていた。カイルは腰を降ろすのに丁度良さそうな岩に座りながらシュイの話を熱心に聞いていた。周りにある木々の梢には青や黄色といった色とりどりの小鳥たちが止まり、二人の様子を興味深そうに眺めていた。
「昨日も説明したように、魔法を使うための魔力は大別して二つある。一つは己の身体に潜在する物。今一つはそれ以外の、外界に存在する物。それを扱うために、まずは同調という作業が必須になる。様々な形状の魔力を身体に取り入れ、自分が使いやすいように調整するんだ」
基本的に、魔法を発動させる仕組みは魔力を何らかの形で用いることにあり、六種類に大別することが出来る。同調。創造。削除。結合。吸収。解放。これらは何かしらの魔法を使う際、必ず起こる現象であり、もっと言うと起こさねばならない現象だ。
これらは単一で行うわけではないが、かといって全てを行うわけでもない。
例えば強力な召喚魔法。これは個人の魔力で行使するとすぐに枯渇してしまうため、ほぼ必ずと言っていいほど吸収を使う。自然界に満ちる魔力を引き寄せ、同調させて一旦我が物とした後、改めてそれを解放し、ゲートを創造する、といった具合だ。その作業を一つの魔法で行うのだから、当然のように詠唱には相当な時間がかかる。
ニルファナから学んだ念話は、相手の意識に対してごく小さなゲートを創造する。そこから極少量の魔力を相手の魔力と結合させ、言語化するのだ。消耗は少ないため吸収の必要はない。その代わりに相手がそれを拒むのも容易い。
付与魔法であれば、自分の魔力を解放し、無機物や有機物に吸着させた後に、元々物体に宿っている魔力と結合する。見ようによってはこれも同調の一種だと言えるだろう。自分の外でするか内でするかの違いだけである。
ひとつ補足するならば、物によっては魔力との相性が悪い、言い換えると退魔性が高い貴金属類も存在する。鎌を購入するときにわざわざ付与魔法を使ったのは、付与魔法がちゃんとできる類の金属であることを確認するためだった。
他にも、対魔法障壁や対物理障壁などといった防御魔法がある。その中でも自分の魔力を解放し、一定の範囲内において魔法に伴う魔力を全削除してしまう壁を創造するものを絶対魔法防御と呼ぶ。もっとも、これは展開における魔力消費が半端ではなく、敵だけでなく味方の魔法も同様に弾いてしまうので扱いが難しい。
魔法使いの中には七つめの概念、分離を引き合いに出す者もいるが、世間一般としては、分離は吸収や削除に含まれると考えられている。
ところで魔法を使う場合、一部の例外を除けば詠唱、すなわち言霊を唱えることが必要だが、シュイの扱う祈歌は詠唱と少し異なる。これは自然界に散在する魔力の動きに影響を与えるもので、魔法の行使においても補助的な役割を果たす。付与魔法にも使えるが、死屍使役や人形使役等にも応用することが可能であり、様々な有機物、無機物に力を宿すのを助ける役目を持つ。
――――
「さて、シュイ君。結合の一番のメリットって何だと思う?」
ニルファナは、座学の時だけは君を付けるこだわりがあった。当人いわく、気分の問題だと言うことだった。
「一番のメリット……。うーんと――」
「――はい、時間切れ」
早いよ、ニルファナさん。シュイが不満げに喉を鳴らした。
「これも覚えておいた方がいいよ。解答が5秒以内に思い浮かばない場合は、その授業中に出てくる可能性は一割以下。待つだけ無駄」
「……うぅ」
「はいはい、拗ねないの。正解はね、本人の能力を上回る魔法を使えてしまうということだよ」
「能力を、上回る?」
「その通り。本来、強力な魔法を使う場合には自然界の魔力を吸収して使うわけだけど、これだとそこから更に同調して、とかなんとか時間がかかっちゃうし、自分自身の魔力容量を上回ることもない。ここまではいいね?」
「うん、入る量が決まっているから、それ以上は外に溢れちゃうということだよね」
「そうそう。多少なら無理できないこともないんだけど、下手をすると術者が壊れてしまう。ところが、自分の魔力を自然界で結合させるとなると話は違ってくる。自然界の魔力容量はほぼ無限、魔法を使う際に魔力容量のことを気にしないで済むんだ。とはいっても、厳密に言えば自分の魔力を解放して結合するわけだから、本人の魔力容量に対する限界は存在するけどね。少ない魔力でより多くの魔力を結合させることができれば、自分の魔力容量からかけ離れた魔法を行使することも不可能じゃない」
それを聞いて初めて合点がいった。だから以前、自分は――。
「――ん、何々? 人が話している時に気にするようなこと?」
宙に視線を漂わせたシュイに、ニルファナが目を細めてにっこりと笑った。こんな可憐な笑顔にプレッシャーを感じているのはきっと気のせいだろう。
「い、いえ。……何でもありません」
「よろしい。人の話はきちんとちゃんとしっかりばっちり聴くように」
「も、もちろんです」
これ以上ないというくらいに強調された。気のせいだというのが気のせいのようだった。
「じゃあ続けるよ。本来は結合って未熟者だとものすごい時間がかかるんだけれど、触媒を用いることによって幾らか時間短縮が可能なことは前にも話した通り。君の用いる祈歌はまだまだ発展途上だけど、それでも触媒としてそれを加速させる役割を十二分に果たしている。そこまで祈歌に効果を乗せられる者は稀有だから、君の戦闘スタイルはそれを汲んで考えた方がいい」
「ええと、そうすると攻撃魔法とかは……」
「万人が使える程度になら問題はないけど、お奨めはしない。祈歌を活かすなら干渉魔法の方が向いてるかな」
「干渉まほぉ?」
露骨に嫌そうな顔をしたシュイに、ニルファナは片頬をピクリと動かした。
「む、何だね? その馬鹿にした物言い。君はお姉さんの言うことが信用できないのかね?」
「そ、そうじゃないけれど……。だって、確かあれって眠らしたり苛々させたりする魔法でしょ? 何だか地味――」
「――しょうがないねー。特別に実体験をさせてあげよう」
「……え? て、ちょ、ちょっと待っ――うああああああぁぁぁぁぁぁっ!」
――――――
ニルファナに強烈な魅了を掛けられ、普段口にもしないような台詞を散々忘れずの石に録音された、そんな忌わしい出来事が脳裏にチラついた。
「シュ、シュイさんどうしたの?」
いきなり頭をブンブンと振り始めたシュイを見て、カイルは目を丸くした。
「――いや、古傷が痛んだだけだ」
主に心の傷だ。泣きたくなるような記憶を振り切り――実際にさめざめと泣いていたような気もするが――シュイは何とか記憶を遠ざけると、カイルに手の平を見せるように差し出した。
「じゃあ、さっき言ったように掌を重ねてみろ」
「う、うん……」
カイルは言われたとおり、シュイの左掌におっかなびっくりといった様子で自分の右掌を置いた。少しして、その目が驚きに見開かれた。
「どうだ、何か感じるか?」
「う、うん、良くわからないけど何だか手の周りがざわざわする。それに何だかほんのりと温かい」
「それが、魔力を練っている状態だ。今からお前の手に少し流し込むぞ」
その宣言に、カイルが緊張しながらもうなずいた。
「……ん? うわわわっ!」
途端、カイルの右手の周りの空気が震えだした。皮膚からほど近いスペースだけが、
「何これ、気持ち悪! ……こ、これどうやって止めるの!?」
感じたことのない違和感にカイルはパニックを起こしていた。それもそのはずで、今カイルが感じている感覚は、手の周りを数多の虫が這いまわっているようなものに等しい。
「落ち着け、別に何が触れているわけでもない。目を閉じて手だけに感覚を集中させ、周りを取り巻いている力に好きな色がついているようイメージをしろ」
シュイがそう言うのを聞いて、カイルは眉をしかめながらも目を瞑った。
「あれ、手の周りが何だか――」
「収まってきたようだな。それが同調。俺の渡した魔力がお前の魔力に変化したんだ。ほとんどの魔法で必要になる作業だからその感覚をよく覚えておけよ。ならその状態で――」
「っ痛!」
シュイが人指し指を振ると、一瞬にしてカイルの左手の甲に小さい切り傷が出来、わずかに血が滲み始めた。
「その傷に手を当てながら、さっき教えた言霊を唱えるんだ」
「え、う、うん、ええっと確か――」
――慈悲深き神々よ、我が祈りに耳を傾けたまえ。
一筋の血が流れ始めた手の甲を右手で覆い、言霊を唱える。少しして、手の甲に微細な変化が現れた。
「――あ、少しずつ傷が小さくなってきたよ!」
カイルが嬉しそうに叫んだ。それから三分もすると、傷は完全に見えなくなっていた。
「うん、意外と早かったな。それなりに素質はあるみたいだ」
シュイは満足そうにうなずいた。もしかして、そのためにわざわざ怪我させたのだろうか、とカイルは合点がいかない様子だった。
空が黄色くなり始めた頃には、カイルはへとへとになっていた。
「はぁ、はぁ……な、何でこんなに疲れるんだろ。頭がくらくらする」
「修行が足りないだけさ」
事なさげに応じたシュイは、魔力で出来た流動体を指先でコントロールし、様々な形状に変えていた。
魔法の大部分は、自分の身体に秘められた魔力、または自然に満ち溢れる魔力を集中力と詠唱によって制御するものだ。森族や魔族は自分の身体に秘められた器の容量が人族や獣族に比べて多いので、生まれつき数多くの魔法を使える才がある。
例外として、自然に満ち溢れる魔力を利用するには吸収か結合によって自らが扱える魔力に同調させる工程を加えるので、自分の持っている魔力を利用するのに比べて非常に多くの集中力を必要とする。強力な魔法を使うには魔力の器を大きくすると共に集中力の底上げをしなければならないわけだ。
次に、その魔力を解放し、詠唱や描印によって思い思いの属性や形に変化させる。通常の魔法はその二、ないし三工程で行われるが、上級の魔法使いだと更に行程が増える。詠唱と並行して魔力を練り上げ、詠唱を終える前に必要な魔力を溜め終える。
今のカイルは、身体に秘められた魔力はまだたくさん残っているものの、子供ゆえに集中力に難があるためすぐに疲弊してしまい、結果として魔力を引き出せなくなっている状態だ。
「……うう。な、何でさっきは出来たのに、出来ないんだろう」
懸命にやっているのに結果が出ないからか、カイルはすっかり自信を失ってしまったようだった。
「さっきの回復魔法か? あれは俺が魔力の純度を高めて渡したからだ」
「じゅ、純度?」
「魔法を使う際には、自分の魔力にくっついた余計な不純物を集中力によって削ぎ落とすんだ」
ちんぷんかんぷんな顔をしているカイルを見て、シュイは少し専門用語が多すぎたか、と頭を掻いた。
「あー、つまりだな。魔力を魔法として使うには下ごしらえが必要なんだ。料理と同じだよ。俺は自分が手にした林檎を、集中力というナイフで皮を剥き、芯も種も綺麗に取ってお前に渡したわけだ。お前はそれを調理しただけ。だから、さっきは曲がりなりにも魔法が使えたんだ」
「う、うん」
「ところが、お前はまだ下ごしらえがうまくない。皮の剥き方は雑、芯も種もとりきれてない。ナイフに当たる集中力が研がれていないから切れ味もなまくら同然。そんなものを調理をしたってうまい料理が出来るはずもない、そうだろ? 才能はあるんだから、まずは焦らずに魔力の純度を高める練習を続ける事だな」
「ど、どうやって?」
「今日までやってきたように、自分の身体を流れている魔力を常に意識すること。そして、それを一箇所に留めるようにイメージする練習をすること。あとは座禅を組んだり、本を読んだり、何かに打ち込んだり。そういったことでも集中力は養われる。無論、一朝一夕には身に付かないが」
「わ、わかった、頑張ってみる。ところでシュイさん、僕、後どれくらいで魔法使えるようになるかな」
「うーん、同調にはあまり時間がかからなかったし、常に一定の効果が出せるようになるまでには、そうだなぁ、おおよそ一カ月ってところかな。最初の内は体調や気分によって出来不出来の落差が激しいから。もちろん、お前の頑張り次第ではもう少し短くなるかも知れないけど」
「ほ、本当にっ?」
これだから子供は。一瞬にして表情が明るくなったカイルに、シュイは肩をすくめて苦笑した。
「――それでねママ。僕、少しだけど傷治せたんだよ! 素質あるんだって!」
「あらそうなの、凄いわねぇ。私も怪我したら治してもらおうかしら」
「うん、任せておいてよ!」
カイルが自信たっぷりに言い切った。
「その前に、切りつけた自分の手首の傷を治すんだな」
「……う、わ、わかってるよ!」
モーガン家の夕食時の団欒は久しぶりに明るさを取り戻していた。ケイも時折涙ぐみながらも楽しそうに笑っていた。食卓にはケイと女中が腕を振るって作った料理が所狭しと並んでいる。初日、二日と負けず劣らずの連日のご馳走に、シュイは無意識に胃を擦った。
「いや、それにしても流石はシルフィールの傭兵様ですなぁ。魔法を使うには早くても三月はかかると言われているのに、もう成果が出ているとは。噂に違わぬ仕事振りですなぁ」
執事のロディが実に調子の良いことを言った。あからさまに侮蔑の表情を浮かべていたくせに、とシュイが乾いた笑いで応じた。
「言ったはずだ。打ち込む情熱があるかどうかだ、と。カイルにはそれがあった、それだけのことだ」
「いやはや、謙虚ですなぁ。私も見習いたいものですなぁ」
全く、羨ましい性格だ。シュイは変わり身の早いロディに、ある種の羨ましさを感じた。
そんな調子で夕食も終わり、カイルは余程疲れていたのか、直ぐに眠そうな顔をして自分の部屋に戻り就寝した。シュイがリビングのソファーで一人寛いでいると、ケイがカイルの部屋からバッグを持って戻ってきた。そして、向かいの椅子に座るとテーブルにそれを置き、シュイに向かって頭を下げた。
「シュイさん、本当にありがとうございます」
「礼を言われるほどの事はしていない。大前提として、あなたがカイルを思っていたという事実がなければどうにもならなかったさ」
結局のところ、説得の決め手になったのはケイの母親としての愛情なのだ。それがなければとても納得してくれなかったはずだった。
「いえ、あの子の殻を破ってくださったのはあなたのおかげです。感謝してもしきれません」
そう言うと、ケイは置いてあったバッグから封筒を差し出した。何だかやたらと分厚かった。
「これは……?」
「今回の依頼の報酬ですわ。お納めくださいませ」
半ば、依頼とかそういった話を忘れかけていた。シュイはティーカップをテーブルに置いた。
「報酬だって? まだあの子は、魔法をきちんと習得できたわけでは――」
「それはもちろんわかっております。実を申しますと、カイルを来週辺りからキャノエの魔法学校に通わせてみようかと考えていますの。その、シュイさんには少し失礼に当たるかとも思ったのですが」
「あー、そういうことか。確かに、カイルのためにはその方が良いだろうな」
同じ年代の魔法使いを目指す少年少女に囲まれた方が刺激にもなるし、競争心から上達も早いだろう。何より、他人に対する心をはぐくむ大事な時期だ。大勢の人と接する機会は逃さない方がいい。シュイは納得してから封筒を開けた。
「え、これ、200万パーズ!?」
長細い紙に束ねられた二つの札束を見て、シュイが驚愕の声を上げた。中座するならば依頼を達成したとは言えない状況だ。
「それもたかだか一週間で、いくらなんでも多すぎる。魔法学校の学費とて安くはないだろう」
通常、魔法学校の学費はどんなに安いところでも月に数万パーズはする。年間に換算すれば馬鹿にならない金額になるはずだ。
「ご心配には及びません。幸い主人は私達が何不自由なく暮らしていくのには、充分すぎるほどの財産を残してくれました。何よりあの子と私の絆を取り戻して、いえ、より強くしてくれたんですもの。それでも安いくらいですわ」
ケイは澄み切った笑みを浮かべてそう答えた。無理をしているようにはとても思えなかった。
ニルファナといい、金持ちってのはどこにでもいるんだな、と自嘲に近い笑みが浮かんだが、感謝の気持ちは顔からも言葉からもひしひしと伝わってきた。
「わかった。そういうことならありがたく受け取っておく」
「はい。でも、明日まではちゃんとお願いしますね。あの子も寂しがりますから」
――――――
翌日、シュイはカイルを連れて屋敷から程近い場所にある湖を訪れていた。午前中の修練が終わると、二人はケイが作ったお弁当の入ったバスケットを傍らに置き、昼食を取り始めた。
「……ねぇ、シュイさん。ママから聞いたんだけれど、家庭教師、今日で終わりって本当?」
シートに腰を降ろしたカイルが、おむすびを食みながら訊ねた。どことなく寂しそうな響きがあったことには、シュイも悪い気はしていなかった。
「ああ、本当だ。おまえは魔法以外にも覚えなければならないことが山ほどある。ただでさえ一年間も家に籠もっていたんだ、勉強もかなり遅れているだろう? ケイもどちらかと言うとそっちが心配なのさ」
「う、それはそうだけど……」
「それに、大きな力を持とうとする者は、先に力を使う心構えを知っておく必要がある。それを学ぶ下地として、色々な知識や人との触れ合いはどうしても必要だ。そもそも俺は傭兵だし、教えるのが専門ではないから」
シュイは水筒から紅茶を二人分注ぎ入れる。こぽこぽという音を聞きながら、カイルは首を捻った。
「んー、でも、シュイさんの教え方、すごくわかりやすかったよ?」
仮にそうだとしたら、つい最近までニルファナに教わっていて、記憶が鮮明に残っているおかげだろう。そう結論付けたシュイは、カイルに紙コップを手渡し、自分も紅茶を飲み始める。
「……ふぅ。じゃあ訊くが、お前は何のために魔法を学びたかったんだ?」
「……え? えーっと、使えたら便利だし、格好良いかなと思ったから」
「そうか。なら、やっぱり学校に行った方が良いな」
いく分突き放した物言いに、カイルが目を丸くした。
「え、な、何でさ」
「自分と他人の目的意識の違いを知るのも、成長に欠かせないことの一つだから」
「目的……意識……」
「今のおまえの目標は魔法を使う事。そういうことだろ?」
「う、うん」
「それじゃあ少しもったいない。魔法学校にはその魔法を使った上で、何かを成し遂げたいって奴も多くいる。そもそも、魔法はあくまで人の生活を向上させるために進歩してきたもので、目的を達するための手段に過ぎないんだから。だが、それを言葉だけで納得させるのも、なかなか難しいんだよなぁ」
「……魔法を使って、成し遂げる」
「あくまで仮の話だが、例えば先日教えた回復魔法。あれを使って苦しんでいる怪我人を治してあげたい。もっと突き進めると、難病をも治せる新しい魔法を開発したい。……救えなかった両親をも治せるような魔法を、使えるようになりたい」
目の前にある、カイルの目の色が変わった。
「と、そんな具合にだ。どうせ魔法を学ぶならば目標を一つは持つべきだと思うし、明確な目標を持つことによって覚えも早くなる。カイル、お前は魔法を使って何を成し遂げたい?」
「……ぼ、僕は」
カイルが手に持っている紙コップの中身に視線を落とした。ミルクティーの表面にそよ風が小さな波を立てている。
十秒を過ぎても返答がないのを見て、シュイはニルファナの言葉を思い出し、再び表情を崩した。
「――少し意地悪な質問だったな。別に今は答えなくても良いよ、カイル。今の言葉に引きずられた解を聞かされるのは俺の本意じゃないし。ただ、様々な立場にある人がどのようなことを考えて生きているか知っていても損はない。何より、それを知ることは世界の在り方を理解することにも繋がる。それを言いたかった」
カイルはうなずき、顔を上げてシュイを見る。
「……うん、わかった。僕もちゃんとした答を見つける」
「よろしい。じゃあそれが、次回俺がここに来るまでの宿題だ」
少しして二人はシートを畳み、訓練を再開した。カイルは背筋を伸ばし、己の手を組んで瞑目し、風の音に耳を傾けている。シュイはその様子を観察している。姿勢に乱れがないことをチェックし、湖の方に視線を移す。澄みきった水面には、奥に在る山が逆さになって映っている。それが時折風で揺らぎ、形を崩し、やがて元に戻る。
「ね、シュイさん。もう一つだけ質問いい?」
「ちゃんと集中しろ」
「ご、ごめんなさ――」
「――と言いたいところだが、最後くらいは大目に見よう。何だ?」
「あ、ありがとう。――その、生きるって、一体何だろう……」
シュイはカイルの方を見た。茶化して良さそうな雰囲気など一切感じられない、真剣な表情だった。貧民窟での出来事が余程ショックだったのだろうが、それにしても随分と年に似合わぬ事を口にしたものだ。人生哲学を説くには、カイルだけではなく自分も、早いように思えた。
どう説明したものかと迷っているうちに、シュイはふと、ある話を思い出した。
「――もうずっと昔、俺がまだ子供の頃だ。似たような質問をある人にぶつけたことがある。その人は教えてくれた。生きるという言葉には大きく分けて三つの意味がある、と」
「三つの意味? それって――」
「――姿勢まで崩すな。そのままの体勢で聴け」
「あ、はい。ごめんなさい」
カイルは慌てて手を組み直した。
「一つ目は、この世に生を受け、赤ん坊として産まれてから死ぬまで、生物学的に生命活動を続けること。いわば心臓が動いている状態だな。二つ目は、己に秘められた可能性を信じて目標を定め、それに向かっての努力を怠らぬ意思。お前が魔法を学びたい、そう思うのもその一つだ。さっきも言ったように、その一つ先を見つめられるようになれば尚よし。常に己を磨こうとする心、向上心を持ち続けることだ」
「うん。それで、もう一つは?」
シュイはそれを教えてくれた人の輪郭をなぞった。美しい白髪の少女が差し伸べてくれた手を。郷愁、悔恨、そして憤怒。様々な思いが去来していった。
「記憶だ。誰かと出会い、そして別れ、自分以外の人々の記憶に何を残すか」
記憶、とカイルが繰り返した。
「おまえは、何故今まで部屋に閉じこもっていた」
「え、と。それは……」
予想もしていなかった質問にカイルが言い淀んだ。
「……世界で僕だけ、たった一人だと思ったから……だけど」
「そう、おまえは<血>という名の繋がりを求めていた。でも、それは本質とは少し異なる。この世界において<血>という繋がりが、他の様々な繋がりより温かな記憶を与える可能性が高い。それだけに過ぎない。
現に、おまえは<血>の繋がりのないケイ、今の母親にも温かい記憶をたくさん貰っているはずだ。それと同時におまえ自身、ケイに温かい記憶を与えている。その蓄積された記憶はいつか新たな繋がりを生むだろう。誰かが優しくしてくれたように、自分もいつか誰かに優しくしてあげたい。そんなふうに思えればなおいいな。心を通じ合わせれば<血>にも負けぬ強固な繋がりが生まれる。古の言葉では、それを紲と呼ぶらしい」
紲。カイルが自分に言い聞かせるように呟いた。
「話は変わるけど、というか、まったく変わるわけでもないが――カイル、おまえの亡くなった父親はどんな人だった?」
「う、うん。礼儀に厳しくて、しょっちゅう怒られてたけど、大好きだったよ」
カイルはどこか懐かしそうにそう言った。
「そうか、おまえは亡くなった父からも、未だに温かい記憶を与えられているんだな」
「うんっ。それに、シュイさんが会わせてくれたママも綺麗な人だった。……ちゃんと僕の事を心配してくれてたんだ」
少し涙ぐんだカイルに、シュイは何よりだ、とうなずいた。
「……家族、友達、教師、書物や芸術、あるいは身近な動植物、そして偉大なる自然。それらはこれからもおまえの記憶に蓄積されていき、カイルという存在を形作っていく。そしていずれは、回りまわっておまえが、或いはおまえが作り上げた何かが、誰かに温かい記憶を分け与える、そんな日が来ると思う。もしかしたら、その記憶は誰かを立ち上がらせる、誰かに生きる力を与えるきっかけになるかも知れない。やがてはおまえが誰かと<紲>を結ぶ、そんな日がやって来るかも知れない。そうして世界の流れの中に身を置き、己の記憶を世界に発信し、他者との繋がりを保ち続けること。それこそが三つ目の生きるって意味だ。ちょっと難しかったかな?」
「うーん、少し」
「はは、今は理解しきれなくても、そういえばこういう話があったな程度で構わないさ。俺だってそうだしな。生きていれば、いずれ自ずと悟ることになるさ。たとえ目には見えなくとも人は支え、支えられて生きているってことが」
生命の奔流、そして過去から未来へと描かれる世界の系譜と記憶の連鎖。その只中に自分たちはいる。流れの激しさは一人で耐えられるものではなく、繋がっていなければあっという間に流されてしまう。
「三つの生きる、かぁ。何となくだけど分かった気がする。ありがとう、シュイさん!」
カイルは屈託ない笑みを見せた。シュイもフードの奥で微笑みを返した。その一方で自嘲に近い思いを抱いてもいた。こんな事を言っている自分自身、きっとその流れから外れているだろう、と。
『私ね、君といると何だかすごく落ち着くの。何故かしらね』
彼女は、笑いながらそう言っていた。今となっては、自分があの人に温かい記憶を与えることが出来ていたのか、確かめようがなかった。記憶は人を生かすが、時に縛りつけることもある。カイルに偉そうな事を説いている自分が縛られたままであるように。
「――シュイさん聞いてる?」
「っと、何だ?」
知らず知らずの内に思い出に耽っていたのか、カイルの声が全く入っていなかった。シュイは面目なさそうに頭を掻いた。
「えへへ、僕にとってシュイさんもその繋がりなのかなって」
カイルは照れ臭そうにそう言った。シュイは何か言おうとしたが、言葉が出てこなかった。
「僕、シュイさんに会ったこと絶対忘れないよ。貧民窟ってところで出会ったあの人たちのことも。それってシュイさんも、あの子たちも僕の記憶の中に生きてるって事だよね」
「……そう、かも知れないな」
そう返しながら、シュイは二つの感情が芽生えるのを感じた。そうであればいいという希望と、そんな資格など自分にはないという、否定だった。
――――
夕刻、シュイがカイルを連れて屋敷に戻ると、ケイが玄関から外に出てくるところに鉢合わせた。もしかしたら見計らって出てきたのかも知れなかったが。
「おかえりなさい、カイル、シュイさん」
「た、ただいまぁ……」
昨日以上にへとへとの様子のカイルに、ケイがあらあらと口元にてをやった。余計な話をした分、残りの時間で訓練の密度を増やしたためだ。既に報酬はケイから受け取っているのだし、手抜き仕事をするわけにはいかなかった。
「ふふ、大分しごかれちゃったみたいね。それからシュイさん、夕飯は食べていかれるのでしょう?」
「いや、折角だが遠慮しておくよ。仕事はこれで完了、時間的に、今からギルド支部へ戻ればぎりぎり依頼を受けられるかも知れないから」
「ええー、シュイさんもう行っちゃうの?」
「そうですわ。そんなに根詰めなくても宜しいのでは……」
カイルは露骨に残念そうな顔を作り、ケイも名残惜しそうに頬に手を当てた。満更でもない気分になり、顔が自然と綻ぶのを止められなかった。
「お気持ちはありがたいが、何分せっかちな質でね。なぁに、近くを通ったらまた寄らせてもらうよ。幸いここはキャノエからそう離れていないし、カイルがサボらないでちゃんと勉強しているか確かめないと。曲がりなりにも、カイルは俺にとっての初弟子だからな」
「ぶー、僕絶対サボらないよ! シュイさんに負けないくらい強くなるんだ!」
頬を膨らませながらもカイルは元気良く答えた。
「そりゃあ楽しみだ。今言った台詞、絶対に覚えておけよ。――じゃあ二人とも、元気で」
シュイが軽く手をかざすと、ケイは小さくうなずいた。
「……わかりました。シュイさんも、危険なお仕事でしょうが、お体には気をつけてくださいね」
「絶対また来てね! 約束だよ!」
シュイは軽くうなずき返し、キャノエの町の方を振り向いた。長老樹の梢が茜色に染まっている。遠くでは大きな鳥の群れが、長老樹に向かって次々と下降していくのが見えた。あれだけ大きな木だし、きっと巣も無数にあるのだろう。
――次にこの景色を見るのはいつか。それとも、もしかしたらこれが最後になるのか。
一度深く息を吸い込むようにし、足を踏み出した。二、三歩、徐々に加速し、遅れて黒衣の裾がふわりと風に靡き始めるのがわかった。強く地面を蹴り出し、緩やかな坂を一気に駆け下りていく。
「シュイさんまたねー! ……って、うわぁ……もうあんなに小さくなっちゃった! 何だかシュイさんって風みたいな人だね」
「ふふ、同感ね。カイルもシュイさんに負けないくらい、頑張らなくちゃね」
二人の親子は走るシュイの姿を見失うまでのわずかな時間、精一杯の感謝を表すかのように大きく手を振り続けた。