第四章 ~三つの生(1)~(改)
真昼間にもかかわらずカーテンが閉め切られた部屋の中、カイルは一人椅子に座り、机の上に飾ってある小さな写真立てをじっと見つめていた。そこにはもうこの世にいない二人、優しそうな表情をした綺麗な女性と、その女性の肩を抱く父の姿があった。
母の友人だと思っていた女性が実の母だと知ったのは、一年くらい前のことだった。
何で、自分だけが生き残ったんだろう。何で、神様は両親と一緒に自分を連れて行ってくれなかったんだろう。この疑問も、何度自らに問いかけたか分からない。どれほど時が経っても答は出ずじまいで、疑問に答えてくれる人が傍に現れるわけでもない。
今の母、ケイが実の母だ。カイルは今までそう信じて疑わなかった。家人や周りの者たちも、そうやって振る舞っていたからわかるはずもなかった。
だが、自分はみんなから騙されていた。そのことを知ったときはただ絶え間なく悲しみが襲ってきた。寝ても覚めても。
茫然自失の状態から立ち返った時には、やり場のない憤懣が腹の内を満たしていた。庭の花に水やりをしていたケイのところまで裸足で出向き、問い詰めた。ママは本当のママじゃないのかと。ケイは最初、何を言っているのかと首を傾げた。まるでこちらがたちの悪い冗談を口にしているかのように。
戸籍の書類を突きつけると、ケイは明らかに狼狽した。そんな表情を見るのは初めてだった。心のどこかでは、平然と何かの間違いだと言って欲しい、そんなやりきれぬ思いがあった。
ついに写真の中に映っている女性が実の母だと聞かされ、カイルは涙が止まらなくなった。実の母の顔を知らなかったことが、ひどく罪深いことのように思われた。あなたのためを思って、だの、大人になったら話すつもりだった、だのと言われても、もう信じられなかった。自分は既に一回嘘を吐かれているのだ。とても許す気にはなれない嘘を。
そのうちにカイルは、今の母を「ママ」とは呼び辛くなってきたことに気づいた。だから、今は「ケイさん」と呼ぶように努めていた。そう呼ばれると、ケイはひどく辛そうな顔をした。心の底からケイを嫌っているわけではなかったカイルにとってもそれは心苦しいことだったが、自分を偽っていたことへの戒めだという感情もあった。
ケイの話によれば、実の母はカイルが一歳の時に流行り病で亡くなったとのことだった。ケイは、実の母とすごい仲が良かったのだと、大の親友だったとカイルに言って聞かせた。反して、カイルは尚更腹の虫が収まらなくなった。本当に親友だというのなら何で父と結婚できたのだ。
カイルという名前は本当の母が付けてくれたもので、死ぬ間際まで自分のことを心配していたらしい。執事のロディからそう聞かされ、カイルは一晩中ベッドの上で泣き続けた。枕に涙がたくさん染みてぐしゃぐしゃになった。
散々泣いた後、カイルは今度こそ、これからどうすれば良いのかわからなくなった。もう自分と血の繋がった者は誰もいない。ケイは優しいが、偽りの母だ。何より、一度裏切られたことがこの上なく堪えていた。また嘘を吐かれたらどうしよう。そんなふうに思い始めると、そのうち他の人と接するのも怖くなってきた。
カイルは、もしかしたら自分の目が届かない場所で、皆が自分の事を笑っているんじゃないかと思い始めた。学校にいる時に聞こえる声という声が、全て自分の悪口を言っている気がした。
アイツの家族って全部偽者なんだぜ。そんなふうに言われていたらと思うとどうにも胸の奥がむずむずして、血が出るくらい掻き毟らずにはいられなくなった。そうしているうちに、本当に学校で噂になってしまった。カイルは危ないやつなんじゃないか、と。
やがてカイルは学校にいかなくなった。段々気まずくなってきて、誰とも顔を合わせられなくなった。慰めを口にする執事や女中を見ても、陰で笑われているのではないかと、悪い方にばかり考えていた。
部屋に閉じ篭っても何も解決しないのはわかっていた。でも、窓越しに聞こえてくる微かな話し声すらも、全て自分の悪口に聞こえてしまう。気が狂いそうだった。何も聞きたくなかった。そう思ったカイルはいつの間にか、自分の存在を世界から隔離していた。
自分も死んだら両親に会えるのだろうか。二人は自分を快く迎えてくれるだろうか。余計なことばかり考えていた。部屋に閉じ篭っていると、自分と対話する時間が永遠のように思えた。半年前からはカレンダーを捲ることもやめていた。
「……どうかしてるよね」
カイルはぽつりと呟いてみたが、返事は返ってこなかった。いくら布団をたくさん被っても胸の中が全然温まらなかった。
この寒さをずっと抱えて生きていかなければいけないならば、それはきっと死ぬより辛いことだ。最近では寝ても覚めても、耳を塞いでさえも変な声が聞こえるようになってきた。
<お前がカイルか>
そう、こんなふうに、とカイルは苦笑し
「――えっ!」
次いで確かな実感を伴って聞こえた声にびっくりし、椅子から飛び上がった。
「だ、誰!?」
辺りを見回すが誰もいなかった。部屋に鍵がかかっていることを、ノブを回して確かめた。ハッとして窓際に寄り、カーテンを開け、陽光の眩しさに目を細めつつも外を見る。が、屋根の上にもいない。確かに声がしたはずなのに。自分は、もしかしたら本当に狂ってしまったのだろうか。
カイルは震えながら、自分の頭を両手で挟み、屈みこんだ。
<俺は、死神だ>
と、再び頭の中に声が響いた。はっきりとした声だった。
「死神! ……って何なの?」
<……ええ? ……いや、そう返されるのは予定外だったな。ちょっと待ってくれ、すぐに代案を考える>
ダイアンとは人の名前、それとも菓子の名前だろうか。カイルは部屋の真ん中で首を捻った。
<そう、死神は、人を遠くに連れて行くのが仕事だ。お前の父や母を連れていった時のようにな>
「ぱ、パパやママを!?」
驚きと、微かな希望が入り混じった声が出た。本当に父と母を連れて行った者ならば、当然行き先も知っているはずだ。
<その通り。そして、今日はお前の番が来た>
「……どういうこと?」
<なに、おまえを両親の下へ連れて行ってやろうと思ってな>
カイルが目を見開いた。未だ声が囁く甘言を完全には信じ切れずにいた。けれども、頭の中に響く声がどう考えても普通ではないことも事実だった。
<さぁ、扉を開けるんだ>
「パパとママに……会えるの?」
再び訊ねた時、声が少し上擦ったのがわかった。次いで一瞬、体がぶるりと震えた。両親に会えるならばもういつ死んだって良い。カイルは心からそう思っていた。
<ああ、会えるともさ>
謎の声は、どこか自信に満ちていた。
「……わかった、直ぐ開けるね。待ってて!」
カイルは慌ててドアの方に早足で歩み寄り、鍵を外した。
――――
部屋のドアが開けられ、シュイはゆっくりと視線を降ろした。十歳前後と思われる男の子はシュイを見た途端全身を震わせた。怯えの走っている二重の目は、パチパチと瞬きを繰り返している。小顔で背の高さは標準か少し低い程度。淡い光にも映える銀髪が印象的だ。
シュイは動揺しているカイルに構わず、念話を送った。
<初めまして、だな>
カイルは再びびくっと体を動かしたが、数秒して口を開く。
「あ、は、初めまして。あ、あの、本当にパパとママに会えるの? 嘘じゃない?」
<ああ、もちろんだとも>
シュイはそう伝えると、カイルの目の前に左手を差し出した。
<これをずっと見ていろ>
「う、うん」
シュイの手の平には大きな傷跡があった。占い師が手相を見ても、きっと困り顔になるだろう。カイルはそんなことを思いながら、それを身じろぎもせずに見入っていた。
次第にシュイの手の平がぼんやりと光り始め、何かが浮かび上がってきた。少なくとも、カイルの目にはそれが見えていた。見たこともない黄緑色の蝶だった。
「……あ……れ」
おもむろに、目の前が暗くなるのを感じた。微かに視界が左右に揺れていた。
<……いい子だ>
シュイが呟いたときには、前のめりに倒れかけたカイルの体が、シュイの腕に支えられていた。
――――――
「……う」
<気がついたようだな>
黒い人の声が聞こえた。何だかやたらと眩しい。光が僕の目蓋に当たっているのだ。
「ここは、どこ? ……って、わぁ!」
薄らと目を開けると、高速で移動している景色が視界に飛び込んできた。少しして、移動していたのは自分の方だとわかった。どうやらいつの間にか外に出ていたようだ。驚きに息を呑み、その後で黒い人に抱きかかえられていることに気が付いた。風が体にびゅんびゅん当たって夏なのに少し寒い。
「……なんて速いんだろう。本当に死神さんなんだね」
自分の体が風になったような錯覚。草原を疾走し、大きな川をぴょんぴょんと飛び越え、森の密集した木々をすり抜ける。この非日常的な光景を見せられれば、他のことだって有り得る話だ。そんなふうに思わされた。
――本当に、会えるんだ。パパとママのところに連れて行ってくれるんだ。
胸が高鳴るのを感じた。会ったらまずなんと言おうか、とそんなことを考えた。
――ただいまと言うのも変かなぁ。あれ、でも待てよ。ママが今の僕を見ても、一目でママの子だとわかってくれるかな。一歳の僕とは全然顔が違ったし。
不安げに眉をひそめたカイルに、シュイが視線を落とした。
<……お前が父と母に会う前に、行かねばならないところがある>
再び頭の中に響いた声に思考が遮られた。カイルは首を捻ってシュイを見た。
<……なに、もう少しだ>
シュイはカイルにそうとだけ告げると、走るスピードを更に上げた。さすがに速過ぎて怖くなってきたのか、カイルは万が一にも振り落とされないよう黒衣にギュッとしがみ付いた。
シュイはカイルを抱きかかえたまま、フォルストロームとセーニア教国の国境付近にある岩山の山頂から周囲を見回していた。
「……凄い。こんなの見た事ないや」
カイルは視線を忙しなく動かしていた。360°遮る物が全くない大パノラマ。視線の先にはたくさんの白い雲。南にはフォルストロームの大森林が深緑の絨毯のように見える。遥か遠くにはキャノエの長老樹が小さく霞んで見えた。東西には人一人立つことすらできなそうなほどに鋭利な剣山が数多望める。後ろを振り向くと雲の隙間から北の大草原が、そしていくつかの民家らしきものが街道沿いに見える。山脈を隔てて北側は確かセーニア教国だ。そして――
「――うわぁっ!」
思わず感嘆の声を漏らしていた。突型に群成して空を飛ぶ真っ白な蛇。緩やかな斜線を描くように上空へゆっくり上昇し、次々と分厚い雲に飲み込まれていく。
<大気中の水分、雲や霞を喰う蛇、白翼蛇だ。ああやって風に乗り、大きな雲に取り付いては雲と共に移動する。数年に一回は高地にある湖の中に卵を産むそうだ。神聖な動物とされているが、あまりに多くなると干ばつが引き起こされることもある。そんな生き物だから間近で見られることは滅多にないんだが、運が良いな>
「へぇー、こんな生き物もいるんだね! 全然知らなかった!」
カイルは目を輝かせ、初めて見る光景にひたすら感激していた。
一方で、シュイはカイルに景色を見せるために山へ登ったわけではなかった。高所から、ずっとある物を探していた。ニルファナと会うよりも以前、逃亡生活をしていた時にたまたま見つけた場所だ。こういった場所は国境の至る所にある。国を滅ぼされた難民達が関所を越えられず、かといって帰る場所もなく、寄り集まって集落を形成するのだ。
少しして、鬱蒼とした木立の中から天に昇る一筋の薄灰色の煙を見止めた。シュイはその方角を正確に記憶すると、カイルを担いだまま山を下り始めた。
山をある程度下っていくと、シュイはカイルを土の上に下ろした。そこで初めて、カイルは自分が靴を履かされていることに気が付いた。
――何だかゴミ捨て場みたいなところだな。
さっきの素晴らしい景色とのギャップがありすぎて、カイルはとても残念な気持ちになった。山の中なのに色々な物がごちゃごちゃしていて、それに何だか甘いような、酸っぱいような、妙な匂いがした。
「ここは……どこなの?」
「貧民窟」
シュイはカイルを見ずに短く言った。カイルが意外そうに眉を上げた。頭の中に声を送ることだけじゃなくて喋ることもできたことを、今初めて知らされた。続いては、何でシュイがわざわざ頭の中に声を送ってきたのか、と考え込んだ。
「貧民窟ってなに? 死神さんが行きたい場所って、ここのことだったの?」
「紛れも無く世界の一部さ。もちろん先ほどの美しい光景もな。……手を放すなよ」
そう答えると、シュイはカイルの手を繋いでゆっくりと歩き出した。
その場所にある何もかもが、カイルの思考を刺激し続けた。近くには川が流れているのか、せせらぎの音が耳に入ってくる。頭上を見ても、空はほとんど見えない。日差しの差し込む隙間がないくらいに梢が密集しているのだ。
昼間なのに夜を思わせる鬱蒼とした森の中には、みすぼらしいほったて小屋があった。いや、小屋とすら言えないかも知れない。ただ樹の枝に大きな厚紙をかませただけの物すらある。そして、そんな物が木々の隙間を縫うようにして、至る所に立ち並んでいた。
シュイとカイルが手を繋いで道を歩いて行くのを、道端に座っている者たちが虚ろな目でじっと見ていた。筵でも敷いてればまだマシな方で、地肌の上に直接座っている者も多かった。学校でも家でも、そんな所があることは誰も教えてくれなかった。
窪んだ眼で見つめられるだけで寒気がして、カイルは無意識の内にシュイの手を強く握った。彼らの髪は好き放題あちこちに伸びて、ボサボサでチリチリだった。着ている服は肌を覆っている場所の方が少ないくらいに布地が擦り切れていた。そして、そこから見える地肌は土の色と同じだった。先ほど感じた妙な匂いがやたらと強くなっているのを感じた。もしかしてあの人たちから発せられる匂いなのだろうか、とカイルは疑った。
シュイに手を引かれているうちに、新たに気付いたことがあった。ほとんどの人がやたらと痩せていたのだ。頬はこけ、骨が浮き出で、角張っていて丸みが全く感じられなかった。
驚いたことに、そこにいるのは大人だけではなかった。自分とそんなに年の変わらなそうな子もたくさんいた。土の上で膝を抱えてじっとしている子。太い樹に寄りかかって足を投げ出している子。切り株に座って、顔を両手で覆い隠している子。
その中には自分より明らかに年下の子も混じっている。女の子なのに上半身裸の子。靴すらも履いてない子がいた。その素足には岩や草によるものと思われる幾つもの切り傷や擦り傷があった。
カイルは隣にいるシュイをそっと見上げた。
「ね、ねえ。……えっと、死神さん」
「なんだ」
「あの子たち、ずっとじっとしているけどお家に帰らないの?」
顔はフードで覆われていて見えなかったが、カイルは何となしに、シュイが悲しそうな表情をしているように思えた。
「ここが、家なんだ」
ややあって、シュイがそう呟いた。
「……え?」
言っている意味がさっぱり分からなかった。どこに家があるんだろう。カイルは周りに視線を走らせたが、やはり山と木とゴミしか見当たらなかった。少なくともカイルという少年の価値観において、家と呼べそうな物は存在しなかった。
「ここはあの子たちが寝て、起きて、生活する場所だ。家に違いないだろう」
「だ、だって、家っていうのは、もっとこう……」
――大体、ベッドも屋根も無いじゃないか。
雨が降ったらどうするのだろうか。カイルは不安そうに空を見上げた。葉で覆われた緑の天井も、今は夏だからいいが、冬になったら残らず散るだろう。
「――さぁ、先に行くぞ」
シュイに手を引かれ、カイルが慌てて足を踏み出した。胸に生じた得体の知れぬ不安が、段々と大きくなってくるのを感じていた。