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プロローグ(改)

2011年10月22日-2012年1月15日、改稿

 今でも鮮明に覚えている。悪夢がより大きな悪夢に上書きされる、その瞬間(とき)を。


 夜。寝所の蝋燭を消し、まどろみ始めてから間もなくのことだ。遠くから人の声が聞こえてきたような気がした。目蓋の裏が明るくなり、ベッドから体を起こして窓を見た。

 一瞬、呆気に取られた。まだ夜更けのはずなのに、空が黄昏に戻ってしまったかのような深紅に染まっているのだ。

 次いで、どこからともなく発された甲高い悲鳴が家の壁を突き抜けてきた。これで平然と構えていられるやつは相当のボンクラだろう。私は即刻、隣で寝ていた娘を揺すり起こした。


 着の身着のままに家を飛び出した私たちを真っ先に襲ったのは熱気だった。むせるような、鍋を空焚きにしてしまった時のような臭いが鼻につき、咳き込んでしまう。

 煙に包まれる視界の中を何かが横切った。村人だ。それも一人二人ではなかった。北の方を見ると、通りの奥で何本もの橙色(だいだいいろ)の火柱がゆらゆらと踊っていた。そちらの方からは、村人たちが煙を掻き分けながら必死の形相で走ってきていた。間近で幼い男の子が盛大に転んだのを見て、私は反射的に手を差し伸べようとした。が、彼はすぐさま顔を起こして立ち上がり、私の指先をすり抜けていった。


『何やってる、んなところでぼさっとすんな! 邪魔だッ!』

『早く逃げろ! もうそこまで来てるぞ!』

『おい急げ、こっちだ!』


 低い怒号が幾度となく鼓膜を震わせた。逃亡を促す叫び声の間を縫うようにして、誰かの名を呼ぶ声が響き渡った。確かアーロンだったような気がするが、もしかしたらマーロンだったかも知れない。

 耳を(そばだ)てている余裕など全くなかった。胸が、顎が、がくがくと震えている。自分の吐く荒い息だけがやたらと大きく聞こえている。

 私はズボンにしがみ付いていた娘の手をしっかりと握り締め、村人たちの流れに加わった。



 後でわかったことだが、襲ってきたのは付近を荒らし回っている野盗の一団だった。実際、近隣の大きい村々が頻繁に野盗の襲撃に晒されているという噂は小耳に挟んでいた。家を失った者が大勢出たようで、被害を受けた何人かはこの村の空き家に仮住まいを求めてきたのだ。それを聞いた時は災難なことだと同情し、悪逆を尽くした者たちを許せないと憤慨もしたものだが、そのくせどこか遠くの出来事のように感じていたのも確かだった。

 この村、レテの規模はそこまで大きいものではない。大陸の東半分を占めるセーニア教国の南端に位置し、南の大国、フォルストロームとの国境に跨っている。取り立てて誇るものなど何もなく、薬効のある温泉が湧いていることで通に知られている、といったところだ。

 ただ、長閑(のどか)で自然が多く残っていて、遊歩道を少し外れただけで滝や峡谷など、四季折々の景色を楽しむことができる。どこにでもある村の一つに過ぎないが、その愛すべき平凡さを私は気に入っていた。



 付近の村の襲撃を受けて、国軍の騎士団が近隣の村々を頻繁に警戒していることも知っていた。二日前にも国境警備兵が巡回にやってきたので、二言三言、いつものように言葉を交わしたが、案の定、何の異常もないとの報告を受けた。村の者たちが安心しきっていたのを誰も責めることはできないだろう。

 けれどもそんな我々を嘲笑うかのように、野盗たちは村に押し寄せてきた。分厚い木の板で作られた北の門を、何かしらの方法で打ち破ったのだろう。

 いつだって不吉が届くのは突然の事だ。私は走りながらも、買い物に出かけた妻が崖崩れに巻き込まれた日のことを思い出していた。



 ふと、林檎をナイフで()いたような音が鳴った。次いで、私のすぐ隣で走っていた、見知った飲み仲間が前のめりに倒れるのが目の端に映った。

 どっという音が聞こえると同時に足が竦んだ。淡黄色の衣服には矢羽根が生えていた。滲み出した鮮血が目に入り、全身から一斉に汗が吹き出すのがわかる。外からとも内からともつかぬ熱で、軽い立ち眩みを併発する。これが少しでも横にずれていたら、間違いない。倒れていたのは私か娘の方だった。

 娘の手を握っているのとは逆の手を差し伸べようとした。瞬間、そう遠くないところから野太い声が聞こえ、肩が自然と戦慄いた。誰かに助けを求めようと周りを見回したが、誰も倒れた彼に見向きもせず、一目散に南へと消えていく。

 唾を飲み込み、わずかな逡巡を経るその前に、再び発された声に煽られた。

 どうしようもなかった。足が自然と前へと進んでいたのだ。大人一人背負って逃げようものなら確実に追いつかれて殺されるだろう。大体、もう死んでいるかも知れない。この状況ですら起き上がろうとしないのだ。死んでいるに違いない。そう自分に言い聞かせるしかなかった。

 次いで、娘に視線をやった。普段はお転婆を地でいく娘が、どこか不安げに、私の顔を見上げていた。誰よりこの子を守らねばならなかった。私に万が一のことがあれば幼い身空で天涯孤独になってしまう。助けようとして三人とも仲良く殺されました、では笑い話にもならない。そんな至極まともな言い訳は、私の心をほんの少し楽にした。

 再び走り出したものの、後ろ髪を引かれる思いは消えなかった。取り残された彼の、伏せているはずの視線が、いつまでも私の背中を、恨めしげに見ているような気がして。



 村人の群れは村の南門に向かっていた。草食動物の大移動、というには優雅さに欠ける。どちらかといえば、突っ込んできた獅子から逃げ回るシマウマの群れ、と表現するのが的確だろうか。

 はぐれた者から狙われ、そして二度と群れに戻ってくることはない。そんなたちの悪い現実が、間近にまで迫っていた。なおかつ重大な問題が残されていた。我々を追ってきている獅子は一頭ではないのだ。いつ前に回り込まれるのではないか。そんな恐怖が拭えなかった。


 肩越しに後ろを見ると、北側の大部分の家屋に火が纏わりついていた。赤くきらめく無数の火の粉と照らし出された黒い灰が桜吹雪のように風に舞っている。

 火勢から察する限りでは、住み慣れた我が家も跡形もなく焼失していることだろう。その確信は心に暗い陰を落とした。今を生き延びなければならないのに、これから先どうしようという思いが浮かんだ。我が家を焼かれるという理不尽に、堪えられる人間がいるとも思えなかった。


 毎朝、目覚めてから気だるい身体を起こし、窓を目一杯開けて新鮮な風を招き入れる。傍らで寝息を立てている娘を揺り起こし、眠そうに目を擦る娘を尻目に敷布団を物干し竿に干していく。それが終わると、私は食事の用意を、娘は身支度を始める。食器を並べてから食糧庫の蓋を開け、二人分の食料を取り出す。楕円形のライ麦パンに、家の近隣にある牧場で購入した新鮮なバターを、次いで南国特産の蜂蜜をたっぷりと塗る。貰い物のちょっと高価(たか)そうな茶器に注ぎ入れるのは、湯気立ち上るミルクティ。沸騰してから少し冷ましたところで茶葉を入れ、じっくりと蒸らす。そうして飲むミルクティは格別の一言だ。

 早く起きれば早いなりの、遅く起きれば遅いなりの朝の過ごし方がある。今朝は早かったので、ゆったりとした時の流れを味わった。新聞を流し読みしながら紅茶をすする和やかなひと時を。

 朝食を食べ終えた後、慌しく荷物を鞄に突っ込む娘を学び舎(スクール)に送り出し、自分は宿場に出かける準備をする。妻に先立たれてからは、寝る前に身支度をしておく習慣ができている。なので、忙しなくあれがない、これがないと探し回る必要もない。


 そんなありふれた日常を、これから先も繰り返すのだと、ずっと信じて疑わなかった。このような理不尽から住家を失うなんて予想もしていなかった。きっと、ここに住む村人たち誰もがそうだろう。

 認めたくない現実と向き合わされていた。今の我々は、明日の朝日を拝めるかもわからぬ状況だった。

 村の中が燃え盛る炎によって煌々と照らされている反面、闇に(たたず)む月と(またた)く星々は空から姿を消していた。あるいは天に座す神々も、我々の姿を見失ったのだろうか。野盗たちの雄叫びが近づきつつあるのが、はっきりとわかった。

 周りに目をやれば、逃げている村人たちの中には女子供もたくさんいた。皆疲れきった表情をしていて、ふらつきながらも辛うじて足を前に踏み出しているといった状況だ。一方の野盗たちは、大半がいい年をした男共だろう。走る速度、歩幅、そして体力。彼我の差は歴然としている。

 追いつかれるのは時間の問題だった。誰もが逃げ切ることを諦めかけていた。

 黒衣を身に纏う彼が我々の前に現れたのは、そんな時だった。



 前の方で、一丸となって逃げていた村人たちが左右に割れ始めたのに気づいた。真ん中にはこちら側へと進んでくる者が一人。通りの両端に寄った村人たちを見向きもしない。

 一際強く印象に残る格好だった。全身を隈なく包む、ゆったりとした黒のローブを着ていて、首から上はフードに覆われて顔を確認することもできない。その背には、何やら黒くて巨大な物を背負っていた。弧月型の薄刃が、彼の頭の後ろから私たちの顔を覗いていた。

 逃げる群衆の流れを押し留めるかのように、彼はゆっくりとこちらに向かってきた。どうすればいいのかわからずにその場で身を竦め、恐れ慄く我々の方へ、悠然(ゆうぜん)と。ろくに隙間がないはずの人混みの中を、不思議と一度もぶつかった様子もなく、透り抜けるようにして私とすれ違った。

 首から()の下の方へ、痺れとも寒気ともつかぬ何かが駆け下りていき、先ほどまで感じていた体中の熱気が、嘘のように奪われた。唇がかたかたと、小刻みに震えていた。先程まで野盗に抱いていた、混沌とした感情があっさりと掻き消されていた。その気配は亡霊のように希薄だった。地を踏む足音も、吐息の音も、衣擦れの音すらも聞こえなかった。



 村の一角に訪れた沈黙を、後方から放たれた咆哮が吹き飛ばした。我に返り、後ろを振り返った。距離を詰めてきた野盗たちを目にして、顔が自然と突っ張った。だが、それもわずかな間のことだった。我々と野盗とを隔てるように、黒衣の彼が道の中央に立っていた。

 後方に見える野盗たちの姿が、顔を判別出来るほどに大きくなってくる。彼らは我々の姿を確認し、歓声を上げた。まるで宝物を見つけたような声に、再度怒りが湧き上がるのを感じた。

何がそんなに愉しいのか、何でそのような声が出せるのか。無数の足音が地鳴りを起こし、獲物を追いたてるかのようにどんどん音量を増していき、心に侵食してくるかのようなその音を掻き出したい衝動に駆られた。



 そんな忌むべき野盗たちを前にして、黒衣の彼はゆっくりと腕を下ろした。ゆとりのある袖から覗く日焼けした手には、鈍い光を放つ黒い大鎌の柄が握られていた。

 それを意に介した様子もなく、野盗たちが奇声を上げた。もう茶色くなっている、血糊のこびりついた剣を掲げ、躊躇(ちゅうちょ)なく彼に斬りかかった。その刹那――


 一陣の風が吹き荒れ、私の顔を撫でた。次いで視界の中で、真っ赤な液体が火に照らされた地肌に(ほとばし)るのが映った。

 世界が息を止め、ゆっくりと逆さに回り始める。狩る者は、狩られる者になっていた。



 瞬く間に、右に構えられていた大鎌が左へと移動していた。続いては、黒衣の彼のすぐ近くにいた三人の野盗たちの腰から上が宙を泳いだ。上半身だけが、走ってきた勢いのまま彼の両側面を通り過ぎる。そのまま重力に吸い寄せられ、顔が地べたに叩きつけられた。後を追うようにして下半身が横たわる。

 あれ、などと間の抜けた声を出した野盗たちが足元を、もとい先ほどまで足のあった場所を見た。彼らの下半身は、黒衣の彼の前に置き去りにされていた。びゅっびゅっと血が噴き出す腰の断面を見て、ようやく斬られたことを認識したのだろう。凄まじいまでの絶叫が場に響き渡った。

 襲いくる痛みによるものか。それとも文字通り、半身を失ったことによる喪失感によるものか。斬られた野盗たちはがくがくと震えていた。炎で橙色に照らされた地肌にゆっくりと広がっていく、己の(おびただ)しい血液。その生温かさが、土に爪を立てる彼らに死の到来をそっと告げていく。

 ほどなく、血と土にまみれた手から力が失われたのが、私の目にもはっきりとわかった。



 後に続く野盗たちが、仲間が殺されたのを目の当たりにして激昂(げっこう)した。こう言ってはなんだが、彼らにも人間らしい感情があるのが不思議でならなかった。

 次々に腰の剣が抜き放たれ、大小の煌めく白刃がいびつな軌道を描きながら黒衣の彼に襲いかかった。当たる。思わず目を瞑った私の耳に、けれども、聞こえてきたのは風を切る音ばかりだった。

 どうなったのかを確かめようと、恐る恐る目蓋を開けた私の視界に映ったもの。それは、男の恐るべき身のこなしだった。首を傾いでは顔面に迫る突きを(かわ)し、半歩下がっては切り払いの射程外に逃れる。一つ一つの動作が速くて、正確で、躊躇ためらいがない。

 人間があんなふうに動けるものなのか。少なくとも目が二つだけでは不可能だ。私にはそう思えてならなかった。何よりも、剣風が目先鼻先を撫でているのに平然としていられる胆力は、常人のものとは言い難い。否、人間であることすら疑っていた。


 波状攻撃の切れ目となる斬り下ろしが、鎌の()で高々と弾き返された。攻守交替。黒衣の彼が素早く溜めを作り、足元すれすれから大鎌を一気に斜め上へと振り抜いた。鎌刃の切っ先が、右端にいた野盗の腹に食い込んだように見えた。遅れて、ズブリと音が聞こえた。

 気がつけば、鎌刃は元の位置に収まっていた。おそらくは一回転したのだろう。横に並んでいる三人の腹に、一際大きな口ができていた。そこからべっと血が吐き出される。続いては大きな舌がぶらりとはみ出した。切断された大腸だ。


 一本釣りされた魚のように、地べたでのたうち回る野盗を避けるようにして、別の野盗たちが横から回り込んだ。一斉に斬りかかろうという算段か、目線を交わしてタイミングを窺っている。一方で囲まれた側の彼が取った行動は、こきこきと首を鳴らすことだけだった。

 その仕草が癪に障ったのか、野盗の歯軋りの音が離れている私のところまで聞こえた。そうと思った時にはほぼ同時に斬りかかっていた。

 お互いの振り下ろした剣と剣が交錯し、野盗たちが驚きに目を見開いた。一心同体の連携攻撃までもが、不発に終わっていた。

 野盗たちの目に映ったのは、黒い大鎌だけだっただろう。黒衣の彼は、大鎌を支柱にして手の平でバランスを取り、棒の上で逆立ちするかのように、身体を宙に浮かしていた。

 野盗たちがゆっくりと視線を上に向けた。それと同時に、黒衣の彼は柄から一瞬手を放した。わずかに身体が落下したところで、今度は柄を両手で握り締める。保たれていたバランスが崩れ、彼の身体が地に向かう。反して鎌刃が地面から浮き上がる。

 得物を持ったままで、彼は宙で体を大きく捻った。それに連動して、鎌刃が螺旋(らせん)を描きながら宙に昇る。地面すれすれで宙返りした彼が着地した時には、野盗たちは喉を、あるいは顔を、無残に切り裂かれていた。



 凄絶なる血染めの輪舞曲(ロンド)を、彼は粛々(しゅくしゅく)と踊り続けていた。観客は逃げることを忘れ、固唾を呑んで見守る村人たち。伴奏は野盗の怒声。燃え尽きて倒壊する家屋がアドリブを刻んでいる。

 炎で熱された空気は景観を揺らめかせ、怒声はやがて悲鳴へと展開してゆく。そのメリハリが、たった一度だけ見たことのある、交響曲の情景の転換を思わせた。



 ――悲鳴、――悲鳴、――また悲鳴。

 黒衣の彼は手に持つ大鎌を、身体全体で(もてあそ)んでいた。(なめ)らかな動きで、そのくせ躍動感のある剣舞を惜しげもなく披露していた。その周りに、野盗の死体だけが折り重なっていく。

 臆病風に吹かれたのか、剣を構える野盗の中で一人、後退りした者が出た。それをきっかけにして、ついに彼を取り巻いていた野盗の人垣が瓦解(がかい)した。思い思いの方向に逃げ始めたのだ。

 助かった。私たちはそう確信し、歓声を上げかけた。だが、それで全てが終わったわけではなかった。



 黒衣の彼は逃亡者たちを一瞥し、いかにもつまらなそうに頭を掻いた。


「おいおい、逃げんのかよ。ったく白けるぜぇ、てめえの汚れた尻は手でも拭けって教わらなかったのかぁ?」


 思ったよりも高い声が発せられた。そして、落とした小銭を拾うかのように身を低くすると、軽快に地面を蹴り放った。

 地面を滑っている。そんな錯覚を呼び起こすくらいにその足運びは速い。背を向ける野盗たちを、さながら豹の如く追い立ててゆき、距離を詰めては次々と背後から斬り伏せていく。逃げる野盗と追う彼との速度差は、あまりに歴然としていた。馬に跨った者ですら逃げ切れぬほどに。

 一切の容赦をしない彼に、ようやく観念したのだろう。ついに助けを求め始める野盗が出始めた。彼らは本当に先ほどまで、殺戮(さつりく)に興じていた者たちだろうか。土下座し、赦しを請うその姿を見て、私は憐憫れんびんの情すら感じていた。

 (ひざまず)く者たちの嘆願を聞き入れた様子もなく、黒衣の男は雑草でも刈るように淡々と首を()ねてゆく。切り離された頭が地面を転がり、回転を止めた独楽(こま)のように力なく揺れる。色褪せた瞳が至るところで宙を見つめていた。

 物言わぬ肉塊が増えていき、ややあって幕切れが訪れた。年若い、おそらくは私よりも若い男が一人残されていた。その目には薄らと涙が浮かんでいた。恐怖に震える手で、なんとか剣を握り締めている。

 その男の、私には年老いた母がいるだとか、農作物が日照りで全滅して食べていけないだとか、そんな類の命乞いを一通り聞き終えてから、黒衣の彼は溜息を吐いた。やってられないというように。次いで、鎌を持っていない方の手で男の剣を指差した。


「んでよ、そいつぁ誰の血だぁ?」


 一言で希望を断ち切り、黒衣の男が無造作に歩み寄っていく。若い野盗の剣には誤魔化しようのない、真新しい血糊がついていた。

 野盗がやけっぱち気味に、黒衣の彼に突きを繰り出した。一瞬にして身体の位置が入れ換わった。ただ擦れ違っただけに見えたが、男のか細い悲鳴が即座にそれを否定する。

 母さん。男が発した最期の言葉が、私の耳の底にこびりついた。



 圧倒的なまでの暴力。村人たちは声を発することも忘れ、ただ黙然と、その光景に見入っていた。ふと、握り締めていた小さな手が、逆に強く握り返してきた。先ほどまで娘と一緒に逃げていたことに思い当るのに数秒を要した。視線を落とすと、娘は昂然(こうぜん)と顔を上げ、恐れと憧れを内包する目を黒衣の彼に向けていた。

 羨望にも似た我々の視線を気にした様子もなく、黒衣の彼は自ら造った大きな血溜まりの中に歩を進めた。血の池の上で男は肩を震わせながら天を仰ぎ、声なく笑った。



 不意に、何かを探すかのようにゆらりゆらりと、横に8の字を描くかのように頭を揺らした。視線がこちらを素早く横断し、唐突に戻ってきて停止する。

 目が合った。きっと、私だけではなく、村の者全員と。

 かけられていた魔法が解けたかのように、凍りついていた時が動き出した。村人たちは、顔を目一杯引きつらせていた。そして、黒衣の彼がこちらに一歩を踏み出した途端、誰かが絶叫した。

 その力強さと言ったら、オペラ歌手も真っ青な声量だ。叫び声が連鎖し、混濁した。ついでに底知れぬ恐怖も。周りにいた者たちが反転して走り出していた。

 それに釣られて動き出そうとした私よりも先に、娘が私の手を凄い力で引っ張っていた。意表を突かれ、バランスを崩して危うく転びかける。何やってんのっ、という強い叱咤を耳にして、娘に怒られたのはこれが初めてか、と場違いな苦笑が浮かんだ。



 南門に到達する頃には、村人たちは息も絶え絶えだった。笑う膝を辛うじて支えながら後ろを振り向くと、彼の姿はどこにもなかった。

 おそらく、ここにいる誰もがわかっていたはずだ。野盗をものともしなかった彼ならば、我々を全員その場で殺せただろうことを。

 結局、逃げても逃げなくても結果は変わらなかった。必死に逃げたことすら徒労だった。私たちはへなへなとその場に座り込んだ。土の冷たさを尻に感じながら頭上に目を移すと、空が白み始めていた。



 それから間もなくして。私はとある地方紙の一面を読み、黒衣の男の名を知ることになった。

 シュイ・エルクンド。私の頭に色褪せることのない光景を刻みつけ、何人かの村人たちの寿命を数年ほど縮めたであろう、<傭兵(マーシナリー)>の名を。

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