第四章 ~(2)~(改)
カイルはシュイに手を引かれ、木立の間にある、少しうねった土道を歩いていた。足場は所々ぬかるんでいで、何度かは滑って転びかけたが、その度にシュイがカイルを引き上げ、事なきを得ていた。
ふとカイルは、道から少し離れた場所で、自分と同年代くらいの子どもが、大きな木の根元に寄りかかっているのに気付いた。目を固く瞑っていることから、多分寝ているのだろうと推測できた。
その子のお腹はやたらとごつごつしていた。洗濯板の代わりとして使えそうなくらいにあばら骨が浮き出ていた。
「ね、ねえ死に神さん。あの子、裸のままで寝ているけど、風邪引いちゃわないかな」
シュイは立ち止まり、カイルの指差した方を向いた。
「あの子は、目覚めない」
「え……」
予想外の解答に、カイルが後に続く言葉を見失った。シュイはカイルの心情が分かっているのか、顔を伏せた。
「もう、死んでいる。まだ蝿が集っていないから、息を引き取ったのは今日か昨日か。どちらにしても最近だろうな。あれだけ痩せているんだ、ずっと食べ物にありつけなかったんだろうさ」
そうとだけ言うと、シュイは再びカイルの手を引き、歩き始めた。
子供なのに。カイルは無意識の内に呟いていた。そもそも、食べれないとは一体どういうことなのかを考えたことがなかった。せいぜいが、欲しいおやつをねだっても買ってもらえなかったとか、そういう類の話だ。
部屋に閉じこもっていてもお腹は空く。その頃にこっそり扉を開けると、部屋の外にはいつも食べ物が置いてあった。ケイや女中たちが毎日欠かさずご飯を用意してくれていたからだった。自分が食べようと、食べまいと。
二人が更に先へ進んでいくと、どこからか香ばしい匂いが漂ってきた。何かが焼けるような音が聞こえ、草むらの方に目を移す。そこには小さな焚き火を囲むようにして、何かを焼いて食べている者たちがいた。
カイルはそちらの方に興味を示した。大きさから察すると、串に刺さっているのは魚だろうか。
「あの人たち、何を食べてるんだろう。美味しそうだね」
なんだ、食べる物がないわけじゃないんだ。カイルは少しだけ安堵した。口の中に唾が湧き始めていた。意外とお腹が減っていることに気付いた。遅れて腹の音がなり、カイルは少し顔を赤らめながら、今日は何も口にしていなかったことに思い当たった。
シュイは木を削って作った櫛に刺さっている物を見つめ、小さくうなずいた。
「あれは……、多分イワモドキだ」
「イワ、モドキ……? そんな魚、聞いたことがないけど」
訊ね返してきたカイルに、シュイは説明を続ける。
「普段は茶色い皮膚をしているが、危険を感じると皮膚の色を灰色に変化させる。そうなると岩と殆ど見分けがつかなくなるんだ。所謂擬態ってやつだな。魚じゃない、高地の川辺に生息しているトカゲの一種だ」
「ト……」
カイルの声はそれ以上続かなかった。視点が勝手に固定された。
「国によっては爬虫類を食すところもある。ヘビとか、ヤモリなんかは薬用に使うこともあるらしい。この辺り、というより、彼らにとっては貴重なタンパク源だろうな。……ん、どうした?」
地面に何かがいるのに気付き、カイルは固まっていた。ようやくそこにいるのが誰なのか頭が認識した。人間だ。が、その男には両足が付いていなかった。
男は髪も髭も生えっぱなしで、二十代のようにも、五十代のようにも見えた。手の指を土に埋め、手繰り寄せるようにして、自分の身体をズリ、ズリ、と少しずつ前進させていた。その光景はあまりにもおぞましくて、カイルの周りを取り巻く日常とかけ離れたものだった。
顎がガクガクと震えているのがわかった。全ての筋肉が縮こまったようになって、身体の自由が奪われていた。
恐怖で今にも腰を抜かしそうなカイルの手を、シュイが少しだけ強く握り返した。繋がったその手がカイルを現実に踏み止まらせた。
「あ、あんたら、何か持っていないか……」
そう言われ、カイルは何かって何だろうと一瞬思い、食べ物という答えに行き着き、持っていないことに愕然とした。と、いつの間にかシュイがカイルの手を放し、懐から何かをごそごそとまさぐっていた。
取り出された三日月型のそれは、カイルにも見覚えのある物だった。ノイムの実だ。淡黄色をしていてほんのり甘く、厚い皮で覆われているので日持ちが良い。
「すまない。今はこれくらいしかない」
「おお、くれるのか……」
シュイは地に膝を付き、あくまで丁寧な所作でその人の手にノイムの実を握らせた。男の目は多分に潤んでいた。
「では、失礼する。……行くぞ、カイル」
「……ありがとう。ありがとう」
熟した実を大事そうに胸に抱いた男は、シュイの背中越しに何度となくお礼を口にしていた。
ほとんど自分の意志で歩いていなかったカイルを半ば引きずるように森の出口まで進んだシュイが、足を止めた。カイルがそれで正気に戻り、怒られる、と身を硬くした。
「……何故、泣いているんだ?」
「え。……あ」
カイルはそう言われて、初めて気がついた。眼からは涙が溢れていて、地面に雫が滴っていた。
自分には住む家も、暖かい布団も、食べ物もあった。血こそ繋がっていなかったが、自分の事を心配し、また知らず知れずのうちに守ってくれるケイがいた。
ずっと当たり前のことだと思っていた。自分が生きていけるのを。
「ここに住む人たちは一日一日を必死になって生き延びている。中には肉親に見捨てられた者だっているだろう。おまえがその目で見てきたように、彼らには家も、ベッドも、まともに着るものもない。それでも、トカゲを食ってまで生きようとしている。這ってまで生きようとしている。カイルは、彼らのそんな姿を醜いと思うか?」
「そっ……」
胸が詰まって言葉が出なかった。カイルは俯き気味に首だけを勢いよく振った。
「それならいい、ここに連れて来た意味も少しはあったな。今の生活をおまえがどう思っているのかは俺にもわからない。だが、決して忘れないで欲しい。今垣間見た光景も、間違いなくおまえが生きている世界の一部だ。……ここだけじゃない。こんな場所、探せば世界中にいくらでもある」
カイルはしゃくりながら何度もうなずいた。
「カイル。きっと亡くなったおまえの両親は、おまえを愛おしんでいたんだろうと思う。でも、今の母親も、ケイも負けないくらいにおまえを愛しているよ。たとえ血が繋がっていなくとも、おまえをここまで大きく育ててくれたのは他の誰でもない。彼女なんだからな」
「う、うん……」
カイルは袖で涙を拭った。
「それを理解してもらった上で、訊こうか。死んだ両親の元へ行きたいか、カイル。ケイを、今の母親を置いていくか。心からそう望むのなら――」
カイルは、シュイの問いかけを遮るように強く首を振った。そんなの決まっている、と言うように。
「僕、ケイさ……ママに、今までの……謝らなきゃ」
途切れ途切れの言葉だった。が、それでも伝わったのだろう。それは残念だ、と、さして残念そうでもない言葉がカイルの耳に聞こえてきた。
シュイは再び手の平を、カイルにかざした。涙で滲んでいるはずのカイルの視界に、黄緑色の蝶だけがやたらと鮮明に映った。
――――――
夢を見ていた。壁一面が真っ白で、部屋の真ん中には二つのベッドを隔てるように、白い布の衝立が置かれている。窓際の方のベッドでは、優しそうな銀髪の女の人が上半身を起こし、赤ん坊が抱かれていた。傍らには黒髪の男性が背もたれのない椅子に座り、その様子を穏やかな表情で見守っていた。
髭が生えていなくとも、カイルは一目でそれが父親と見破った。ならば、あっちの女の人は。そう考えた刹那――
「――随分大きくなったわねぇ、私の皇子様は。すっかりあなたに似てきたわ」
そう言いながら、女はまだ髪の生え揃っていない赤ん坊を優しく撫でた。赤ん坊は頭を微かに揺らしたが起きる事はなく、そのまますやすやと、気持ち良さそうに寝息を立てていた。
「そうかい? 友人たちにはどちらかというと君に似ていると言われるけれど」
男がそう言うと、女は同意できない、と言うように首を傾げた。
「うーん、そうかしら? ほら見て。目元なんかはあなたそっくりよ。きっとこの子、将来ハンサムになるわね」
男はまんざらでもなさそうに照れ笑いを浮かべる。
「はは、遠回しな褒め言葉をありがとう。他ならぬ君がそう言うんだから、そっちが正しいんだろうね。君が一番僕とカイルを間近で見ているんだから」
女は男にただ微笑みを返したが、ふと、その表情がわずかに曇った。少なくともカイルにはそう見えた。
「……ごめんなさいね、ジェイク。こんなに早く――」
「――ミゼル、頼むから謝らないでくれ。仕事の忙しさなんて言い訳にもならない、僕の方こそもっと早く君の身体の変調に気付くべきだったんだ。謝るべきは僕の方なんだ」
「……ごめんなさ――」
「――ほらまた」
「あら、いけない」
男の呆れた口調に、女はチロッと赤い舌を出した。そしてゆっくりと、窓に視線を移す。
「今年の紅葉は見応えがあるわねぇ。まるで木々が燃えているようだわ」
「そうだな。庭の柿の木にもたくさんの実がなっている。そろそろ熟すだろうから今度持ってくるよ」
「ふふ、ありがとう」
ややあって、女は男を真っ直ぐに見つめる。
「ジェイク。あなた、私と結婚して後悔していない?」
「していない」
「……本当に?」
「君は素敵な思い出をたくさん僕に与えてくれた。そしてカイルを与えてくれた。その一つ一つが、僕にとっては何より大切な宝物だ。後悔なんてしているはずがないだろ?」
「……そう、良かった」
女は大きく息を付き、今度は赤ん坊に目をやった。
「カイル、せめてもう少しだけでいい、あなたと一緒にいてあげたかった。それだけが心残りだわ。……どうか、どうか駄目なママを……許してちょうだいね」
「ミゼル……」
潤んできた目にハンカチを当てると、女は男に笑いかけた。それを目の辺りにしてカイルは、こんなにも寂しそうな笑顔があるのか、とたまらない気持ちになった。
「ジェイク。あなたもまだ若いんだから、いい人がいたら私に遠慮しないで結婚なさい。その代わり、今度は私よりもしっかりした、健康な女性を見つけて」
男の顔が思いっきり歪んだ。
「……ミゼル、いい加減にしないと僕だって怒るぞ」
「そうね。あなたは優し過ぎてほとんど怒ったためしがないし、今の内に怒った顔を目に焼き付けておくのも悪くないわ。カイルを躾ける予行演習ってところかしらね」
男は勢いよく立ち上がり、ツカツカとベッドの女に歩み寄った。そして痩せた身体を両腕で労るように、女が抱いている赤ん坊ごと、そっと抱きしめた。
「……ジェイク」
「……ミゼル。こんなに苦しんでいる君に何もしてやれない。不甲斐ない僕を……許してくれ」
男の声は震えていた。女には、男の顔は見えないはずだったが、肩にいくつもの雫が滴っているのがわかったのだろう。再びその目に涙が滲み始めた。
「――もうあなたったら、それじゃあ貴重な泣き顔が見られないわ。……でも、ありがとう。短い間だったけれど、私もあなたと一緒に過ごせてとても幸せだった。……カイルのこと、お願いします。そして、いつかあの子が大きくなって、人の死を受け入れられる齢になったら伝えてあげて。私は、遠いところからあなたの事を見守っていると。誰にでも優しい、誰よりも元気な子に育つよう願っていると。……お願いね」
おもむろにその声が遠くなり、二人の姿が、白い部屋が霞んでゆく。
――待って! ……パパ、ママッ!
そう叫んだはずなのに、声が声として発せられなかった。あっという間に、全てが白く塗り潰されていった。
――――――
「あ……れ……」
カイルは、ベッドの中にいた。いつも寝ているふかふかのベッド。両目からは涙の川ができていて、枕とシーツを濡らしていた。今の今まで見ていた人たちは写真に写っている二人、見間違えるはずもない、カイルが焦がれ、夢にまでみた父と母の姿だった。
「いや、夢……じゃないよね」
「当たり前だ」
はっとして、カイルが扉の方を見た。黒衣の男、シュイが部屋のドアに背を預けていた。
「し、死神さん! 僕……パパとママに」
「初めにちゃんと約束しただろう? 両親に会わせてやると」
――やっぱり、あの赤ちゃんを心配していた女の人が僕のママ、……あの赤ちゃんは、僕自身。じゃあ――
「――じゃあ、あの人たちも?」
シュイはその疑問には答えず、淡々と言葉を続けた。
「おまえの両親たちから伝言を聞いてきてやった。信じる信じないは、おまえ次第だが」
伝言、と呟くカイルに、シュイは身を起こし、自分の寄りかかっていたドアノブを握った。
「カイル、いい加減外に出なさい! だとさ」
「――うん!」
カイルは急いで袖で涙を拭い、絨毯に足を付けた。
階段を一段一段、慎重に降りていった。シュイは、今度は全く手を貸さずに、先にスタスタと一階に降りていった。仕事は終わったとばかりに。
長い間運動を怠っていたせいで足元は覚束なかったが、手すりに掴まりながら、何とか転ばずに一階についた。
「お、お坊ちゃま!」
リビングに入るなり、執事のロディが驚嘆した。背を向けてソファーに座っていたケイも、窓を拭いていた女中たちも、ロディの声に釣られて姿を現したカイルに注目した。一方で、傍らにいるシュイだけは、じっと窓の外を見ていた。
「……カイル!」
「あの、ごめんなさい……ママ」
詫びの言葉を聞くや否や、ケイが目を潤ませながらカイルに駆け寄り、その身体をきつく抱き締めた。
「い、痛い、よ……ママ」
「それくらい我慢しなさい! ああ、カイル……私の方こそ、本当にごめんなさい……」
抱擁の痛みと、溢れるほどの温もり。それを全身に感じた。吐息が耳にかかって、少しくすぐったくもあった。
そしてカイルは、自然と理解できていた。血の繋がりなどではなく、自らを包み込むこの温かさこそが母なのだと。